幕間:女王の特別報酬と、最悪の門番
このエピソードの時間軸は、四章と五章の間になります。
――side. 高良田 慎吉――
仄暗い間接照明だけが照らす、駅裏のホテルの一室。
ベッドサイドのミネラルウォーターを手に取り、俺は乾いた喉を潤した。
「はぁ……はぁ……おじさん、上手だねー」
乱れた息を整えながら、女が俺を見上げて笑う。
彼女は、俺が裏の匿名アカウント――いわゆる"パパ活"の界隈で探し出した相手だ。
「もし良かったら、また誘ってよ。次はもっとサービスするからさ」
「ああ、もちろん。その時はまたよろしく頼むよ」
俺は口元に優しい笑みを浮かべて返事をした。
だが、内心では冷たく吐き捨てていた。(――もう二度と、お前を誘うことはない)と。
普段、俺はこうした遊びの際は、適当な相手を選んで適当に発散するだけに留めている。だが、今回だけは違った。
事前の交渉で多額の追加報酬をちらつかせ、どうしてもこの娘に異常なまでにこだわったのだ。
理由はただ一つ。
彼女の、その"見た目"だ。
すらりとした高い身長。
健康的な、薄褐色の肌。
長い黒髪。
顔立ちはまるで違う。声も、性格も、あの底知れぬ知性も、欠片も似ていない。
それでも俺は、彼女のそのシルエットだけに、あの宮藤玲茄の面影を重ねずにはいられなかった。
(……くそっ。やはり、違う)
いくら疑似的な関係を重ねようと、俺の心は一ミリも満たされていない。
むしろ、すべてが終わった後の虚無感と渇きが、以前よりもひどく増している。
宮藤玲茄。
俺の勤務先の生徒であり、俺の尊厳をいとも簡単に打ち砕いた、恐るべき怪物。
あの生徒指導室で、録音データと裏アカウントの履歴を突きつけられ、彼女の足元に這いつくばって命乞いをしたあの日の屈辱。
思い出すだけで、ギリッと奥歯が鳴る。
だが――異常なのは、俺の心だ。
あんなに恐ろしく、忌まわしい出来事があったというのに、俺は彼女の底知れぬ魅力から、どうしても抜け出すことができないでいる。
"サナ"という偽名で、彼女と連絡を取り合っていたあの一ヶ月間。
ただのスマートフォンの液晶越しの文字のやり取りだというのに、彼女が紡ぐ言葉は俺の劣情を的確に煽り、まるで遠い昔の青春時代に戻ったかのような、甘い高揚感を与えてくれていた。
だからこそ、彼女からの連絡が途絶えた時、俺はひどく狼狽し、心にぽっかりと穴が空いたような喪失感を味わったのだ。
あの"サナ"の正体が宮藤だと知った時の絶望は、いつしか、あの冷たく見下ろす瞳にもう一度踏み躙られたいという、歪な欲望へと姿を変えつつあった。
「……帰るか。明日も仕事だ」
俺はモヤモヤとした鬱屈を抱えたまま、手早く身支度を整え、適当な理由をつけてホテルを後にした。
――
数日後。昼休みの生徒指導室。
俺は自分のデスクに座り、目の前のパイプ椅子に腰掛ける少女を、冷や汗を流しながら見つめていた。
「……それで、宮藤。私に話というのは、なんだ」
どうして、またこんな状況になっているのだろう。
先ほど、廊下ですれ違った宮藤に「少し、お話しがあります」と微笑みかけられ、俺は逆らうこともできず、ノコノコと自らこの部屋の鍵を閉めてしまったのだ。
「ええ。実は先生に、一つお願いしたいことがありまして」
宮藤は優雅に足を組み、あの日のような微笑みを浮かべた。
「先生、来月の修学旅行では……引率として来ますよね?」
「ああ。生徒指導の担当としてな」
「その時、お願いしたいことがあるんです。……聞いてくださいますか?」
