第三章 第1話|噂は境界を越えない
国境沿いの詰所は、静かだった。
見張り台の上からは、なだらかな丘と、その向こうに続く森が見える。
天気は悪くない。霧も薄く、視界は開けていた。
それでも、若い兵士は落ち着かなかった。
「なあ……聞いたか」
隣で同じ方向を見ていた兵が、声を落として言った。
王国軍の下級兵同士、長い待機任務の合間に交わされる、いつもの調子の話し方だ。
「帝国が動いてるって話だ」
若い兵士は、小さく息を吐いた。
その噂なら、もう何度も耳にしている。
「国境沿いに兵を集めてるらしい。
で、その……侵攻ルートの話なんだが」
言葉が、わずかに詰まる。
「樹海を通る、って」
一瞬、風の音だけが残った。
若い兵士は、思わず森の奥を見る。
国境線の先、濃く色づいた木々が連なっている場所。地図には単に「樹海」と記されているが、兵の間ではそれ以上の意味を持っていた。
「……冗談だろ」
そう返しながらも、声は軽くならなかった。
樹海は、避ける場所だ。
戦術的に不利だから、という理由だけではない。
「上は、どう言ってる?」
「正式な命令はまだだ。
ただ……通るなら、あの辺りの村は守れない、ってさ」
若い兵士は、眉をひそめた。
国境沿いには、小さな村が点在している。
どれも戦略的価値は低い。補給路にもならず、守るには兵が足りない。
「見捨てるってことか」
「……そうなるな」
二人の間に、短い沈黙が落ちる。
若い兵士は、槍を持つ手に力を込めた。
守るためにここにいるはずなのに、守れない場所が最初から決まっている。
「樹海を通るなんて、正気じゃない」
ぽつりと漏れた言葉に、相手は苦笑した。
「迷信だって言う奴もいるさ。
魔女だの、不可侵だの……昔話だって」
「でも」
若い兵士は、その先を言い切れなかった。
消えた部隊の話。
戻らなかった偵察兵の噂。
報告書に残らない、曖昧な記録。
どれも確証はない。
だが、完全な作り話とも思えなかった。
「俺たちは、行かない」
そう言ったのは、詰所の責任者だった。
いつの間にか背後に立ち、二人の会話を聞いていたらしい。
「命令が出ない限り、樹海には踏み込まない。
あそこは、戦場じゃない」
若い兵士は、ほっとしたような、しかし別の不安が増したような気持ちになった。
「じゃあ、村は……」
責任者は、しばらく答えなかった。
森の方を見つめ、その奥に何を見るでもなく視線を置く。
「……噂はな、境界を越えない」
そう言って、短く息を吐いた。
「越えるのは、いつも人の方だ」
それ以上、説明はなかった。
見張り台の上で、若い兵士は再び森を見る。
樹海は、何も変わらず、ただそこにあった。
侵攻の兆しも、魔物の影も見えない。
それでも、胸の奥に残る違和感は消えなかった。
噂は、確かにあった。
だが、それはまだ、境界の外に留まっている。
越えてくるのは――
これからだ。




