幕間:盤上の駒たちと、飼い慣らされた正義
――side. 嵐田 脩平――
「失礼します、嵐田先生」
「しつれいしまーす!」
放課後の化学準備室。ノックの音とともに現れたのは、二年A組の中里悠希と、その姉の中里茉依だった。
「……ああ。入れ」
私は手元のプリントから顔を上げ、短く応えた。
あの、忌まわしい全校集会。
私は自らの正義をへし折られ、この中里悠希の冷徹なロジックによって完全に退路を断たれた。そして宮藤玲茄の悪魔のような囁きに支配され、全校生徒の前で架空の罪を被って謝罪するという、教員として最大の屈辱を味わった。
だが、あの一件以来。私を完膚なきまでに叩き潰したはずの彼女たち――特にこの中里姉妹は、時折こうして「化学の質問がある」という口実で、私の元へ通ってくるようになったのだ。
最初は、私を嘲笑うための拷問か何かだと警戒し、気が気ではなかった。
しかし、彼女たちは至って真面目に質問をし、私が解説すると「わかりやすいです」と素直に礼を言って帰っていく。
何度かそういう交流を重ねるうちに、私の内側にあった過剰なまでの警戒心は、徐々に薄れていった。今ではこうして、少しばかりの世間話を挟む余裕すら生まれている。
「……ところでお前たち。たまにこうして来るが、井神と宮藤はどうした? 放課後はいつも、四人で一緒にいるものだと思っていたが」
私が尋ねると、悠希は持参したノートを開きながら、淡々と答えた。
「帰る時は一緒ですが、それまでは、結構バラバラに行動していたりするんですよ」
「そうそう。文化祭までは、りょーくんと私はずっと実行委員の仕事をしてたしねー」
茉依が横から無邪気な笑顔で付け足す。
その屈託のない様子は、とても教師を追い詰め、脅迫してきた生徒のものとは思えなかった。
私は小さく息を吐き、腕を組んだ。
「……お前たちの関係が、"ただの依存"ではないことは理解しつつある。だがな」
私は悠希の目を真っ直ぐに見据えた。
「まだ、お前たちからは同じ"匂い"を感じるんだ。私がかつて見てきた、閉鎖的な関係の末に破滅していった生徒たちと同じ、危うい匂いをな」
あの出来事があったとはいえ、私の中の根源的な恐怖やトラウマが消えたわけではない。
すると、悠希はペンを置き、私の視線を静かに、だが強い意志を持って受け止めた。
「私たちは、先生がかつて経験したような、取り返しのつかない事態にはなりませんよ」
その声には、一切の迷いがなかった。
私は少しだけ苦い顔を作り、自嘲気味に口の端を歪めた。
「……かもしれないな。あの一件と、こうしてお前たちと話すようになってから、以前感じていたほどの危機感がなくなったのは事実だ。だが、教師として、まだお前たちのことは注視させてもらうぞ」
私がそう宣言すると、悠希と茉依は顔を見合わせ、ふふっと小さく微笑んだ。
「はい。それでいいですよ、先生」
悠希がそう言った直後、彼女の瞳の奥に、スッと冷たい光が走った気がした。
「ただ……あまり理不尽なことをされると、また玲茄が黙っていないと思いますから。そこだけは、気をつけてくださいね」
「っ……」
その言葉に、私の背筋を氷の刃が撫でたような悪寒が走った。
耳の奥で、宮藤玲茄の『期待していますよ。先生の、正義の執行を』という、あの甘く残酷な声がフラッシュバックする。
あのときの恐怖は、今も私の心の奥底にこびりついて離れないのだ。
私がわずかに肩を震わせた、その時だった。
「あ、そうだ先生!」
唐突に、茉依が思い出したようにポンと手を打ち、空気を一変させた。
「ちょっと、お願いがあるんだけど……いいかな?」
「な、なんだ。どうした」
私が警戒しつつ尋ねると、茉依はにっこりと、最高に愛らしい――そしてどこか、有無を言わさぬ圧を伴った笑顔を向けた。