「ああ、聞こう。……とは即答できないが、どんなことなんだ?」
俺が警戒心を露わにすると、宮藤はふふっと小さく笑った。
「簡単な話です。井神凉、中里姉妹、綿部隆一、白峰優花。……この六人の宿泊先の夜の巡回を、先生の担当にしてもらえませんか?」
「……なんだと?」
俺は思わず眉をひそめた。
「男女の部屋を行き来するつもりか? お前たち、修学旅行先で逢引きでもするのか?」
「修学旅行という非日常の夜なんですもの。好意を寄せる相手と、少しでも長く一緒にいたいと思うのは、高校生として自然なことでしょう?」
悪びれる様子もなく、平然と言ってのける宮藤。
要するに、見回りの教師の目を誤魔化し、自分たちの逢瀬を安全に楽しむための"門番"になれと言っているのだ。
「……分かった。他の教員とシフトを調整して、お前たちの部屋の周辺は私が受け持とう」
俺はため息をつきながら了承した。弱みを握られている以上、断る選択肢はない。
「だが、お前たちがヘマをして他の教員にバレても、私は助けられないぞ。そこは勘違いするな」
「ええ。その時はその時です。……ありがとうございます、先生」
宮藤が満足そうに微笑む。
これで交渉は終わりかと思い、俺が立ち上がろうとした、その時だった。
「……そういえば」
宮藤は座ったまま、俺をじっと見上げて、艶やかな声で言った。
「お願いを聞いてくれた先生に、ちゃんと"お礼"をしなければいけませんね」
「お礼……?」
「ええ。……先生、最近、私に似ている子を探して、夜遊びしてますよね?」
「なっ……!?」
俺の心臓が、ドクンと嫌な音を立てて跳ねた。
「な、なんのことだ……!」
「ふふっ。隠さなくてもいいですよ。先生の好みは、私が一番よく知っていますから」
宮藤はゆっくりと立ち上がり、俺の耳元へ顔を寄せた。
甘い香りが、鼻腔をくすぐる。
「なら……こんな"お礼"は、どうですか?」
そして、彼女は俺の耳に、ある信じられない"提案"を囁いた。
「――っ!?」
俺は両目を見開き、ガタッと音を立てて椅子から立ち上がった。
ありえない。そんなこと、教師として、いや、一人の人間としての尊厳が崩壊してしまう。
だが、頭で鳴り響く警告とは裏腹に、俺は彼女の囁きだけで、かつてないほど熱を帯びていた。
葛藤は、ほんの数秒だった。
「……頼む」
俺の口から絞り出されたのは、完全に彼女の魅力に屈服した、惨めな獣の鳴き声だった。
――side. 井神 凉――
「玲茄、お前……一体何をするつもりなんだ?」
放課後。
玲茄に「少し付き合って」と呼び出された俺は、教室に茉依と悠希を残し、彼女と一緒に一階の廊下を歩いていた。
「着けばわかるわ。ちょっとした"お礼"よ」
玲茄は楽しそうに微笑むだけで、目的地を教えてくれない。
やがて彼女が立ち止まったのは、生徒指導室の前だった。
「ここって……高良田の?」
「ええ。入るわよ」
玲茄がノックもせずに扉を開けると、中には、パイプ椅子に深く腰掛け、神妙な顔つきで待ち構えている高良田の姿があった。
そして、彼が座っている椅子の後ろには、なぜか麻縄のようなロープが置かれている。
「お待たせ、先生」
玲茄はそう言うなり、部屋の鍵を内側からガチャリと閉めた。
俺が「一体何が始まるんだ」と呆然としていると、玲茄は床に置かれていたロープを手に取り、迷うことなく高良田の背後へ回った。
そして。
「……なっ!?」
俺の目の前で、玲茄は高良田の腕を椅子の背もたれに回し、手際よく、しかもかなりキツく縛り上げ始めたのだ。
