第三章 第2話|合理の名の下に
帝国軍の野営地は、整然としていた。
天幕は等間隔に張られ、焚き火は必要最低限。
兵たちは無駄口を叩かず、それぞれの持ち場で準備を進めている。
それでも、空気は張り詰めていた。
下級兵の一人は、槍の穂先を布で拭きながら、何度目か分からないため息を吐いた。
作業自体は単純だ。だが、手元に集中できない。
「……なあ」
隣の兵が、小さく声をかけてくる。
「本当に、あの森を通るのか」
下級兵は、答える前に周囲を見回した。
士官の姿は見えない。だが、耳はどこにでもある。
「命令だ」
それだけ言って、再び槍に目を落とす。
「でもよ……」
声は、自然と低くなる。
「あそこは、樹海だろ。
地図にも、ろくに書かれてない場所だ」
下級兵は、拭いていた手を止めた。
樹海。
帝国でも、その名は知られている。
魔女の話。
国を滅ぼしたという噂。
どれも古く、証拠はない。
「迷信だってさ」
別の兵が、無理に笑って口を挟む。
「昔話を信じて、戦争ができるかよ」
「……そうだな」
そう答えながらも、誰の顔にも余裕はなかった。
恐れているのは、魔女そのものではない。
何が起きるのか、分からないことだ。
「村を通るらしい」
誰かが言った。
「人はいるのか?」
「逃げてるか、捕まるかだろ」
淡々としたやり取り。
感情を挟む余地はない。
下級兵は、ふと空を見上げた。
雲の流れは穏やかで、戦の兆しなど感じられない。
「なあ……」
最初に声をかけてきた兵が、再び口を開く。
「もし、本当に何かあったら――」
その言葉は、途中で止まった。
背後から、硬い足音が近づいてくる。
「無駄話は終わりだ」
士官の声だった。
兵たちは、一斉に姿勢を正す。
「今回の作戦は、合理的だ」
士官は、感情のない声で言う。
「樹海は、ただの地形だ。
補給路にもならず、戦略的価値もない。
だからこそ、王国は守らない」
下級兵の胸に、重たいものが落ちる。
「敵が避ける場所を通る。
それだけで、こちらが有利になる」
理屈は、分かる。
反論できる点もない。
「迷信や噂に惑わされるな」
士官は、兵たちを見回す。
「我々は、帝国軍だ。
恐れるべきは、敵の刃だけだ」
命令は、明確だった。
「明朝、進軍を開始する。
村を確保し、そのまま樹海へ入る」
誰も、声を上げなかった。
下級兵は、拳を握りしめる。
納得はしていない。だが、拒否もできない。
合理的であること。
それが、帝国軍の誇りだった。
そして同時に――
引き返せなくなる理由でもあった。
夜が更けていく。
焚き火の向こう、遠くに黒い森影が見えた。
樹海は、何も語らず、ただそこにあった。
合理の名の下に、
兵たちは、その境界へと近づいていく。




