第五章 第1話|積み重ねられた報告
宰相の机には、いくつもの書類が積まれていた。
どれも、急を要するものではない。
だが、無視できるものでもなかった。
帝国の動きが鈍っている。
それが、ここ数年の一貫した報告だった。
兵力の集中が続かない。
補給線が伸びきらない。
かつてなら一気に押し切っていた局面で、足が止まる。
敗北の報告はない。
だが、勝利の報告も届かない。
「衰えていますな」
若い官僚が、資料を示しながら言った。
「一時的なものではありません。
各方面で、同様の傾向が見られます」
宰相は、うなずきも否定もしなかった。
書類に目を落としたまま、黙って聞く。
帝国が衰えている。
それは、事実だ。
だが、宰相が見ているのは、その一点ではなかった。
「国境沿いの報告は?」
問いに、官僚は一瞬、言葉を選んだ。
「……特段の異変はありません。
小競り合いは減少しています。
難民の流入も、増えていません」
「占拠された村は?」
「記録上は……継続して存在しています。
壊滅、放棄、消失といった報告はありません」
宰相は、そこで初めて顔を上げた。
「占拠されたまま、か」
「いえ。
占拠は確認されていますが、その後の支配が続いた形跡は……」
官僚は、そこで言葉を切った。
「ありません」
宰相は、静かに息を吐いた。
暦一七五年。
帝国が樹海近くの村を占拠した記録がある。
侵攻は事実だった。
だが、その先がない。
村は地図に残り、
道も消えていない。
支配の痕跡だけが、曖昧なまま途切れている。
「……いつものことだ」
宰相は、独り言のように言った。
官僚は、その言葉の意味を測りかねている様子だった。
宰相は、さらに古い記録を引き寄せる。
樹海に接する地点は、一つではない。
それぞれの場所で、報告の書式は異なる。
担当官も、時代も違う。
それでも、結末だけは似通っていた。
侵入は試みられ、
進軍は途中で止まり、
理由は記されず、
その後が続かない。
「……地点は違えど、同じだな」
宰相は、それ以上を読み取ろうとしなかった。
繰り返されているという事実だけで、判断には足りている。
「樹海……」
宰相は、その言葉を声に出さなかった。
だが、思考の中では、確かにそこへ行き着いていた。
信仰ではない。
迷信でもない。
説明できないが、繰り返されている。
それならば、
それは“在るもの”として扱うしかない。
「軍部は、どう言っている」
宰相が問うと、官僚は苦笑した。
「好機だと。
今こそ反撃すべきだと」
「樹海を使う案は?」
官僚は、わずかに視線を逸らした。
「……あります」
宰相は、即座に首を振った。
「却下だ」
理由は述べなかった。
述べる必要がない。
過去が、すでに答えている。
帝国は、越えようとした。
そして、勢いを失った。
王国は、越えていない。
だから、今も国境はここにある。
「我々は、何もしない」
宰相は、そう言って書類を閉じた。
「何かに守られているのではない。
越えなかっただけだ」
その言葉は、記録に残らない。
だが、判断としては、確かに残った。




