女王の布石と甘い上書き
――side. 井神 凉――
その日の夜。
俺たち四人は、いつものようにダイニングテーブルを囲み、夕食をとっていた。
昨日は全校集会を控えていたこともあり、玲茄の「ゆっくり休みましょう」という提案に従って、誰も泊まらなかった。
順番通りにいけば、今夜は玲茄が泊まる日だ。だが、食後のコーヒーを淹れながら、玲茄はふふっと柔らかく微笑んで言った。
「ねえ。今夜は、悠希が泊まっていったらどうかしら」
「……え?」
突然名前を呼ばれた悠希が、マグカップを持ったままパチクリと瞬きをする。
「今回は、嵐田を完全に封じ込めた悠希が、間違いなく一番の功労者だもの。ね、茉依もそう思うでしょ?」
「うんっ! 悠希、すごかったもん! わたしも賛成ー!」
茉依が無邪気に手を挙げると、悠希は少しだけ躊躇うように俺の顔を見た。
「……凉くんが、いいなら」
「もちろん、俺は構わないよ。悠希には本当に助けられたからな」
俺が頷くと、普段は感情をあまり表に出さない悠希の頬が、ほんのりと、だがはっきりと桜色に染まった。
「……ありがとうございます。では、お言葉に甘えさせていただきます」
そうして、玲茄と茉依が帰り、家には俺と悠希の二人が残った。
――
風呂上がり。
リビングのソファに腰かける俺の肩には、甘いシャンプーの香りを漂わせた悠希が、すり寄るようにピタリと体重を預けてきている。
その温もりを感じながらも、俺の脳裏にこびりついているのは、玲茄が嵐田と高良田に向けたであろう"底知れぬ狂気"への違和感だった。
彼女は、俺たちを守るためとはいえ、大人の精神を完全に破壊する手段を選んだ。
もし、あの底知れぬ冷徹さが、いつか俺たち自身に向けられたら。
あるいは、彼女のそれに、俺が耐えきれなくなる日が来たら――。
「凉くん」
じわじわと広がる暗い思考が胸を覆い尽くそうとした、その時だった。
俺の肩に寄りかかっていた悠希が、不意に身を起こし、俺の顔を覗き込んできた。
「ちょっと早いですが……凉くんのお部屋に、行きましょう」
俺は彼女に手を引かれるまま、立ち上がった。繋がれた指先から、彼女のいつもより熱のある体温が伝わってくる。
無言のまま廊下を歩き、寝室に入り、ドアが閉まった直後だった。
不意に胸をトン、と押され――気づいたときには、ベッドへと体が吸い込まれていた。
「お、おい、悠希……?」
仰向けに倒れ込んだ俺の上で、悠希が俺の顔を真っすぐに見つめる。
普段の無表情な彼女からは想像もつかないほど、その顔は熱っぽく、切羽詰まったような甘い色気を放っていた。
「私、頑張りました。……今回は、私が一番、凉くんのために頑張りました」
悠希は俺の首筋に顔を埋め、小さな子どものようにすりすりと頬を擦り寄せてくる。
「怖かったです。先生の怒鳴り声も、停学という言葉も。……でも、凉くんたちの居場所を守るために、必死に計算して、嵐田先生に立ち向かいました」
「……ああ。知ってる。悠希が一番勇敢だった」
俺は彼女の細い背中に腕を回し、その艶やかな黒髪をゆっくりと撫でた。
俺の手が頭を撫でるたび、悠希は喉の奥で甘い吐息を漏らし、さらに強く俺の身体にしがみついてくる。
「褒めてください。もっと……今は私だけを、見てください」
「悠希……」
「凉くん。……玲茄のこと、怖いですか?」
熱を帯びた甘い空気の中で、悠希が唐突にその名前を口にした。
俺は撫でていた手をピタリと止め、息を呑んだ。
「……気づいてたのか」
「はい。帰り道からずっと、凉くんが玲茄に……違和感を抱いていることは分かっていました」
悠希は俺の首筋から顔を上げ、静かな、けれど有無を言わさない強い眼差しで俺を見つめた。
「凉くんは優しいから。玲茄が先生たちにどんなトドメを刺したのかを想像して、そんなに震えているんでしょう?」
図星だった。俺は何も言い返せず、ただ沈黙した。
悠希は、そんな俺の頬を冷たい指先でそっと撫でた。
「でも、怖がらなくてもいいと思います。……玲茄はいつだって、私たちのことを一番に考えて行動しているんですから」
「悠希……」
「彼女のやり方は、確かに苛烈で冷酷なのかもしれません。でも、私たちの"居場所"を守るために、私たちが傷つかないように、自分から進んで泥を被ってくれたんだと思います」
悠希の言葉には、一切の迷いがなかった。
彼女の四人の関係性に対する"思い"が、玲茄の狂気すらも正当化していた。
「私は、彼女を信じています。凉くんも……本当はそうでしょう?」
真っ直ぐに問いかけられ、俺は奥歯を噛み締めた。
そうだ。玲茄の行動原理は、いつだって俺たちへの純粋な愛情だ。それを恐れるなんて、彼女の覚悟に対する裏切りでしかない。
悠希の細い指先が、俺の頬を撫でる。
「だから、もう不安になる必要はありません。何も考えないで……今はただ、私だけを見て」
悠希の柔らかい唇が、俺の唇を塞いだ。
触れ合ったその熱が、俺の脳内にこびりついていた黒い疑念を、甘く溶かして消し去っていく。
「凉くん……今日はいっぱい、くださいね。……全然、足りないんです」
悠希は俺の手を引き寄せ、足りないという場所へ強く押し当てた。
そこから伝わるどうしようもない熱と震えに、俺はゆっくりと目を閉じ、玲茄への恐れも、大人たちへの罪悪感もすべて忘れるように、彼女の熱に溺れていった。
――side. 宮藤 玲茄――
翌朝。
いつものコンビニ前にやってきた凉の顔を見て、私は思わず口元をほころばせた。
「おはよう、凉。……よく眠れた?」
「ああ。おはよう、玲茄」
私に向かって返す凉の表情は、昨日夕暮れの帰り道で見せていたあの"怯え"や"疑念"が消え去り、穏やかな光を取り戻していた。
凉の後ろからやってきた悠希が、私を見て、わずかに視線で合図を送ってくる。
私は、彼女にだけ伝わるように、小さく片目を閉じてみせた。
昨夜、凉の心に芽生えかけた私への恐怖というノイズ。
私が無理に触れれば、それは拒絶という亀裂に変わっていたかもしれない。だから私は、あえて悠希に、自分の泊まる権利を譲ったのだ。
悠希なら、必ずこの状況を察し、最善手で凉の不安を拭い去ってくれる。そしてそのまま、自分の欲求を満たしながら凉の心を甘く溶かしてくれると分かっていたから。
私の予想通り、悠希は凉の心を私の望む形へと綺麗に"調律"してくれたようだ。
(ふふっ……)
私は、凉の隣に移動しながら、晴れ渡った空を見上げる。
――盤石な固定、完了。
私たちの――私の箱庭は、今日も美しい。




