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四人でいることが、日常だった ――名前のない楽園――  作者: いもたにし
第五章 名前を奪う光、歪に癒着する箱庭
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殺された笑顔と、床に落ちた破片

 ――side. 井神 凉――


 文化祭本番まで、残り二週間を切った。

 放課後の校内は、段ボールを運ぶ生徒や、絵具だらけのジャージを着た者たちが行き交い、祭りの前特有の喧騒と熱気に包まれている。


 だが、俺たちの周囲だけは、ひどく冷たく、無菌室のような空気が漂っていた。


「凉ちゃん。メインステージのタイムテーブルの最終調整が終わった。雨天時の対応パターンも組んでおいたから、目を通しておいて」

「あ、はい……ありがとうございます。……会長」


 生徒会室の長机越しに、美琴が完璧にファイリングされた資料を差し出してくる。

 それは本来、実行委員である俺と茉依が、何日も頭を悩ませて作るはずのものだった。


「中里姉も、確認しておいてくれ。とはいえ、当日の進行指示は私が直接トランシーバーで出すから、中里姉はステージ脇で待機してくれているだけで十分だけど」

「はいっ! ありがとうございます、会長! さすがです!」


 隣で、茉依が裏返りそうなほど甲高い声で返事をした。

 俺は思わず、茉依の横顔を盗み見る。


 貼り付けたような、笑顔。

 目は全く笑っておらず、口角だけが不自然なほど限界まで引き上げられている。まるで、粗悪なプラスチックで作られた人形のようだ。


「……じゃあ、今日はこれで解散しようか。中里姉、自分のクラスの出し物の準備に戻っていいぞ。ここは私と凉ちゃんで片付けておく」

「はいっ! お疲れ様でしたぁ!」


 茉依はバネ仕掛けのおもちゃのように立ち上がると、俺の顔を一度も見ることなく、逃げるように生徒会室を飛び出していった。

 バタン、と勢いよく扉が閉まる音が、静かな室内に虚しく響く。


「……中里姉、最近少し元気がないみたいだな。やっぱり、実行委員の仕事がプレッシャーになっていたのか」

「…………」


 心底心配そうに眉を下げる美琴の顔には、一切の悪意も打算も見えない。

 俺は曖昧に頷くことしかできず、手元の資料に視線を落とした。

 息が詰まりそうだった。



 ――


 夜。リビング。

 四人が集まるこの空間は、俺たちにとって外部の空気を完全に遮断できる場所のはずだった。


「あ、あはははっ! 今の、ウケるね!」


 テレビのバラエティ番組を見ながら、茉依が手を叩いて笑った。

 だが、その笑い声はひどく空虚で、リビングの空気に全く馴染んでいない。そもそも、今のシーンは少しも笑うような場面ではなかった。


「…………」


 ソファに座る玲茄は、雑誌から目を離すことなく、完全に沈黙している。

 その隣で、悠希もまた、膝を抱えたまま茉依の空笑いには一切反応を示さない。


「あ、ねえねえ! りょーくん! 明日のお弁当、私のおかず少し分けてあげようか? 今日、卵焼きうまく焼くコツ見つけたんだー!」


 茉依が、すがるような目で俺の方を向いた。

 その瞳孔はわずかに震え、焦点が定まっていないように見える。


 彼女は必死だった。

 だが、その焦りが生み出す過剰な明るさは、かつての心地よい温度とは全く違う。

 ただひたすらに痛々しく、薄気味悪い"ノイズ"として、この場所を不協和音で満たしていた。


「……茉依。卵焼きは明日のお楽しみでいいよ。それより、少し休んだ方が……」

「ううん! 休まないよ! 私、全然疲れてないもん! あ、コーヒー! コーヒー淹れるね! れなっちも飲むよね!?」


 俺の制止を振り切り、茉依が弾かれたように立ち上がってキッチンへ向かった、数秒後。


 ガチャン!


 キッチンから、陶器が激しく砕け散る鋭い音が響いた。


「あっ……あ、ごめんなさい! 違うの、手が滑っちゃって……!」


 床には、粉々に砕けたマグカップと、ぶちまけられたコーヒー豆が散乱していた。

 茉依は床に這いつくばり、素手で割れた破片を拾い集めようとしている。


「おい、茉依! 素手は危ないって!」


 俺が慌てて駆け寄ろうとした、その時だった。


「茉依」


 リビングの空気を一瞬で凍結させるような、玲茄の冷たい声が響いた。

 茉依の肩が、ビクンと大きく跳ねる。


「……片付けはいいわ。悠希、掃除して」

「はい」


 悠希が音もなく立ち上がり、ほうきとちりとりを持ってキッチンへ向かう。

 茉依は鋭い破片を握りしめたまま、指先から血が滲んでいることにも気づかず、ボロボロと涙をこぼし始めた。


「ごめん……なさい……。私、なんにも、できない……」

「……」

「ごめんなさい……ごめんなさいっ……!」


 玲茄は茉依の謝罪を一瞥すらせず、ゆっくりと立ち上がってリビングから出ていった。

 俺は、床で泣き崩れる茉依と、無表情でそれを片付ける悠希の間に立ち尽くすことしかできなかった。


 温度が、死んでいる。


 俺たちが命懸けで守ってきたはずの"日常"が、少しずつ崩壊しようとしていた。


 直さなければ。

 このままでは、茉依が完全に壊れて、ここから消えてしまう。


 茉依を見つめながら、俺の胸の奥で、黒く冷たい"管理欲"のようなものが、静かに鎌首をもたげていた。

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