親友の機転と、甘やかな獣の調律
――side. 綿部 隆一――
ホテルの大広間に設けられた、修学旅行生のための夕食会場。
豪勢な食事が並ぶテーブルを六人で囲んでいるというのに、俺たちの間の空気はどこか重く、沈んでいた。
原因ははっきりしている。
さっきの他校生とのトラブル以来、凉が完全に「心ここにあらず」という状態に陥っているからだ。
「りょーくん、これ美味しいよ。食べる?」
「ん……ああ、そうだな」
隣に座る茉依が気を遣って声をかけるが、凉の返事はどこか上の空だ。
箸を動かしながらも、その視線は虚空を彷徨い、時折、自分の右手をじっと見つめては眉間を寄せている。
(……あの時の凉、マジでヤバかったな)
俺は味噌汁を啜りながら、先ほどの廊下での出来事を思い返していた。
他校の連中を睨みつけたあの冷たい目。腕をへし折る勢いで掴みかかった容赦のない暴力性。
俺の知る、いつも冷静で面倒見の良い"親友の井神凉"からは完全に逸脱した、初めて見る獣のような姿だった。
茉依と優花が止めに入った状況。あえて俺はその場から動かなかった。
あそこで俺が凉を止めようと前に出ていたら、おそらく他校生もエスカレートし、誰かが怪我をする事態になったはずだ。
そうなってしまえば、もう修学旅行どころではない。
思えば、文化祭の時期あたりから、凉の雰囲気は少しずつ変わってきていた。
そしてそれに呼応するように、茉依の様子も、四人の間の空気も、独特の熱を帯びるようになっていった。
きっとなにか、決定的なきっかけがあったのだろう。
だが、あの四人の間で起きていることは、俺がどうにかできる領域をとうの昔に超えている気がした。
「……ごちそうさま。少し、食べすぎちゃいました」
「ふふっ。デザートまでしっかり食べてたものね、悠希」
対面では、宮藤や悠希たちがいつも通りに会話を交わしている。
だが、その視線の端々は、間違いなく深く沈み込んでいる凉へと向けられていた。
――
夕食を終え、大浴場での入浴や自由時間を済ませた後のこと。
本来なら、俺と凉の部屋に女子四人が集まり、今日の総括と明日の班別行動の話でワイワイ盛り上がる予定だった。
だが、部屋にやってきた彼女たちと、未だに自分の手のひらを見つめて黙り込んでいる凉を見て、俺と優花はそっと視線を交わした。
「……悪いな、みんな。俺、今日歩き回ってちょっと疲れちまったみたいだ。明日の打ち合わせは朝食のときにでもやらないか?」
「あ、そうだね! 私も疲れて頭回らないなーって思ってたところだし。今日は早めに部屋に戻ろっか」
俺の提案に、優花がわざとらしく、しかし絶妙なタイミングで乗っかってくれた。
こいつは本当に空気が読める、いい女だ。
「そう?……それじゃあ、今日はお開きにしましょうか」
宮藤が微かに目を細め、俺たちの意図を察したように頷いた。
俺たち六人は連れ立って部屋を出て、女子の宿泊フロアへ繋がる階段に向かって歩き出した。
消灯時間が過ぎ、廊下には他の生徒の姿はない。
「ん?ああ、君たちか」
女子フロアの手前まで来た時、前方から人影が現れた。
夜の見回りを行っている、生徒指導の高良田だった。
「ひゃっ……」
「こ、こんばんは、先生……」
茉依や優花がビクッと肩をすくめ、俺も無意識に身構えた。
見回り中の生徒指導に見つかれば、当然ただでは済まない。
だが、高良田は消灯時間破りを咎めることもなく、真っ直ぐに凉と宮藤の目の前まで歩み寄ってきた。
「夕方の件だがね。あちらの学校から、特にアクションは来ていない」
高良田は、小さな低い声で凉にそう告げた。
「あの生徒たちも、自分たちが他校の女子に絡んでいたという負い目があるのだろう。だから、気にするな」
「……そうですか」
「ああ。……早く部屋に入りなさい」
高良田はそれだけ言うと、俺たちに背を向け、再び見回りの順路へと戻っていった。
(……なんだ、今の。高良田が、凉を庇ったのか?)
