第二章 第2話|あの夜
その夜、村は静かだった。
灯りは落とされ、戸は早く閉められ、人の声はひそめられていた。
騒ぎは起きていない。悲鳴もない。だからこそ、空気の重さが際立っていた。
男は、家の外に立ち、夜の気配を感じ取ろうとしていた。
風は弱く、霧は低い。遠くで獣が鳴いたような気もしたが、確かな音ではない。
「来るのか」
誰に向けた言葉でもない。
答えが返ってこないことは、分かっていた。
村の中央では、何人かの大人が集まっていた。
声を潜め、短い言葉だけを交わしている。誰もが落ち着いた顔をしていたが、その目は硬い。
「夜のうちに、動く」
そう告げたのは、村で一番の年長者だった。
老人は背を丸め、杖に手を置きながらも、言葉だけははっきりとしていた。
「子どもたちを、集めろ」
誰かが息を呑む音がした。
だが、反論は出なかった。
「逃がす先は……」
言いかけた声を、老人は手で制した。
「分かっておるだろう」
その一言で、話は終わった。
家々を回り、子どもたちが集められていく。
泣き声を上げる者はいなかった。大人たちは静かに、しかし急いで動いた。
子どもたちの列の中に、まだ状況を理解できていない子がいた。
不安げに周囲を見回しながらも、何が起きているのかは分かっていない。
その子は、ただ言われるまま、前へと歩いていた。
「いいか」
低い声が、夜に落ちる。
父親が、子どもに向かって言った。
「走れ。立ち止まるな。
後ろを、見るな」
理由は、語られなかった。
村の外れに近づくにつれ、空気が変わっていく。
森の気配が濃くなり、湿った匂いが鼻を刺す。
樹海だった。
子どもたちの中に、ざわめきが走る。
誰もが名前だけは知っている場所。近づいてはいけないと、言われ続けてきた場所。
「大丈夫だ」
老人の声が、静かに響いた。
「欲を持たず、助けを求める者は、拒まれん」
それは言い伝えだった。
確かな根拠のない、けれど村に残り続けてきた言葉。
大人たちは、その言葉を信じるしかなかった。
信じなければ、子どもたちを送り出す理由がなくなる。
「行け」
背中を押され、子どもたちは森へと入っていく。
一人、また一人と、闇に溶けていく。
誰も、振り返らなかった。
村の方を見ることは、なかった。
見てしまえば、きっと、足が止まる。
そうして、夜は静かに進んでいった。
霧の中で、樹海は何も語らず、ただそこにあった。




