第3章
「無駄に損になるだけの行動を取らせられたのは俺なのに、マキューシオ、何故おまえのほうがそんなにも怒るんだ?」
乗馬レースの帰り道、珍しく賭けに勝ったというのに、マキューシオは終始不機嫌だったものだ。ちなみに、ギルスティンベルク夫人のサロンへ出かけたのがこの一週間ほど前のことだった。そのティーパーティの席にて、いかなる理由によるものか、自分の隣に口の裂けた男がずっと座っているもので、イルマ嬢は終始戸惑っていたものである。だが、その戸惑いの中にマキューシオはある種の好感を抱いてもいたのだ。
ギルスティンベルク夫人のサロンでは、リッカルロが第一王子であるからとか、マキューシオが公爵の息子であるからといったことは関係なく、そうした身分の上下ということは一旦忘れ去られる。そこでは詩人や音楽家や画家といった芸術家たちは、貴族という身分でなくとも対等に扱われつつ、それでいて自分のパトロン探しもすることが出来るという、そのような一石二鳥の場であった。
ギルスティンベルク夫人はなかなか進取の思想を持った女性であり、サロンのホストとして、リッカルロが王子であっても変におもねるでもなく、彼のことをあくまで『大切な客人のひとり』としてもてなしていた。また、リッカルロが同じテーブルに座る他の作家や詩人、作曲家らと対等に議論しているため、イルマ嬢はますます自分の身の置きどころがわからなくなっていたようだった。とはいえ、ギルスティンベルク夫人はもてなし役として、その場にいる全員に自然と会話のパスを回してくれる女性であったため、イルマ嬢は親切な夫人から『メリダーノ先生から個人レッスンを受けているのよね?』と優しく訊ねていただいたり、『サスキア・ジェンティレスキ美術展に出展なさったらいいわ。年齢も性別も経歴も審査員は何も知らされずに、賞のほうはアカデミー会員かどうかなんてことも関係なく、本当に絵の良さだけで決まりますからね。きっと入選なさってよ』と感じよく励ましていただいたりもした。
イルマ嬢はそのたびにはにかみながらも、ギルスティンベルク夫人の言葉に小さく答えるのだったが、これもまた親切心からリッカルロが絵について何か訊ねると、彼女は戸惑うあまり俯き、「ええっと、まあ……」などと話したのちは、再び黙り込んでしまうのだった。
とはいえ、リッカルロとしては少しも感じの悪い気持ちも居心地の悪い思いも抱いておらず、イルマ嬢に対してもどうとも思っていなかった。十六くらいの世慣れていない娘であれば、自分が特別醜男でなかったにせよ、ハンサムな男であればそれはそれでうまくしゃべれない……何かそうしたものだろうというくらいにしか彼は思っていなかった。それに、ギルスティンベルク夫人が察してうまく助け舟をだしてくれたりと、リッカルロとしては将来マキューシオの妻となるかも知れぬ女性をよく観察することも出来、芸術家たちとの機知に富んだ会話も楽しむことが出来たという意味で、十分愉快なひと時だったと言える。
だが、近くのテーブルでそれとなくこちらの様子を窺っていたマキューシオはそうでなかったらしい。というのも、一度イルマ嬢が席を離れ、化粧室へ行って戻ってくると、彼女のリッカルロに対する態度が急変していたからだ。おそらく、イルマ嬢は誰かしらから、自分の隣に座る男が何者か、その正体について入れ知恵されたものと思われる。無論、このことについてはリッカルロもすぐにそれと察したが、彼の人生においてはよくあることなので、まるで気にしていなかった。むしろ、イルマ嬢が「失礼のないように、一生懸命お話しなくちゃ」というように、涙ぐましい努力をするのを見て――申し訳なく感じたほどである。
『あの娘は駄目だ』と、ティーパーティーの帰り道で、マキューシオは箱馬車の中で言った。『なんといっても、おまえが第一王子とわかった途端、百八十度態度を変えたろ?他にも理由はいくつかあるがな、まずオレとは性格が合わんだろう。それでも、リッカルロ、おまえに対する態度さえ普通並であれば、オレはその他の欠点なんぞについては一切目を瞑ることが出来たんだがな』
乗馬レースからの帰り道にも、この時と同じく、(やれやれ)というように、リッカルロはティボルトと目が合うなり、肩を竦めるだけで互いに会話を終えていたものだ。