普段の厳格な態度からは考えられないその言葉に、俺は内心首を傾げた。
だが、凉と宮藤は特に驚いた様子もなく、ただ静かに高良田の背中を見送っていた。
「……じゃあ、俺たちはこっちで。おやすみ」
「はい。おやすみなさい。綿部くん、優花」
女子の部屋の前。
優花や悠希たちが中へ入っていく中、俺は宮藤へと向き直った。
そして、宮藤の隣で力なく立ち尽くしている凉へ顎をしゃくり、声を潜めて告げた。
「宮藤。……凉を、頼む」
「ええ。任せておいて」
宮藤は妖艶な微笑みを浮かべ、俺の言葉に深く頷いた。
俺はこれ以上振り返ることなく、優花の背中を追って扉を閉めた。
――side. 井神 凉――
ガチャリ、と。
ホテルの部屋のドアが閉まり、オートロックの重い音が響いた。
部屋の中には、玲茄、茉依、悠希、そして俺の四人だけ。
俺はベッドに力なく腰を下ろし、またしても自分の右手をじっと見つめた。
「……ごめん。俺、今日、どうかしてた」
静まり返った部屋の中で、俺の口からポツリと謝罪の言葉が漏れた。
「まさか、あんな風になるなんて。一歩間違えれば、お前たちまで巻き込んで大問題になってたのに……抑えきれなかった。俺の中に、あんな攻撃的な感情があるなんて、自分でも思わなくて……」
俺は、自分の中に芽生えた獣のような"支配欲"と"暴力性"が恐ろしかった。
今まで保ってきた、四人での"日常"を、俺自身のエゴで壊してしまうのではないかという恐怖。
だが。
「……ばかね。なにを謝ることがあるの?」
玲茄が静かに歩み寄り、俺の隣に腰を下ろした。
そして、冷たくなった俺の右手を、彼女の温かく滑らかな両手でそっと包み込んだ。
「あいつらが悪いんでしょ。私たちの凉を怒らせたんだから」
反対側には茉依が座り、俺の左腕にぎゅっと抱きついて、その柔らかい熱を押し当ててくる。
「そうだよ。りょーくんは、私たちを守ってくれたんだよ? 私、すっごく嬉しかったんだから。りょーくんが、あんなに必死になって怒ってくれて」
「……茉依」
最後に、悠希が俺の正面に膝をつき、下から熱を帯びた瞳で俺を見上げた。
そして、俺の膝の上にそっと顔を乗せ、頬を擦り寄せてくる。
「凉くんが、私たちを自分だけのものだって思ってくれている証拠です……。それを知ることができて、私は、たまらなく幸せでした」
「悠希……」
三人の言葉が、俺の不安を優しく、そして甘く溶かしていく。
俺の狂気も、身勝手な支配欲も、彼女たちは決して否定しなかった。
「……でも、また抑えきれずに爆発してしまったら」
「抑えようとしなくていいのよ、凉」
玲茄が、俺の耳元で艶やかに囁く。
「あなたはもう、ただの優しい"王子様"じゃないわ。この四人の世界を支配する、ただ一人の"王様"なの。だから……その怒りも、独占欲も、全部私たちにぶつけて」
玲茄の言葉に合わせるように、茉依が俺の肩に唇を這わせ、悠希が俺の太ももを撫で上げる。
ホテル特有の乾いた空気の中に、三人の甘い香りが溶け出していく。
そうか。ぶつけて、いいのか。
俺は、玲茄のうなじに手を回し、深く唇を重ねた。
彼女たちの柔らかい肌と、密着する体温。
俺の中に巣食う醜い獣性が、彼女たちの手によって優しく撫でられ、許容され、そして一つに溶け合っていく。
もう、迷う必要はない。
他人がどう思おうと、俺がどれだけ歪んでいようと。
俺がこの三人を絶対に手放さないこと。それが、この四人の世界における"正しい形"なのだ。
夜の底へ沈んでいくような深い口付けを交わしながら。
俺は、自分の中の獣と共存する覚悟を決めたのだった。




