第四章 第1話|境界に近い場所
その頃、彼はまだ若かった。
後に村で年長者と呼ばれるようになるなど、想像もしていない時代だ。
樹海は、村のすぐそばにあった。
近いといっても、日常の中にあるわけではない。畑を越え、丘を越え、その先に影のように広がっているだけだ。
「行くな」
理由は、それだけだった。
幼い頃から何度も聞かされてきた言葉だが、詳しい説明を受けたことはない。
彼自身、深く考えたことはなかった。
行かなければいい。それで済む話だったからだ。
村は小さく、特別な産物もない。
ただ、樹海に近いという一点だけで、時折、外から人が訪れる。
商人。
開拓を名乗る者。
あるいは、名目だけを変えた同類。
彼らは、村に泊まり、酒を飲み、話をした。
樹海の話題になると、必ず目の色が変わる。
「中はどうなっている?」
「木の質は?」
「奥まで入ったことは?」
彼は、その問いに多くを答えなかった。
知らないことがほとんどだったし、知っていたとしても、話す理由がなかった。
だが、それが理由になった。
「お前、道を知っているんだろう」
そう言われたとき、彼は否定できなかった。
詳しいわけではない。ただ、他の村人より少しだけ、森に近い仕事をしていただけだ。
「案内だけでいい」
「危ないところには行かない」
「礼はする」
言葉は丁寧だった。
だが、断る余地はなかった。
村の空気が、それを許さなかった。
外の者を刺激するな。
面倒を持ち込むな。
誰も、はっきりと命じてはいない。
だが、彼は理解していた。
――行かされる。
その夜、彼は家に戻り、何も準備をしなかった。
何を持てばいいのか、分からなかったからだ。
外に出ると、樹海の方角に、いつもより濃い闇が見えた。
距離が縮まったような錯覚を覚える。
「近いな……」
独り言は、誰にも聞かれなかった。
境界は、まだ越えていない。
だが、立っている場所が、確実に近づいている。
それだけは、はっきりしていた。




