歪な救済、甘く重い鎖
――side. 井神 凉――
夕闇に沈む校舎。空き教室へと続く廊下は、まるで深い海の底のように静まり返っていた。
廊下に反射する自分の足音だけが、やけに大きく響く。
「……茉依?」
開け放たれたままの空き教室の一つから、微かに、喉の奥から空気を絞り出すような、苦しげな呼吸音が聞こえた。
躊躇わず足を踏み入れると、部屋の隅の暗がりで、体育座りをして顔を伏せている小さな影があった。
「茉依!」
俺が駆け寄って肩に触れると、茉依はビクッと弾かれたように顔を上げた。
その顔を見て、息を呑む。
赤く腫れ上がった目。涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔。
そして何より、俺の存在を認識しても一切の安心感を浮かべない、絶望に支配された瞳。
「りょ……くん……」
「茉依、大丈夫か。立てるか」
手を引こうとしたが、茉依はその手を振り払うようにして、さらに壁際へと身を縮こませた。
「こないで……っ、こないでよ!」
「茉依?」
「私、なんにもできない……! 実行委員の仕事も、全部、会長に取られちゃった……! りょーくんの役にも立てない、みんなのことも、笑わせられない……っ!」
茉依は両手で自分の髪を乱暴に掻きむしりながら、壊れたおもちゃのように言葉を吐き出し続けた。
「私、いらないよね? 私がいなくても、りょーくんには会長がいるし、れなっちも、妹ちゃんもいる……っ! 私だけ、なんの役にも立たない! 空っぽの、ただの双子のお姉ちゃんなの……!」
そこにあったのは、もはや"中里茉依"ではなかった。
"井神凉"という接着剤で辛うじて繋ぎ止めていた不器用な継ぎ接ぎが、音を立てて剥がれ落ちていく。
己の存在価値を失った、名前のないただの少女の残骸だった。
(……このままだと、茉依は完全に壊れて、取り返しのつかないことになってしまう)
今、彼女が俺にぶつけているのは、痛々しいほどの明確な拒絶だ。
このまま言葉に従って手を引けば、茉依は"俺たち"から離れようとするかもしれない。
俺たちの歪な関係から抜け出し、"普通の高校生"に? 茉依が?
――俺はそれを絶対に許さない。
「……茉依」
俺は、茉依の目の前に膝をついた。
暗闇の中、彼女の震える両肩を、逃がさないようにしっかりと掴む。
「……っ! 離して、りょーくん! 私なんて、いらないでしょ……!」
「俺には、お前が必要だ」
「嘘だ! 会長の方が、ずっとすごくて、ずっとりょーくんのこと……!」
「お前じゃなきゃ、駄目なんだ」
少しだけ声を低くして、俺は茉依の目を真っ直ぐに見据えた。
「俺は、お前に実行委員の仕事を完璧にやってほしかったわけじゃない」
「……」
「お前に、誰かの代わりになってほしかったわけでもない。ただ、俺の隣で、俺のためだけに笑っていてほしかったんだ」
嘘ではない。
だが、これは"自立を促す救済"ではない。
「お前は空っぽなんかじゃない。俺が、お前の居場所だ。俺が、お前の全部だ」
ゆっくりと、彼女の心に最も深く刺さる言葉を紡いでいく。
「もし、お前が自分一人で立てないくらい壊れちゃったなら……俺が、全部直してやる。何度でも直してやる」
茉依の瞳から、ボロボロと大粒の涙が溢れ出した。
「お前の笑う理由も、泣く理由も、明日も、全部俺がなんとかしてやる。だから、どこにも行くな。俺の隣から、勝手に出て行こうとするな」
それは、彼女の弱さにつけ込んだ、最低の呪いだった。
彼女の人生から"外側の世界"を完全に奪い、永遠に俺に依存させるための、最も甘く、最も重い鎖。
「りょ、くん……っ!」
茉依は、俺の胸に飛び込んできた。
俺の制服を強く握りしめ、嗚咽を漏らしながら、子どものように泣きじゃくる。
「私っ、りょーくんの隣に、いていいの……?」
「ああ。ずっといろ」
「私、りょーくんのために、笑ってていいの……!?」
「お前じゃないと、駄目なんだ」
茉依は泣きながら、それでも顔を上げて、ひどく歪んだ、けれど今日一番の"安心した笑顔"を浮かべた。
その笑顔は、かつての自然な明るさとは違う。
『俺の隣で笑うためだけにチューニングされた人形』のような、薄気味悪さを孕んでいた。
「……よかったぁ……っ」
茉依は、自ら進んで鎖を首に巻きつけた。
俺はその背中をゆっくりと撫でながら、空き教室の冷たい闇の中で、静かに目を閉じる。
これで、一つは修復できた。
俺たちの"名前のない楽園"は、今までよりもさらに深く、さらに歪な形で、接着剤を塗りたくられた。
「……帰ろう、茉依。俺たちの"日常"に」




