穏やかな非日常と、剥き出しの獣性
――side. 井神 凉――
「りょーくん、見て見て! お辞儀してくれたよ!」
「ああ。でも、せんべい持ってない時は手を出さない方がいいぞ。噛まれるからな」
「きゃっ!? ほんとだ、制服引っ張られてるー!」
京都駅から貸し切りバスに揺られ、俺たちが最初に到着したのは奈良公園だ。
どこまでも広がる芝生と色づき始めた木々の間を、大量の鹿と修学旅行生たちが入り乱れて歩いている。
茉依は念願だった「鹿せんべい」を両手に持ち、群がってくる鹿たちに囲まれながら、楽しそうに悲鳴を上げていた。
「茉依、そっちはフンが落ちてるから気をつけてください」
「悠希! 後ろから大きいのが来てるよ!」
「ふふっ、優花、こっちに子鹿がいて可愛いわよ」
悠希、白峰、そして玲茄も、それぞれに非日常の観光を満喫している。
俺と隆一は、少し離れた安全圏から、キャッキャとはしゃぐ女子四人の姿をカメラに収めたり、ルートの確認をしたりしてのんびりと過ごした。
東大寺の大仏を見上げ、賑やかなお土産屋の並ぶ通りを歩き、名物のスイーツを食べる。
俺たちは誰に咎められることもなく、純粋にこの六人での時間を楽しんでいた。
あっという間に時間は過ぎ、夕暮れ時。
俺たちは来た時と同じバスに乗り込んで京都へと戻り、宿泊先である大型のホテルへと到着した。
――
「ふぅ……さすがに歩き回って疲れたな」
「ああ。でも、飯食ったら復活するだろ」
荷物を部屋に置き、少しの休憩を挟んだ後の、夕食前のタイミング。
俺と隆一は、指定された大広間の食堂へ向かうため、二人部屋の扉を開けて廊下に出た。
ふと、前方から騒がしい声が聞こえてきた。
様々なフロアへと繋がる、エレベーターホールの手前あたりだ。
このホテルには、俺たち以外にも他県から来ている他校の修学旅行生が何組か滞在している。どうやら、その別な高校の男子生徒四人組が、誰かに絡んでいるようだった。
「ん? なんだあれ……って、おい、凉。あれって……」
隆一の声に、俺は目を細めた。
ブレザーの制服を着た見知らぬ他校の男子四人に囲まれ、困ったように立ち止まっているのは。
玲茄、茉依、悠希、そして白峰の四人だった。
『ねえねえ、君たちどこの高校? めっちゃ可愛くない?』
『これから夕飯でしょ? 後で俺らの部屋に遊びにおいでよ。お菓子とかたくさんあるからさ』
『連絡先だけでも教えてよ。あ、班別行動って明日?』
ヘラヘラとした軽薄な笑い声。
ニヤついた視線が、玲茄の胸元や、茉依の太ももを舐め回すように動いている。
(――――)
その瞬間。
俺の脳内で、何かがブチッと、弾け飛んだ。
腹の底から、粘り気のある、どす黒いマグマのような感情が急速に全身へと回り始める。
今まで、周囲のやっかみや視線を向けられても、どこか冷めた頭で、冷静に対処できていたはずだった。
だが、今は違う。
俺の、俺だけの絶対的な領域に、土足で踏み込んでこようとする見知らぬ害虫。
そいつらが、俺の所有物に気安く言葉をかけ、その視線で汚そうとしている。
気づけば、俺は無言のまま、床を蹴っていた。
「おい、凉!?」
背後で隆一が焦ったような声を上げたが、止まる気はなかった。
足音が近づいたことに気づいた他校生の一人が、「ん?」とこちらを振り向いた、その直後。
「――消えろ」
俺は、玲茄に一番近くで話しかけていた男の腕を、力任せにガッシリと掴んだ。
「いっ、ってぇ!? な、なんだお前!」
「触るな。話しかけるな。視界に入るな」
男の腕の骨が軋むほど、指の力を限界まで込める。
俺の声は、自分でも驚くほど冷たく、そして明確な殺意に近い攻撃性を帯びていた。
「痛っ、離せよ! お前、関係ないだろ!」
「関係ない? こいつらは――」
俺がそのまま男の腕を捻り上げ、この場から物理的に排除しようと力に任せて引きずり倒そうとした、その時。
「りょーくん、だめっ!!」
「井神くん、やめて! トラブルになっちゃう!」
