表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
四人でいることが、日常だった ――名前のない楽園――  作者: いもたにし
第三章 有限の楽園 ――あるいは、明日の足音
30/72

嵐の去ったあとの、柔らかな沈黙

――side. 中里 茉依――


土曜日の午前中。

一週間、私たちの生活に入り込んでいた智里さんのスーツケースが、玄関に並んだ。


外は突き抜けるような青空で、嵐のような"監査"の日々が嘘だったかのように穏やかだ。


昨日の夜は、智里さんの滞在最終日ということで、五人でささやかなパーティーを開いた。

デパ地下で買ってきた色とりどりの惣菜や、りょーくんがいつの間にか買い物かごに入れていた、ちょっといいお肉。

最初は智里さんの視線に怯えて、置物のように固まっていたゆきも、この一週間でずいぶんと慣れたようだった。


「……お母様、これ、美味しいです」


ゆきが勇気を出してそう言ったとき、智里さんは小さく頷いて、「そう、よかったわね」と返した。

そのやり取りを見て、私やりょーくんの胸に、すとんと温かいものが落ちた。

パーティーの終盤には、ゆきにも自然な笑顔がこぼれていた。


——けれど。

時折、智里さんがふと箸を止め、物思いにふけるような表情を見せることがあった。

その視線は決まって、にこやかに微笑んでいる、れなっちに向けられていた。

尊敬でも、嫌悪でもない。もっと得体の知れないものを直視してしまったような、奇妙な静寂を孕んだ視線。


私は、あの二人がリビングで何を話したのか、結局知らないままだ。


「――それじゃあ、行くわね」


玄関先で、智里さんが私たち四人を順番に見つめた。


「次は年末か、年明けになると思うわ。今度は、仕事の都合をつけてお父さんも一緒に」


「父さんも? そっか、わかった。体に気をつけて、母さん」


りょーくんが少し照れくさそうに笑う。

智里さんは「ええ」と短く答え、それから私たちの前へ歩み寄った。


「悠希さん」


「は、はいっ」


「……あまり縮こまってばかりだと、損をするわよ。しっかり食べなさい」


「……はい、ありがとうございます……!」


ゆきが深々と頭をさげる。その言葉には、智里さんなりの不器用な気遣いが混じっているように聞こえた。


「茉依さん」


「はい」


「あなたは……そのままでいいわ。あなたのその温度が、この家には必要なんでしょうから」


「……智里さん」


それがどういう意味なのか、私には正確にはわからなかった。

けれど、彼女が私の存在を、この場所の一部として認めてくれたことだけは伝わってきた。


最後に、智里さんはれなっちの前で足を止めた。

そこだけ、時間が止まったような沈黙が流れる。

二人の視線が交差する。

先日の、あのリビングでの緊迫感が一瞬だけ蘇ったような気がして、私の背中に冷たい汗が伝った。


智里さんはしばらくの間、無言でれなっちを見つめていた。

何かを言いかけ、それを飲み込み、最後に出た言葉は、一言だけだった。


「……よろしくね、玲茄さん」


「はい。お任せください、智里さん」


れなっちは、完璧な、あまりに完璧な微笑みを返した。

そのやり取りは、傍目には「息子をよろしく」という、姑と嫁のような穏やかな会話に見えたかもしれない。

けれど、私にはそれが、重いバトンを渡されたような、決定的な契約の言葉に聞こえて仕方がなかった。


智里さんがタクシーに乗り込み、車が見えなくなるまで私たちは手を振った。


車が角を曲がり、完全に消えた瞬間。

ずっと張り詰めていた空気が、ふっと溶けて消えた。


「……終わったぁ……」


りょーくんがその場にしゃがみ込み、大きく息を吐き出す。

ゆきも、「死ぬかと思った……」と私の腕にしがみついてきた。


「ふふ、お疲れ様。みんな、よく頑張ったね」


れなっちが、いつもの優しい姉のように二人の頭を撫でる。

その姿は、一週間前と何も変わっていない。

この家を守りきった、私たちの良き理解者。


でも、私は知っている。

智里さんが最後に見せた、あの怯えにも似た眼差しを。

そして、家計簿とノートが並べられたテーブルの上に、私たちの知らない"真実"が置かれていたことを。


「茉依? どうしたの、ボーッとして」


れなっちが、私を覗き込む。

その瞳はどこまでも透き通っていて、何も隠し事などないように見える。


「……ううん、なんでもなーい。さあ、中に入ろう? お昼、何にするー?」


私はれなっちの手を取り、笑ってみせた。

嵐は去った。

私たちは、この"箱庭"を守り抜くことができたのだ。


たとえその土台に、毒のように甘く、逃げ場のない秘密が埋め込まれていたとしても。


四人の足音が、静まり返った家の中に響く。

今日からまた、私たちの、私たちだけの日常が始まる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