第五章 第3話|越えないという選択
軍部からの進言は、予想どおりだった。
帝国の動きが鈍り、国境が静まった今こそ、好機。
兵を動かし、主導権を握るべきだという意見は、会議の場で繰り返された。
「敵は弱っています」
将軍の一人が、地図を指し示す。
「補給線は乱れ、前線の統制も崩れつつある。
ここで一気に押せば、帝国は立て直せません」
宰相は、地図を見た。
国境線。
街道。
そして、濃く塗られた森の一帯。
「この案だと、樹海を通るな」
静かな指摘だった。
「最短ですから」
将軍は、即答した。
「迂回すれば時間を失います。
敵に立て直す余裕を与えることになる」
「前例は?」
宰相の問いに、将軍は言葉を詰まらせた。
「……通過した記録は、ありません」
「ない、のではない」
宰相は訂正する。
「残っていない、だ」
空気が、わずかに張り詰めた。
「宰相殿」
別の将軍が口を開く。
「迷信に配慮して、好機を逃すのですか」
宰相は、視線を上げた。
「迷信なら、扱わない」
声は低く、はっきりしている。
「だが、これは記録だ。
説明はできないが、繰り返されている」
将軍たちは、互いに視線を交わした。
「帝国は、すでに樹海の近くまで踏み込んでいます」
「そうだ」
宰相は、うなずいた。
「そして、勢いを失った」
誰も、反論できなかった。
「我々が越えれば、同じことが起きる可能性がある」
「可能性、ですな」
「十分だ」
宰相は、そう言って地図を畳んだ。
「国家が賭けるには、根拠が足りない。
国家が避けるには、前例が多すぎる」
沈黙が落ちる。
将軍の一人が、最後に言った。
「では、何もしないと?」
「違う」
宰相は、首を振る。
「越えないだけだ」
進軍はする。
備えも整える。
だが、あの線だけは越えない。
それが、この国の選択だった。
会議が終わり、将軍たちは席を立った。
納得した者はいない。
だが、命令は理解された。
宰相は、一人残り、再び地図を広げる。
樹海は、そこにある。
変わらず、ただ在る。
「……同じだな」
誰に向けた言葉でもない。
帝国は、越えた。
王国は、越えない。
それだけの違いが、
やがて大きな差になる。
宰相は、地図を閉じた。
判断は、すでに下された。




