名前のない迷子
――side. 中里 茉依――
放課後の体育館。
ステージの設営が始まり、パイプ椅子や音響機材が次々と運び込まれている。
私は、束になったパンフレットとガムテープを両手に抱え、誰かの役に立ちそうな場所を必死に探して彷徨っていた。
「あ、あの! その機材、運びます!」
「え? ああ、中里さん。でもこれ重いから、男子でやるよ」
「だ、大丈夫です! 私、実行委員だから……!」
無理やり手を出そうとした瞬間、横からすっと伸びてきた白い手が、私の腕を優しく制した。
「中里姉。それは男子が設置するから、君は触らなくていいんだ」
会長だった。
首からトランシーバーを下げ、クリップボードを持った彼女は、乱れのない完璧な佇まいで私に微笑みかけた。
「でも……私、今日なにもしてなくて。それに、りょーくんのサポートを……」
「凉ちゃんのサポートなら、私がしているから大丈夫だ。彼は今、本部で進行の最終確認をしてくれている」
会長は私の手からガムテープとパンフレットを抜き取ると、近くの机に丁寧に置いた。
「君は本当に頑張り屋さんだな。だが、もうここはあらかた終わっているから、君がやらなければならない仕事はない。あとは私と凉ちゃんですべて終わらせる」
「そんな……私だって、りょーくんの隣で……っ」
「中里姉」
会長の声が、一段階低く、そして限りなく優しくなった。
「凉ちゃんはね、君たちに"普通の高校生活"を楽しんでほしいんだよ。彼が君たち三人を大切にしているのはよく知っている。だからこそ、私は彼に代わって、その負担を引き受けてあげたいんだ」
負担。
りょーくんにとって、私は負担?
「明後日はいよいよ本番だ。実行委員の仕事にもちゃんと自由時間はあるから、妹ちゃんと一緒に、クラスの出し物を楽しんでおいで。双子で回る文化祭なんて、きっと一生の思い出になるだろうからね」
――双子で回る文化祭。
その言葉が、私の耳の奥でびーっと嫌な耳鳴りに変わった。
視界がぐにゃりと歪む。
違う。私は双子だからここにいるんじゃない。
りょーくんが、私を"茉依"として見てくれたから。私に、役割をくれたから、私はここに存在できているのに。
『妹ちゃんと一緒に』
『双子で回る文化祭を楽しんでおいで』
完璧な正論。完璧な善意。
会長の言葉は、私の輪郭をハンマーで粉々に打ち砕いた。
私には、役割がない。
りょーくんの隣にいる理由がない。
私はただの、中里家の双子の片割れ。空っぽの器。
「あ……ぁ……っ」
喉から、空気が漏れるような情けない音が出た。
過呼吸が始まる。息が吸えない。会長の心配そうな顔が、まるで死神のように見えた。
「中里姉? 顔色が悪いぞ。保健室へ……」
「いや……いやぁっ!」
会長の手を弾き飛ばし、私は弾かれたように背を向けて走り出した。
体育館を出て、廊下を走る。
すれ違う生徒たちが驚いたように私を見るが、構っていられなかった。
どこへ行けばいい? 教室? 駄目だ、妹ちゃんがいる。私という存在を消してしまう、もう一人の私が。
れなっちのところ? 駄目だ。あの優しい笑顔で、「もう何もしなくていいわよ」って、静かに見限られてしまう。
りょーくんのところ? 駄目だ。りょーくんには、もう完璧な"姉"がいる。負担をかけるだけの私なんて、いらない。
帰る場所なんて、最初からどこにもなかったんだ。
私は自分の両腕を強く抱きしめながら、夕闇の迫る空き教室へと逃げ込んだ。
冷たいコンクリートの壁に背中を預け、崩れ落ちるように座り込む。
「りょーくん……りょーくん……っ」
"名前のない迷子"は、声も出せずにただ泣きじゃくった。
――side. 井神 凉――
「……茉依?」
本部での作業を終え、体育館に戻ろうとしていた渡り廊下で、俺は信じられないものを見た。
顔面を蒼白にし、ボロボロと涙をこぼしながら走っていく茉依の姿だ。
俺が声をかけたのにも気づかず、彼女は逃げるように空き教室の方へと消えていった。
心臓が、嫌な音を立てて早鐘を打つ。
咄嗟に後を追おうとしたが、彼女が走ってきた体育館で何があったのかを確認するのが先だ。
俺は急いで体育館へと駆け込み、指示出しをしている美琴の元へ向かった。
「会長! 今、茉依が泣きながら走っていくのを見たんですが……何かあったんですか!?」
「凉ちゃん。ああ、中里姉なら、少し顔色が悪かったから休むように言ったんだ」
美琴は振り返り、心底心配そうな、痛ましげな表情を浮かべた。
「実行委員の仕事でプレッシャーを感じていた上に、私の気遣いも足りなかったのかもしれない。文化祭当日は自由時間があるから、妹ちゃんと一緒に回るといい、という話をしていたんだが……取り乱してしまってね。後で私から、しっかり謝っておくよ」
その言葉の羅列を聞いた瞬間。
俺の中で、何かが完全に冷え切るのを感じた。
この人は、正しい。
徹頭徹尾、正しい生徒会長であり、優しい姉だ。
だからこそ、俺たち四人が命懸けで維持してきた"歪なバランス"を、いとも簡単に、無自覚に粉砕してしまう。
美琴の言葉は、茉依のアイデンティティを、粉々にしたのだ。
「さあ、凉ちゃん。中里姉のことは後でフォローするとして、今はここのチェックを――」
「……すみません」
俺は、手に持っていた実行委員のクリップボードを、パイプ椅子の上に投げ捨てた。
ガシャン、と無骨な音が響く。
「凉ちゃん?」
「俺、行きます。実行委員の仕事は、今日はもうできません」
美琴が、わずかに目を見開いた。
「何を言っているんだ。君の仕事はまだあるだろう? 今ここを抜けたら、明後日の本番に支障が……」
「文化祭なんて、どうでもいい」
自分でも驚くほど、低く、冷たい声が出た。
「俺にとって一番大事なのは……あいつらと一緒にいる"日常"を守ることです。それ以外に、やらなきゃいけないことなんて一つもない」
美琴の顔から、ふっと微笑みが消えた。
俺たちの間に、初めて明確な"断絶"が生まれた瞬間だった。
「……失礼します」
俺は美琴に背を向け、体育館を走り出した。
焦燥と、それ以上の黒い欲望が腹の底で渦を巻いている。
茉依が壊れた。
俺たちの箱庭から零れ落ち、一人で死にかけている。
なら、俺が拾い集めるしかない。二度と壊れないよう、深く、甘い鎖で縛り付けてやる。
茉依が向かった方向へ走りながら、俺は自分の中に芽生えた"名前のない怪物"を、もう隠そうとはしなかった。




