第6章
もしかしたらリッカルロは、以前とまったく同じようにレイラ=ハクスレイとの恋愛関係に夢中になっていたとしたら――戦争で怪我を負った傷病兵のいる病院を慰問することはなかったかもしれない。というのも、その病棟群は戦争で怪我をした傷病兵のみならず、それ以前に疫病その他で隔離された病人たちも存在したからであり、ティボルトやマキューシオが心配したように、なんらかの伝染病に感染する確率は決してゼロではなかったからである。
無論、もしレイラの目が見えていないとリッカルロが以前と同じく信じていたら、彼女にその伝染病が移る可能性をゼロにするために、そのような場所へは絶対近づかなかったに違いない……という意味でもなければ、目の見えるレイラには数パーセント程度であればらい病や天然痘その他、移る可能性のあることは看過してもらわねばならん――などというように彼は考えていたわけでもない。
もっとも、レイラはリッカルロが傷病兵を見舞いに行くと聞くと、一緒に来たがった。だが、恋人が断固反対すると、彼女はふてくされたようになってからしくしく泣きだしたのだが、リッカルロは適当に恋人のことを慰めて、翌日にはオールバニー公爵領を出、アル=ワディ川から東へ約百四十キロ地点にある、<らい者の塔>と呼ばれるところまでやって来た。戦争のほうが一応の終結を見、リッカルロが帰国して三か月後のことである。
この近くにはマクヴェス侯爵領があり、リッカルロは騎馬兵の一団とともに、森の中の侯爵所有の別荘のひとつを使わせてもらうことにしていた。ここへやって来るまでにも、エスカラス公爵領、ハリス伯爵領を通り、三週間もの旅の道程だった。また、戦争の物資を運ぶのにもマクヴェス侯爵領は重要な拠点のひとつであり、侯爵は「この機会に大いに恩を売っておこう」と考えてか、戦争資金の面においても、物資の運搬といった点においても、二万もの兵を率いて出征したという点においても――マクドゥーガル・マクダイン・マクヴェス侯爵は実に協力的であり、リッカルロはこの侯爵のことを個人的には好まなかったが、自分の異母弟の祖父にあたるという意味においても、その歓待を受けぬわけにはいかなかったという事情がある。
リッカルロは三十名ほどの精鋭を率いて<らい者の塔>を目指したのだったが、互いにみな気心の知れた仲であり、言ってみれば彼の親衛隊にも等しい部隊だったと言える。とはいえ、明日にはマクヴェス侯爵領に入るという前日、彼らはその全員が「暗殺」という可能性について話しあっていたものである。というのも、<らい者の塔>はマクヴェス侯爵領から行くのがもっとも近いのだったし、隣のファイフランド伯爵領を通って遠回りしたことがのちのちわかっては、戦争において功労のあったマクヴェス侯爵に対し失礼千万というものだったろう。ゆえに、リッカルロは前もって使者に『傷病兵を見舞う』旨を伝えた手紙を持たせておいたわけである。
「いやあ、戦争の傷病兵のお見舞いとは、なんとも感心なことですな、リッカルロ王子」
戦争に出征したのは、マクヴェス侯爵の息子のひとり、マクヴェインであり、この時も彼が別荘のほうで三十名もの騎馬兵らを快く迎え、あれこれと世話を焼いてくれたわけであった。マクヴェインは三十代であり、リッカルロより十も年上であったが、ともに戦争を戦った盟友といったざっくばらんさでもてなしてくれたものである。
「ですが、私にはよくわかりませんな。こう申してはなんですが、<らい者の塔>というのは、この世のいらなくなった者の吹き溜まり……いえ、ウォッホン。らい病で皮膚の醜く崩れた連中や、らい病でなくても、大体似たようななんらかの皮膚病を患う者が放り込まれていたり、その他よくわからん病気の行き場のない者たちがやって来る場所ですからな。別名<死者の塔>とはよく言ったものでして、<西王朝>から兵がやって来た場合の物見やぐらとしての役割も果たしておりますが、今回のように実際に戦争があった際には、傷病兵らはここへ担ぎ込まれて二度と本国へは戻って来ない――なんてことも、遥か昔からずっとあったことでしょうしな」
(リア王朝の次代の王ともあろう方が、そんなところへ行って一体どうなさろうというのです?)
そのような疑問をマクヴェイン・マクラウド・マクヴェス子爵から感じると、リッカルロは内心で笑った。別荘の大広間は広く、三十名もの兵士らが並んで食事が出来るほどの大きなテーブルまで用意されていた。リッカルロは座りなれた上座に座り、右隣にいるマクヴェインに旅のねぎらいの言葉と乾杯ののち、そんなふうに話しかけられていたわけであった。ちなみに、リッカルロの左隣には騎馬隊長のファイフ・ディ・アナンが渋い顔をして食事をしている。
「まあ、そんなふうに見捨てるようにして置いてきた兵士らのことが心配でな。それに、<西王朝>の領地へ入る前に、最後に十分満足な食事をしたのが<らい者の塔>のある城砦でのことでもあったし……本国からの兵の補充や交替といった際にも、あそこは必ず通る。塔の管理官は、あそこを三十名ほどの守備隊らとともに守っているが、あの場所が病人で溢れているのは理由あってのことだ。理由その一、『らい者を隔離するため』、理由その二、『<西王朝>が攻めて来た際、拠点として使われぬようにするため』だ。また、そこにいる病人らを殺すか砂漠の中へ追い出すかして拠点として使おうにも――何分、ひとつひとつの塔は離れているのみならず、軍の拠点にするにはあまりに脆弱というわけだな。それに、あんな砂漠の真ん中に長く居座るだけ兵士が消耗するだけだといった事情もある……だが、俺は今回、そのような場所があると聞いてはいたが、実際に自分の目で見て気が変わったわけだ。あの場所はこれから、どうにかせねばならん」
「どうにかとは?」
マクヴェインは、ファイフのほうには目もくれなかった。白髪頭の年のいった軍人で、頑固親父を絵に描いたような男と話しても、有益な会話など何ひとつ出来まいと、最初からそう決めてかかっているらしい。
「そうだな。これからもう一度行って、どこか他の場所……適当な治療施設でも建て、そちらへ移動してもらうのがいいのではないかと考えている。あんな劣悪な環境に捨て置かれているのは、それだけでも人間扱いされず、「死ね」と言っているも同然ではないか。それに、そんな場所に今回の戦争で傷を負った者がほとんどぎゅう詰めになって、本国のまともな施療院のほうへ移れるのを待っているのだぞ。彼らはたぶん今ごろ、自分たちは用なしとなって捨てられたとでも思い、傷の痛みに呻いていることだろう。俺としては、彼らのことを救うのみならず、他の前からいる患者たちのこともみな、もう少しなんとかしてやらねばならんと思ったまでのことだ」
この間、ファイフは何も言わなかったが、ちょっとだけズズ、とスープを音を立てて吸い、マクヴェインが不愉快になればいいと考え、薄気味悪くニヤリと笑ってみせた。(ふふん。我々の王子さまはな、おまえらマクヴェス一族とはそもそも器の大きさが違うのよ)と、この老軍人は思っていたが、口に出しては何も言わなかった。
「いやあ、しかし……そんな都合の良い場所など、一体どこにありますかな?」
<らい者の塔>から一番近いのが自分たちの領地とわかっているマクヴェインは、途端に空とぼけた様子でそんなことを聞いている。
「まあ、それはおいおい考えるとして……マクヴェイン、貴公が何かと頭を悩ませる必要は一切ないとだけ、先に言っておこう。なんにしても、このような素晴らしい別荘に宿を貸していただき、大変有難いことだ。何分、みな戦争が終わったばかりで、暫くは休みたいところだろうに、俺の話を聞くと嘆願までして一緒についてきたがった連中ばかりなのでな。本当に、申し分ない食事と酒の味に感謝する」
「いえいえ、この程度のこと、リア王朝に仕える家臣として、当然すぎるほど当然のことでございますが……それにしてもまったく感心なことですな。王子さま自らが傷病兵の見舞いとは。彼らもリッカルロさまの訪問を知れば、ただそれだけで大変喜び、傷も癒されるのが早まるくらいでありましょう」