「決まってるだろ!あの女はな、リッカルロの顔を見た途端、明らかに嫌悪の情を滲ませていたんだぞ。自分ほどの美しい女が、何故こんな醜男と一瞬でも関わりあいにならなきゃならんのかと言っているに等しい、失礼極まりない態度だったじゃないか。あの女はシュテファンベルク嬢よりも遥かに質が悪い。まったく、見合いなんぞする前に大体のところ本性がわかってほっとしたとしか、オレとしては思えんね」
「やれやれ。俺との初対面における女の態度なんてのは、大抵がそんなものさ」と、リッカルロは(慣れっこだ)とばかり、溜息を着いている。「あれは俺がまだ十歳とかそのくらいの話だったっけか。口の裂けた、こんなに醜いガキを見たのは初めてだったんだろう。ある貴族のご婦人が『ひっ!』と一言叫び、そのまま失神してしまったことがある。以降俺は、女性の前では口許を布で覆って会うようにして気を遣うようになった……が、あのふたりはとりあえず、俺と会っても失神まではしなかったんだぞ。それだけでも十分合格点じゃないか」
その昔、この話をマキューシオにした時、彼は『たぶんその女はその日、いつも以上にコルセットをきつく締めすぎてたんだろう。そのせいで失神したのさ。おまえのせいじゃない』などと言ってくれたものである。
「いーや、駄目だね」と、マキューシオは箱馬車の窓から外を見るのに、カーテンを少しばかりよけて言った。これから、お気に入りの飲み屋で一杯やる予定なのである。「そもそも、ああいうタイプの女とは、結婚せずに恋愛だけで終わらせるのが最上なんじゃないか?結局のところ結婚してもうまくはいかんね。エステンヴェルク嬢にとっては、高額な土地保有税をオレの親父が彼女の父に代わって支払ってくれたからとて、『それと結婚とは別のことですわ。おほほ』といった程度のことなんじゃないかね。それにオレとしても、『実はそのように身売りされてきたも同然な娘のくせして、わきまえがたらん!!』などと言って、妻を言うなりにさせる……なんていう結婚生活にはうんざりするしな。なんにせよ、リッカルロ、おまえには本当に心から礼を言うよ。自分の結婚相手の本性ってやつが、見合いする前からすっかり透けるように見えて良かったという意味でな」
「まったく、俺にしてみりゃ無駄にプライドだけ傷ついて散々といったところだがな。やはり俺はどんな女にも最初に出会った瞬間から嫌悪される運命にあるんだろう……いや、もちろんそんなことは昔からわかってる。だが、それゆえにこそ俺は俺なりに気を遣って生きてきたというのに、あえてわざわざ自分からそのことの再確認に行くだなんて、流石の俺も金輪際ごめんだぞ、マキューシオ」
「悪かったよ」と、マキューシオも流石に素直にあやまった。「だが、エステンヴェルク侯爵令嬢も、シュテファンベルク男爵令嬢も、ようするに男を見る目がないのさ。いや、なさすぎだ。少なくとも、オレとおまえを並べて見て、オレのほうに目が向くような女は全員そうだ。オレのようなチンピラなんかより、リッカルロ、おまえのほうが七百倍ばかりも素晴らしくいい奴だということが……そういう女どもはまったくわかってないという意味でな」
「なんにしても、これでおまえの見合い話は振りだしに戻ったわけだ」と、呆れたようにティボルトが口を挟む。「ここで、この件にまったく関係のない僕も、一言だけ意見させてもらおう。確かに、エステンヴェルク侯爵嬢は、長い目で見た場合マキューシオとはうまくいかないだろうとは思ったよ。僕はあのあとも乗馬レースを見学する彼女のことを暫く観察してたけど……ようするにエステンヴェルク嬢はおまえと性格が似てるのさ。気位が高く、人の好き・嫌いの激しい性格をしてらっしゃるんだろうな。一度気を許した相手とは懇々と親しく話し、それ以外の人間のことは歯牙にもかけない態度で排除するというわけだ。つまりさ、リッカルロ、彼女は一度も親しく話したこともない男が相手の場合は、誰に対しても素っ気ない態度なんだよ。何分あの美貌だから、仕方ないと言えば仕方ないのかもしれないが、マキューシオとエレノア嬢は肖像画に並べて描く分には、似合いの夫婦みたいに見えると思う。でも、見た目以上にどういういいところが彼女にあるのかは、今のところ僕には未知数だし、マキューシオが彼女の美貌ゆえに、それ以外の性格的欠点についてはおそらく目を瞑れるだろう……と思ってるのでない限りは、長く関係を続けていくのはなかなか難しいお嬢さんという気がする。で、シュテファンベルク男爵令嬢は、まだ色々な意味で幼すぎるんじゃないかな。そういう種類の、『まだ何も知らない、何ものにも染まっていない若い娘』を特別に好む男であればともかく、マキューシオの場合は逆に、ギルスティンベルク夫人くらい、人生経験や教養ってものがあるくらいの人じゃないと――まあ、結婚してもうまくやっていけないだろうというのが、僕個人の勝手な意見といったところ」
