第三章 第5話|踏み入る
樹海の縁に立ったとき、下級兵は小さく息を吐いた。
思っていたよりも、普通だった。
木々は密集しているが、異様な気配はない。霧も、深いというほどではない。
「……行けるな」
誰かがそう言い、誰も否定しなかった。
命令は明確だった。
村を占拠し、そのまま樹海を抜ける。
補給は最小限、速度を優先。
隊列が整えられ、進軍が始まる。
最初のうちは、何も起きなかった。
足元は湿っているが、歩けないほどではない。
視界は悪いが、前後の兵は見える。
音もある。鎧の擦れる音、枝を踏む音、息遣い。
「大したことないな」
誰かが言い、緊張が少し緩んだ。
下級兵は、槍を持つ手の力をわずかに抜いた。
噂ほどではない。少なくとも、今のところは。
だが、しばらく進んだ頃、違和感が生じた。
音が、減った。
完全に消えたわけではない。
ただ、遠くの音が届かない。
後ろの隊列の足音が、急に薄くなる。
振り返ると、確かに兵はいる。だが、距離感がおかしい。
「……こんなに、開けてたか?」
誰かが呟いた。
木々の配置は、記憶と一致している。
だが、同じ景色が続いているような感覚があった。
「止まるな」
前方から、命令が飛ぶ。
隊列は、崩れない。
崩れてはいけない。
下級兵は、無意識に歩幅を一定に保った。
周囲に気を配りながら、前だけを見る。
霧が、少し濃くなった。
視界が狭まり、左右の境界が曖昧になる。
それでも、地図上の進路は間違っていないはずだった。
「通信は?」
「問題なし」
短い応答。
だが、声はどこか遠い。
下級兵は、喉の渇きを覚えた。
まだ、それほど歩いていないはずなのに。
時間の感覚が、ずれている。
「休憩を――」
誰かが言いかけた、その時。
前方の兵が、立ち止まった。
「……?」
ぶつかりそうになり、慌てて止まる。
「道が……」
声が、途中で止まった。
下級兵は、前を見る。
確かに道はある。だが、進軍前に確認したはずの目印がない。
折れた木。
大きな岩。
地図に書き込まれていたはずの、あれらが見当たらない。
「回り込んだか?」
「いや……そんな距離じゃない」
士官が前に出る。
「落ち着け」
声は、落ち着いていた。
「樹海では、よくあることだ。
地形が単調だから、錯覚が起きる」
説明は、合理的だった。
下級兵は、うなずいた。
そうだ。錯覚だ。疲労と緊張が、判断を鈍らせている。
「進む」
命令が下る。
隊列は、再び動き出した。
そのとき、下級兵は気づいた。
――後ろの気配が、ひとつ減っている。
振り返ろうとして、思いとどまる。
命令は、前を見ろ、だ。
「……気のせいだ」
自分に言い聞かせ、歩き続ける。
樹海は、何もしていない。
少なくとも、そう見えた。
ただ、進むほどに、
戻る理由だけが、少しずつ失われていった。