このあとは、病いの床に着いているリア王のことや、彼の姉メアリ=マライアの生んだふたりの王子のことなど、ありきたりな世間話が続いた。もちろんリッカルロにはわかっていた。マクヴェインが第一王子の自分にどの程度「野心」があるのか、その部分を一番知りたいのだろうということは。また、リア王についていえば「病いの床に着いている」などと言っても、両足が動かないというだけで、頭のほうは以前と同じく冴え渡り、矍鑠としてさえいるのだ。これはリッカルロが勝手にそうと推測していることであるが、王である親父殿は足が動かなくなる病気になると同時、いよいよ双子王子のどちらかに王位を継がせるにはどうしたらいいかと具体的に算段するようになったものと思われた。王としての政務は、足が動かないだけであるゆえに、以前と同じく政治顧問官らを通じ、次々に色々な命令を飛ばしているらしい。そして、第一王子の自分を戦争へ向かわせたのも、そうすることで<西王朝>のどこぞの猛将のひとりが息子を亡き者にしてくれれば実に都合がよい……そのように考えてのことだったに違いない。
「今回は、暗殺の心配はなさそうですな」
鹿肉のステーキや牛タンのシチュー、スズキのソテーなど、たっぷりした美味しい食事をいただくと、王子専用に用意された二階の寝室にて、ファイフはニヤリと不敵に笑っていた。
「だろうな」と、リッカルロ。「何分、彼らとしては俺が天然痘にでもかかって死んでくれれば万々歳といったところだろうからな。その前にわざわざ闇に乗じて暗殺団を派遣するような危険を犯す必要はあるまい。なんにしても、可哀想な一人寝の王子さまのために、可愛い娘をあてがってくれるようなことを遠回しに言われたが断った。まったく、なんというおそろしい男だろうな」
ファイフのみならず、その場にいた数名の騎馬兵らも声に出して大笑いした。彼らはその全員が、リッカルロがもっとも信頼する近衛隊にも等しい戦士たちである。
「マクヴェス家の者から売られた恩を一買おうものなら、その十倍は軽く取り立てられることになるでしょうからね」
「いやいや、まったく。リッカルロさま、賢明でしたな。食事を運んできた娘に、ひとり目を惹く娘がおりましたが、おそらく彼女でしょう。ですがまあ、我々のことならばお気になさらなくて大丈夫ですよ。何分、結構な勢いで馬を飛ばして来ましたからね。今夜あたりはみな翌朝までぐっすり眠りこんで目など覚めないでしょう」
「そうだ、そうだ。きっとあの娘のほうでも今ごろがっかりしているでしょうな。すっかりそのつもりでいたのに、王子の夜伽ぎをするという栄誉を失ってしまったわけですから」
(やれやれ)というように、リッカルロは肩を竦めて笑った。食事の皿を運んできた侍女らしき娘に、一際目を惹く容貌の娘がいたのは確かだった。
「なんだったら、おまえたちの間でくじ引きをするか、トランプ遊びで買った者が、マクヴェス子爵の与えてくださる娘御の相手をしても良いのだぞ。そのほうがあの娘のほうでも、俺のような醜男の夜伽ぎをするよりよほどラッキーだったと思うことだろう」
リッカルロとこの精鋭部隊の部下たちの間には、主従関係による特別な絆があったため、王子という身分の彼がこうした軽口を叩いても、戸惑いのようなものは一切ない。
「リッカルロさま、そりゃ後生ですよ」
「そうですよ。こんなむさくるしい男だけの夜を、俺たちゃ暫くは続けにゃならんのですから、ひとりだけそんないい思いをした奴がいたとあっちゃ、部隊の規律が乱れるってもんです。というか、明日にはみんなでそいつをサンドバッグにしてやって、砂漠へ出たらその遺体袋をどっか適当なところへ捨てるってことになりますよ」
「まあ、もうちょっと時間があるか、我々がこの別荘へただ物見遊山がてら遊びに来てるというのであれば……ひとりの娘を巡って恋の鞘当てとばかり、剣術や弓術で競いあうのも一興やも知れませぬ。が、今回我々には、先にあった戦で捨て置いてきた同胞を救うという崇高な目的がございますからな。女子のことは今は一時忘れておきましょうや」
みながそんなふうに言い合い、笑っているのを見ると、リッカルロは安心し、ほっとした。彼自身、実に不思議に感じているのだが、今回の戦争のことで自分を恨みに思うような者がいないということ――いや、おそらくいるには違いないが、ここまでの犠牲を払ったにも関わらず、その結果が勝ったとも負けたとも言えぬ玉虫色で終わったことに対しても、リッカルロは自分の王子としての評判に傷がついたり、その権威が失墜したようにも感じていなかった。そうであったとしても仕方のないことと、本国へ引き上げる決断を下した時には諦めていたにも関わらず。
翌日、リッカルロ一行は砂漠へ入り、七つある<らい者の塔>の中で建物が一番大きく、常駐している守備隊が拠点とする石造りの城砦までやって来ると、ふたつの大きな塔に挟まれた大門を叩いた。城門の二重の落とし扉はどちらも上がっており、近いうちにリッカルロ王子の一行が再訪すると使者から聞かされていたためだろう、バルティザンと呼ばれる監視哨の小塔より、それらしき姿が遠くから見えるなり、この中央城砦にいた二十名ほどの守備兵らは城門から続く狭い内庭に整列していたものである。
「苦しゅうないぞ、アストランス守備隊長」
中央城砦は、激しい日照りと長い年月風と砂に洗われ続けたことで、積み重ねた石の表面が、はっきりそれとわかるほど摩耗している。また、守備兵らは数か月おきの交替制なのだが、ここへ来た者はみな、帰る頃にはすっかり体から水分の抜けた皮膚、パサパサの髪質になって戻っていくといったような具合だった。
戦争の際、こちらへ立ち寄った時、アストリア・アストランス守備隊長が地味な風采ながら実に素晴らしい人格者であることを知れたことは、リッカルロにとって大きな収穫であった。この城砦には、今回の戦争の傷病兵の他に、もともと比較的病気の軽いものが塔の各階に収容されていた。城砦の建物と建物の間、いたるところに天幕が張られ、怪我で倒れた三百名以上もの兵士らが不潔な状態で、今もそのまま横たわっている。それでも彼らは、「リッカルロ王子が来られた」と聞くと、ただそれだけで喜んでいたものである。
城壁登攀の際、石弓の鋭く重い矢に倒れた者、ベルフリーと呼ばれる攻城塔のてっぺんから城壁上の敵兵と対峙したものの、剣に倒れて落下した者、熱した油をかけられ、大火傷した者などなど……怪我の程度は様々だったが、医師の話によれば、大抵の患者が半年以内には自分の家のほうへ戻れるだろうということであった。そして、彼らひとりひとりを見舞いつつリッカルロが思ったのは、この兵士たちの中で自分に対し恨みの思いを抱いているように感じる者がひとりとしていなかったことだろうか。むしろ、<王子>という身分の自分がただここへやって来たというそれだけで、まるで聖人がやって来たとでもいうように、一同が特殊な、決して表面的でない深い感動に包まれているらしきことがわかるばかりだったのである。
(おまえのせいで俺たちはこんな目に、とは少しも思ってみないのだな……)
そう思うと、リッカルロとしてもまったく不思議であった。また、この自分の民である者たちと、涙と切なさによる、特殊な絆で結びついているようにも感じ――彼はひとつひとつの天幕を回った時、「歩けるようになるか、移動することが可能な者から順に、もっと涼しい場所で治療を受けることが出来るからな」と、兵士らの肩や腕などに触れつつ、励ましていたものだった。また実際、これは本当のことでもあった。マクヴェス一族が「そのことでもリッカルロ王子に恩を売っておこう」とまでは考えてないとわかっているため、リッカルロはその時点で隣の領地のヴァン・クォー伯爵に新しく病院を即席で建設してもらえまいかと打診していたわけである。
