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四人でいることが、日常だった ――名前のない楽園――  作者: いもたにし
第三章 有限の楽園 ――あるいは、明日の足音
28/75

彼女たちの、生存証明

 ――side. 中里 茉依――


「――凉は、部屋で待たせているわね」


 リビングのソファに深く腰掛けた智里さんが、手元のノートから目を上げずに言った。


 その声は、女性にしては低く、よく通る。

 りょーくんの声にどこか似ているようだけれど、彼のような温かさは、微塵も混じっていない。

 無意識に指先が震えてしまうのを、慌てて膝の上で握りしめた。


「はい」


 私の隣で、玲茄が努めて穏やかに、優等生のような返答をした。


 ダイニングテーブルの上には、私たちが提出した同じデザインの三冊のノートが並んでいる。

 そこには、日々の営み、折々の出来事、そしてその時々に抱いた心の機微に至るまでが、智里さんへの"報告書"として書き連ねられていた。


 りょーくんが部屋に戻ってきたとき、その顔色はひどく悪かった。

 智里さんとの対話が強いた重圧が、隠しようもなくその表情に張り付いていた。

「次は三人だ」と告げた彼の声は、私たちをライオンの檻へ送り出すような恐怖で、微かに震えていた。


 けれど、私はその冷たくなった手を両手で包み込んで、目を見て伝えたのだ。

「大丈夫。任せてよ」と。


 これは私たちの戦いだ。

 私たちが、この場所に相応しい存在であることを、彼を介さずに証明しなければならない。

 理屈ではそう理解していた。でも、胸の奥は"戦い"なんて言葉を拒んでいた。


「読ませてもらったわ。三人の現状については、概ね合格点ね」


 智里さんがようやくノートを閉じ、顔を上げた。

 その無機質な瞳が、玲茄、私、そして隣で指を絡ませて俯いている悠希を、順番にスキャンしていく。


「では、本題に入りましょうか。交わした"約束"について」


 その言葉に、悠希の肩がピクリと跳ねた。

 私は、テーブルの下でそっと悠希の手に触れ、智里さんを見返した。


「一つ目は"四人の関係を崩さないこと"。……これについては、どう?」


「しっかり守られています」


 玲茄は即答した。その声に迷いはない。


「私たちは亀裂が入るような喧嘩もしませんし、する兆候もありません。それに、誰かが孤立することもありません」

「それは、あなたたちが我慢をしているから?」

「いいえ」


 玲茄は静かに首を横に振る。


「我慢ではなく、必要だからです。四人でいることが、私たちの自然な状態ですから」


 智里さんは、ほう、と小さく息を吐いた。

 そして、少しだけ身を乗り出す。ここからが、彼女が本当に確認したい核心なのだとわかった。


「では、二つ目。"この関係に、恋人などの線を引かないこと"」


 智里さんの視線が鋭さを増す。


「……これはどうかしら。年頃の男女が一つ屋根の下にいて、お互いに好意を持っている。その境界線を、本当に守れていると言えるの?」


 想定通りの問いだ。

 男女が一つ屋根の下にいれば、当然生まれる疑念。私たちは、この質問が今回来ることを最初から予期していた。

 だから、動揺はない。答えはすでに用意されている。


 玲茄は表情ひとつ変えずに答えた。


「守っています。私たちは、誰も凉の"恋人"になろうとはしていません」

「……その根拠は?」

「恋人という言葉は、一対一の排他的な関係を指します。誰かが凉の恋人になれば、あとの二人は"余り物"になる」


 玲茄はきっぱりと言い切った。


「……私たちは、そんな安っぽい独占欲のために、この居場所を壊したりしません」


 その言葉に合わせ、私も静かに頷き、補足する。


「私たちは、三人で一人の"りょーくんのパートナー"として機能しています。役割を分担し、それぞれの欠落を埋め合わせる。そこに"恋人"という定義を持ち込むことは、この最適なバランスを崩すだけです」