茉依と白峰が、顔を青ざめさせて俺の腕と肩に必死にしがみついてきた。
茉依の震える手が、俺の暴走をなんとか食い止めようとしている。
だが、その一方で。
玲茄と悠希は、止めに入るどころか、一歩引いた場所からただ無言で、今の俺の姿をじっと見つめていた。
追いついてきた隆一もまた、俺から滲み出る異常な空気に当てられたのか、口を閉ざしたまま、その成り行きを静観している。
玲茄の瞳には、暴走する俺を見て、どこかゾクゾクするような熱が浮かんでいた。
「なんなんだよ、こいつ! マジでやべぇって!」
他校生たちが俺の剣幕に怯え、後ずさりを始めた、まさにそのタイミングだった。
「そこまでだ。何をしている」
廊下の奥から、野太い声が響き渡った。
足音を立てて走ってきたのは、生徒指導担当の高良田と、俺たちのクラスの担任である佐藤先生だった。
「お前たち、他校の生徒だろう! うちの生徒に何か用か!」
高良田が鋭い声で威圧すると、他校の男子四人は「チッ……やば」と顔を見合わせ、俺から逃げるように足早にエレベーターの方へと去っていった。
「……っ」
男の腕を掴んでいた右手が、空を切る。
その虚無感と、教師の登場によって、俺の頭の中が急速に冷えていった。
(……あれ。俺、今、何をして……)
息を乱し、呆然と自分の手のひらを見つめる俺。
一歩間違えれば、修学旅行先で暴力沙汰を起こし、俺たちの平穏な"日常"を俺自身の手で壊してしまうところだったのだ。
「井神くん、大丈夫? なにがあったの?」
佐藤先生が、心配そうに俺たちに駆け寄ってくる。
修学旅行中の他校とのトラブル。最悪の場合、学校間の問題に発展しかねない。佐藤先生の顔には、明確な焦りの色が浮かんでいた。
すると、俺の後ろから、玲茄がスッと前に出た。
「先生。私たち四人が、さっきの他校の人たちにずっと付きまとわれて、しつこく連絡先を聞かれて困っていたんです。そうしたら、凉が助けに入ってくれて……」
「そうなんです。凉くんがいなかったら、部屋までついてこられたかもしれません」
玲茄の言葉に合わせ、悠希も小さく肩を震わせて見せる。
見事な連携だ。これで俺の暴力的な行動は、「女子を助けるための正当防衛」へと完全にすり替わった。
「そうなのね……。でも、他校の生徒に直接手を出してしまったとなると、あちらの学校からクレームが入るかもしれない。うーん……」
佐藤先生が頭を抱えそうになった、その時だった。
「四人とも、怪我はないな? 怖い思いをさせてすまなかった」
今までずっと厳しい顔を崩さなかった高良田が、ふいに、まるで理想の教師のように優しく、生徒に寄り添うような声を出したのだ。
「井神も、よく彼女たちを守ってくれた。追い払っただけなら問題にはならんだろう。佐藤先生、ここは私が引き受けます。もしあっちの学校から何かアクションがあれば、私が責任を持って処理しよう」
「えっ……た、高良田先生? いいんですか?」
普段は生徒指導として誰よりも厳しく、問題行動には容赦がないはずの高良田。
その彼が、まるで「この生徒たちを絶対に守り抜く」とでも言わんばかりの頼もしい態度を見せたことに、佐藤先生は目を丸くして驚いている。
だが、俺と玲茄だけは知っている。
こいつは今、教師としての使命感で動いているわけではない。
「……ありがとうございます、高良田先生」
玲茄が、佐藤先生からは見えない角度で、高良田に向けてふわりと艶やかな微笑みを向けた。
その瞬間、高良田の喉がゴクリと鳴るのが、俺の耳にもはっきりと聞こえた。
「気にするな。……さあ、夕食の時間だ。早く食堂へ向かいなさい」
高良田に促され、俺たちはその場を後にした。
歩き出しながら、俺は冷や汗で張り付いたシャツの襟元を引っ張った。
自分の奥底に眠っていた、抑えきれない暴力的なまでの支配欲。
それを隠しきれず、白日の下に晒してしまった自分の変化に、俺自身が一番、戸惑いを隠せずにいた。