ヴァン・クォー伯にも、「流石にそれは無理がすぎるというもの」といったように遠回しに断られたとしたら、リッカルロはサッカレイ伯爵に頼むつもりでいたが、ヴァン・クォーが「新しく病院を建設するには時間がかかるため」、それまでの間、まずは仮設の治療院と出来る建物をお貸ししましょう……といったように申し出てくれたので、ここにいる負傷兵士らは、近くそちらへ移動できるはずなのである。
この翌日、リッカルロはさらに他の、らい者たちの中でも特に重症の者が住むという北の塔や南の塔へ向かうことにした。というのも、らい者の中でも特に皮膚症状や神経疾患の重い患者たちは、完全に隔離された、ここから六十キロばかりも離れた塔に住んでいると聞いたからである。無論、こう聞くとおそらく多くの者が、中央城砦は一番面積の広い場所なのに、比較的軽症の者が暮らしているのは、ある種の強い偏見や贔屓によるものだろう……と、そのように想像するかもしれない。だが、決められた物資のみによってせめても治療らしきものを行なうには、アストランスにとって他にどうしようもないことだった。何分、中央城砦は<西王朝>の動向を監視するという守備の任も兼ねていることから――ここでらい病その他の伝染病が流行ったというのでは、業務に支障をきたす。そこで、ここにはなんらかの病状が比較的軽度な者が城内の居住区域で暮らしていたわけである。といっても、彼らはこの砂漠の暑い中を、他に六つある塔を医師や看護士らについて巡回し、介護員としても働いていたのであるから、その暮らしぶりは決して楽なものではなかった。だが、最初はらい病を疑われ、その疑いが晴れたあとでも故郷に居場所のない者などが、ここへ残ってそうした務めに就いていたわけであった。
「そんな、本物のらい病人のいる塔にまで行くことはないじゃありませんか」と、リッカルロとともに来た騎馬兵らは反対したものだった。彼らの多くは、リッカルロを媒介して自分たちにもらい病が移るのではないか……ということについては恐れていないが、この第一王子に万が一のことがあってはと、そのことを何より恐れていたのである。
だが、リッカルロは彼らの気持ちが痛いほどわかっていながらも、やはり当初の予定通り、他の六つの塔についても順に視察することにしていた。<らい者の塔>のほうは、中央城砦よりも小規模な、五階建てほどの塔内に患者たちは暮らしていた。リッカルロはてっきり、「世を儚んだ世捨て人の暮らす塔」といったように想像していたが、最北端と最南端にある、もっとも重症な罹患者たちの暮らす塔以外は、実際はそれほどでなかったと言える。リッカルロは刑務所のような場所を慰問した経験まではなかったが、その収容所群は彼に刑務所のような心象を与えていたものである。
リッカルロはファイフ含めた、五名ほどの部下、それに医師ひとりと看護士ふたり、介護員三人……といった計十一名の者たちと、まずは北にある三つの塔を順に回った。ひとつ目の塔のほうは、軽症の者が多く、普段は彼らが主体となってふたつ目の塔や、最北端の重傷者のいる塔まで、患者の世話をしに回っているということであった。だが、そこには「嫌々ながら」という空気感がつきまとっているようであったし、ここへ流れてくる数少ない物資というのは、ここをボスとして治めているに等しい人物を頂点として、その下へ順に落ちていくという、そのような構造をしているらしかった。
「これらの場所に改革が必要だということは、私がまず真っ先に認めるところです」と、ひとつ目の塔に宿泊時、アストランスは認めていた。「ですが、私がここへ赴任してきて六年になりますが、らい病やその他の皮膚病を疑われた者だけでなく、とにかくなんらかの手に負えない病気にかかっている者は、まるで姥捨て山よろしく、この砂漠の塔へ送られてくる場合が多いのですよ。基本的に年寄りの場合は、その町なり村なりで最後まで看取ってもらうようにしているのですが、時々、何を勘違いしてか、ゴロツキやヤクザのような連中がその中に混ざっていることがあるのです。ようするに、なんらかの悪さを街などて働き、居場所のなくなったような者たちがやって来ることがあるのですな。ここ、北の第一の塔と南の第一の塔は、そんな元締めのような連中が、比較的病気の軽い者たちを顎でこき使っているといったような環境なのです。恥かしながら……」
「いや、悪いのは国の行政のほうだろう」
リッカルロは、その点をまず真っ先に認めた。だが、そんなならず者やゴロツキのような者ですら、今回の戦争で傷病者が出ると、その看病には労を惜しまなかったのである。その点についてはリッカルロもアストランスもまったく感心したものだった。
「俺も、もう少し早くにここへ来ていたら良かったのかもしれない。医師も看護する人間の数も、物資も、何もかもが足りてない。そもそもこんな砂漠の周囲に何もないような場所に、一体誰が好きこのんでやって来るというんだ?隔離政策を取るにしても、町や村の外れであるとか、もう少し場所のほうを考えたら良かったのだ」
アストランスもファイフも、リッカルロのこの意見を、実情を知らぬ人間の楽観論とは思ったが、何も言わなかった。中央城砦に続いて、ここ北の第一の塔においても「第一王子が来られた」というだけで、傷病兵たちはある種の感動に包まれていたからである。それは、「自分たちは見捨てられていなかった」という喜びの涙であり、「そのような高貴な方が、我々下々の者を見舞ってくださった」と、深く心を慰められることでもあったに違いない。
北の第二の塔では、手や足や顔などに、らい病に特有の皮膚のただれを持つ患者たちが、神経節を侵され、歩けないのを助けてもらいつつ用を足したり、日常生活の世話をしてもらうといった姿が目立つようになった。食事のほうも極めて質素なものであり、あとはなんの喜びも楽しみもなく、ただ硬い石の床に粗末な寝具を敷いて横になるばかり……といった病人たちの姿を見て、リッカルロは深く心を痛めた。中には天然痘のあばたが顔に残っている者もおり、彼らはまったく健康元気であったが、ここでらい者や他の何がしかの病いで重症の床にある者たちの世話をしているとのことだった。
リッカルロはこうした光景にも胸を打たれるものがあったが、さらにこの翌日、最北端の塔を訪問すると、彼の胸の痛みは頂点に達するに等しいものがあったに違いない。入口の門へ入った時から、らい病に特有の悪臭が漂ってきはじめ、そこでは顔も手足も、衣服を纏っていない部分から見える皮膚が膿み爛れ、崩れている患者たちが何人となく横たわっていたからであった。そして、彼らはリッカルロが何者であるかがわかると、ハッとした顔つきになり、「早く帰りなされ、王子さま……!!」と口々に言ったのだった。
「慰問であれば、もう十分です」
「そして、ここを出たらすぐ第二の塔ででも、風呂の用意をしてもらい、体中よく洗うことですじゃ」
「ああ、もったいない、もったいない……よもや王子さまがこんなところまでやって来てくださるとは……」
リッカルロはここでも、聖人でも拝むかのように手を合わせられたが、医師の勧めにより短時間の訪問で済ませたとはいえ、彼は皮膚が爛れてボロボロになったらい者たちのことを、その後いつまでも忘れられなかった。この時代、「病人悪行説」というものは根強く、なんらかの病気に人が罹患するのは、それまで生きてきた人生の何かが悪かったからであり、病いはその罰である……と考える迷信というのがまだまだ一般的に信じられていたのである。だが、リッカルロはそうした考え方はまったくしなかった。何故なら、それでいくと彼自身、前世でよほど因業の深い罪に溺れた生活を送り、悔い改めなかったことから、今このような口蓋奇形で生まれてきたということになってしまうだろう。
