ルールの内側に築く城
――side. 井神 智里――
「……失礼します」
美琴が一礼し、静かな足取りで凉の部屋へと上がっていく。
彼女の姿が見えなくなり、リビングには私たち夫婦と、息子の凉だけが残された。
私はテーブルの上で両手を組み、正面に座る凉を静かに観察した。
椅子に深く腰掛けながらも、その背筋は真っ直ぐに伸び、私たちから目を逸らすことなく見据えている。数ヶ月前、このリビングで私に射すくめられ、冷や汗を流していた怯えた少年の面影は、もうどこにもない。
(……見事なものね)
私は内心で、息子の変貌ぶりに舌を巻いていた。
怯えを克服しただけではない。あの四人の少女たち――折崎の娘までもが、彼を中心に異常な結束を見せ、自らを顧みないほどの執着を曝け出したのだ。
一体、何がこの子たちをここまで変えたのか。ただの共同生活だけで、あそこまで強固な狂信が生まれるとは到底思えない。
――学校か。
学校で、何か決定的な出来事があったとしか考えられない。
明日の学校での面談。担任だけでなく、関わりの深い教師たちにも、少し探りを入れてみる必要がありそうね。
私がそう思考を巡らせていた、その時だった。
「――さて、と」
隣に座る夫――和哉が、ティーカップをソーサーにコトリと置いた。
ほんの些細な音。だが、その瞬間、リビングの空気が数度下がったような錯覚を覚えた。
「立派な顔つきになったね、凉。……でも、勘違いしちゃいけないよ」
先ほどまで、美琴の告白におどけて悲鳴を上げていた和哉の姿は、完全に消え去っていた。
声のトーンは穏やかなままだ。だが、その瞳には一切の温度がなく、極めて冷徹な"分析者"の光が宿っている。
「君たちの今の状態は、決して"成長"なんかじゃない」
「……っ」
凉の肩が、わずかに強張った。
和哉は、容赦のないメスで息子の急所を的確にえぐっていく。
「それは単なる"最適化された重度の依存"だ。社会のルールから外れた君たちが、自分たちの精神を壊さないために、互いの役割を極限まで先鋭化させて寄りかかっているだけの……ひどく歪な防衛本能だよ」
最適化された重度の依存。
その的確すぎる表現に、私は思わず息を呑んだ。
「今日ここにいる五人。君たちが選ぼうとしている道は、もう後戻りのできない"暗闇"だ。……わかっているのかい? 君たちはまだ、僕たち親の庇護下にある。経済的にも、社会的にも、親の手を離れるのはまだまだ先だ。一人じゃ生きていけない、ただの子供なんだよ」
和哉から放たれる、親という"絶対的な現実"。
倫理や感情論ではない、純粋な生存能力の欠如の指摘。
凉の顔に、明確な怯みが走った。論破不可能な事実を突きつけられ、膝の上で握られた拳が微かに震えている。
だが。
凉は、決して視線を逸らさなかった。
「……わかってる」
絞り出すような、けれど確かな芯のある声だった。
「俺たちが子供で、異常で、社会から見ればどうしようもなく歪んでいることくらい……痛いほどわかってる。だからこそ、俺は……俺たちは、その先へ行くための準備をしてるんだ」
食らいついてくる凉の言葉に、私はすかさず現実的な問いを投げた。
「準備と言うなら、聞かせてちょうだい。あなたの具体的な進路は?」
「……国立大学の、文学部を目指している」
凉は、はっきりと宣言した。
「そこで、教員免許を取るつもりだ」
(……教員免許)
私は、その言葉の裏にある"意図"に気がつき、背筋に冷たいものが走った。
なるほど、だから美琴を……社会のルールから逃げるのではなく、その内側を利用する、恐ろしく計算された生存戦略だ。
「……へえ」
和哉が、ゆっくりと手を叩いた。
パン、パン、という乾いた音がリビングに響く。
「すごいじゃないか。ちゃんと先の先まで見据えて、自分たちの居場所を作ろうとしてるんだ。……"成長"したねぇー、凉」
和哉は、感心したように口角を上げ、柔らかく笑った。
だが、私は隣に座る夫の横顔を見て、形容しがたい恐怖を感じていた。
和哉は笑っている。声も、口元も。
――けれど、その目は全く笑っていなかった。
「それじゃあ、次は彼女たちを呼んでくれるかな。……もう少しだけ、話を聞いておきたいからね」
底知れない分析者の、静かな尋問は続く。
私たちの息子は、引き返すことのできない狂気の淵を、まっすぐに歩き続けている。