 論理武装。

 それは智里さんに対する一番の防御策だ。彼女は感情論を嫌う。だから私たちは、自分たちの関係を"システム"としてプレゼンする。


 けれど、それだけでは足りない。

 智里さんが見たいのは理屈ではなく、私たちの"本質"だ。


 沈黙していた悠希が、消え入りそうな声で口を開いた。


「……名前なんて、いりません」


 智里さんの視線が悠希に向く。

 悠希は蒼白な顔で、けれど真っ直ぐに智里さんを見つめていた。


「恋人とか、友達とか……そんな言葉で区切られたら、私たちは凉くんの全部に触れられなくなってしまう」


 悠希の手が、自分のスカートを強く握りしめる。


「私は……私たちは、ただ凉くんの一部でいたいだけです。手足のように、彼の人生にくっついて生きていけたら、それで……」


 その言葉は、あまりに歪で、けれど痛々しいほどの真実だった。

 恋人になりたいわけじゃない。もっと深く、もっと逃げ場のない場所で、彼と一体化していたい。それが私たちの生存本能。


 智里さんはしばらくの間、悠希を、そして私たちを見つめていた。

 その瞳から、鋭利な刃のような光が、ふっと消えた。


「……そう」


 智里さんは背もたれに体を預け、今日初めて、わずかに表情を緩めた。

 それは優しさというよりは、実験動物が想定通りの行動をとったことに満足する、研究者の顔に近かった。


「よくわかったわ。あなたたちは、私が思っていた以上に、この"環境"に適応しているようね」

 そこで一度言葉を区切ると、小さく頷いた。

「現状の生活を継続することを認めましょう。二つの約束が守られている限り、私が強制的に介入することはないわ」


 張り詰めていた空気が、解けていく音がした。

 悠希が深いため息をつき、私は無意識に膝の上の両手を強く握っていた。

 守れた。私たちは、この場所を守りきったのだ。


 そう思った、その時だった。


 智里さんが、ふとテーブルの端に目をやった。

 そこには、先ほど四人での面談で使われた家計簿が残されていた。


 智里さんはまるで最初から決めていた手順のように、迷いなく家計簿を引き寄せた。

 ページをめくることもしない。

 ただ、その表紙に手を置き、私と悠希のノートと並べた。


「……」


 智里さんの視線が、玲茄を射抜く。

 それは"発見"した目ではない。"確認"の目だ。

 最初の面談の時点ですでに気づいていた違和感を、今ここで突きつけるための、静かな合図。


 玲茄もまた、その視線から逃げなかった。


「面談はこれで終了よ。茉依さんと悠希さんは、二階の凉の部屋へ行きなさい」


「え……?」

「……はい……」


 私も悠希も、戸惑いながら立ち上がる。

 けれど、玲茄だけが座ったまま動かない。


「玲茄さんは残って」


 智里さんの声は、平坦だった。

 これから行われる会話が、私たちには聞かせられない類のものであることを、その温度のなさが告げていた。


「少し、確認したいことがあるの」


 玲茄が顔を上げる。

 そこには驚きも、動揺もなかった。

 まるで、最初からこうなることがシナリオに書かれていたかのように、彼女は完璧な微笑みを浮かべた。


「はい。わかりました」


 そして、私たちの方を向き、小さく頷いてみせる。


「大丈夫よ。すぐに行くから」


 その笑顔は、あまりに完成されすぎていて、かえって不気味に映った。

 私は何か言おうとしたけれど、智里さんの視線に遮られ、言葉を飲み込んだ。


 悠希の手を引き、リビングを出る。

 階段を上がりながら、背後でリビングのドアが閉まる音がした。


 その乾いた音が、玲茄と私たちを、決定的に分断したような気がした。


 早足で部屋のドアを開ける。

 りょーくんが弾かれたように顔を上げ、私たちに駆け寄ってきた。


「どうだった!? 母さん、なんて……」


「……大丈夫だったよ」


 私は努めて明るく答えた。涼くんを安心させるために。


「現状維持でいいって。私たちのこと、認めてくれた」

「そっか……よかった……」


 りょーくんが安堵の息を吐き、へなへなと座り込む。

 悠希も、緊張が解けたのか、りょーくんのベッドの端に腰掛けた。


 けれど、私の胸のざわめきは消えなかった。


 なぜ、玲茄だけが残されたのか。

 あの家計簿とノートを並べたとき、二人の間に流れた"了解"のような空気は何だったのか。


 閉ざされた一階のリビングで、今、何が話されているのか。

 私には、それが致命的な何かの始まりである予感がしてならなかった。

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