最北端の塔で、疫病を癒すと言い伝えられる女神ジルベルトの神殿でともに祈ってから、リッカルロはこの場所をあとにしていたが――この時ほど彼の心が神聖な思いで満たされたことは、あとにも先にもないほどであった。彼は単なる口約束でなく、「必ずもっといい施療院へ移れる」ということや、待遇の改善について熱心に約束していたわけであるが、らい者たちは国の第一王子の言葉に頷きながらも……リッカルロにはわかった。彼らが最早何ものに対しても、なんの期待も希望も抱いていないのだということが。言い換えれば、そのくらいこの塔に住む者たちの絶望は深く、闇のように黒く塗り固められていたと言えただろう。
リッカルロはこの時点ですぐ、サターナイナス=ヴァン・クォー伯爵に使者を送ることにしていた。傷病兵らを収容するための病院であれば、流石に準備するのにもっと日数を要するということは、彼にしてもよくわかっている。だが、こんな砂漠の、人がやって来ることなどまず滅多にない最悪の環境からは――とにかく一日も早く、少なくともここよりマシな場所へ移れるに越したことはないとしか思えなかった。滅多に人が訪問することがなかったにせよ、塔の窓から、時に人の往来を遠く眺めることがあったり、あるいは一面砂漠以外何もないというのではなく、せめても自然の豊かさに周囲を囲まれ、花といった植物を愛でることが出来るだけでも相当違うのではないかと彼は思った。何より病人には、どう考えてももっと涼しい環境が必要だとしか思えなかったということもある。
こうした状況は、次に南の第一の塔や第二の塔、それに同じように重病者の多い最南端にあるらい者の塔を訪れた時も、大体同じだったと言える。ただ、その中で特に違った点はといえば、南の第一の塔と第二の塔には、今回の戦争で捕虜となった<西王朝>の兵士らが多くいたという点だったに違いない。近いうち、<西王朝>側に捕えられた兵士と交換する予定ではあったが、彼らの落胆ぶりはらい病の患部が体のどこかに見つかった時以上にひどいものがあったようである。おそらくは、もう自分たちは二度と祖国の土を踏むことはあるまい……と信じて疑ってもいないような、それは絶望の表情だった。
<東王朝>と<西王朝>は、元はひとつの民族だったのが、ふたつの王国に分かたれてしまったという歴史的経緯があり、ゆえに見た目は特徴として、お互いに大きな差異はない。また、言語構造もよく似ており、言葉の語尾変化が違ったり、文法の語順に差異がある――といった程度の違いしかないため、言葉のほうも大体のところ通じる。たとえば、「あなたの・名前は・なんですか?」が「名前は・なんですか・あなたは?」であったり、「あなたのおばあさんは・きのう・亡くなりました」が、「死んでいます・あなたのおばあさん・きのう」といったくらいの違い、あるいは言葉や文章のほうがもっと複雑になったにせよ、文脈から推して大体のところ意味は想像できるわけであった。
だが、リッカルロたちは南の第一の塔を訪れた時、こうした言語の差によってではなく、見た目の雰囲気によって捕虜のほうは大体のところすぐ見分けがついたものである。また、こうした捕虜たちに<東王朝>のリア人たちがいかにも奢り高ぶった態度を取っていることからも――すぐにそれとわかったところがある。
そんな中、リッカルロの目についた一人の捕虜の姿があった。彼は<西王朝>側の歩兵であり、<東王朝>側の騎馬兵に蹴散らされ、他の歩兵の死体の下敷きになっていたところを捕虜として捕えられたのであった。そしてその傍らには白髪頭の老婆がおり、この若者の看病を甲斐甲斐しく行っていたわけである。
「あの見苦しいババアは、あの若者の母親だそうですよ。見たとこ、結構年がいってから出来た息子なんでしょうな。息子が捕虜になったと聞いて、半狂乱になってここまでやって来たんですよ。いや、まったく大したもんですよ、母親の愛情ってやつはね……砂漠を越えてここまでやって来たところで、息子がいるとは限らないし、何よりすでに死んでいる可能性のほうが高い。それなのに、生きている可能性が1%でもあるならと、はるばるここまで旅してやって来たのですからな。しかも、もはやさして若くもない、あんな白髪頭のババアがですよ。アストランス守備隊長がそのことにいたく感動され、なんでも彼女の好きなとおり、言ったとおりにしてやれとおっしゃるので……あの若者のほうでも以降、随分助かっておるようです。というのも、大して戦いもせず、戦局が悪いようだと見て、味方の死体の中に潜り込み、死んだ振りをしてやりすごそうとしたようなこすい野郎でして……そんなわけで、味方の捕虜仲間からは渋い顔をされ、我々敵国人からは「大した怪我でもあるまい。そういうことであれば働け」と顎でこき使っておったところだったものですから。かといってあの若者、自分の年老いた母に対してさほど感謝もしてないようなんですな。最初こそ、親子の感動の再会といったことがあったわけですが、そのことにもすっかり慣れると、おふくろのおっぱいがどうだの、みんなにからかわれはじめたもんで、そのことでふてくされておるのですよ」
「あの若者、名はなんというのだ?」
南の第一の塔の責任者であるコレリー管理官は、赤銅色をした肌の、頑健そうな中年男だった。捕虜に命令を下すのに鞭を手にしているが、言葉で脅す時に使うだけで、よほどのことでもなければ実際に使用することはないという。
「ウィルフレッドというそうですよ。それで、ババア……いえ、失礼。おばあさまのほうはウルリカさんとおっしゃいましたかな」
彼がウィルフレッドと名乗ると、大抵の者が笑った。軍の中でも最下層の歩兵にはまったくもったいない名だ、といったような理由によって。
「ウィルフレッドよ、母のことを大切にしろよ」
リッカルロがファイフを傍らに連れてそう話しかけると、ウィルのほうではハッとしていた。横になっていた寝床から身を起こし、石畳の床に額をつけんばかりにして敵国の王子に頭を下げる。
「して、老婆よ。ウルリカ殿とおっしゃったかな。息子が死んでいるとは思わず、生きていると信じ、よくぞこんなところまで参ったものだ。良い機会だ。何か入りようのものでもあれば、俺がここにいる間に申されよ」
「はっ、はは~っ!!」
息子のウィリーの隣で、同じように石畳の床に頭をへばりつけながら、ウルリカは恐縮した。息子が、自分のことでからかわれるのを恥かしく思っているとわかってはいたが、彼女はここへやって来て良かったと思っていた。その上、敵国とはいえ、よもや王子という身分の人物にまでこうして見まえることが出来るとは……今の今まで想像してみたことさえなかったのだから。
「いえ、王子さま……このようなババアになんともったいないお声がけでございましょうか。入りようのものなどとは、まったくもってもったいない……いえ、このババアめも息子も、ここで十分満足して暮らしておりまする」
「まさか、そんなはずなかろう。ここには女性の患者もいれば、女性の看護者もいるとはいえ、婦人に特有の必要なものなど、男というものはまったく気が利かないからな。何かそうしたもので必要なものなどいくらもあるに違いない。かといって、清潔な下着ひとつ新しく支給するのも、今のこの状況では難しい。ウィルフレッドよ、そなたのほうは見たところ、大した怪我でもないようだ。近いうち、<西王朝>とは捕虜の交換を行うことになるであろうが……その時には母のことを大切にして、故郷で達者に暮らすのだぞ」
リッカルロがそう声をかけ、他の傷病兵たちが横になっている場所へ移ろうとした時のことだった。ウィルフレッドが頭を下げた姿勢のまま、最後にこう言ったのである。
「王子さま、このウィルフレッド、忠心からお願いがございます」
途端、まわりに雑然と寝床に横になるばかりの捕虜や傷病兵たちが、ざわつきはじめた。というのも、ウィリーが「忠心から」などという言葉を使ったせいである。
「なんだ?申してみよ」
「私めは、故郷へなぞ特に戻りたくもないのでございます。それよりも、もし王子さまのお許しが得られましたならば……王子さまの国内にて、一生懸命働いて暮らしたいのでございます。私もこの母も、貧しいばかりで、祖国へ帰ったところで、他に何が待っているということもない身。ただ、貧乏な人間として蔑まれる日々を送るというだけのことなのです。それであれば、敵国といえども、こちらで暮らせたほうが、よほど未来に希望が持てるのでございます」
