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第9話 再びの宮廷魔術師

 秋の風が庭園を抜け、色づき始めた木々を揺らしていた。城館の一角にある温室では、エカテリーナが大きな椅子に腰かけ、ぶつぶつと不満をこぼしている。


「ねえマリア、祭礼は楽しかったけど……ああいうにぎやかなのばかりだと疲れるのよ。もう少し落ち着いた催しはないのかしら?」


 傍らで茶器を整えていたマリアは、くすりと笑う。


「お嬢様が“落ち着きたい”とおっしゃるのは珍しいですね」


「だって……あの夜、マリアにばかり注目が集まっていたじゃない。私なんて、ただのお飾りみたいで」


 拗ねたように唇を尖らせるエカテリーナに、マリアは困ったように首を振った。お嬢様の機嫌を直すのは日常茶飯事だが、その裏には年相応の寂しさや不安が隠れていることを、マリアはよく知っている。


 その時、執務室からの報せが届いた。「王宮より、宮廷魔術師エリアス・グレイ様がお見えです」と。


 エカテリーナがぱちりと瞬きをする。「あの銀髪の人? 夜会で星を見せてくれた……」


 マリアは微笑みを浮かべた。「ええ、お嬢様。きっとその件でお越しくださったのでしょう」


 応接間の扉が開き、エリアス・グレイが姿を現した。長身痩躯、銀色の髪を整え、灰色の瞳に穏やかな光を宿す。その立ち姿は凛としており、落ち着いた雰囲気の中に知性と静かな情熱が漂っていた。


「ご機嫌麗しゅうございます、公爵令嬢エカテリーナ様。そしてメイド長マリア殿。先日の星見の夜会では、お二人にお楽しみいただけたようで何よりでした」


 グレイは丁寧に一礼し、手にした革張りの書類を机に置いた。そこには夜会で観測した星々の記録や、次に見られる天文現象の予定が記されているらしい。


「次回の観測会にぜひご同行いただきたく、こうして伺った次第です。公爵家のお嬢様とマリア殿に、特等席をご用意いたしました」


 その声音は穏やかで礼儀正しいが、ちらりとマリアに向けられる視線には、どこか親密な色が混じっていた。マリアはそれを感じながらも、にこやかに応じる。


「わざわざお越しいただき恐縮です。お嬢様にとっても良き学びの機会となるでしょう」


 エカテリーナはすぐに身を乗り出した。「星を近くで見られるのね! 素敵だわ。もちろん行くわ!」


 その無邪気な言葉に広間が和み、秋の光が三人の影を優しく映し出していた。


 夕刻の城館は、昼間の喧噪を嘘のように静めていた。祭礼を終えた余韻がまだ漂い、人々の口には甘やかな菓子の記憶が残り、耳には楽師たちの旋律が残響している。そんな中、マリアは温室から呼び出され、応接室へと足を運んでいた。


 そこには、すでに一人の来客が控えていた。深い群青の外套に身を包み、背筋を正しく伸ばした青年。王宮付き魔術師団の若き俊才、エリアス・グレイである。


 かつての夜会での邂逅以来、彼がこうして訪れるのは二度目だった。だが、マリアの胸の内に去来するものは、単なる再会の喜びではない。宮廷という舞台に属する彼が、この辺境の地にまで足を運ぶ理由は、決して軽いものではないはずだった。


「お久しぶりでございます、グレイ様」

 マリアは礼を尽くし、深く一礼する。


 青年は柔らかく頷き、琥珀色の瞳を細めた。その瞳は、どこか星明りを宿しているかのように澄んでいる。


「マリア殿……いえ、公爵家のメイド長殿とお呼びすべきでしょうか。あの日のご助力、今も胸に残っています。再び言葉を交わせることを嬉しく思います」


「もったいないお言葉です。お嬢様ともども、あの夜は素晴らしい時間を過ごさせていただきました」


 定型のやり取りに隠れるように、互いの瞳には複雑な色が浮かんでいた。夜会での短い交わり。あのとき、グレイがふと見せた真剣な眼差しを、マリアは忘れてはいない。


 応接の卓には温かな茶が運ばれ、二人は自然と席についた。


「本日お招きいただいたのは……」

「ええ、実は」


 グレイは少し言葉を探すようにして、そして意を決したように口を開いた。


「来月、王都で開かれる『星見の夜会』に、再びご出席いただきたく参りました」


 マリアは一瞬、目を瞬かせた。星見の夜会――王都の一大行事であり、王宮に仕える魔術師たちにとっても大切な式典。夜空を観測し、未来の兆しを占うだけでなく、各地の有力者が顔をそろえ、密やかな商談や政治の駆け引きが行われる場でもある。


