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第8章

 ヴァンセント城砦の居心地が良かったため、リッカルロは部下らとともに数日滞在してしまったが、その後サターナイナスの案内でリノヒサル城砦のほうへ赴いた。リノヒサル城砦はギメル渓谷にある巨大な奇岩の連なる天然の要塞である。リノル教徒の隠れ住むそのような場所がある……とは、リッカルロも耳にしたことがあったが、実際に麓からその頂上に至る巨石群を目にすると――隠れ家としてこれほどうってつけの場所もあるまいと、そのように思われたものである。


 リノルネの岩及び、リノル教の至聖所と呼ばれる神殿は一番大きな巨岩の頂上にあるということだったが、渓谷の入口から麓まで進んでやって来る間にも、そのような場所はまったく見えないどころか、本当にてっぺんにそのような場所があるのかどうかすら疑わしく感じられるほどであった。というのも、巨岩の頂上が麓からではまったく見えないほど遠かったからであり、その砂色の岩室群にはほとんど無数と呼べるほど、ドアとも窓ともつかぬ大小の入口があった。それは、明らかに人間の手によってくり抜かれたもののほうが多いように見えたが、それと同時に自然の風の力によって形成されたものとが複雑に入り組んでおり――リッカルロはその天然の住居のひとつに入ってみると、今は打ち捨てられている場所でも、その気になれば人が十分快適に住めそうであることがわかった。


「私も最初、ここへやって来て直に自分の目で見るまでは」と、サターナイナスが言う。「軽く二千人は人を収容できると聞いても、少し誇張しているのではないかとしか思えませんでした。ですが、今はわかります。これならば、<らい者の塔>の患者たちを連れてきても大丈夫でしょう。もちろん今も、信徒らが三百名ほど住んでいるということなのですがな、最盛期の頃ほど信者の数も少なくなり、何より暮らし向きの厳しさという点から、信心を持つ者たちはここから布教も兼ねて他の各地へ散っていったという話です。現在のリノル教の代表者である聖女は、他の地から来た者とは――特に男性とは口を利かぬ掟があるということでしたから、リノヒサル修道院の修道院長と話をし、彼の口から聖女に託けてもらうといった形になりますね」


「神に誓願を立てた、身を聖めた僧侶とであれば異性とでも口を聞くということなのか?」


 不敬の気持ちからではなく、単なる好奇心からリッカルロは隣を馬で進んできたサターナイナスにそう聞いた。


「まあ、実は私もそうリノル教の教義に詳しいというわけではないのですが……おそらくはそうしたことなのでしょうね。この無数にも見える住居の穴の中には、リノル教の敬虔な信徒のみならず、さほど信心といったものはないが、元いた町や村を追い出されるなどしてここへ辿り着いて暮らしている者もいるということですし――こうした者たちも、修道僧や修道女のことは尊んでいるそうですよ――全体として、人口的には七百名から千名近く、ここには人が住んでいるとか」


「そんなにか」


 リッカルロは驚いた。というのも、リノヒサル城砦の麓まで辿り着いたというのに、人の気配らしきものを一切感じなかったせいである。


「ええ。私が以前来た時に聞いた話によれば……このあたりの下層の住居群の一部はフェイクなのだそうです。その昔はこのあたりまでリノル教の信者たちが住んでいたこともあったそうですが、時の政府の方針によって迫害を受けたり、あとは山賊の類ですな。そうした者たちに攻め込まれた場合、このあたりを見知らぬ者が捜査しはじめた段階で、見張りの者がすぐ知らせに走るそうですよ。兵法書にもありますとおり、下方にいる者より上方にいる者のほうが戦いになった際においては有利です。また、彼らはそのためのトラップを幾つも仕掛けておいてあるようなので……地の利を生かして勝利するためにも、簡単に姿を現そうとはしないのでしょうな」


「ですが、リッカルロ王子が来られることは、すでに急使によって知らせてあるのでしょう?」


 幾つもの暗い穴蔵のどこかに、ちらとでも人影が見えはしまいかと、ファイフは目の上で庇を作りつつ、そう聞いた。天気のほうは雲ひとつない晴天であり、人が住んでいるのであれば――いや、人でなくとも犬でも羊でも山羊でも、なんらかの動く影があって然るべきでないかと、彼はそう思っていた。