「あのね――」
――side. 井神 凉――
「……はぁっ」
俺は特別教室棟の廊下を歩きながら、ひどく重い息を吐き出した。
膝がわずかに笑っており、制服の下の体は、芯から溶かされたような心地よい疲労感に包まれていた。
先ほどまで、密室となった生徒会室で、美琴と玲茄という二人の才女に挟まれ、文字通り"搾り取られて"いたのだ。
互いに牽制し合っていたはずの二人が、俺を堪能するという一点においてのみ見事な結託を見せ、俺は抗う隙も与えられないまま、限界まで責め立てられた。
「お疲れ様、凉。ふふっ、なんだか足取りが重そうね?」
隣を歩く玲茄が、俺の顔を覗き込んでくすくすと笑う。
その艶やかな唇と、悪戯っぽく細められた瞳を見て、俺は呆れたように頭を掻いた。
「誰のせいだと思ってるんだ……。ったく、お前ら二人揃うと本当に容赦ないな」
「ふふっ……そう? 私は、美琴さんに意趣返しができて満足だったわ」
玲茄は一切悪びれる様子もなく、俺の腕にすっと自分の腕を絡ませてきた。
そのまま二人で教室の前まで戻ってくると、廊下で待っていた茉依と悠希がパッと顔を輝かせた。
「あ、りょーくん! れなっち!」
駆け寄ってきた二人は、俺と玲茄の前に立つなり、ピタリと動きを止めた。
そして、すんすん、と小さく鼻を鳴らし、俺たち二人の周囲の空気を探るように嗅ぎ始めたのだ。
わずかな沈黙の後。
茉依と悠希は、ジト目で俺と玲茄を睨みつけた。
「……ずるーい」
「……ずるいです。凉くんから、玲茄と……会長さんの匂いがします」
彼女たちの異常な嗅覚は、俺の身体に染み付いた"気配"を、一瞬で見抜いていた。
むすっと頬を膨らませる茉依と、無表情のまま非難の視線を送ってくる悠希。
すると玲茄は、二人の頭を撫でながら、優しく微笑んだ。
「ごめんなさいね。ちょっと野暮用が長引いてしまって。……今度は、あなたたちの番だから。ね?」
その余裕と甘い声に諭され、二人は「絶対だよ!」「約束ですからね」と、渋々ながらも矛を収めた。
「それで……悠希。そっちの首尾はどうだった?」
空気が落ち着いたのを見計らい、玲茄が声をトーンダウンさせて尋ねた。
悠希は玲茄に向かって小さく頷いた。
「はい。完了です。……嵐田先生は、私たちの"味方"として動いてくれるはずです」
「そう。ご苦労様」
玲茄は満足そうに微笑み、それから俺の方へと振り返った。
「これで、ここで打てる手はだいたい打ったかな」
「……ああ。色々と動いてくれて、ありがとうな」
俺は三人の顔を順番に見渡し、静かに感謝を口にした。
嵐田という、教師としての体面と正義感を重んじる男。彼を屈服させた上で、あえて時折頼ることで『生徒を正しく見守る教師』という歪な自尊心を与え、飼い慣らす。
すべては、彼をこちら側の"盤面の駒"として配置するためだ。
来たる年末。俺の両親が帰国し、学校の教師たちも交えた面談が行われる。
その最大の山場に向け、俺たちの日常を肯定し、防波堤となるための『教師側からの擁護者』は多い方が良い。
「さあ、帰りましょう。凉、今日のご飯なにがいい?」
「そうですね。凉くん、かなりお疲れのようですから、精のつくものがいいかと」
「お前らなぁ……」
俺の疲労を見透かしたような悠希の言葉に、俺は思わず苦笑した。
冷たい冬の足音が近づく夕暮れの帰り道。
俺たちの歪でより強固となった箱庭は、どんな困難をも飲み込む準備を整えながら、今日も静かに"異常"を刻んでいた。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
幕間エピソードはこれで終了し、次回更新から七章をスタートします。




