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四人でいることが、日常だった ――名前のない楽園――  作者: いもたにし
第五章 名前を奪う光、歪に癒着する箱庭
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歪な救済、甘く重い鎖

 ――side. 井神 凉――


 夕闇に沈む校舎。空き教室へと続く廊下は、まるで深い海の底のように静まり返っていた。

 廊下に反射する自分の足音だけが、やけに大きく響く。


「……茉依?」


 開け放たれたままの空き教室の一つから、微かに、喉の奥から空気を絞り出すような、苦しげな呼吸音が聞こえた。

 躊躇わず足を踏み入れると、部屋の隅の暗がりで、体育座りをして顔を伏せている小さな影があった。


「茉依!」


 俺が駆け寄って肩に触れると、茉依はビクッと弾かれたように顔を上げた。

 その顔を見て、息を呑む。

 赤く腫れ上がった目。涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔。

 そして何より、俺の存在を認識しても一切の安心感を浮かべない、絶望に支配された瞳。


「りょ……くん……」

「茉依、大丈夫か。立てるか」


 手を引こうとしたが、茉依はその手を振り払うようにして、さらに壁際へと身を縮こませた。


「こないで……っ、こないでよ!」

「茉依?」

「私、なんにもできない……! 実行委員の仕事も、全部、会長に取られちゃった……! りょーくんの役にも立てない、みんなのことも、笑わせられない……っ!」


 茉依は両手で自分の髪を乱暴に掻きむしりながら、壊れたおもちゃのように言葉を吐き出し続けた。


「私、いらないよね? 私がいなくても、りょーくんには会長がいるし、れなっちも、妹ちゃんもいる……っ! 私だけ、なんの役にも立たない! 空っぽの、ただの双子のお姉ちゃんなの……!」


 そこにあったのは、もはや"中里茉依"ではなかった。

 "井神凉"という接着剤で辛うじて繋ぎ止めていた不器用な継ぎ接ぎが、音を立てて剥がれ落ちていく。

 己の存在価値を失った、名前のないただの少女の残骸だった。


(……このままだと、茉依は完全に壊れて、取り返しのつかないことになってしまう)


 今、彼女が俺にぶつけているのは、痛々しいほどの明確な拒絶だ。

 このまま言葉に従って手を引けば、茉依は"俺たち"から離れようとするかもしれない。

 俺たちの歪な関係から抜け出し、"普通の高校生"に? 茉依が?


 ――俺はそれを絶対に許さない。


「……茉依」


 俺は、茉依の目の前に膝をついた。

 暗闇の中、彼女の震える両肩を、逃がさないようにしっかりと掴む。


「……っ! 離して、りょーくん! 私なんて、いらないでしょ……!」

「俺には、お前が必要だ」

「嘘だ! 会長の方が、ずっとすごくて、ずっとりょーくんのこと……!」

「お前じゃなきゃ、駄目なんだ」


 少しだけ声を低くして、俺は茉依の目を真っ直ぐに見据えた。


「俺は、お前に実行委員の仕事を完璧にやってほしかったわけじゃない」

「……」

「お前に、誰かの代わりになってほしかったわけでもない。ただ、俺の隣で、俺のためだけに笑っていてほしかったんだ」


 嘘ではない。

 だが、これは"自立を促す救済"ではない。


「お前は空っぽなんかじゃない。俺が、お前の居場所だ。俺が、お前の全部だ」


 ゆっくりと、彼女の心に最も深く刺さる言葉を紡いでいく。


「もし、お前が自分一人で立てないくらい壊れちゃったなら……俺が、全部直してやる。何度でも直してやる」


 茉依の瞳から、ボロボロと大粒の涙が溢れ出した。


「お前の笑う理由も、泣く理由も、明日も、全部俺がなんとかしてやる。だから、どこにも行くな。俺の隣から、勝手に出て行こうとするな」


 それは、彼女の弱さにつけ込んだ、最低の呪いだった。

 彼女の人生から"外側の世界"を完全に奪い、永遠に俺に依存させるための、最も甘く、最も重い鎖。


「りょ、くん……っ!」


 茉依は、俺の胸に飛び込んできた。

 俺の制服を強く握りしめ、嗚咽を漏らしながら、子どものように泣きじゃくる。


「私っ、りょーくんの隣に、いていいの……?」

「ああ。ずっといろ」

「私、りょーくんのために、笑ってていいの……!?」

「お前じゃないと、駄目なんだ」


 茉依は泣きながら、それでも顔を上げて、ひどく歪んだ、けれど今日一番の"安心した笑顔"を浮かべた。

 その笑顔は、かつての自然な明るさとは違う。

『俺の隣で笑うためだけにチューニングされた人形』のような、薄気味悪さを孕んでいた。


「……よかったぁ……っ」


 茉依は、自ら進んで鎖を首に巻きつけた。

 俺はその背中をゆっくりと撫でながら、空き教室の冷たい闇の中で、静かに目を閉じる。


 これで、一つは修復できた。

 俺たちの"名前のない楽園"は、今までよりもさらに深く、さらに歪な形で、接着剤を塗りたくられた。


「……帰ろう、茉依。俺たちの"日常"に」

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