表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
四人でいることが、日常だった ――名前のない楽園――  作者: いもたにし
第四章 汚された盤面と、それを拭う冷たい手
33/72

悪意の残響、泥のついた靴

――正しい形など、一体誰が決めたのだろう。

この愛おしく歪な楽園を、見えざる悪意が脅かそうというのなら。

俺たちはただ静かに、自分たちのやり方で日常を守り抜くだけだ。



――side. 井神 凉――


月曜日の朝。十月の風はほんのりと涼しく、肺の奥まで透き通っていくようだった。

けれど、俺たちを取り囲む空気は、ひどく淀みきっていた。


「……なんか、ジロジロ見られてる気がする」


隣を歩く茉依が、不安げに俺の制服の袖を引いた。

その言葉通り、同じ制服を着た見知らぬ生徒たちの今までとは異なる視線が、あからさまに俺たち四人に向けられていた。


彼らの多くは、手元のスマートフォンを覗き込み、顔を上げてこちらを盗み見ては、ヒソヒソと耳打ちを交わしている。


金曜の夜、白峰から知らされた"張り紙"の噂。

『井神凉が三人の女子生徒と一つ屋根の下、不適切な関係を結んでいる』


その紙自体は、誰かの手によってすぐに剥がされたらしい。

しかし、誰かが撮影したその画像は、週末の間に見えないネットワークを伝い、学校中の生徒の端末へデジタルタトゥーとなって俺たちの周囲を漂っていた。


「気にしないで、茉依。背筋を伸ばして歩きなさい」


玲茄の声は、いつも通り凜としていた。

その佇まいが、周囲の卑俗な好奇心をわずかに跳ね返しているように見えた。悠希も無言のまま、冷ややかな目で周囲の端末を観察している。


俺は茉依の震える指先をそっと握り、学校の門をくぐった。


――


教室に入ると、ざわめきがピタリと止んだ。

クラス中の視線が俺たちに突き刺さり、誰もが次の言葉を飲み込んで様子を伺うような、重苦しい静寂が場を支配する。


「お、来たな。凉、お前ら大丈夫か!?」


隆一の張りのある大きな声が、淀みかけた教室の空気を一気に吹き飛ばした。


「変な噂が回ってるみたいだけど、ボクたちは気にしてないからね」


白峰も自分の席から立ち上がり、安心させるように真っ直ぐこちらを見て微笑んでくれる。

その二人の態度を筆頭に、クラスの何人かからも「気にすんなよ」「なんかあったら言えよ」と、気遣うような声が次々と上がった。


全員ではないにしろ、この教室の中には、俺たちが築いてきた"いつもの日常"を信じてくれる奴らがいる。

その事実に、茉依の強張っていた肩が少しだけ下りたのがわかった。


「……ありがとう」


俺が短く礼を言い、荷物を下ろして席に着こうとした、その時だった。


「……井神くん、宮藤さん、中里さんたち。ちょっといいですか」


朝のホームルームのチャイムが鳴るよりも早く、教室の前扉が開いた。

担任の佐藤由希枝(さとうゆきえ)先生だった。校内放送を使って呼び出すことすらためらわれるような、重く、硬い声色。彼女の表情は、どこか苦渋に満ちていた。


俺たち四人は無言で顔を見合わせ、佐藤先生の後について教室を出た。



――


連れて行かれたのは、一階の奥にある応接室だった。

重厚な革張りのソファに座らされた俺たちの正面には、すでに三人の教師が待ち構えていた。


前担任であり現学年主任の石川泰一(いしかわたいち)先生。

規律にやたら厳しく、生徒から煙たがられている嵐田脩平(あらしだしゅうへい)先生。

そして、一年生の頃から事あるごとに玲茄に目を付けている、生徒指導の高良田慎吉(たからだしんきち)先生。


佐藤先生を含め、四人の教師に囲まれる形になった。


「単刀直入に聞く」


重い沈黙を破ったのは、嵐田だった。

彼は苛立たしげに一枚のA4用紙をテーブルに叩きつけた。そこには、金曜日に掲示板に貼られていたという、あの"張り紙"の画像がカラー印刷されていた。


「この画像が週末から生徒間で出回っている。お前たち、男一人に女三人で、一つ屋根の下で暮らしているというのは事実か?」


嵐田の目は、妙に暗く強迫的な光を帯びていた。


「私は何度も言っていただろう。いくら成績が良かろうが、お前たちのような排他的な男女の交友関係が、いずれ取り返しのつかない腐敗を招くことは明白だと。お前たちは今、極めて危険な状態にある」