ウルリカは息子の隣でぶるぶる震えていた。というのも、こちらの貴族の慣習がどのようなものか、ウルリカはよくわかっていたわけではない。だが、彼女の出身国及び北王国では、身分の差というのは絶対のものであり、奴隷の主人がどのように奴隷を嬲って殺そうとも、それは主人の自由なのだった。ゆえに、この息子の図々しいまでの申し出に、彼女は芯から震えていたのである。
「<西王朝>における暮らしは、そなたにとってそんなにもつらいものだと申すのか。しかし、こちらで暮らした場合、そなたらがよそ者……つまりは、敵国の人間であることは、すぐにも周囲の者たちにそれと知れよう。そうなれば村八部にされるなどして、のちのち『ああ、あの時やはり故郷へ帰っていれば』と後悔することになるのではないか?」
「いえ、いいんです。扱いとしては、故郷の国のほうでもそれとまったく同じか、それより悪いくらいでしょうから。というより、オレは驚いたんです。捕虜として捕えられた時、これからどれほどひどい目に合わされるかと恐れおののいていましたが、人道的に扱っていただきましたし、オレは今、<西王朝>に捕えられたこの国の捕虜の人たちが一体どんな目に遭わされているかと……そのことのほうがよほど心配なくらいなのですから」
「うむ……考えておこう。というより、我々はこれからさらに南の第二の塔と最南端の塔へ向かい、それからまたこちらへ一度立ち寄るのでな。その時までに、母とよく話しあっておくといい。それでもそなたの決心が変わっていなければ――我が国の国民になりたいというのであれば、それなりに考えるとしよう」
「あ、ありがとうございます……っ!!」
この時、リッカルロはウィルフレッドの眼尻に涙が光っているのを見た。その涙の意味について、彼はよく理解していたわけではない。だが、<西王朝>のクローディアス王は、拷問好きの残虐な王であると聞いていたことから――(それよりは、口裂け王子が次期王になる国の国民になりたいということなのか?右と左の林檎を比べてみて、実際には齧ってみなければ味のほうはわからないにも関わらず、<東王朝>のほうが、同じ苦労するにもマシに違いないと踏んだということなのだろうか……)と、一瞬思い巡らしたのみだった。
また実際のところ、リッカルロはこの翌日、南の第二の塔へ向かう頃には、自分が敵国の歩兵のひとりと約束したことなど、ほとんど忘れていた。そして、第二の塔、最南端の塔と巡り、再び第一の塔へ戻って来た時――ウィルフレッドが寝床を畳み、「私めをどうか、国民のひとりとなしてくださいませ」と土下座する姿を見、彼はまずは中央城砦までウィリーとウルリカ母子を連れてくることにしたわけである。
無論、ファイフたち部下の中に、反対意見がなかったわけではない。だが、リッカルロにはこの母子がその後何か問題の種になるとは思えなかった。ウィルフレッドは味方の死体の中に隠れていた臆病者ということであったが、リッカルロは彼の端整な顔立ちの中に、立身出世の志しのようなものを見てとっていた。すなわちそれは、瞳の奥や顔の表情の中に野心を秘めていたということであり、そのことがファイフたちを警戒させたのであるが、少なくとも彼は<西王朝>の優秀な間諜とまではなりえまいと、そのように判断していたのである。また、リッカルロはウルリカという老婆のほうに、より強い興味を惹かれた。もし彼女の姿がウィルフレッドの横になかったとすれば、『いいから、黙って国へ帰れ』とでも言ったかもしれない。だが、ウルリカはリッカルロの目に実に不思議な存在として映っていたのである。
(みな、貧しさが芯まで沁みついた、貧乏を絵に描いたような婆さんだといったようにしか言わんのだがな……俺にはどうもそうとは思えん。あのなんともたとえようのない、深いエメラルドのような瞳。若かりし頃は、さぞかし美人だったに違いない。あの老婆が若い頃美しかったのだろうと俺が思うのは、ウィルフレッドの顔立ちのこともある。どこか一種貴族的とでも言おうか……本当はサラブレッドであるのに、周囲の人間からは駄馬としてしか評価してもらえぬことに対する苛立ち。あの親子から俺が感じるのは、そうしたちぐはぐな印象なのだ)
そして、リッカルロが心に持ったこうした疑問の謎が解ける時がやって来た。というのも、彼らを連れ中央城砦へ戻った時、ウルリカが夜、窓辺で涼む姿を見て――彼は彼女の本心を確認しようと思ったのである。もし息子ひとりだけが敵国の国民となりたいだけであって、母のウルリカのほうは故郷へ帰りたいといったことであるなら、リッカルロとしても考え直さねばなるまいと思っていたのである。
「いえいえ、王子さま。この老婆めは決してそのような……老いては子に従えと、諺にもありますからね。そもそもこのババアには帰れる故郷などないに等しいのでございますから」
このあと、「このような話、王子さまにはつまらないことでありましょう」といった前置きののち、「いいから話せ」とリッカルロに促され、ウルリカは自分の身の上話をはじめたわけである。
ウルリカは無論、「実は自分はエレゼ海を渡ったところにある、南王国の出身なのでございます……」といったような話はしなかった。ただ、貧しい漁村の外れにある掘っ立て小屋に住む男に嫁ぎ、年老いてから息子のウィルフレッドが生まれたこと、愛する夫に先立たれ、今はもうあの息子しか生き甲斐のないことをリッカルロに手短かに話して聞かせたわけである。
だが、勘の鋭いリッカルロは、ウルリカの話を聞いていて、いくつか気づいたことがある。まず、彼女の言葉のイントネーションがところどころ、ウルリカの母国であるはずのペンドラゴン王朝に属すものでもなければ、こちらのリア王朝にも属すものでもないことに、彼は一早く気づいた。最初、短い会話のやりとりをしているうちは、『他国人なのだから』というくらいのものだったのだが、長く話を聞くうち、そのことが明白になっていったわけであった。
また、となると、彼女の話した何気ないように思われる身の上話にも、いくつか疑問点があるように感じられた。そもそも、そんな貧しい漁村の掘っ立て小屋に住むような男に、何故彼女は嫁入りすることになったのか……ここからはリッカルロの想像にすぎないが、ウルリカはおそらく、以前は都で娼婦をするなどして――あるいは、マルテのようなやり手婆として娼館でも経営していたか――暮らしていたが、商売仇が警吏に密告するか何かしたことにより、身ぐるみを剥がされるか、あるいは逮捕され投獄されるかしたのではないだろうか。何かそうした苦労があって無一文となり、貧しい漁村へ流れついた……そのような人生だったのではあるまいか。
「そなた、おそらくはペンドラゴン王朝の出身ではないな?言葉のイントネーションでわかる……<西王朝>には、こちらの<東王朝>から、<東王朝>には<西王朝>からの間者が必ずいるものなのだ。我々は元はひとつの王国であったのが、内乱によりふたつに引き裂かれ、今に至るまで二度と元に戻ることはなかったという歴史がある。ゆえに、言語のほうも元は同じものを使用していたのでな、語尾変化や語順が違ったにせよ、大体のところ意味は通じる……時々、なんのことを指した単語なのかわからぬこともあるが、そんな時には何度か聞き返して説明を求めればわかるといったところだ。それで、こちらのリア王朝にて、ペンドラゴン王朝の間者がいるという疑いを持った場合、いくつか相手にしつこく発音させようとする言葉が存在する。大体のところ同じ体系を持つ言語ではあるにせよ、もう千年もアル=ワディ川を境に離れて暮らしている民族同士だ……この言葉の発音だけはうまく出来ない、言ってみればペンドラゴン王朝訛り、あるいはリア王朝訛りがどうしても出てしまう言葉というのがあるのだな。それが、『スラヴァ』、『ヴォルディ』、『ヴァルバディ』、『ゴルディ』その他といったところだ。簡単そうに思えるだろうが、『スラヴァ』とは、河川などにある桟のことだ。これを我が国では『スラヴァ』と呼ぶが、<西王朝>の人間はどうやらどこの州の人間も『スラヴィ』というらしい。発音として近いのは『スラビー』だな。『ヴォルディ』は、我が国ではワインを発酵させる樽のことだ。ただの樽のことは『ヴォルヴァ』だ。向こうの国ではこのあたりの区分はないらしく、どちらも『ヴォルヴィー』と呼ぶらしい。少々ややこしかったかな?とにかく、そういった具合で、今では間者を見破るための設問や馬鹿らしいような早口言葉までが存在しているというわけだ」
