管理者の条件
――side. 井神 凉――
今日は昼過ぎで学校が終わり、四人でいつものように帰宅した。
家に着くと、三人は慣れた足取りでリビングへと移動する。
俺は「提出するプリントを書いてくる」とだけ言い、一人で自室へ向かった。
ドアを閉めると、背後でラッチが小さく音を立てた。
外の世界の喧騒が遮断されたはずの静寂の中で、ポケットにあるスマートフォンだけが、まるで鉛のように重く、存在感を放ち続けていた。
『約束が守られているかどうか、直接確認させてもらうから』
母さんからのメッセージを、もう一度画面に表示させる。
行間を読む必要はない。これは親から子への温かな便りではなく、"監査官"から"管理責任者"への、監査通告だ。
俺はベッドの縁に腰を下ろし、壁のカレンダーに視線を移した。
九月の中旬。母が帰国するまで、あと二週間。
俺たちが築き上げたこの"楽園"には、明確な"設計者"と"条件"が存在する。
高校入学と同時に、俺の両親、そして玲茄、茉依、悠希それぞれの親との間で交わされた、三つの約束。
二つまでは、三人も知っている。
だが、残り一つだけは――俺しか知らない。
三人は、その"知らされている約束"の下で、今日も変わらずに笑っている。
「……実験、か」
以前、父さんが電話越しに漏らした言葉が耳の奥で蘇る。
中学時代、あの三人は、それぞれの理由で壊れかけていた。
中でも悠希は、最愛の祖母を失い、生きる理由そのものを見失っていた。
俺は、あの日々をただ必死に走り回った。
玲茄と両親の不協和音の間に無理やり体を割り込ませ、食事すら喉を通らなくなった悠希の枕元で夜を明かし、不安定な感情に翻弄された茉依の流す涙を拭い続けた。
結果として、彼女たちは"回復"した。
成績は向上し、生活態度は改善され、誰の目にも明らかな"優等生"としての安定を取り戻した。
――ただし、"俺を中心とした四人でいること"を絶対条件として。
三人の親たちは、その劇的な"結果"だけを見て、判断した。
この異常な関係を容認しながらも、その内側の深くまでを理解しようとはしなかった。
――コンコン。
控えめなノックの音が、思考の泥沼から俺を引き上げた。
返事をする前に、ドアがわずかに開く。
「凉くん、コーヒー淹れたんですけど……入ってもいいですか?」
悠希だ。
彼女はトレイにマグカップを一つ乗せて、不安げにこちらを覗き込んでいる。
「ああ、ありがとう。助かるよ」
努めて普段通りの声を出すと、悠希は安堵したように眉尻を下げ、部屋に入ってきた。
マグカップを机に置く動作一つとっても、彼女の所作は極めて丁寧で、そしてどこか俺の顔色を窺っている。
「あの……凉くん」
「ん?」
「お母様、もうすぐ帰ってくるんですよね?」
やはり、気づいている。
悠希は、こういう空気の変化に誰よりも敏感だ。
かつて自分が壊れてしまった経験があるからこそ、平穏を脅かす微かな振動を本能的に恐れている。
「大丈夫だよ。ただの一時帰国だ。特別なことは何もない」
半分は本当で、半分は自分への言い聞かせだ。
悠希の瞳は、俺の言葉の奥にある"影"を探るように揺れた。
「……ちゃんと、ノート、書いています」
その言葉に、胸が締め付けられるようだった。
彼女にとって、この生活は無償の愛ではない。
"いい子にして、問題を起こさないこと"で、かろうじて保たれている滞在許可証なのだ。
「ああ。悠希も、茉依も、玲茄も。何も問題ない」
俺は彼女の手を取り、冷えた指先を包み込んだ。
伝わってくる体温に、わずかな安堵と、説明のつかない違和感が混じる。
これは依存だろうか。それとも、もっと別の何かなのか。俺には、まだ分からなかった。
「……凉くんがそう言うなら、信じます」
悠希は、祈るように俺の手を握り返した。
俺だけが知っている、まだ言葉にできない"約束"がある。
恋人でも、家族でも、友人でもない俺たちに、そんな都合のいい"名前"が存在するのだろうか。
「下で、茉依と玲茄が待ってます。……今日は、みんなで映画を観ようって」
「わかった。すぐ行く」
悠希が部屋を出ていく。
俺はもう一度、カレンダーを見つめた。
有限の楽園。
そのカウントダウンは、俺の耳元で時を刻み始めている。
俺はスマホを裏返し、立ち上がる。
まずは、監査官である母に、完璧な現状を見せなければならない。
狂いなく回っている四つの歯車。完成された、いつもの日常。
「順調だ」と。
この箱庭が、まだ投資に値する価値を持っていることを証明するために。