「むむむ」と、マキューシオは腕を組んだまま唸っている。「ティボルト、おまえがもしあの可愛いジュリエッタと長く婚約関係になかったのだとしたら、『まだ実際に結婚してもいない男が何を抜かすか』とでも言って勝ち誇ってやるところなんだがな。まったく、人生というやつはままならんものだ。『まだ何も知らない、何ものにも染まっていない若い娘』という意味では、イルマ嬢よりもオレはジュリエッタのほうに遥かに好感を持つからな。で、彼女となら結婚してもいいと思えるギルスティンベルク夫人はすでに結婚しておられるわけで……まあ、とにかくオレはもう暫くの間は自由に遊ばせてもらって、リッカルロもティボルトも結婚しちまって、独身はオレひとりか。なんか寂しいな、トホホのホ……という頃にでも、博打でも打つような気持ちで結婚でもするしかないようだ」
「ティボルトはともかく、俺が結婚するのを待っていたら、マキューシオ、おまえは一生結婚なんかできんぞ」
「それこそ望むところさ」と、マキューシオは悪びれるでもなく肩を竦めている。「なんにしても、リッカルロ、おまえはいずれ間違いなく誰かと結婚するのだけは間違いない。第一王子を差し置いて、第二王子や第三王子が結婚するなどとは、我がリア王朝では聞いたことがないからな。どうだろうなあ。その場合は、あのエステンヴェルク侯爵令嬢も、まだ売れ残っていたら候補のひとりとして見合いの肖像画が送られてくるやも知れんぞ。どう思う、リッカルロ?オレが彼女との見合い話を断ったら、エステンヴェルク家は財政的に青息吐息だからな。娘によく言って聞かせて、夫となるおまえの言うことはなんでも聞けと命じて嫁がせようとするかもしれん」
「まあ、無理だな」リッカルロは愉快そうに笑った。「もし俺が、今日態度として拒絶されたことに腹を立て、そのような復讐を企てるというくらい、気概のある男だったらいいのだろうがな。結局のところ俺は、もしそういうことになったとすれば、相手がどんな女性でも……高価な贈り物をしたり、花やら詩の言葉だのを送るだのして、相手の機嫌を窺うような態度しか取れない。だから、逆にその部分の足許を見られて、向こうが大きな態度でオレの好意を踏み躙るような態度に出たとするな?その時点でもう相手の女性のことが許せなくなってくる……こんな天邪鬼な男とは、どんな女性もつきあいきれんさ。その上、顔が奇形で醜いとあっては尚更だ」
「いやあ、リッカルロ。おまえは最高の男さ」
マキューシオはティボルトと並んでビロード張りの座席に座っていたが、リッカルロの側に移ってくると、親友の肩を抱き、実に機嫌よさそうに言った。彼は、本当に心からの気持ちをこめてそう言ったのである。
「というか、そんなおまえであればこそ、オレはおまえのことが大好きなんだ。まったく、女ってのはどいつもこいつも、男心ってものをまるでわかってなぞいない。向こうは向こうで『殿方は、わたくしたち女性の心がまるでわかっていらっしゃらない』なんてことをよく口にするが、男というのは女などよりよほど繊細に出来ているのだからな。だからオレは優位にゲームを進めるために、滅多に本心なぞ覗かせないのだし、『愛してる』なんて言葉を口にするのも一番最後さ。女はやたらとその言葉を愛の保証として引きだしたがるが、簡単にそんなことを言える男にろくなのはいやしねえ。そうさ。オレはな、カルロ。おまえやティボルトには親友として『愛してる』という言葉を真心から捧げることが出来る……が、女の中にそれ以上の愛を探そうとしても、今のところどこにも見当たらないとしか思えない。何よりそれがオレがなかなか結婚というものに踏み切れない、一番の理由なんだよ」
