盤上を支配する一手
――side. 井神 凉――
空き教室の静寂の中、白峰のスマートフォンの画面が、決定的な事実を映し出していた。
送信元端末名:『PC-ARASHIDA』
「……マジか」
俺は思わず低い声を漏らした。
事務室のプリンタ、B4サイズ、そして嵐田という名前。すべてが悠希の推理通りに繋がったのだ。
これ一枚で、嵐田は終わる。
「にしても、あの野郎……」
隆一が忌々しそうに舌打ちをする。
「しょっちゅう俺たちに説教垂れといて、裏じゃこんな陰湿なことやってるとか……教師のやることかよ」
「これで決まりだね」
茉依が、パッと顔を輝かせて俺の腕を引いた。
「ねえ、りょーくん! すぐにこの写真を石川先生か、校長先生に見せに行こう! そうすれば嵐田先生、言い逃れできないよ!」
「ああ。これだけはっきりした証拠があれば――」
俺が頷きかけた、その時だった。
「……待ってください」
静かで、ひどく冷ややかな声が空き教室に響いた。
悠希だ。
彼女は白峰のスマートフォンを見つめたまま、ゆっくりと首を横に振った。
「これだけでは、ダメです。今この写真を突きつけても、嵐田先生を完全に黙らせることはできません」
「え? どうして?」
茉依が目を丸くする。俺も同じ疑問を抱き、悠希の横顔を見た。
彼女の瞳の奥には、感情的な怒りではなく、数学の難問を解くときのような冷徹な理性の光が宿っていた。
「相手は、自分の行動を"正義"だと信じ込んでいる人間です」
悠希は、淡々と嵐田の心理を分析し始めた。
「そういう人間は、自分が追い詰められたとき、無意識に自分を正当化し、必ず"論点のすり替え"に逃げます」
「論点のすり替え……?」
白峰が眉を寄せる。
「はい。もし今この証拠を突きつければ、彼は一瞬焦った後、確実にこう言い返します。『生徒が勝手に事務室に入り、教師のデータを盗み見たのか』……と」
その言葉に、俺と隆一はハッとした。
確かに、嵐田なら言いかねない。
張り紙を貼ったことよりも、生徒が事務室のプリンタを不正に操作し、撮影したという"ルール違反"の方をことさらに重く扱い、自分への追及を逸らそうとするだろう。
「相手は教師です。権力を持っている側が開き直り、論点を"生徒の不正"にすり替えてしまえば、最悪の場合、優花や綿部くんが処罰の対象になりかねません。……それだけは、絶対に避けなければいけません」
悠希の言葉に、教室の空気が一段と重く、張り詰めたものに変わった。
証拠を掴んだだけで勝てるほど、大人の世界は単純ではない。
「じゃあ……どうするんだよ」
俺が問うと、悠希はゆっくりと顔を上げた。
その表情には、かつての弱さは微塵もなかった。
悠希は、一切の熱を帯びていない、凪いだ水面のような声色で続けた。
「確実に決めるためには、順番が重要です」
悠希は、テーブルの上に置かれたスマートフォンを指先でトントンと叩いた。
「まずは、彼を言葉で徹底的に追い詰めます。彼が張り紙を貼った犯人を『卑劣だ』と認めるように誘導し、自分の正義の根拠を一つずつ潰していく。ぐうの音も出ないほどに論破し、彼が逃げ道を探して、最後の抵抗――『証拠があるのか!』と教師の権力を振りかざそうとした、その瞬間に」
悠希の目が、スッと細められた。
「先ほどの"論点のすり替え"が絶対に起きない状況、つまり、彼が完全に孤立し、自らの嘘で自縛したトドメのタイミングで……これを、使います」
それは、王の退路を完全に断ってから静かにチェックメイトを宣告するような、冷酷で完璧なシナリオだった。
「……すげえな、悠希」
隆一が、少しだけ引きつったような笑いを浮かべた。
「お前、そんなえげつないこと考えられる奴だったか?」
「……私たちの大切な場所を壊そうとする人には、手加減なんて必要ありませんから」
悠希は表情を変えずに答えた。
「素晴らしいわ、悠希」
ずっと黙って聞いていた玲茄が、満足げに、そして酷薄に微笑んだ。
「相手の理屈を内側から崩壊させ、逃げ道を断ってから物理的な証拠で息の根を止める。上出来だわ」
玲茄は俺と茉依、そして悠希を順番に見渡した。
「嵐田の相手は、あなたたち三人に任せるわね。放課後、彼が一人になるタイミングを見計らって、確実に仕留めて」
「玲茄は、どうするんだ?」
俺が尋ねると、彼女はふふっと妖艶に笑い、自分の唇に人差し指を当てた。
「私は、高良田先生に呼び出されているの。放課後、生徒指導室で『ゆっくりお話し』をね」
「お前、一人で行く気か!? あいつの目は異常だったぞ」
俺が身を乗り出して止めようとするが、玲茄は余裕の笑みを崩さない。
「心配いらないわ、凉。あんな薄っぺらい欲で動く男、処理に時間はかからないから。……嵐田と高良田。二つ同時に終わらせるわ。最短手でね」
彼女のその目は、間違いなく"狩り"に向かう捕食者のそれだった。
「……わかった。嵐田は、俺たちでどうにかする」
俺が覚悟を決めて頷くと、茉依と悠希も力強く頷き返した。
放課後のチャイムが鳴れば、反撃が始まる。
俺たちはもう、ただの"従順な生徒"の皮を被っているつもりはなかった。




