第1話 「転生、そして甘い奇跡」
雨宮葵は、薄暗い教室の隅でノートに落書きをしていた。定規で引いた線に沿って、形の悪いクッキーのスケッチを何枚も重ねる。手元には小さな袋に入った粉と砂糖が置かれ、空想のレシピを書き連ねる。そんな午後の静けさも、次の瞬間、雨のように崩れ去った。
「――――っ!」
突如、光が差し込み、世界が揺れた。背後の黒板が歪み、床のタイルが揺れる。葵は目を閉じたまま、心の中で「これで終わり」と覚悟した。だが、次に目を開けたとき、そこには見知らぬ世界が広がっていた。
石畳の街角、木造の家々、そして遠くに見える塔――。まるで中世の絵本の中に紛れ込んだような光景。葵は呆然と立ち尽くした。手元には、見慣れぬ包み紙に入った小さな鉄板と、木の杖のような棒があった。
「……ここは……?」
頭を振っても、現実感は戻らない。ふと、自分の手を見る。そこには、微かに温かみのある光が宿っていた。小さな数字が手の甲に浮かび上がる。
[フレーバーアルケミー習得!]
「は……? フレーバーアルケミー……?」
数字と文字が揺らめき、手のひらに光が溶けていく。葵はその瞬間、確信した。――自分はただの転生ではない、何か特別な力を持って、この世界に生まれ変わったのだ、と。
少し歩くと、街の広場に古びた小屋があった。ドアには「菓子師修行生募集」と書かれた紙が貼られている。自然に足が向く。扉を押すと、中は薄暗いものの、香ばしい匂いが漂っていた。老齢の男性がカウンターの向こうに座っている。
「おお、来たか。見習い志望か?」
「はい……えっと、私は……」
「名は?」
「雨宮葵です」
「葵か。ふむ、いい名前だ。では、これからお前には基本のバタークッキーを教える。失敗しても構わん、だが全ての工程を覚えるんだぞ」
葵はうなずき、鉄板と粉を手に取り、教えられた通りに混ぜ合わせる。温度、時間、混ぜ方――すべてに注意を払う。ふと、生前の感覚が蘇った。母の作ったレモンケーキ、学校の調理実習、友達と分け合ったお菓子たち。その記憶が、微かに手の動きを助ける。
「……できたかな」
オーブンに入れ、焼き上がるまでの間、葵は窓から外を見た。小さな子どもたちが、古びた服をまとい、路地を駆け回る。笑顔は少ないが、確かに生きている。
焼き上がりのベルが鳴り、葵は鉄板を取り出した。表面は黄金色に焼け、香りが広がる。恐る恐る一口、かじると、心地よい甘みが口いっぱいに広がり、体がふわりと軽くなるような感覚があった。
その瞬間、再び手の甲に数字が浮かんだ。
[効果:鎮静(短) +2/体力回復(小) +1/フレーバー熟練 +1]
「……えっ、これって……スキルの効果?」
驚きつつも、葵の心に小さな決意が芽生えた。この力を使えば、街の人々を少しでも幸せにできる。小さな菓子一つで、誰かの心を温めることができる。それを確かめるために、まずは街の人に食べてもらおう。
葵は小屋の外に出ると、最初に見かけた女の子に声をかけた。粗末な服を着て、怯えたような目をしている。
「……これ、食べてみる?」
女の子は戸惑いながらも、差し出されたクッキーを口に入れる。目をぱちりと開け、表情が少し明るくなる。
「……あったかい。なんだか、おなかが楽になったみたい」
葵は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。これが、自分のスキルの力なのか。目に見える成果に、言葉では言い表せない喜びが湧き上がった。
「小さな街でも、できることはある――まずは、ここからだ」
そうつぶやき、葵は笑った。粉まみれの手で、もう一度クッキーをこねる。鉄板の上には、無限の可能性が広がっている。