幕間:透明な境界線と、従順な共犯者
――side. 折崎 美琴――
休日の夜。
広々とした自宅の浴槽に身を沈めながら、私はほうっと、熱を帯びたため息を吐き出した。
水面に浮かぶ自分の身体。
肌はまだ微かに上気し、奥の方では、甘く痺れるような余韻がまだ静かに脈打っている。
今日、私は凉ちゃんと、一線を越えた。
「……信じられないな。本当に」
湯船の縁に頭を預け、目を閉じる。
脳裏に蘇るのは、ほんの数時間前、私のベッドで起きた出来事のすべて。
私と凉ちゃんの間に引かれた、見えない境界線。そして、彼が私を組み敷き、その圧倒的な熱と重みで私という存在を支配したあの時間。
私は、これ以上ない幸福の中にいた。
私がずっと欲しくてたまらなかった、彼の隣。
間違いなく、今日あの時まで、あの四人の"城"に私の居場所はなかった。
だが、凉ちゃんは、私のためにほんの少しだけ、扉をあけてくれたのだ。
彼が私に突きつけた条件。
『家に誰も泊まらない日』で、『四人の領域に痕跡を残さない』こと。
自由には行き来できない、限られた時間の中の、針の穴のような隙間。
だけど、それだけでも私は、喉から手が出るほど欲しかったのだ。
あの四人の現状について、詳しいことは何も聞いていない。だが、私にはなんとなくわかる。
私の憧れでもあり、あの冷徹なビジネスウーマンである井神智里さんが、ただ何の見返りもなしに、あの子たちの異常な同居生活を認めているわけがないのだ。
きっと、普通に考えれば答えが出ないような難題を凉ちゃんに課し、彼がもがく様を観察しているのだろう。
だけど、今日の凉ちゃんの顔を見ていて、確信した。
彼はただの優しい少年から、あの城を支配する真の"主"へと覚醒し始めている。おそらく、智里さんの難題に対する何らかの"糸口"を見つけたのだ。
「……あ、なるほど」
湯船の中で、私はふと、一つの推論に行き着き、目を見開いた。
「そういうことか」
凉ちゃんは、この私をも、自分の盤面に巻き込んでいこうとしているのだ。
四人の世界を盤石にするための、外側からの防波堤として。あるいは、智里さんに対抗するための、新たな手駒として。
かつて自分を庇護していた姉すらも、自分の支配下に置いて利用しようとするその冷酷なまでの打算。
「……最高じゃないか」
浴室内で、私の口からひどく艶やかで、歪な笑い声が響いた。
彼に利用されることへの怒りなど微塵もない。むしろ、その圧倒的な支配欲に、私の身体の芯が再び熱く疼き出していた。
――数時間前。美琴の部屋。
『美琴。力、抜いて……』
ベッドの上。乱れたシーツを強く握りしめながら、私は完全に「折崎美琴」という人間を壊されていた。
生徒会長としての威厳も、「みこねぇ」としての余裕も、彼に組み敷かれた瞬間に跡形もなく消え去っていた。
熱に浮かされ、自分でも信じられないような声が漏れる。抗うことすら忘れた私を、彼は上からじっと、逃がさないように見つめていた。
私を見下ろす彼の瞳には、熱と一緒に、冷たく透き通った"支配者"の光が宿っていた。
彼が私とあの三人との間に引いた、明確な"線引き"。
決して、四人の中心には立ち入らせないという絶対のルール。
だけど、私を組み敷く彼の重みを感じながら、私は完全に屈服させられ、ただの従順な"女"にされることへの、底知れぬ喜びを感じていた。
息を荒げる彼は、私に覆い被さったまま、静かに告げた。
それが、私が彼の側にいることを許されるための『条件』――私に打ち込まれた、絶対の楔。
理不尽で、圧倒的に不利な条件。
でも、もう、拒否することなんて考えもしなかった。
『……うん。わかったよ、凉……』
私は全てを肯定し、彼の背中に手を回した。
そして、彼が私の首筋に顔を埋め、私という存在を抱きしめてくれたその瞬間。
私は彼の首元――シャツの襟に隠れるギリギリの場所に、唇を押し当て、強く、強く吸い付いた。
四人の領域に私の痕跡は残さないというルール。
でも、これくらいなら許してくれるだろう?
彼が家に帰った後、あの鋭い玲茄ちゃんがこの赤いしるしを見つけたとき、どんな顔をするのだろうか。
それを想像するだけで、ゾクゾクするような優越感が背筋を駆け抜けたのだった。
――
「……ふぅ」
私は浴槽からゆっくりと立ち上がり、火照った身体のまま脱衣所へと向かった。
バスタオルで身体を拭きながら、ふと、ある"大事なこと"を思い出す。
「そうだ。忘れるところだった」
私は洗面台に置いていたスマートフォンを手に取り、画面を操作した。
連絡先から、めったにタップすることのない一つの名前を選ぶ。
コール音が、数回鳴る。
やがて、通話が繋がった。
「――お久しぶりです、智里さん」
私は鏡に映る、かつて「みこねぇ」と呼ばれていた顔ではなく、一人の"女"になった自分を見つめながら、かつてないほどの高揚感とともに、微笑みかけた。