さらに足首も椅子の脚に固定し、彼は完全に身動きが取れない状態にされた。
「おい、玲茄!お前なにやって……!」
「しーっ。大声を出さないで、凉」
縛り終わって俺の前に戻ってきた玲茄は、悪戯っぽく人差し指を唇に当てた。
椅子に縛り付けられた高良田を見ると、抵抗するどころか、鼻息を荒くして、額に脂汗を浮かべている。
「なあ、これ一体どういう状況なんだよ!?」
俺が声を潜めて問い詰めると、玲茄はふふっと妖艶に笑った。
「来月の修学旅行の夜、先生が私たちの部屋の周辺の見回り担当を引き受けてくれたの。だから、私たちの為に頑張ってくれる先生に、特別なお礼をしなきゃならないのよ」
「は? お礼って……縛ることがか?」
「ううん。お礼は、これよ」
言うが早いか、玲茄は俺の首に腕を回し、そのまま唇を重ねてきた。
「ちょ、おまっ、こんなとこで……!」
俺は慌てて引き剥がそうとしたが、玲茄は俺の胸にすり寄り、熱を帯びた瞳で俺を見上げた。
「いいのよ。……ほら、凉。見てみなさい」
玲茄が、顎をくいっと高良田の方へ向けた。
俺が視線を向けると。
そこには、椅子に縛り付けられたまま、目を血走らせ、呼吸を荒くして、俺たち二人が密着している光景を瞬きもせずに凝視している高良田がいた。
その異常な光景に、俺は背筋がゾワリと粟立つのを感じた。
なんとなく察した。
これは、ただの嫌がらせじゃない。この男は、自分が見下され、絶対に手の届かない場所で欲望を見せつけられることに興奮するタイプなのかもしれない。
「……玲茄。いいのか? こいつに見られても」
「ふふっ。修学旅行の夜、六人の自由な時間を作るために、結構な無茶を要求したのだから。これくらいなら、安いものよ」
玲茄は俺の耳元に唇を寄せ、艶やかに囁いた。
「それに……見られながらって、少し興奮しない?」
その妖艶な微笑みと、俺にだけ向けられる圧倒的な熱情に、俺の理性がグラリと揺さぶられた。
――
しばらくののち。
火照った息を整えながら、俺はふと高良田の方を見た。
「……は?」
俺は、思わず絶句した。
椅子に縛り付けられた高良田は、白目を剥くような歪んだ顔で身をよじらせ、ブルブルと全身を痙攣させていた。
(まじかよ……)
そのあまりの変態っぷりに、俺はさすがに少し引き気味で後ずさった。
だが、玲茄は制服を優雅に整えながら、高良田の前に歩み寄った。
「……どうでした、先生? 満足しましたか?」
冷たく、見下すような眼差し。
高良田は、荒い息を吐きながら、壊れたおもちゃのように何度も何度も、激しく首を上下に振っていた。
「……いいのか、これ」
俺が呆れたように呟くと、玲茄はふふっと笑い、高良田を縛っていたロープの結び目を解いた。
「それでは先生。修学旅行の夜……私たちのこと、よろしくお願いしますね」
身支度を整えた玲茄は、優雅に一礼し、俺の手を引いて生徒指導室を出ようとした。
ドアノブに手をかけた時、俺は背後を振り返った。
ロープから解放された高良田は、不思議なことに、憑き物が落ちたような、ひどく晴れやかな顔をしていた。
そして彼は、俺と目が合うと、力強く頷き、ポンッと自分の胸を叩いて――
『任せておけ』とばかりに、満面の笑みで親指を立てたのだ。
(……一発、殴ってやろうか)
湧き上がる理不尽な苛立ちをなんとか深呼吸で抑え込み、俺は「……失礼しました」とだけ吐き捨てて、逃げるように部屋を後にしたのだった。