「そ、そのようなお話、わたくしの如き先の短い老婆に話されましても、何が何やら……」
持病の発作のおこりによって、というほどひどくなかったにせよ、ウルリカはこの国の第一王子の隣で震えはじめた。というのも、自分が間者と疑われて処刑されたにしても、それはいい。だが、ウィルフレッドは<東王朝>で、自分のことを誰も知らぬ環境の中で、人生を一からやり直すことに賭けていた。その計画を自分が潰してしまうのかと思うと、ウルリカはそのことが恐ろしかったのである。
「いや、すまない。誤解しないでくれ……俺がこのようにウルリカ、そなたに色々話を聞こうとするのはただの好奇心からなんだ。そなたの話す言葉を聞いていると、我がリア王朝にも、おそらくは<西王朝>にあるイントネーションでもない――何か不思議な言葉の響きがあると思った。そこで聞く。そなた、出身は<西王朝>のどこなのだ?俺の前ではなんでも正直に話せ。なんでも、<西王朝>には『常若の国』と呼ばれる、一生老いることのない永遠の国への入口があると聞いたことがある。もしや、そうした不思議な国の出身なのではないか?こちらにも、そんな伝説の国ならば存在する。エルドラドと呼ばれる黄金郷でな、<リア王朝>の領地を遥か東へ行き、砂漠の中に存在すると言われる、何もかもが黄金か、それに比した宝石によってのみ出来ていると言われる都のことだ。それとも、エレゼ海の海底に存在するという、竜王の神殿からやって来たのか?とにかく、<リア王朝>にも<ペンドラゴン王朝>にも属さない、そうしたまだ人に知られぬ国がこの世界のどこかにあるのではないかと――俺は小さな頃から夢想してきたのだ。乳母たちの話してくれる、子供向けの幻想譚を聞いたりしながらな」
「リッカルロ王子、わたしは、わたしは……っ!!」
このあと、ウルリカはワッと泣きだした。最初に会った時、王子は感染予防のためか、顔の鼻から下に覆いをかけていたが、今はそれを取っている。初めて見た時、驚かなかったといえば嘘になるが、それ以上に彼女の感じたのが、ある種の痛ましさだった。リッカルロ王子は、美しい湖のような青い双眸に、鼻筋の通った端整な顔立ちをしているにも関わらず、唯一口だけが特殊な奇形なのだった。とはいえ、それは一目見て生まれつきの病気によるものだろうとわかるだけに――見た者は彼の人生の苦労についてまでも一瞬にして読み取ってしまうのである。
簡単にいえば、そうした意味でもウルリカはリッカルロとはお互い、何か不思議と「通じ合う」ものがあったのだろう。彼女は「こんな話、王子さまに信じていただけるかどうかわかりませんが……」と前置きしてから、自分の本当の身の上について話しだした。エレゼ海の向こうには、こちらと同じようにふたつの王国が存在しており、自分は南王国の一地方を治める伯爵家の娘だったこと、貴族の娘として蝶よ花よと何ひとつ不自由なく育てられたけれども、父親が政敵の奸計により騙し討ちにあい、財産を没収され投獄されたこと、その後、娘である自分は祖国を転々と流浪し、ある時北王国との戦いに巻き込まれ、捕虜の奴隷となったこと、そのことを嘆き悲しみ、エレゼ海へ岬の突端から投身自殺したこと……ウルリカは、娼婦にまで身を落としたことについては一切語らなかった。ただ、その町で見た他の職業の娘たちのことを、あたかも自分自身のことであるかのように語って聞かせたのである。
「おばばよ、そなたも苦労したものだ」
リッカルロは心底驚いた。エルゼ海の向こうに、そのように強大な国があるというのも驚きだったが、彼はこの目の前の白髪頭の年寄り女が、壮大な法螺話をしているとは思わなかった。それであれば、息子のウィルフレッドのことについてもすっかり説明がつこうというものであり、「本人はその名で呼ばれることを嫌っておりますが、実はわたしの死んだ父の名なのです」と言ったことも、彼女が嘘をついていないことの証左であるようにすら感じられることだったのである。
「おばばよ、そなたも苦労したものだ」
リッカルロは心底驚いていた。エレゼ海の向こうに、そのように強大な国があるというのも驚きだったが、彼はこの目の前の白髪頭の年寄り女が、壮大な法螺話をしているとは思えなかった。それであれば、息子のウィルフレッドのことについてもすっかり説明がつこうというものであり、「本人はその名で呼ばれることを嫌っておりますが、実はわたしの死んだ父の名なのです」といったことも、彼女が嘘をついていないことの証左のようにすら感じられることだった。
「ええ、まったく本当にね……自分でも驚くほど惨めな、哀しい、苦労ばかりの多い人生でございましたよ。生まれてから十六になるまで、最初だけが最良で、あとは悪くなる一方といったようなね。リッカルロさま、王子さまはこんな話を聞けば驚かれることでございましょうがね、こちらではエレゼ海と呼ばれるあの海――あの青く美しく荒々しい海の向こうには天国があると、向こうの国では信じられているのです。特に、北王国の海に面した町々や村々には、ルゼリア(エレゼ)海を通って人々の死んだ魂は天国へ行くと信じられているものでしてね、ゆえにお墓のほうはみな、ルゼリア海に向けて建てるという風習なのですよ。わたしも、あまりに自分の人生が惨めで、惨めすぎるあまり……死んでしまおうと思った時、『生きていた頃の苦労を贖うように、せめても魂だけでも天国へ行けたなら』ということに、僅かばかりの希望を持ちつつ身を投げたのでございますが、なんということでしょう!まさか、漁夫の網に引っかかり、こちら側の国の岸辺まで引き上げられるとは、思ってもみませんでしたよ」
ウルリカは笑った。彼女は今話したようなことを誰かに打ち明けたいと思っていたにも関わらず、自分の亡くなった夫にも、実の息子にも――ここまで詳しく話したことは一度としてなかったのである。今、彼女は清々しい笑顔すら浮かべて自分の苦労の多い人生を笑うことが出来た。そして、あらためて隣の<東王朝>の第一王子に対し、深い敬愛の情を覚えていた。こうした身の上話をしてもいいと思えるものを彼が備えていればこそ……ウルリカは思いきった打ち明け話をすることが出来たのだから。
「そうか。ではおそらく……ロットバルト州のエレゼ海沿岸のどこかの漁村におばばはやって来ることになったわけだな。俺も他国のことなので、噂にしか聞いたことはないが、そちらでも確か、人は死んだらエレゼ海を通って魂が天国へ行くといったような伝承があるのではなかったか?あとは、エレゼ海にはリヴァイアサンという名の竜が住んでおり、それが海の荒れる原因だと聞いた記憶もある」
