嵐の去ったあとの、柔らかな沈黙
――side. 中里 茉依――
土曜日の午前中。
一週間、私たちの生活に入り込んでいた智里さんのスーツケースが、玄関に並んだ。
外は突き抜けるような青空で、嵐のような"監査"の日々が嘘だったかのように穏やかだ。
昨日の夜は、智里さんの滞在最終日ということで、五人でささやかなパーティーを開いた。
デパ地下で買ってきた色とりどりの惣菜や、りょーくんがいつの間にか買い物かごに入れていた、ちょっといいお肉。
最初は智里さんの視線に怯えて、置物のように固まっていたゆきも、この一週間でずいぶんと慣れたようだった。
「……お母様、これ、美味しいです」
ゆきが勇気を出してそう言ったとき、智里さんは小さく頷いて、「そう、よかったわね」と返した。
そのやり取りを見て、私やりょーくんの胸に、すとんと温かいものが落ちた。
パーティーの終盤には、ゆきにも自然な笑顔がこぼれていた。
——けれど。
時折、智里さんがふと箸を止め、物思いにふけるような表情を見せることがあった。
その視線は決まって、にこやかに微笑んでいる、れなっちに向けられていた。
尊敬でも、嫌悪でもない。もっと得体の知れないものを直視してしまったような、奇妙な静寂を孕んだ視線。
私は、あの二人がリビングで何を話したのか、結局知らないままだ。
「――それじゃあ、行くわね」
玄関先で、智里さんが私たち四人を順番に見つめた。
「次は年末か、年明けになると思うわ。今度は、仕事の都合をつけてお父さんも一緒に」
「父さんも? そっか、わかった。体に気をつけて、母さん」
りょーくんが少し照れくさそうに笑う。
智里さんは「ええ」と短く答え、それから私たちの前へ歩み寄った。
「悠希さん」
「は、はいっ」
「……あまり縮こまってばかりだと、損をするわよ。しっかり食べなさい」
「……はい、ありがとうございます……!」
ゆきが深々と頭をさげる。その言葉には、智里さんなりの不器用な気遣いが混じっているように聞こえた。
「茉依さん」
「はい」
「あなたは……そのままでいいわ。あなたのその温度が、この家には必要なんでしょうから」
「……智里さん」
それがどういう意味なのか、私には正確にはわからなかった。
けれど、彼女が私の存在を、この場所の一部として認めてくれたことだけは伝わってきた。
最後に、智里さんはれなっちの前で足を止めた。
そこだけ、時間が止まったような沈黙が流れる。
二人の視線が交差する。
先日の、あのリビングでの緊迫感が一瞬だけ蘇ったような気がして、私の背中に冷たい汗が伝った。
智里さんはしばらくの間、無言でれなっちを見つめていた。
何かを言いかけ、それを飲み込み、最後に出た言葉は、一言だけだった。
「……よろしくね、玲茄さん」
「はい。お任せください、智里さん」
れなっちは、完璧な、あまりに完璧な微笑みを返した。
そのやり取りは、傍目には「息子をよろしく」という、姑と嫁のような穏やかな会話に見えたかもしれない。
けれど、私にはそれが、重いバトンを渡されたような、決定的な契約の言葉に聞こえて仕方がなかった。
智里さんがタクシーに乗り込み、車が見えなくなるまで私たちは手を振った。
車が角を曲がり、完全に消えた瞬間。
ずっと張り詰めていた空気が、ふっと溶けて消えた。
「……終わったぁ……」
りょーくんがその場にしゃがみ込み、大きく息を吐き出す。
ゆきも、「死ぬかと思った……」と私の腕にしがみついてきた。
「ふふ、お疲れ様。みんな、よく頑張ったね」
れなっちが、いつもの優しい姉のように二人の頭を撫でる。
その姿は、一週間前と何も変わっていない。
この家を守りきった、私たちの良き理解者。
でも、私は知っている。
智里さんが最後に見せた、あの怯えにも似た眼差しを。
そして、家計簿とノートが並べられたテーブルの上に、私たちの知らない"真実"が置かれていたことを。
「茉依? どうしたの、ボーッとして」
れなっちが、私を覗き込む。
その瞳はどこまでも透き通っていて、何も隠し事などないように見える。
「……ううん、なんでもなーい。さあ、中に入ろう? お昼、何にするー?」
私はれなっちの手を取り、笑ってみせた。
嵐は去った。
私たちは、この"箱庭"を守り抜くことができたのだ。
たとえその土台に、毒のように甘く、逃げ場のない秘密が埋め込まれていたとしても。
四人の足音が、静まり返った家の中に響く。
今日からまた、私たちの、私たちだけの日常が始まる。




