余章|皇帝は、境界を見誤った
帝国は、かつて進んでいた。
それは事実だ。
皇帝は、そう信じて疑わなかった。
領土は広がり、
軍は整い、
臣下は忠誠を誓っていた。
「森だと?」
報告を受けたとき、皇帝は一笑に付した。
「道がないなら、作ればいい。
敵がいるなら、排せばいい」
それが帝国だった。
それが、皇帝自身だった。
古い伝承についても、聞いてはいた。
――越えてはならぬ森。
――入れば戻らぬ樹海。
――魔女がいるという話。
「民が作った歯止めだ」
皇帝は、そう判断した。
恐怖は、理屈を与えられなかった時代の産物だ。
帝国は、理屈を持っている。
「仮に本当だったとしても」
皇帝は、側近に言った。
「それは、越えられる。
越えられぬものなど、世界にはない」
最初の報告が届いたときも、動じなかった。
部隊が戻らない。
だが、戦闘の記録はない。
「補給の問題だ」
「準備が足りなかった」
次の報告も、
その次の報告も、
同じように処理した。
「地点を変えろ」
「対策を変えろ」
「理由を見つけろ」
皇帝は、怒ってはいなかった。
まだ、余裕があった。
だが、
数字が合わなくなった。
戦死者として数えられない欠員。
説明のつかない消失。
地図は広がらず、
報告書だけが積み上がる。
「なぜだ」
皇帝は、苛立ちを隠さなくなった。
「なぜ、越えられぬ!」
理屈が通らないことが、
何よりも許せなかった。
怒号が飛び、
机が叩かれ、
側近たちは言葉を失った。
それでも、皇帝は進ませた。
止まる理由が、
まだ見えなかったからだ。
やがて、
進めなくなった。
攻められたわけではない。
負けたわけでもない。
ただ、
力が足りなくなった。
「……扱いを変えろ」
その言葉を出したとき、
皇帝自身が一番、それを理解していた。
遅い、と。
触れないことにする。
理由を探さない。
価値がない、と言い換える。
それは敗北ではない。
そう言い聞かせた。
だが、
夜になると、思い出す。
伝承の言葉を。
笑い飛ばしたあの話を。
「越えられぬのではない。
越えようとするな」
誰かが、そう言っていた気がした。
今になって、
その意味が分かる。
皇帝は、窓の外を見る。
帝国は、まだ在る。
だが、
かつての勢いはない。
「……知らなかったのだな」
呟きは、誰にも届かない。
知らなかったのではない。
知っていた。
だが、
扱い方を誤った。
信じなかった。
信じたとしても、
越えられると思った。
その順序が、
すべてを決めていた。
「境界は、敵ではなかった」
今なら、分かる。
敵にしてしまったのは、
自分自身だった。
皇帝は、深く息を吐く。
後悔はある。
だが、
取り戻そうとは思わない。
遅すぎることを、
理解しているからだ。
「……それでも、世界は続く」
帝国が衰えても、
森は残る。
魔女がいるかどうかは、
もはや問題ではない。
越えない、という選択が、
できるかどうか。
それだけが、
これからの時代を分ける。
皇帝は、静かに目を閉じた。
これは、
敗者の嘆きではない。
越えようとした者が、
ようやく線を見たという話だ。




