第四章 第3話|境界の内
樹海の中は、思ったよりも静かだった。
木々は密集しているが、足元は歩ける。
枝に阻まれることもなく、道があるように錯覚する。
「拍子抜けだな」
前を行く男が、そう言って笑った。
「噂ほどじゃない」
別の男も応じる。
彼は、何も言わなかった。
言うべきことが、見つからなかった。
斧が振るわれ、木が倒れる。
音は鈍く、遠くへは響かない。
「いい木だ」
男の声が、少し弾んだ。
「この辺りだけでも、十分な値になる」
彼は、その言葉を聞いて、足を止めた。
だが、止まった理由を説明することはできなかった。
「何してる」
後ろから声がかかる。
「……道を、確認している」
とっさに、そう答えた。
事実でもあり、嘘でもあった。
彼は、欲しいものがなかった。
木も、価値も、奥にある何かも。
ただ、ここにいることが間違いだと感じていた。
「もっと奥だ」
斧を持った男が言う。
「ここじゃ、足りない」
足りない、という言葉が、
何を指しているのかは、はっきりしていた。
進むにつれて、空気が変わる。
音が、薄くなる。
距離が、狂う。
気づけば、互いの姿が見えにくくなっていた。
「おい」
呼ぶ声が、霧に吸われる。
返事がない。
「……どこ行った」
苛立ちが、声に滲む。
彼は、振り返った。
来たはずの道が、分からない。
戻ろうとしても、方向が定まらない。
「冗談だろ」
誰かが、怒鳴った。
怒りは、恐怖に近い。
恐怖は、さらに欲を強める。
「全部持って帰るぞ!」
叫び声が上がった。
その瞬間、
彼は確信した。
――自分は、ここに用がない。
だが、声に出すことはできなかった。
出せば、自分も同じ側に立つことになる。
次に気づいたとき、
彼は一人だった。
周囲に、人の気配はない。
斧の音も、声も、すべて消えている。
霧が、薄くなる。
足元の感触が変わり、
いつの間にか、草地に立っていた。
振り返ると、樹海があった。
何も変わっていないように見える。
だが、中に入ろうとは思えなかった。
彼は、膝に手をついた。
息が荒い。
だが、体は無事だった。
なぜ戻れたのかは、分からない。
誰が戻したのかも、分からない。
ただ一つ、確かなことがある。
――自分は、何も求めなかった。
それだけだった。




