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四人でいることが、日常だった ――名前のない楽園――  作者: いもたにし
第三章 有限の楽園 ――あるいは、明日の足音
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隠された経費と、女王の矜持

――side. 宮藤 玲茄――


リビングのドアが閉まり、足音が遠ざかる。

二人分の気配が完全に消えるのを待って、私はゆっくりと智里さんに向き直った。


広いリビングには、時計の秒針の音と、エアコンの駆動音だけが流れている。

智里さんは、まだ家計簿を開いたままだった。その視線は数字の羅列に落とされたままだが、私の存在を、肌で感知しているのがわかる。


沈黙は、三十秒ほど続いただろうか。


「……報告していないことがあるわよね」


智里さんが、顔を上げずに切り出した。

それはカマをかけるような探りではなく、確信を持った断定の響きだった。


「いいえ。報告義務のある事項については、すべて記載しています」


私は表情筋を1ミリも動かさずに即答する。

智里さんが、ようやく顔を上げた。その瞳は、先ほどまでの"監査官"の目ではない。もっと個人的で、粘度のある"母親"の目――いや、同じ女としての敵対的な光を宿していた。


「そうね。では、聞き方を変えましょう。……凉の母親として、質問するわ」


智里さんは家計簿のページを指先で弾いた。


「あなたたちに体の関係があることは、もちろん知っているわ。それがこの歪な四人の関係において、精神的なコミュニケーションとして機能していることも」


想定内の指摘だ。私たちはそれを隠そうとはしていない。


「実際、家計簿には"消耗品"の購入履歴がはっきりと残っている。……これまではね」


智里さんの指が、直近数ヶ月の欄を滑る。


「ノートの中には、そのような行為についての直接的な記述はない。けれど、文章には温度が宿るものよ。特に茉依さんのノートは、ある時期を境に明確に変化しているわ」


智里さんが、茉依のノートを指で示した。


「ここ半年……具体的には二年生になったあたりから、文章の解像度が落ち、以前よりもポジティブだけれど、どこか抽象的で陶酔的な表現が増えている」


――鋭い。茉依の機嫌が良くなったあの時期。私たちが新しいルールを導入したタイミングを、彼女は文章の"温度"だけで嗅ぎ取ってみせた。


「一方で、悠希さんのノートは対照的ね。出来事を過不足なく記載しているけれど、自分の心情は最小限。……これは、何かに従順に従っているときの特徴よ」


智里さんはノートから目線を外し、私を射抜いた。


「茉依さんのノートの温度が上がった時期と、家計簿における"消耗品"の購入頻度がわずかに減少している時期。……この二つが完全に一致しているのは、偶然かしら?」


智里さんの瞳が、私を値踏みするように細められる。


「凉は、昔から慎重な子よ。石橋を叩いて、『渡りなさい』と私が言うまで待つような、そういう臆病なまでの誠実さがあるわ。その凉が、避妊具という"物理的な防波堤"を独断で撤廃するはずがない。……たとえ、低用量ピルという代替案があったとしてもね」


智里さんは家計簿を閉じ、組んだ両手の上に顎を乗せた。無機質な瞳が、私の輪郭をなぞっていく。


「……あなたね。宮藤玲茄さん」


私は答えず、ただ静かに、ポケットから三冊のお薬手帳を取り出した。

それをテーブルの上、智里さんの目の前へ滑らせる。


「各自の負担で受診し、服用しています。家計に負担はかけていません」


「そんな瑣末な話を聞いているんじゃないわ。……どうやって凉を"教育"したのかと聞いているのよ」


智里さんの声に、初めて剥き出しの"寒気"が混じった。


「凉の倫理観を少しずつ瓦解させ、『使わなくても大丈夫だ』という認識まで彼を導いた……いいえ、あなたという基準で彼の倫理を上書きしたのね。……それも、彼自身に『自分の意志で決めた』と思い込ませながら」



