彼女たちの、生存証明
――side. 中里 茉依――
「――凉は、部屋で待たせているわね」
リビングのソファに深く腰掛けた智里さんが、手元のノートから目を上げずに言った。
その声は、女性にしては低く、よく通る。
りょーくんの声にどこか似ているようだけれど、彼のような温かさは、微塵も混じっていない。
無意識に指先が震えてしまうのを、慌てて膝の上で握りしめた。
「はい」
私の隣で、玲茄が努めて穏やかに、優等生のような返答をした。
ダイニングテーブルの上には、私たちが提出した同じデザインの三冊のノートが並んでいる。
そこには、日々の営み、折々の出来事、そしてその時々に抱いた心の機微に至るまでが、智里さんへの"報告書"として書き連ねられていた。
りょーくんが部屋に戻ってきたとき、その顔色はひどく悪かった。
智里さんとの対話が強いた重圧が、隠しようもなくその表情に張り付いていた。
「次は三人だ」と告げた彼の声は、私たちをライオンの檻へ送り出すような恐怖で、微かに震えていた。
けれど、私はその冷たくなった手を両手で包み込んで、目を見て伝えたのだ。
「大丈夫。任せてよ」と。
これは私たちの戦いだ。
私たちが、この場所に相応しい存在であることを、彼を介さずに証明しなければならない。
理屈ではそう理解していた。でも、胸の奥は"戦い"なんて言葉を拒んでいた。
「読ませてもらったわ。三人の現状については、概ね合格点ね」
智里さんがようやくノートを閉じ、顔を上げた。
その無機質な瞳が、玲茄、私、そして隣で指を絡ませて俯いている悠希を、順番にスキャンしていく。
「では、本題に入りましょうか。交わした"約束"について」
その言葉に、悠希の肩がピクリと跳ねた。
私は、テーブルの下でそっと悠希の手に触れ、智里さんを見返した。
「一つ目は"四人の関係を崩さないこと"。……これについては、どう?」
「しっかり守られています」
玲茄は即答した。その声に迷いはない。
「私たちは亀裂が入るような喧嘩もしませんし、する兆候もありません。それに、誰かが孤立することもありません」
「それは、あなたたちが我慢をしているから?」
「いいえ」
玲茄は静かに首を横に振る。
「我慢ではなく、必要だからです。四人でいることが、私たちの自然な状態ですから」
智里さんは、ほう、と小さく息を吐いた。
そして、少しだけ身を乗り出す。ここからが、彼女が本当に確認したい核心なのだとわかった。
「では、二つ目。"この関係に、恋人などの線を引かないこと"」
智里さんの視線が鋭さを増す。
「……これはどうかしら。年頃の男女が一つ屋根の下にいて、お互いに好意を持っている。その境界線を、本当に守れていると言えるの?」
想定通りの問いだ。
男女が一つ屋根の下にいれば、当然生まれる疑念。私たちは、この質問が今回来ることを最初から予期していた。
だから、動揺はない。答えはすでに用意されている。
玲茄は表情ひとつ変えずに答えた。
「守っています。私たちは、誰も凉の"恋人"になろうとはしていません」
「……その根拠は?」
「恋人という言葉は、一対一の排他的な関係を指します。誰かが凉の恋人になれば、あとの二人は"余り物"になる」
玲茄はきっぱりと言い切った。
「……私たちは、そんな安っぽい独占欲のために、この居場所を壊したりしません」
その言葉に合わせ、私も静かに頷き、補足する。
「私たちは、三人で一人の"りょーくんのパートナー"として機能しています。役割を分担し、それぞれの欠落を埋め合わせる。そこに"恋人"という定義を持ち込むことは、この最適なバランスを崩すだけです」
論理武装。
それは智里さんに対する一番の防御策だ。彼女は感情論を嫌う。だから私たちは、自分たちの関係を"システム"としてプレゼンする。
けれど、それだけでは足りない。
智里さんが見たいのは理屈ではなく、私たちの"本質"だ。
沈黙していた悠希が、消え入りそうな声で口を開いた。
「……名前なんて、いりません」