正義と強い危惧を大義名分として、嵐田の口調は重く熱を帯びていく。

俺は反論しようと息を吸い込んだが、隣に座る玲茄がテーブルの下でそっと俺の膝を制した。


『待って』という合図だった。


「まあまあ、嵐田先生。落ち着いて」


ねっとりとした声で割って入ったのは、高良田だった。

彼は薄ら笑いを浮かべながら、爬虫類のような視線で、玲茄を"品定め"するように見つめた。


「生徒が道を外れそうなら、正しく"指導"するのが我々教師の務めですが、頭ごなしに責めるのは良くない。……そうだなぁ。女子を代表して宮藤、放課後、生徒指導室でゆっくり相談に乗ろう。君たちを理不尽な噂から守る方法を、大人の立場で一緒に考えようじゃないか」


表面上は親身な教師の顔。だが、その奥に確かな輪郭を持って潜む、狡猾な捕食者の気配に、俺の奥歯がギリッと鳴る。


「……二人とも、そこまでにしてください」


冷ややかな声が、応接室の淀んだ空気を一刀両断した。

腕を組み、静かに目を閉じていた学年主任の石川先生だった。


「石川先生。このままでは他の生徒への悪影響が――」

「事実無根の噂に踊らされるのは、生徒だけで十分です」


石川先生は目を開き、嵐田を鋭く射抜いた。

その隣で、佐藤先生も小さく頷いている。先日、母さんが帰国したタイミングで、佐藤先生、石川先生と保護者面談を行っている。井神家、宮藤家、中里家の親たちから直接事情を聞いた二人にとっては、真相は抜きにしても、俺たちの理解者の側だ。


「彼らの家が近く、家族ぐるみの付き合いであることは、去年から把握しています。学校側が介入するような"不純な問題"は一切存在しません」


石川先生の断言に、嵐田は顔を強張らせ、忌々しそうに唇を噛んだ。


「ですが、生徒たちがこうして騒いでいる以上、何かしらの指導は必要――」

「指導すべきは、このような悪質なプライバシーの侵害を行い、デマを拡散させた犯人のほうです。この件は、学校に対する業務妨害および生徒への明白な嫌がらせとして、我々教員が対処します。……いいですね、高良田先生も」

「……ええ。石川先生がそうおっしゃるなら」


高良田は肩をすくめ、未練がましく玲茄から視線を外した。


「四人とも、朝から嫌な思いをさせたね。教室に戻りなさい。まだそこまで大きな騒ぎにはなっていないようだが、我々がなんとかする」


石川先生の言葉で、面談はあっけなく終了した。

俺たちは立ち上がり、一礼して応接室を後にした。


――


廊下に出ても、俺の胸の奥で燻る苛立ちは消えなかった。

親公認というカードで表向きは守られた。けれど、学校という閉鎖空間では、教師がいくら"事実無根"だと触れ回っても、一度ついた泥の跡はそう簡単には消えない。


「……りょーくん。手が、すごく冷たいよ」


廊下を歩きながら、茉依が不安そうに俺の手に自分の手を重ねてきた。

その温もりに少しだけ救われながら、俺は前を歩く玲茄の背中を見た。


玲茄は、応接室に入ってから一言も発していなかった。

反論も、弁明も、怒りも示さなかった。


(……いや、違う)


俺は気づいた。

玲茄の横顔には、怒りや恐怖など微塵もなかった。

あるのは、盤上の駒を冷徹に見下ろすような、鋭く、凍てつくような光だけだ。


「玲茄……?」

「凉。茉依。悠希」


玲茄は立ち止まり、振り返って俺たちを見た。

その唇には、うっすらと、けれど決定的な冷酷さを伴った笑みが浮かんでいた。


「嵐田は、あきらめないわ。高良田も、ね」

「……ああ。あいつら、自分から手を引くような連中じゃないからな」

「だから、私たちが先に動く」


玲茄は、さきほどの応接室の扉の方へ冷ややかな視線を投げた。


「私たちの居場所を汚すなら、それ相応の対価を払ってもらうわ。……悠希、お願いできる?」

「はい。あの張り紙、少し気になることがありましたので」


悠希は静かに頷き、瞳の奥で知的な光を瞬かせた。



――side. 宮藤 玲茄――


外界からの泥が、私たちの靴を汚した。

ならば、その泥を投げつけた人間を特定し、二度とそんな真似ができないように、この学校の認識を"固定"する。


盤面は握った。行動は早ければ早いほどいい。


――女王の反撃が、静かに始まろうとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