――side. 井神 智里――


目の前の少女は、否定もしなければ、勝ち誇りもしない。

ただ、冬の湖のような静かな微笑みを湛えている。


恐ろしい、と思った。

凉がこの家のリーダーだと思っていた。茉依や悠希を管理し、ルールを敷いているのは息子だと。

けれど、違った。凉という神輿(みこし)を、本人のプライドを傷つけないように、けれど確実に一歩ずつ、自分の望む方向へ歩かせている裏のコントローラー。


この少女は、私の想像を遥かに超えるレベルで、この"異常な生活"を管理(マネジメント)している。


「……そうする必要があった理由を、言いなさい」


私の問いに、玲茄は今日一番の、深く、甘い声を上げた。


「それが、この"箱庭"の平穏に、最も寄与すると判断したからです」


「……避妊具を外すことが?」


「はい。茉依と悠希は、どこか無意識下で凉の愛を疑っています。言葉や態度、そんな不確かなものでは満足できないほどに。……彼女たちにとって、物理的な障壁を排して、凉の種を、その痕跡を体内の奥深くに受け入れるという行為は、何よりも強力な"生存証明"になるんです」


玲茄は、まるで聖典を読み上げる司祭のような敬虔さで語り続けた。


「離れていても、自分の中に凉を感じられる。それがあれば、彼女たちは驚くほど安定します。……凉は最初、『智里さんに相談するべきだ』と言っていました。けれど、その相談を待ち、数ヶ月の審議を待つ時間は、彼女たちの精神にとっては致命的な損失でしかありませんでした」


「だから、凉を丸め込んだと?」


「丸め込んだ、だなんて。……私はただ、彼に"守るべきもの"の優先順位を教えただけです。倫理や道徳よりも、目の前で泣いている少女たちの安らぎの方が、男の子にとっては重いでしょう?」


狂っている――そう確信した。

彼女は、性愛すらも"精神安定剤"というコストとして計算し、運用している。

凉は、彼女を支配しているつもりで、その実、彼女の描いた設計図通りに"優しい王子様"を演じさせられているのだ。


「……通院費と薬代は、来月から家計の雑費に含めなさい」


私は、自分の声が微かに震えるのを抑えられなかった。


「……ただし、名目は"サプリメント"よ。……これ以上、凉に嘘を重ねさせるのは、私の教育方針に反するわ」


「ありがとうございます。智里さんなら、合理的な判断をしてくださると信じていました」


玲茄は深く、美しく頭を下げた。

凉は、とんでもないものを飼っているのではない。飼われているのは、凉の方だ。

彼女の頭脳、計算高さ、そして目的のためなら倫理など容易く踏み越える決断力。……恐ろしいほどの才能。


「……はぁ」

私は大きなため息をつき、背もたれに体重を預けた。


「……ねえ、玲茄さん。あなた、将来私のところに来ない? 私の右腕としてなら、破格の待遇で迎えるわよ」


冗談ではない。本心だった。この怪物(タレント)を、たかが"恋人"枠で腐らせるのは、社会的な損失ですらある。


玲茄はきょとんとして、それからくすりと笑った。


「光栄なお誘いです。……でも」


彼女は二階の、凉の部屋がある方向を見上げた。


「私は、凉の隣にいるときだけ、価値を発揮できるんです。あそこにしか、私の居場所はありませんから」


「……そう。残念ね」


「ごめんなさい」


彼女の瞳には、凉以外の世界など映っていない。その純粋すぎる執着に、私は改めて寒気を感じた。


「ちょっと外の空気を吸ってくるわ。……凉には、よろしく伝えておいて」


「はい。お気をつけて」


私は、逃げるようにリビングを出た。

玄関のドアを開け、外の空気を吸い込むまで、背中に彼女の視線が張り付いているような気がしてならなかった。


私の監査は終わった。

けれど、この"箱庭"の支配者が誰なのかを、骨の髄まで理解させられる結果だった。

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