「……私どものような立場の者にまで、お声がかかるとは」

「むしろ、あの夜の貴女のお働きを知る者たちが、ぜひにと求めているのです」


 グレイの声には誇張はなかった。むしろ淡々と、だが内奥から滲む熱を隠せぬままに告げているようだった。


 マリアは少し逡巡する。彼女の役割はあくまでもメイド長であり、貴族の後ろ盾を持つ存在ではない。だが、その思案を見越すかのように、グレイは言葉を重ねた。


「マリア殿。貴女の冷静な判断と誠実な采配を、王都の人々も必要としているのです。……私がそう思うのと同じように」


 その最後の一言に、マリアの胸は微かに揺れた。公務の仮面の下に、彼の個としての感情が滲んでいる。熱くもならず、冷たくもならぬ、誠実な告白のような響き。


 マリアは茶器に手を伸ばし、湯気の向こうで視線をそらした。


「お嬢様とご相談の上で、お返事させていただきます」

「ええ、もちろんです。そのための商談の席も、私からご用意いたします」


 商談――その言葉に、マリアは小さく眉を動かした。夜会は華やかさの裏で、必ず利益と権力のやり取りが行われる。グレイもまた、魔術師団の一員でありながら、そこに関わらざるを得ないのだ。


 しかし、その瞳に宿る色は打算だけではない。彼は確かに、マリアという一人の女性を見ている。人々の前では語られぬ想いを、沈黙の行間に滲ませて。


 応接室に流れる沈黙は、決して重苦しいものではなかった。むしろ、互いの鼓動を聞き取れるほどの近さに心を寄せているような、不思議な温度を帯びていた。


「……そのときは、どうか私をお傍に」


 グレイの言葉は、決して強い響きではなかった。だが、深い誠意と覚悟が籠もっていた。マリアは唇を結び、静かに頷いた。その仕草一つで、彼の瞳は柔らかく揺れる。


 祭礼の賑わいから一転、静謐な応接の間で交わされた言葉は、確かに二人の距離を縮めていた。表に出せぬ想いと、公務の仮面。その狭間で、グレイの真心は、確かにマリアの胸に届いていた。


 夜会の当日、王宮の中庭は昼間とはまるで別世界に変貌していた。磨き上げられた白大理石の床には星明かりが映り、庭園の噴水は魔術によって銀の光を帯びて流れ落ちている。各国から招かれた賓客が、煌びやかな衣装をまとい集まる中、天頂に広がるのは一面の夜空だった。今宵は年に一度、星々が最も輝きを増す「星見の夜会」。宮廷魔術師たちが観測と占術を行い、王宮は祭礼にも似た華やぎを帯びていた。


 マリアはエカテリーナの後ろに控え、いつも通り落ち着いた佇まいを見せていた。しかし、その胸中には微かな緊張が走っていた。王宮の場に立つこと自体は慣れている。かつて魔法戦士として幾度となく招かれ、国の命運を背負ったこともある。それでも、今はただのメイド長として振る舞うべき立場である以上、余計な注目は避けねばならない。そう自らに言い聞かせていた。


 やがて、ひときわ注目を集める人物が姿を現す。黒衣に銀糸を織り込んだローブをまとい、冷静な眼差しを夜空に向ける青年――エリアス・グレイである。彼が歩むたび、周囲の魔術師や貴族たちは道を開け、敬意をもって視線を送る。その存在感は群衆の中でも際立っていた。


「……やっぱりあの方、只者じゃないわね」


 エカテリーナが小声で呟く。半ば感嘆、半ば羨望の響きが混じっている。


 マリアは目を細め、淡く頷いた。確かにグレイの纏う空気は、ただの学者や魔術師ではない。知性と矜持、そして彼自身の意志の強さがその立ち姿に表れていた。


 しばらくして、グレイは観測用の塔から戻り、来賓の間を歩み始めた。その瞳がふとこちらを捉える。人混みの中で視線が交わった瞬間、マリアはわずかに息を呑んだ。彼の眼差しは鋭さの奥に、静かな温もりを秘めていた。


