第一章 第3話|樹海
樹海に足を踏み入れてから、しばらくのあいだ、少年は自分が間違ったことをしたとは思っていなかった。
空気は確かに重く、湿り気も強い。
だが、歩けないほどではないし、視界が閉ざされているわけでもない。村の森と比べれば違いはあるが、致命的なものではなかった。
「すぐ戻れる」
そう考えながら、少年は足元に視線を落とし、草の形を確かめていく。
治療師が挙げた名前を思い出し、葉の縁や色、根の張り方を一つずつ比べた。
似ている。
だが、違う。
籠の中に、また一本、役に立たない草が加わる。
籠は少しずつ重くなっていくのに、必要なものだけが入らない。
少年は歩き続けた。
時間がどれほど経ったのかは分からない。霧の濃さが変わるたびに、昼なのか夕方なのかの判断も曖昧になっていく。
ふと、見覚えのある倒木が目に入った。
「あれ……?」
少し前にも、同じ形の倒木を見た気がする。
だが、気のせいだと思い直し、歩みを止めなかった。
次に現れた木々も、どこか似ている。
枝の伸び方、苔の付き方、根元の形。まるで、同じ景色が繰り返されているようだった。
胸の奥に、わずかな違和感が生まれる。
「……戻ろうか」
口に出してみたが、声は霧に吸われて消えた。
振り返ると、来たはずの方向が分からない。
霧は薄い。
それなのに、距離感が掴めなかった。
少年は深く息を吸い、落ち着こうとした。
焦る必要はない。道に迷ったとしても、少し歩けば境界に戻れるはずだ。
そう考え、歩き出す。
だが、足元の感触が少しずつ変わっていく。
土は柔らかく、水を含んでいる。踏みしめるたびに、余計な力が必要だった。
息が、少し荒くなる。
それでも、少年は探すのをやめなかった。
幼馴染の顔が、何度も頭に浮かぶ。熱に浮かされた目、呼吸の浅さ。
「まだ……」
自分に言い聞かせるように呟き、しゃがみ込む。
湿った影の中、葉の重なりの奥に、見覚えのある形を見つけた。
心臓が跳ねる。
だが、近づいて確かめると、やはり違った。
期待が外れた反動で、力が抜ける。
立ち上がろうとして、ふらついた。
少年は思った以上に疲れていた。
歩き続けていたことに、ようやく気づく。
「……おかしいな」
喉が渇き、舌が重い。
霧の中は冷たいはずなのに、体の内側が熱を帯びている。
少年は方向を決めきれないまま、歩き続けた。
戻るつもりで進んでいるのか、探すために進んでいるのか、自分でも分からなくなっていた。
同じような景色が、何度も現れる。
同じような草を見つけ、同じように首を振る。
籠は、いつの間にか、それなりの重さになっていた。
足が、もつれそうになる。
一度、膝をつき、息を整えようとした。
そのとき、視界の端で、何かが動いた。
人影のようにも見えたし、霧の揺らぎのようにも見えた。
少年は顔を上げ、目を凝らす。
「……誰か、いますか」
返事はない。
代わりに、どこからか声のようなものが聞こえた気がした。
言葉には聞こえなかった。
意味も分からない。ただ、音だけが、静かに耳に残る。
不思議と、胸の奥のざわめきが薄れていく。
力が抜け、立っているのが難しくなった。
少年は一歩踏み出そうとして、よろめいた。
視界が傾き、地面が近づく。
冷たい土の感触が、掌に伝わる。
「……」
言葉にならない息を吐いたところで、少年の意識は途切れた。




