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四人でいることが、日常だった ――名前のない楽園――  作者: いもたにし
第三章 有限の楽園 ――あるいは、明日の足音
24/73

丸投げの祈り

――side. 井神 凉――


夕方。

リビングには映画の余韻と、微かな熱のなごりが漂っていた。


テレビ画面はすでに消えているが、四人で並んで座っていたソファの窪みは、まだそれぞれの体温を保っている。

俺はキッチンで淹れなおしたコーヒーをトレイに乗せ、テーブルに置いた。


「母さんの帰国だけど。再来週の土曜、昼過ぎにここに着くって。今回は父さんは来ないらしい」


何気ない連絡事項のつもりだった。

だが、その一言でリビングの空気が、ふっと密度を変える。


「……土曜日ね。わかった、お迎えの準備しとかないと」

玲茄が、読みかけの雑誌から顔を上げて言った。彼女の口調には、緊張よりもむしろ知己を迎えるような親密さが混じっている。


「私は、智里(ちさと)さんの好きないつものお菓子、用意しておくねー」

茉依がスマホのメモ帳を開きながら、テキパキと指を動かす。彼女もまた、母さんの"効率的で無駄のない"気質を好ましく思っている側だ。


二人の態度は、どこまでも健康的で、前向きだった。

俺たちの"楽園"を維持するための、正しいメンテナンス。だが。


「……はい。私も、お部屋の掃除……もう一度、確認しておきます」


少し遅れて、悠希が静かに口を開いた。

彼女は膝の上で指先を細かく絡ませ、視線を伏せている。

表情はいつもの穏やかなままだが、俺にはわかる。その言葉が、喉の奥から絞り出された、血の通わないレプリカであることを。



――


夜。

玲茄と悠希がそれぞれの家へ帰り、リビングには俺と、今日の泊まりである茉依だけが残った。


ソファに座る俺の横に、茉依が音もなく擦り寄り、肩に頭を乗せてくる。

いつもの甘えるような仕草。だが、俺の腕に回された彼女の指先は、微かに震えていた。


「……りょーくん」

「うん」

「悠希、すごく怖がってる」


茉依の声は、昼間の明るさが嘘のように低く、湿っていた。


「智里さんが来るの、今まで以上に怯えてる。……あの時と、同じ目をしてる」

「あの時、か」

「うん」


茉依の言う"あの時"。

それは、中学時代――悠希の世界が一度、完全に崩壊した日のことだ。


茉依と悠希の祖母は、病室で自分の死を静かに受け入れていた。

だが、悠希だけはそれが許せなかった。最愛の人が自分を置いて消えてしまう事実を拒絶し、あろうことか、祖母に向かって心無い言葉をぶつけて病室を飛び出してしまったのだ。


『どうして諦めるの! 私を置いていくおばあちゃんなんて、嫌い!』と。


そして――悠希が飛び出した直後、祖母の容態が急変した。


「私、あの時、病室に残ってたから……」

茉依が、俺の服の袖をきつく握りしめる。

「おばあちゃん、最期に私に言ったの。『悠希を一人にしないで。あの子に、ごめんねって、愛してるって伝えて』って……」


息を引き取る直前の、かすれた声。

茉依はそれを託された。だが、戻ってきた悠希は、すでに冷たくなった祖母の姿を見て、激しい錯乱状態に陥ってしまった。


謝れなかった。心無い言葉をぶつけたまま、二度と会えなくなってしまった。

その絶望が、悠希から言葉を奪い、心を粉々に砕いた。


「私、伝えようとしたんだよ……! おばあちゃんは怒ってないよ、悠希のこと愛してるって言ってたよって。でも……ダメだった」


茉依の目から、大粒の涙が零れ落ち、俺のシャツを濡らしていく。


「悠希、私の言葉なんて全然聞こえてなくて、ただ泣き叫んで、自分の髪を掻き毟って……私、どうしていいか分からなくて。私が何か言えば言うほど、悠希がもっと壊れちゃう気がして、怖くて……」


震える茉依の背中を、俺は静かに撫でた。


あの時の絶望的な光景が、今も茉依の中でフラッシュバックしているのだろう。

ただでさえ『双子の一人』として、自分個人の"輪郭の曖昧さ"で悩んでいた当時の茉依にとって、最も助けたかった片割れを救えなかったという事実は、彼女自身の存在意義すら深く侵食し、致命的に弱らせていった。


あの日、対話すら不可能になった悠希を繋ぎ止めたのは、俺だった。

罪悪感を上書きするほどの"絶対的なルール"と、そこに寄りかかるしかない依存を与えることで、俺は彼女を引き留めた。


「私じゃ、ダメなの」


茉依が、縋るように俺を見上げる。

涙で濡れたその瞳には、色濃い無力感と、俺への盲目的な信頼が混じっていた。


「私、悠希を助けられない。またあんな風に壊れるんじゃないかって思うと、怖くて、何にも言えないの。……だから」


茉依は俺の胸に顔を埋め、祈るように囁いた。


「今回も、りょーくんにお願いするしかないの。……悠希を、助けて」


その言葉は、丸投げだ。

自分が傷つくこと、自分が相手を壊してしまうことを恐れ、一番重い責任を俺に押し付けている。

だが、それでいい。

それが、俺がこの箱庭の"管理者"として設定した条件だからだ。


「わかってる。悠希は俺がどうにかする」

「……りょーくん」

「お前は、今まで通り笑ってればいい。母さんの前でも、な」


俺の言葉に、茉依は安堵の息を吐き、俺の腕の中で小さく頷いた。

彼女もまた、この歪な関係に依存し、救われている一人なのだ。


窓の外では、秋の風が音もなく街を撫でていた。

監査官がやってくるまで、あと十数日。


俺は暗いリビングの中で、守るべき存在であり、同時に管理対象でもあるこの"被験者たち"を、どう守り抜くか――

静かに思考を巡らせていた。

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