第三章 第3話|迷信を捨てよ
地図は、簡素だった。
帝国軍の士官は、天幕の中で机に広げられた紙を見下ろしている。
線で引かれた国境、村の印、そして――ひときわ広く塗られた緑。
樹海。
「ここを通る」
士官は、淡々と言った。
集められたのは数名の上級兵。
いずれも経験を積み、戦場を渡り歩いてきた者たちだ。
「王国は、ここを避けている」
士官は、地図の端を指で叩く。
「だからといって、不可侵というわけではない」
誰も、すぐには口を開かなかった。
樹海の名は、帝国でも知られている。
魔女の噂。滅びた国の話。
だが、いずれも記録としては曖昧で、年代も一致しない。
「確認はした」
士官は続ける。
「過去の戦史を洗ったが、樹海そのものが戦力として記録された例はない。
あるのは、原因不明の撤退や、連絡断絶だ」
一人の上級兵が、腕を組んだ。
「つまり?」
「つまり、樹海は――敵ではない」
士官は、はっきりと言った。
「地形が悪く、通信が乱れ、士気が下がる。
それだけの話だ」
別の士官が、口元を歪める。
「魔女の話は?」
「承知している」
士官は頷く。
「だが、魔女が実在したとして――
それが今もそこにいる証拠はない」
沈黙。
「大戦は、遠い過去だ」
士官の声は、冷静だった。
「神話や伝承が生まれるには、十分すぎる時間がある」
誰も、否定しなかった。
戦場では、分からないものを排除する。
それが、合理というものだ。
「村を押さえれば、補給は問題ない」
士官は、地図上の点をなぞる。
「抵抗は想定していない。
王国は、ここに兵を割けない」
「……逃げられていたら?」
「構わん」
士官は即答した。
「住民は脅威ではない。
目的は通過だ」
樹海は、障害物に過ぎない。
そう結論づけられた。
「恐怖は、無知から生まれる」
士官は、周囲を見回す。
「我々は、無知ではない」
その言葉に、異論は出なかった。
誰もが、納得していた。
少なくとも、この場では。
天幕の外で、風が木々を揺らす音がした。
士官は、一瞬だけ耳を傾ける。
「……問題はない」
そう言って、地図を畳んだ。
「迷信は捨てろ。
我々は、進む」
命令は、確定した。
その判断が、何を踏み越えたのか――
この時、誰も気づいていなかった。




