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名を持たぬ魔女  作者: ささこ
暦200編

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第三章 第1話|噂は境界を越えない

国境沿いの詰所は、静かだった。


見張り台の上からは、なだらかな丘と、その向こうに続く森が見える。

天気は悪くない。霧も薄く、視界は開けていた。


それでも、若い兵士は落ち着かなかった。


「なあ……聞いたか」


隣で同じ方向を見ていた兵が、声を落として言った。

王国軍の下級兵同士、長い待機任務の合間に交わされる、いつもの調子の話し方だ。


「帝国が動いてるって話だ」


若い兵士は、小さく息を吐いた。

その噂なら、もう何度も耳にしている。


「国境沿いに兵を集めてるらしい。

 で、その……侵攻ルートの話なんだが」


言葉が、わずかに詰まる。


「樹海を通る、って」


一瞬、風の音だけが残った。


若い兵士は、思わず森の奥を見る。

国境線の先、濃く色づいた木々が連なっている場所。地図には単に「樹海」と記されているが、兵の間ではそれ以上の意味を持っていた。


「……冗談だろ」


そう返しながらも、声は軽くならなかった。


樹海は、避ける場所だ。

戦術的に不利だから、という理由だけではない。


「上は、どう言ってる?」


「正式な命令はまだだ。

 ただ……通るなら、あの辺りの村は守れない、ってさ」


若い兵士は、眉をひそめた。


国境沿いには、小さな村が点在している。

どれも戦略的価値は低い。補給路にもならず、守るには兵が足りない。


「見捨てるってことか」


「……そうなるな」


二人の間に、短い沈黙が落ちる。


若い兵士は、槍を持つ手に力を込めた。

守るためにここにいるはずなのに、守れない場所が最初から決まっている。


「樹海を通るなんて、正気じゃない」


ぽつりと漏れた言葉に、相手は苦笑した。


「迷信だって言う奴もいるさ。

 魔女だの、不可侵だの……昔話だって」


「でも」


若い兵士は、その先を言い切れなかった。


消えた部隊の話。

戻らなかった偵察兵の噂。

報告書に残らない、曖昧な記録。


どれも確証はない。

だが、完全な作り話とも思えなかった。


「俺たちは、行かない」


そう言ったのは、詰所の責任者だった。

いつの間にか背後に立ち、二人の会話を聞いていたらしい。


「命令が出ない限り、樹海には踏み込まない。

 あそこは、戦場じゃない」


若い兵士は、ほっとしたような、しかし別の不安が増したような気持ちになった。


「じゃあ、村は……」


責任者は、しばらく答えなかった。

森の方を見つめ、その奥に何を見るでもなく視線を置く。


「……噂はな、境界を越えない」


そう言って、短く息を吐いた。


「越えるのは、いつも人の方だ」


それ以上、説明はなかった。


見張り台の上で、若い兵士は再び森を見る。

樹海は、何も変わらず、ただそこにあった。


侵攻の兆しも、魔物の影も見えない。

それでも、胸の奥に残る違和感は消えなかった。


噂は、確かにあった。

だが、それはまだ、境界の外に留まっている。


越えてくるのは――

これからだ。

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