智里さんの視線が悠希に向く。
悠希は蒼白な顔で、けれど真っ直ぐに智里さんを見つめていた。
「恋人とか、友達とか……そんな言葉で区切られたら、私たちは凉くんの全部に触れられなくなってしまう」
悠希の手が、自分のスカートを強く握りしめる。
「私は……私たちは、ただ凉くんの一部でいたいだけです。手足のように、彼の人生にくっついて生きていけたら、それで……」
その言葉は、あまりに歪で、けれど痛々しいほどの真実だった。
恋人になりたいわけじゃない。もっと深く、もっと逃げ場のない場所で、彼と一体化していたい。それが私たちの生存本能。
智里さんはしばらくの間、悠希を、そして私たちを見つめていた。
その瞳から、鋭利な刃のような光が、ふっと消えた。
「……そう」
智里さんは背もたれに体を預け、今日初めて、わずかに表情を緩めた。
それは優しさというよりは、実験動物が想定通りの行動をとったことに満足する、研究者の顔に近かった。
「よくわかったわ。あなたたちは、私が思っていた以上に、この"環境"に適応しているようね」
そこで一度言葉を区切ると、小さく頷いた。
「現状の生活を継続することを認めましょう。二つの約束が守られている限り、私が強制的に介入することはないわ」
張り詰めていた空気が、解けていく音がした。
悠希が深いため息をつき、私は無意識に膝の上の両手を強く握っていた。
守れた。私たちは、この場所を守りきったのだ。
そう思った、その時だった。
智里さんが、ふとテーブルの端に目をやった。
そこには、先ほど四人での面談で使われた家計簿が残されていた。
智里さんはまるで最初から決めていた手順のように、迷いなく家計簿を引き寄せた。
ページをめくることもしない。
ただ、その表紙に手を置き、私と悠希のノートと並べた。
「……」
智里さんの視線が、玲茄を射抜く。
それは"発見"した目ではない。"確認"の目だ。
最初の面談の時点ですでに気づいていた違和感を、今ここで突きつけるための、静かな合図。
玲茄もまた、その視線から逃げなかった。
「面談はこれで終了よ。茉依さんと悠希さんは、二階の凉の部屋へ行きなさい」
「え……?」
「……はい……」
私も悠希も、戸惑いながら立ち上がる。
けれど、玲茄だけが座ったまま動かない。
「玲茄さんは残って」
智里さんの声は、平坦だった。
これから行われる会話が、私たちには聞かせられない類のものであることを、その温度のなさが告げていた。
「少し、確認したいことがあるの」
玲茄が顔を上げる。
そこには驚きも、動揺もなかった。
まるで、最初からこうなることがシナリオに書かれていたかのように、彼女は完璧な微笑みを浮かべた。
「はい。わかりました」
そして、私たちの方を向き、小さく頷いてみせる。
「大丈夫よ。すぐに行くから」
その笑顔は、あまりに完成されすぎていて、かえって不気味に映った。
私は何か言おうとしたけれど、智里さんの視線に遮られ、言葉を飲み込んだ。
悠希の手を引き、リビングを出る。
階段を上がりながら、背後でリビングのドアが閉まる音がした。
その乾いた音が、玲茄と私たちを、決定的に分断したような気がした。
早足で部屋のドアを開ける。
りょーくんが弾かれたように顔を上げ、私たちに駆け寄ってきた。
「どうだった!? 母さん、なんて……」
「……大丈夫だったよ」
私は努めて明るく答えた。涼くんを安心させるために。
「現状維持でいいって。私たちのこと、認めてくれた」
「そっか……よかった……」
りょーくんが安堵の息を吐き、へなへなと座り込む。
悠希も、緊張が解けたのか、りょーくんのベッドの端に腰掛けた。
けれど、私の胸のざわめきは消えなかった。
なぜ、玲茄だけが残されたのか。
あの家計簿とノートを並べたとき、二人の間に流れた"了解"のような空気は何だったのか。
閉ざされた一階のリビングで、今、何が話されているのか。
私には、それが致命的な何かの始まりである予感がしてならなかった。