「ええ、そのとおりです」


 そう答えたのは、その場にいた誰でもなかった。突然、そばの岩室に同化した大きな石が動き、横へずれたかと思うと、岩とまったく同じ色合いの、砂色とも薄い茶ともつかぬローブ姿の男が現れた。年の頃は四十前後、だが、細面であり、頭をすっかり剃り上げているせいもあったろうが、肌の白いその男はまるで幽霊のように見えたものである。


「これは、誠に失礼致しました。我らが王よ」


 リノレネ修道院の修道院長であると同時、この町の長老でもあるクリムストールは、後ろに引き連れていた他の僧侶らや町民らとともに、王子一行を前にして膝を屈めた。おそらく、これが敵兵であったとすれば、このような形で奇襲を仕掛けるということなのだろう。しかも、今麓に辿り着いて間もなく、すぐに姿を現したということは――実際には、彼らが渓谷を進んでくる間に、誰かが第一王子の訪問を知らせに走ったに違いない。


「いや、俺はまだ王ではないぞ。それに、王都あたりの噂話がここまで伝わっているかどうかは知らんが、俺は現王である父に疎まれているのでな……第一王子だからとて、本当に王になれるかどうかまではわからんぞ」


「いえ、すでに星にそのように出ております」


 クリムストールは一礼して進みでると、そのように言った。リッカルロとしては、彼の鋭い目つきを見ると、何故だかただの王子に対するおべんちゃら、おべっかやゴマすりの類といったようには思えないのが不思議だった。


「それはさておき、もしリッカルロ王子、あなたさまが仮に万が一にも王位にお就きにならなかったとして――我々はあなたさまを歓迎致します。また、<らい者の塔>のらい病の患者たちも、傷病兵のことも、すべてこちらでお世話しましょう。町民らとはすでに、話しあいの場を持ちました。無論、すべての者がこの件に賛成だったわけではありません。ですが、反対派の者たちには看病その他においてなんの面倒も迷惑もかけないということで合議致しました。いえ、決してその者たちにも何か悪気があるというわけではないのです……ただ、小さな子供のいる家庭の婦人が、疫病がこの洞窟で流行するのでないかと恐れるのもまた、当然すぎるほど当然のこと。ですから、病棟区画としてここからここまでといったように定め、引っ越したりなんだりと、そのような予防措置を取ってもらうことにしたわけです」


「引っ越しというのは……」


 リッカルロは(まさか追い出したわけではあるまい)と思ったが、一応確認しておいた。


「大丈夫でございます。ここから見える巨石の岩室群は、我らが町のほんの一角といったところ……ここから、もうひとつの渓谷に至る道まで、このような巨石群が軽く十キロ以上は続いております。ですから、このあたりはもともと人はまばらにしか住んでおりませんが、病人の方々にはこのあたりを居住区としていただくのはどうかと考えておりました。また、それで不都合があったとしても、空いている岩室の居住区であれば、他にいくらでもありますから」


「この度は我々の無理にこんなに早く応えてもらい、本当に有難いことだった、クリムストールよ」


 リッカルロは部下たちとともに馬を下りると、頭を下げている僧侶らに顔を上げさせた。彼は今、口許を布で覆い隠していたが、初対面の人間と会う場合は特に、礼儀としてそうしているわけだった。


「いえ、もったいないお言葉いたみります。また、リッカルロさまのご評判については、このような辺境の地においても知れ渡っておりまする。リノレネの聖女さまも、リッカルロ王子さまこそが次の王としてもっとも相応しいお方と、優れた星読みとしてそのようにおっしゃっておいでなのです。また、もしあなたさまが万一王座にお就きにならなかった場合――この国はふたつに分裂するであろう、とも」


「なるほど」


 自分に対する追従としてではなく、リッカルロはリノル教の代表者がふたりとも、『星にそう出ている』と言ったことを、一応心に留めておいた。彼らが自分たちの信奉する宗教を、厚遇とまでは言わずとも、今と同じようにある程度平和に放っておいてもらうために、今のように彼の耳に快いことをあえて囁くことにしたという可能性もなくはない。だが、かといって王子に対するただの御機嫌取りといったようにも思われなかったのである。


 こののち、クリムストールの指示で、リッカルロ以下、十七名いた部下たちの馬の世話を任せ、彼らはさらに道を先に進んでいった。洞窟内のどこがどのように繋がっているかさえわかっていれば、近道できるということであったが、まずは町の全体を見たほうがいいだろうとのことで、徒歩で巨石岩を回り込むような形で道を進んでいった。


