第二章 第3話|噂としての樹海
市場は、朝から騒がしい。
布を広げる者、
箱を積み直す者、
声を張り上げて値を呼ぶ者。
商人は、人の流れを縫うように歩きながら、
いつもの場所に荷を下ろした。
売り物は、
特別珍しいものではない。
それでも、
街道を通ってきた品だというだけで、
一定の値は付く。
「南からか」
通りがかった別の商人が声をかける。
「ああ。いつもの道だ」
「遠かったろ」
「まあな」
それ以上、言葉はいらない。
遠い。
高い。
だが、そういうものだ。
取引の合間、
近くの屋台から、声が聞こえてくる。
「樹海のほう?
やめとけって」
誰かが、軽く笑いながら言った。
「近いって話は聞くけどな」
「近いだけだろ」
別の声が続く。
「中を通ったって話、
聞いたことあるか?」
一瞬、間が空く。
商人は、
荷の紐を結び直しながら、耳を傾けていた。
「ないな」
「俺もだ」
「昔の話だろ?」
誰も、はっきりしたことは言わない。
ただ、
「聞いたことがない」
「やったやつがいない」
それだけで、
話は十分だった。
「何があるんだ?」
誰かが、半分冗談のように聞く。
「さあな」
返事は、曖昧だ。
魔物だとか、
道に迷うとか、
変なものを見るとか。
どれも聞いた覚えはある。
だが、
誰かの実体験として語られることはない。
「行ってみりゃ分かるんじゃねえの?」
笑いが起きる。
だが、
その笑いに続く者はいない。
行ってみよう、
という言葉は出ない。
商人は、
その空気を感じ取っていた。
怖がっているわけではない。
信じているわけでもない。
ただ、
行く理由がない。
「別に困ってねえしな」
誰かが、そう言って話を締めた。
それで終わりだ。
商人は、取引を続けながら考える。
噂は、
確かにある。
だが、
どれも輪郭が曖昧で、
掴みどころがない。
誰かが止めた、
という話でもない。
皆が、
そうしているだけだ。
市場の喧騒の中で、
樹海の話題は、すぐに流れていく。
値段の話。
品の質。
次の街道。
それらの方が、
よほど大事だ。
商人は、
売れ残った荷を整えながら、
ふと空を見る。
遠くに、
緑の塊が見える気がした。
気のせいかもしれない。
見間違いかもしれない。
だが、
そこにある、という感覚だけは、
確かに残った。
噂として、
語られるだけの場所。
それで十分だと、
皆が思っている。
商人もまた、
その一人だった。