「そうなんですよ!まったく、驚くじゃありませんか。わたしは、北王国のルゼリア海の沿岸にある岬から身を投げて――それも、これだけの高さがあれば間違いなく死ねるだろうという高さからですよ――次に目を覚ました時、自分は天国にいるのかと思ったくらいですからね。ところが、こちら側でも、向こうに住んでいるのと似たような人々が暮らしていて、特に小さな漁村あたりの貧しさときたら、どちらも双子のようにそっくりな暮らしぶりなんですよ!ああ、王子さま、わたしは……そんな中で、唯一死んだ夫には良くしてもらいました。どこの誰ともわからぬ、言葉さえ通じぬわたしのことを、夫のウィロウはそりゃ大切に扱ってくれたんですからね。若い頃、まだ美しくて財産や地位のあった時のことであればいざ知らず、何も持たない、こんな年のいったババアのことをですよ!いえ、あの頃わたしは確かにまだ十数年は今より若いことには若かったですよ……でも、苦労に次ぐ人生の苦労によって、普通の中年女以上に老けてみえたでしょうからね。そんな女のことを、ウィロウは実に大切にしてくれたのです。わたしも、この男のためならば、どんなことでもしなけりゃならないと思えるくらい、夫のことを愛していました……そうして授かったのがあのウィルフレッドなのです。ウィロウは、息子の名前にウィルフレッドとつけたいと言うと『なんだか、ちょっと仰々しすぎやしないかね?』と控え目に反対したのですが、『ウィルフレッドと名づけておいて、普段はウィルとかウィリーと呼べばいいじゃないか』とわたしが言うと、あの人も妥協したんですよ。とにかく、人生の最後に、本当に心から信じ愛しあえる人間と巡り会えたこと、それがわたしの人から蔑まれるばかりの人生の、最後にあった神さまからの贈り物だったと思います……」
ウルリカは笑っていた顔の表情に、再び少しばかり涙を浮かべたが、彼女は今、不思議と幸福だった。砂漠を越える旅は老骨に堪えるものであり、このまま灼熱の世界で死ぬかもしれないとウルリカが感じた瞬間もあった。だが結局、この時もこちら側の人間が彼女の命を救ったのだ。中央城砦の監視哨から<西王朝>側をずっと見ていた守備隊のひとりが、ウルリカの姿を発見し――他の数名の隊員とこちらへやって来た時、彼女は砂丘のひとつに半ば埋もれるような形で倒れていたのである。
以降は、「大したババアだ」、「すげえおっかさんだな、ええおい!」といった具合で、<東王朝>の兵士らの間でもすっかり有名になり、食事その他、待遇のことでも色々良くしてもらった。そうなのである。ウルリカにとっては、北王国の兵士らに捕縛された時と比べ、それは天国と地獄ほども差のある、破格の扱いとすら呼べるものだった!
「ウィロウか……確か、古代語で<海のうなり>という意味だったな。我々は以前は<東王朝>も<西王朝>もなく、ひとつの王国だったわけだが、さらにそれ以前にあった国で使われていたという言語だ。おばばよ、ものは相談なのだがな、おぬし、俺の治める公爵領の顧問官になってみぬか?」
「えっ、ええっ!?」
自分の死んだ夫のことを思い、しみじみしていた時にそう言われ、ウルリカは驚いた。『わしのウィロウという名はな、昔の古い言葉で<海のうなり>という意味らしい。よくは知らんがな』と、夫が言っていたことがあるのを、ウルリカは覚えていた。そして、彼女は唯一、その<海のうなり>が恋しいがゆえに、あの貧しいだけの漁村の浜辺へ戻りたいという気持ちがあったが、息子のウィリーがこちらで心機一転、人生の巻き返しを計りたいということだったから……ウルリカは息子の望みに沿うよう、自分に出来ることはなんでもしてやりたいと思っていたのだった。
「俺は、今おばばが語ってくれた、北王国や南王国の文化といったものに興味がある。また、おばばがこちらへ辿り着いたように、おそらくは昔から……お互い、舟が難破するなどして、そのようにしてやって来た人間というのはいたはずなのだ。となるとどうなる?ロットバルト州の領主は、王都から課される重税にあえぐあまり、船団を仕立てて冒険の旅に出られぬと嘆いていると、間者から報告があったが……北王国でもいずれ、この可能性には当然気づくのではないか?」
「それは……確かに、そうかも知れませぬ。ただ、北王国は南王国と戦うのに忙しく、やはり船団を仕立ててこちらまで攻め込むまでの国力は、今暫くの間はないと思いますね。どう言ったらいいか……とにかく、こちらとは使っている言葉も違いますし、文化のほうも……共通点は色々ありますが、リッカルロさまが先ほど説明してくださった、こちらの<東王朝>と<西王朝>の言語の違いのようなものですよ。ワインを詰める酒樽と普通の樽では呼び方が違うとか、そうした事柄が数え切れないほどたくさんあるんです。そして、そうしたことを今わかりやすくいちどきに話せと言われましても……わたしも、どこから何を取っ掛かりにして話せばよいやらと、目が回る思いがするばかりと申しますか……」
だが、北王国にとって、海を越えたところにあるという、あるかもしれないしないかもしれない国よりも、当座は南王国を征服することだけが彼の国にとっては最重要事項なのである。これは、ウルリカにとって、何百年かかってそうなるか、それとも北も南もさらに小国へと分裂してゆく可能性もあると彼女は見ているが――とにかく、いつかこの北と南の王国をひとつに統一できる偉大な大王が歴史上に現れたとする。その時、この大王がルゼリア海の向こうにも国があるやも知れぬと理解した場合……大船団を築いての侵略戦争ということが、もしかしたら未来にあるかもしれぬと、彼女としてはそう理解するばかりだったのである。
「わかっている、おばばよ。だからこそ、そなたを我がレガイラ城の食客として迎え入れたいのだ。いや、難しいことは何もない。そなたと息子のウィルフレッドには、城下町に快適な住居を用意させよう。年金のほうも生涯に渡って保証する……といっても、これは俺がオールバニ公爵領の領主であるうちは、という限定付きの話ではあるがな。おばばの父上が、南王国の伯爵領の領主として難しい立場に置かれたように、俺にも色々あるのだ。いつまでも今の地位に留まり続け、安穏と暮らしておれればいいが、俺がある日突然オールバニの領地を没収され追い出されるといった可能性はまったくのゼロではない。すべては、現リア王朝の王である我が父上の胸三寸といったわけでな……だが、俺が今の地位に留まれる限り、暮らし向きのことについては心配する必要がないと約束しよう。そのかわり、おばばよ、そなたは時々俺の話相手となって、海を渡った向こうの国の文化や風習について教えて欲しい。また、のちには言葉のほうも本に記録として残したいと思っているが、そうした条件でどうだ?」
「まったく、もったいのう条件でございます……このような老いぼれババアめに、そのようにお慈悲を垂れてくださるとは……見てのとおり、わたしはいつ死んでもおかしくない身の上です。ゆえに、わたしが死ぬまでの間に、このわたしの頭の中に記憶として残っているものはすべて王子さまのご随意のままになさってくださるのが、わたしにとっても望外の幸せとなることでありますれば……」
「では、決まりだな。息子のウィルフレッドには、それなりの官位を与えて働いてもらうことにしたいとは思うが……まあ、そうだな。まずはそれよりも正確にこちらの言葉を覚えてもらうことのほうが先かも知れんな。突然よそ者がやって来ていい職にありついたというのでは、面白くなく思った者に嫉妬され、思わぬ不幸に見舞われるということが……ないとも言えんからな。なんにしても、そうしたことも含め、困ったことがあればなんでも俺に相談するといい」
このあと、リッカルロはウルリカの肩に手を回すと、彼女の額に親しみを込めてキスを送った。まるで、自分の語ったことがこの時限りのものでなく、確かに真心からの申し出であると証印でも押すかのように。
リッカルロは、寝所として用意された部屋のほうへ戻っていったが、その場に残されたウルリカは砂漠の丘上に浮かぶ青い月を遠く眺め――暫くの間、不思議な心持ちでいた。自分の人生が不幸で、この上もなく惨め極まりなかったものであることは、彼女自身、進んで認めるところである。死んで天国へ行った場合、父親にも母親にも顔向けできぬほど、まったくもって酷いものだ。だが、ウルリカにはウィロウがいた。天国において、父とも母とも住まいを別にして暮らすにしても、ウィロウとはふたりで楽しくやっていかれるに違いない。地上においてと同じように、というよりも、それよりも遥かに優れた幸せな環境で!