 暮らしのほうは、渓谷にある川から水を引き、羊や山羊を放牧して生計を立てているという。あとは菜園で取れた野菜や果物による自給自足、残りの必要なものは一番近い他の村や町などに収穫物を売ることで手に入れているということだった。


「そうか。それはやはり……申し訳ないことをしたのだろうな」


 挨拶がすむと、他の多くの修道僧たちや町の代表者たちは、それぞれ穴蔵の中へ再び消えていった。残ったのはクリムストールと、彼の側近のような立場なのだろう僧侶二名といったところである。


「何故ですか?」失礼にならぬよう、クリムストールは柔らかな微笑みを口許に浮かべている。「我々は王……いいえ、この国の王子さまの申しつけ通りにするのは当然のことと思っておりまする。むしろ<らい者の塔>の者のことなど……普通であれば見て見ぬふりをして捨て置くところでしょう。そのことでも聖女さまは喜んでおいででしたよ。『そのような方の上に、黄金の星の王冠輝く御世に生きられる我々国民は幸せです』と、そう申しておりました」


「いや……疫病に対する偏見から、ここから近い場所にある町や村において、物の売り買いを断られるということはおそらく今後起きてくるだろう。そうだな……物資のほうは十分すぎるくらい、こちらから送ることにしようと思うが、必要なものがあれば、それが薬でも下着でも、使いの者に必要なリストを渡すといい。俺もなかなか忙しい身なのでな、それでも半年か一年と経たぬうち、物資が滞りはじめたのなんだの、事務手続きがどうのと、おそらく何か問題が起きはじめるに違いない。そうした時にはやはり使者にその旨を伝え、なんだったら俺宛ての手紙でも持たせるといい」


「ありがとうございます。よもや、そこまでお考えいただけるとは……」


 クリムストールは恭しく礼をしつつ、内心で感心した。星読みによれば、リッカルロ・リア=リヴェリオンが次の<東王朝>の王になったとすれば、彼の孫の代まではおそらく平和な世が続くであろう、と出ている。また、クリムストールは折を見て、他にも王子に伝えねばならぬことがあった。


 クリムストールはこの時、リノル教の聖女について、リッカルロがあれこれ聞いてこないことでも感心したかもしれない。普通であれば、どのような人物であるのか、聖女とはどうやってなるものなのか、年齢は、容貌は、若いのか美しいのか……などなど、好奇心から聞いてきたとしても不思議ではない。だが、リッカルロの宗教に対する考え方というのは次のようなものだったのである。多くの領地を抱える<東王朝>は、その土地の隅から隅に至るまで神と呼ばれるものが、ほぼ無数に存在するといって過言でない。ゆえに、リッカルロとしてはその土地を訪れる際、それがどのようなつまらぬ偽りとしか思えぬ神であろうとも――表面的であったにせよ、とにかく尊重することにしているわけである。彼にしても聖女と呼ばれる、自分が王になると宣告した人物にまったく興味がなかったというわけではない。だが、(所詮はただの少しばかり霊感が強いか何かする、そこらの女なのだろう)といった態度を取るのは、明らかに愚かなことだった。


 洞窟内は涼しく、場所によってはかなりの広さがあった。大抵の場合、住み良いように、近くの岩盤までくり抜くことによってある程度の広さを確保するということだったが、今は人が住んでいない住居にも岩の竈や天然の石のテーブルや椅子らしきものが残っており、リッカルロはそれを見ただけでも、ここの人々の暮らし向きがわかるような気がしたものである。


「ここには優秀な石工がたくさんおりますでな」


 クリムストールよりも年がいっており、彼のほうが長老然として見える、ナヴィルという男が言った。リッカルロたちの見たところ、少し前まで彼が修道院長であり長老のような立場であったのでないかと思われた。年を取ったことにより、おそらく世代交代することになったのではないかと。


「いや、石工でなくとも、自分の住む家の竈やテーブルといったものについては、大抵の者が自作で作れますわな。石工というのは、もうちょっと洗練された棚といったものや、細かい細工付きのそうしたものが欲しいといった時に……まあ、そんな仕事をするわけでして」


 ナヴィルの言葉のとおり、彼らの修道院となっている巨岩の岩室群の一角に辿り着いてみると、そこは別世界かと思われるほど、洞窟内は隅から隅まで壮麗な彫刻によって覆われていたものである。天井も壁も、今まで見てきた場所とは違い、四角く綺麗に部屋や通路として整えられており、柱のひとつひとつに繊細な模様が彫り込まれていたものである。