「メイド長殿。再びお会いできるとは、星々の導きかもしれません」


 そう言って近づいてきたグレイに、マリアは周囲を意識しながらも一礼した。


「光栄に存じます。エリアス・グレイ様」


「どうか“グレイ”とお呼びください。宮廷では格式ばかりで窮屈ですから」


 彼は控えめに笑みを浮かべた。その笑みが一瞬、厳格な仮面を和らげ、マリアの心をわずかに揺らす。彼が他の誰にでも同じように接しているのか、それとも――。考える前に、グレイは言葉を継いだ。


「星々の運行は、この国に良き兆しを示しています。ただ……不安の影も僅かに見える。貴女のように人々を導ける存在が、これからさらに必要になるでしょう」


 マリアはその言葉に胸を衝かれた。かつて戦場で剣と魔法を振るった頃、彼女はまさにそういう存在であろうとした。だが今は違う。亡き恩人の娘を守り、導くことが自分の務めだと決めている。グレイはその心を見透かしたように、穏やかな声で続けた。


「私は――貴女の判断と心に、信を置いています」


 周囲では音楽が鳴り響き、貴族たちの笑い声や囁きが交差していた。だが二人の間だけは、不思議な静けさが流れていた。マリアは返す言葉を探しあぐねる。感謝と戸惑い、そして胸の奥で微かに芽生えるもの。その正体をまだ確かめられずにいた。


 そのとき、会場の中央で楽師たちが演奏を変え、舞踏が始まった。エカテリーナが「マリア、あれ見て!」と声を弾ませるが、マリアの意識はなおもグレイの瞳に縫いとめられていた。


(……また、頭を悩ませることになりそうですわ)


 心の内で小さくため息をつきながらも、マリアは微笑を浮かべ、夜会のきらめきの中に歩を進めるのだった。


 星々が最も冴え冴えと輝きを増す刻、夜会の場は一層の華やかさを帯びていた。音楽は落ち着いた調べへと移り、人々の談笑はやや静まり、庭園の空気は月明かりに溶け込むように穏やかだった。


 エリアス・グレイは、広間の片隅に立ち、杯を傾けながら視線を巡らせていた。淡い光に照らされた横顔は端正で、どこか物憂げな影を帯びている。彼の瞳は自然とマリアを追っていた。誰かに囲まれて談笑しているときも、ひとりで控えめに給仕しているときも、彼女はその場を温かく和ませていた。


(あの人は……どんな場でも変わらない。自分を飾らず、ただ誠実に務めを果たす。それがどれほど難しいことか、彼女は気づいていないのだろう)


 彼は杯を置き、静かに歩みを進めた。人波を縫うようにして、やがてマリアのもとへ辿り着く。彼女は気づき、軽く頭を下げた。


「グレイ様。ご機嫌麗しく」


「……こちらこそ。お嬢様のお傍で、今夜もよく務めを果たしておられますね」


 互いにわずかに笑みを交わす。だがそれは社交の定型を超え、言葉の奥に温かな敬意と関心がにじんでいた。周囲のざわめきから切り離されたかのように、ふたりの間だけに柔らかな空気が流れる。


「この夜会は、表向きには星を愛でる場。しかし本当は、宮廷に集う人々の思惑が交錯する舞台です。あなたのように、周囲を和ませることのできる人こそ……何よりも貴い」


 グレイの声は低く、しかしはっきりと響いた。マリアは驚きに目を見開く。けれども次の瞬間には静かに微笑みを浮かべた。


「わたくしはただ、お嬢様のおそばで支えるのみです。けれど……そのようにおっしゃっていただけるのは、光栄に存じます」


 その答えは謙虚でありながらも、芯の強さを秘めていた。エリアス・グレイはその姿に改めて胸を打たれた。星明りに照らされた彼女の横顔は、きらめく夜空のように静かで、しかし確かに輝いている。


 やがて楽師が新たな曲を奏で始め、夜会は再び賑わいを取り戻す。グレイは言葉を切り、礼を尽くして一歩退いた。だがその瞳には、揺るぎない決意の色が宿っていた。


(この想いを胸に秘めておくだけでは終わらせない。必ず、彼女にふさわしい形で――)


 夜空の星々は、未来を占うように瞬いていた。マリアは気づかぬまま、人々の輪へと戻っていく。だが、その後ろ姿を見送るグレイのまなざしは、揺るぎなく彼女を追い続けていた。


 星見の夜会はこうして幕を閉じた。しかしエリアス・グレイの胸に芽生えた想いは、むしろここからが始まりだった。


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