善意の窒息と、憧憬のジオラマ
――side. 井神 凉――
美琴からの事実上の"宣言"から一夜明けた、放課後の視聴覚室。
今日から文化祭の出し物について、クラスを跨いだ本格的な連携が始まる予定だった。
「……あれー?これ、もう入力終わってる……?」
パイプ椅子に座った茉依が、ノートパソコンの画面を見ながら目をぱちくりさせていた。
文化祭のシフトやスケジュールを管理するスプレッドシート。俺たちが今日から手分けして入力していくはずのそれは、一晩にして完璧に整理された状態になっていた。
どこに何があるか見出しがつけられ、見やすいように色分けまでされている。
「あれ、こっちの機材の割り振り表も……え? もう顧問の先生のハンコがもらってある?」
「……ほんとだ。昨日はまだ調整中だったはずなのに」
俺と茉依が顔を見合わせていると、背後からふわりと甘い百合の香りが漂ってきた。
「二人とも、お疲れさま」
振り返ると、美琴が穏やかな微笑みをたたえて立っていた。手には、生徒会室で淹れてきたであろう温かい紅茶の紙コップが、いくつかトレイに乗っている。
「会長。これ……もしかして全部、会長がやってくれたんですか?」
「うん? ああ、シートのことか? 生徒会の仕事のついでにやっておいたんだ。機材の割り振りも、私が先生に直接話を通しておいたから、あとはもう機材庫から運ぶだけでいい」
「えっ、でも……」
「中里姉は、自分のクラスの出し物の準備もあるだろう? 実行委員の仕事で無理して、そっちがおろそかになったら本末転倒だからな。ここはある程度したら私に任せて、しっかり自分のクラスのことも楽しんでおいで」
自然で、完璧な気遣いだった。
反論の余地がない。生徒会長としての権限と、手回しの良さ。すべてが俺たちの負担を減らそうとする、一点の曇りもない純粋な"善意"だった。
「ありがとうございます。でも、私にもできることありますよ! クラスのほうは順調だし……あ、そうだ、当日のパンフレットの割り振りとか!」
「ふふっ、ありがとう。でも、パンフレットはもう生徒会役員の方で引き取ったから大丈夫。中里姉は本当に頑張り屋さんだね。でも、無理しなくていいからね」
美琴は、まるで小さな子供を褒めるような優しい手つきで、茉依の肩をぽんと叩いた。
茉依の笑顔が、一瞬だけピクリと引きつる。
「……は、はい。ありがとうございます」
茉依の役割が、善意によって次々と奪われていく。
実行委員としての仕事すら彼女には必要ないと、そう突きつけられているような息苦しさ。
そんな重苦しい空気に気づく様子もなく、美琴は俺の方へ向き直った。
「そういえば凉ちゃん。ここの機材の配置図なんだけど、昔、夏休みの工作で一緒に作った"町のジオラマ"の配置に似ていると思わないか? ほら、凉ちゃんが途中で設計図を無くして泣きついてきた……」
「あー……それは、まあ」
「ふふっ。あの時は結局、私が一から図面を引き直して完成させたんだったな。今回も、分からないことがあったら一人で抱え込まず、何でも私に聞きなさい」
俺と美琴の間にしか通じない、過去の記憶。
二人の世界が展開される中、茉依はただ所在なさげに、パソコンの画面と俺たちを交互に見つめているしかなかった。
その手は、行き場をなくしたように膝の上できつく握りしめられている。
――
放課後、帰り道。
教室で合流した玲茄と悠希と一緒に、いつもの道を歩く。
「今日ね、実行委員の仕事、全然なかったんだー」
不自然なほど明るい声で、茉依が口火を切った。
「会長が全部やってくれちゃって。私、見てるだけになっちゃった。あはは、なんか申し訳ないよねぇ」
「そう。それは良かったじゃない」
「うん! だからさ、私、明日からはもっと自分から仕事見つけてやろうと思って! ほら、まだポスターの掲示場所の確認とか残ってるし、そういう細かいところなら私でも……!」
「茉依」
玲茄の声が、夕暮れの空気を鋭く切り裂いた。
静かで、けれど絶対に逆らえないような、冷たい響き。
「落ち着いて」
「え……」
「……実行委員の仕事で、少し疲れてしまったのね。早く家に向かいましょう」
玲茄は、空回りし始めた茉依の焦燥を察したのか、あくまで表面上は"労い"の言葉をかけた。
茉依はハッとして、自分の口を両手で覆った。
「あっ……ご、ごめん。私……いま、変なこと言ってた。早く帰ろ」
茉依は無理に笑顔を作り直し、少しだけ早足で歩き出した。
――
夜のリビング。
夕食を終え、いつものように四人で過ごす時間。
テレビのバラエティ番組が流れる中、茉依は俺の隣に座ってはいるものの、終始元気がなかった。
時折、ぼんやりと宙を見つめては、自分の膝をぎゅっと握りしめている。
「茉依。あんまり気にすんなよ。みこねぇ……会長も、悪気があってやってるわけじゃないから」
俺が小声でそう宥めると、茉依はビクッと肩を揺らし、慌てて笑顔を作った。
「ううん、気にしてないよ! むしろ楽できてラッキーって思ってるし!」
その乾いた笑い声は、どこか空虚に響いた。
茉依の手を握ると、いつもぽかぽかしている手が、ひどく冷えていた。
俺の反対側では、悠希が静かに俺の袖を掴んでいる。
そして少し離れたダイニングテーブルから、玲茄がコーヒーカップを片手に、その様子をじっと観察していた。
冷たく、けれどどこまでも冷静なその瞳は、茉依の空回りも、俺の気休めも、すべてを見透かしているようだった。
玲茄は、何かを確かめるように視線を落とす。
ひび割れた温度が、ゆっくりと広がっていくのを感じた。