けれど、ウルリカは天国で愛する夫と再び一緒になる前に、自分には果たすべき使命があるのかもしれないと初めて考えた。無論、「そのためにこそ、自分はエレゼ海で溺れ死ぬこともなく、こちらの国にまで辿り着いたのだ」とまでは、彼女にしてもまるで思えない。だが、それでも――息子のウィルフレッドのためにはこれで良かったのだろうと今思えること、それだけが彼女にとって唯一救いとなることだった。
それに、出会って間もないとはいえ、ウルリカはリッカルロ王子のことが好きだった。もし彼の口が奇形でなく、布覆いで隠した口許が、目許や鼻筋から想像したとおりの美男子としてのそれであったとしたら……(自分はここまでの信頼を、こんなにもすぐあの王子に覚えなかったのではあるまいか)とすらウルリカは思うのだった。
(もちろん、リッカルロさまは立派な方だから、あのまま伯爵令嬢のままでいたとしたら、結局のところちょっとぱかり普通より教養があるといった程度の、我が儘娘で終わっていたろうわたしなんぞとは比べようもないお方だよ。だけどお互い、なんだか似たところがあるんだね。わたしは女で、あの人は男だし、年の差だってたんとあって、わたしはあの人のおっかさんどころか、おばあちゃんでも不思議でない年齢なんだけどね。でも、何故だか不思議と相通じるものがあるんだよ……ほんとに、不思議なことなんだけどね)
そして、不憫な息子のウィルフレッドの人生の風向きが、<東王朝>へやって来たことを契機に変わっていってくれればいいがと、ウルリカがそんなふうに考えていた時――彼女の息子のほうでもまた、母親と大体似たようなことを思っていたのだった。
一階の大広間に何十人となく雑魚寝している中で、寝苦しいものを感じながらも、ウィリーの心は希望に浮き立っていた。というのも彼は、リッカルロ王子とウルリカの会話にこっそり聞き耳を立てていたからである。王子は人払いをし、ファイフにさえも「この老婆に俺が暗殺されるでも思っているのか?」と笑って言い、下がるよう言いつけていたわけである。そこで、ウィリーは小広間の一室の壁の隣で、窓から外の景色を見る振りをしながら、ふたりの会話を盗み聞きしていたのだった。
(おふくろの奴……まさかエレゼ川の向こうからやって来たのを、親父に拾われた身だったとはな。確かに、小さな頃から不思議ではあったんだ。『なんでふたりは結婚することにしたの?』だの、子供らしい疑問をなんとなくぶつけても、『子供がそんなこと聞くもんじゃない!』とか、そんなふうにしか返されたことはなかったものな。親父はそもそも無口な質の人だったし……)
実をいうと、この父ウィロウのことに関しても、『親父は一体どこの何者だったのか』ということについて、ウィルフレッドは詳しいことをよく知らない。彼があの貧しい漁村において、貧しい者たちの中でもさらに最下層の子供として扱われていたことには、ある理由がある。ウィロウというウィリーのあの父親が一体どこからやって来たのか、村の誰も知らなかった。ふと気づいたら、浜辺の一角に掘っ立て小屋を建て、魚や海老や蟹、貝類などを採って暮らしていたが、その頃からすでに腕が片方しかなかったことから――村人たちは障碍者である彼を憐れみ、その仕事を取り上げ、追い立てることまではしなかったという。だがある時、村である噂が立ったことがあるということだった。あのウィロウという男は人殺しで、罪の償いのために片腕を刑場で失ったのだと……ウィリーは『この人殺しの息子め!』といじめられたことが一時期あったのだが、何故そうなったかといえば、子供社会のちょっとした複雑な事情によってだった。
今にして思うとウィリー自身も(くだらん)としか思えぬのだが、当時は自分の父の殺人の疑いが晴らされなければ、もう自分に友人たちの間で居場所はないとすら思い詰めていたものだ。というのも、ウィリーは漁村の貧しい子たちの中にあって、似つかわしくなく整った顔立ちをしていたことから――幼い時分より女の子たちにもてた。そこで、ガキ大将らにいじめられたわけだが、小さな頃はその理由が何故なのかがわからず、(うちが貧乏だから)、(親父に人殺しの嫌疑がかかっているせいだ)などと、随分自分もクソ真面目に悩んだものだと、今にしてみればウィリーもまったく笑ってしまう。
だが、その後成長するにつれ、(なんだ、コイツら。実はオレに嫉妬してるんだな)ということがわかってからは、相手に服従する振りだけしつつ、内心ではウィルフレッドは優位な立場を味わっていた。と、同時に、(こんなことは何もかもすべて間違っている)と、物心ついた頃からずっと思い続けてきたように……彼は父親が死ぬと、その弔いもそこそこに、しみったれた磯の香りくさい過去に別れを告げるべく、軍人の門を叩くことにしたわけだった。
まさか、歩兵としての訓練もそこそこに、すぐにも徴兵されることになるとは思わなかったが、高級将校である騎馬兵らの盾として、ほとんど「死ね」とばかり戦争の最前列へ押し出されると――彼は「こんな馬鹿らしい戦争のために犬死にするなぞごめんだ」と、すぐにも悟りを開いた僧のような境地に達した。そこで、戦わずして逃走し、他の死体の山となった場所に死んだ振りを決め込み、倒れていたというわけだった。
そこへ、よもや敵軍の兵らが引き返して来て、ご丁寧に生き死にを確認するのに、槍で順にトドメを刺していくとは思わなかったが、ここでもウィルフレッドは幸運だったのだ。何故なのかはわからなかったが、弓の傷を肩に受けた以外では、そう深刻な外傷があるわけではないとわかると、捕虜として縄をかけられ、引かれていくことになったのだから……。
(なんにしても、とにかくこれでオレにも人生に運が向いてきたらしいぞ。小さな頃はな、『あんなおふくろも親父も、親なんかいらない!!』とすら思ったこともあったもんだが、あのおふくろのお陰で、確かにこれからオレは楽が出来るかもしれん。とはいえ、あの口裂け王子さまがおっしゃるとおり、出る釘は打たれるという奴で、敵国からやって来たような人間がいい暮らしをしていたとすれば、そのうち嫉妬から嫌がらせを受けたりするかもしれないからな……そんなこと、こちとら今やすっかり慣れっこだ。今度こそ空気を読んで、人間関係その他、必ずうまくやってやるさ)
ウィルフレッドはこの夜、うるさい歯ぎしりやいびき、それに男同士のすえたような体臭に囲まれていながら――未来に希望を抱くことが出来るだけで、いたく幸福な気分でいることが出来た。そして、母親の来歴についてはある程度理解したが(あのみすぼらしいババアが、まさかその昔は伯爵令嬢だったとは!)、父親は本当は何者だったのだろう、人を殺したというのは本当のことだったのだろうか、片腕を失ったのは、その昔サメに食われて九死に一生を得たからだということだったが、今にして思うと、ウィリーには自分の父が人を殺したというのも信じ難かったが、それと同じくらい父がサメに喰われたことがある……というのも、何やら嘘くさい、その場しのぎの法螺話だったのではないかとしか、思えなくなっていたのだった。
そして、輾転反側してそんなことを考えるうち、その夜も「てめえ!寝ながら殴りゃあがったな」と、誰かがいきりたち、「そんなの知ったことか!こっちゃあ寝てんだからわかるわけねえだろっ!!」といったような、具にもつかぬ喧嘩がはじまるのを見て――ウィリーは亀のように肩を竦めると、目をしっかり閉じ、もう何も考えず、ただ眠ることに専心しようと決めたのだった。
>>続く。