 そんな中で、リッカルロが特に心を惹かれたのが、壁の彫刻画だった。おそらく、リノル教の開祖であるリノレネの生涯について順に描写されていたに違いない。だが、それだけでは説明のつかない壁面に刻みつけられた絵画もあり……リッカルロはもし時間があったとすれば、その意味についてもクリムストールらに聞いてみたいと思っていた。


 ただの<視察>ということであれば、<らい者の塔>の患者たちや傷病兵らを移すのに、場所として十分な広さがあり、看護できる人間も確保できそうだ――ということさえわかれば、長居の必要はなかったに違いない。だが、クリムストールらの薦めもあって、<らい者の塔>のほうへは使いの者を出し、彼らが無事ここへ運ばれてくるまでの間、リッカルロはこのまま滞在することにしていた。食事のほうは質素なものしか出てこなかったし、あまり長くオールバニ領のほうを留守に出来ないという事情もあったが、結局のところリッカルロはこの巨石の岩室群のひとつが病院として十分機能しそうだというところまで見届けてから、リノル教の聖地を後にすることになったわけである。


 当初は、ヴァン・クォー伯が<聖ジルベルト病院>と名づけた病院が建て上がるまで――という約束だったが、リッカルロがオールバニ領へ帰還してのち、その四か月後に聖ジル病院が竣工しても、そちらへ移動する患者たちは少なかったと言える。何故かといえば、傷病兵に関していえば、軽~中程度の怪我を負った者であればその頃にはすっかり快復していたからであり、彼らの中にはそこへ残って暮らし続けた者のみならず、リノル教に改宗した者さえいたほどであったからだ。


 簡単にいえば、ここリノル教の聖地は、そのくらい居心地が良かったのである。患者らの看病のほうは、修道僧や修道女らが中心になってはじめたのだったが、彼らの思いやり深さや細かい気遣いに感動した者は多かった。ここには宗教の別に関係なく、真の平和と一致が存在し、問題がまったく存在しないわけでなかったにせよ、みなが貧しいながら幸福に暮らしていたのである。こうした共同体としての健全さというのは、他のもっと大きな規模の城砦都市のような場所では見られぬものでもあったろう。リッカルロ自身、そのことに特別な感銘を覚えていたし、何より彼がほっとしたのは――らい者や、それに類する皮膚病、あるいはもっと別の悪質な病に罹患している重病者に対する偏見が、この地の者には見られなかったということである。


 最北端の塔や最南端にいる者たちは、神経疾患により、自分の足では歩けぬ者や、移動に看護人の助けを必要とする者も多かった。ゆえに、彼らはまるで互いに口裏でも合わせたように「他の者たちはともかく、自分のことはここに捨て置き、静かに死なせてくれ」と言ったということだった。だが、クリムストール以下、他の修道僧や修道女たちも、「連れてきてください」と膝を折ってリッカルロに頼んでいたのである。彼らはらい病というものに対する知識が浅いのではないかとリッカルロは思い、一応色々説明することにはしたが、僧侶たちはまるで、「わかっておられないのではあなたのほうです」とばかり首を振り、同じ要請を繰り返したわけであった。


 リッカルロが人前で口許の布覆いを取らないのは、ある種の礼儀による場合が多いのだったが――それでも、「ここまで醜いとは思わなかった」というような、人がハッと息を飲む瞬間というのを、今までの人生で彼は何度となく経験している。ゆえに、らい病の進んだ患者たちの顔や手足その他の崩れた皮膚の患部を見て、彼らもまた似たようなショックを受けるのでないかと危惧したのだが、驚いたことに実際にはそんなこともほとんど起こらなかったのである。


 看病の甲斐なく死んで葬られた者も中にはいたが、みな人間らしく扱われ、そこに蔑みではなく「崇敬の念」に近いものをもって看護されつつ最期の時を迎えていたがゆえに……彼らは悲しみではなく、喜びの涙を流しながら死んでいった者のほうが多いくらいであった。リッカルロはこうした、社会の理想が部分的ながら実現されているのを見るにつけ、人間や国全体がそのようになれぬのは何故なのかということについて――こののちも終生に渡り、時に思い悩むということになる。




 >>続く。






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