第二章 第1話|兆し
霧が出ている朝は、落ち着かない。
男は家の前に立ち、村の外れを見つめながら、そんなことを考えていた。
息子が、まだ戻っていない。
夜が明けてから、もうしばらく経つ。
いつもなら、日の高くなる前には家に帰ってくる。薬草を探しに行くと言って出たのは聞いていたが、昼を過ぎることはほとんどなかった。
「……遅いな」
独り言のように呟き、男は霧の向こうに視線を送る。
村の森が広がり、その先に、木々の色がわずかに濃くなる場所がある。
そこを、見ないようにしてきた。
理由を説明したことはない。
ただ、入るな、とだけ言ってきた。それで十分だと思っていたし、実際、息子もこれまでは従ってきた。
だが、今日は胸の奥に、言葉にできないざわめきがあった。
村の中でも、少しずつ気配が変わり始めていた。
通りを歩く人の数が増え、立ち話が長くなる。誰も大声では話さないが、視線が同じ方向に集まっていく。
「まだ見つからないのか」
声をかけられ、男は振り返った。
近所の男が、心配そうに眉を寄せている。
「……ああ」
それ以上、何も言えなかった。
探しに行かないのか、と問われる前に、男は歩き出した。
村の入口へ向かう道は、何度も通ったはずなのに、今日はやけに長く感じられる。
足元の感触一つ一つが、妙に気になった。
森に入る手前で、男は足を止めた。
霧の向こうに、木々が連なっている。見慣れた景色のはずなのに、胸の奥が冷える。
――あの夜と、同じだ。
思い出したくもなかった記憶が、不意に浮かび上がる。
空気の重さ。人々の声を潜めたざわめき。決して口にしてはいけないと、皆が分かっていた気配。
男は、無意識のうちに、樹海の方を避けて視線を動かしていた。
昔から、そうしてきた。
見なければ、考えずに済む。思い出さなければ、済んだ。
だが、今日は違う。
息子が、戻っていない。
男は拳を握り、深く息を吸った。
探さなければならない。それは分かっている。だが、足は自然と、樹海とは反対の方向へ向かっていた。
「……村の森だ」
自分に言い聞かせるように呟く。
まだ、そこまで行ったとは限らない。そうであってほしい、という願いにも似た考えだった。
歩きながら、男は過去を思い返す。
思い出そうとしているのではない。むしろ、押し戻そうとしているのに、記憶の方が勝手に滲み出してくる。
あの夜。
村が、静かに捨てられた夜。
理由を、誰もはっきりとは言わなかった。
ただ、準備をしろ、と言われ、子どもたちが集められた。
その続きを、男は思い出すことができない。
いや、思い出さないようにしてきた。
「……まだだ」
小さく呟き、歩みを早める。
今は、息子を見つけることだけを考えればいい。
そう自分に言い聞かせながら、男は森の中へと入っていった。
霧の向こうで、樹海は何も語らず、ただそこにあった。