「まあね」と、ティボルトも同意する。「僕も、政務と個人的な恋愛とどちらが大切かといえば……やはり、男としての仕事のほうを選ぶよ。ただ、いずれ王となるだろうリッカルロに今後とも仕え続けるためには、結婚している落ち着いた男としての身分ってものが必要になってくるだろう?もちろん、ジュリエッタのことは結婚した以上は必ず幸せにしたいとは思ってる。だが、男としての一生の仕事と結婚生活とどちらが大切かといえば……やはり、僕にとっては前者なんだ。意味わかるだろ?それは僕にとっては色恋沙汰なんてものより、男同士の友情のほうがよほど大切だという意味とほとんど同義でもあるんだから」
――このあと三人は、城下町にある行き着けの酒場で酒盛りをし、したたか飲んだマキューシオのことを送っていく役目は、ティボルトが請け負うことになった。リッカルロはこの近くにある屋敷に用があったからだし、わざわざそんなことを口にされなくても、ティボルトには当然よくわかっていた。そこで、辻馬車に乗って帰っていく親友ふたりを見送ると、リッカルロはすり減った大理石の道を、ありていに言えば愛人として囲っている女性のいる屋敷まで歩いていったのである。
リッカルロが彼女……レイラ=ハクスレイと出会ったのは、すでに四年ほど前のことになる。例によってマキューシオが、女性に対して奥手であるリッカルロに対してお節介を焼き、そのような世話をしたのだった。彼は、(自分が絡んでいる)とわかれば、うまくいくものもうまくいくまい――そのようにわかっていたため、この件では実に慎重に手回ししていたものである。
マキューシオはまず、懇意にしている娼館のやり手婆に、リッカルロに相応しい女性の用意をさせた。まず第一に、彼の顔を見ても震えおののくでもなく、従順でありつつ、かといって変に卑屈すぎないことが望ましい。第二に、処女か、あまり男を知らない初心な女であるほうが手馴れている女性よりも望ましい、第三に、絶対的に口が堅いこと……などなど。
おそらく、ティボルトがこの話をもし脇で聞いていたとしたら、「そんな女性、いるわけないだろ。なに金にものを言わせて難題吹っかけてるんだよ」とでも、頭痛を催したように首を振りふり言ったことだろう。だがそこは、長く娼館にておかみをしているやり手婆マルテである。彼女のほうがマキューシオ・エル=エスカラスなどより、その道のプロとして遥かに上を行っていた。
というのもこのマルテ、街角で上客のマキューシオとリッカルロが並んで歩いているのを見た時から――いつかこんな日がやって来るだろうと予見していたのである。そこでこのやり手婆は、口裂け公とも呼ばれるこの第一王子が、いずれ親友のお節介かその世話によって自分の娼館へやって来ることがあるかもしれないと、その時からすでに算段していたのだ。
(ふふん。ありゃ実際のところ、なかなかいい男だね……わたしがもう二十も若ければ、うまく愛人の座に収まって、向こうが正妃を誰かいただこうとも、心をがっしりと掴んで離さずにおくところだけどね。だが、そういうわけにもいかない以上、どうしたもんだろうかね……)
マルテはその日以降、いつも以上に娼館へ送られてくるうら若き不幸な娘たちのことをじっくり観察した。何分、そのことは彼女の懐の中身とがっちり直結する事柄だったから、マルテは実に抜け目なかったが、『この国の第一王子の愛人』となるのに相応しい娘かどうかという厳しい基準を、さらにそこへ加えたわけだった。
やがて、マルテの眼鏡に適いそうな娘がやって来た。そしてそれが零落貴族の娘、レイラ=ハクスレイだったわけだが、彼女の父であるアルシノエ=ハクスレイ侯爵は、簡単に言えば人が好すぎたのが結果として財産をすべて失うことになった原因と言えたろう。ハクスレイ侯爵はそこに目をつけられ、数人の結託した地方郷士たちにすっかり騙され、土地・家屋その他の財産すべてを失っていたのである。だが、大抵の貴族というものは誰かしら縁戚を頼ることにより、そのような窮地を救われるのが常だったが、アルシノエの場合は裁判で訴訟になった際、法的効果を十分に発揮できる書類の多くに狡猾にもすべてサインさせられていたことが――どの貴族の親戚や弁護士に相談しても、首を横に振られてしまう結果を生んでしまったのである。
こうした失意の中でアルシノエ=ハクスレイは病没し、残された妻と娘は、かなり遠い親戚筋に当たる貴族の一家を頼り、主都オルダスを目指したのだが、親戚とはいえ、一度か二度結婚式や葬式などで顔を合わせたことがある……といった程度の関係であったため、門前払いを食ったきり、それで終わりだった。そんな中、レイラの母エレーヌは手許に残っていた宝石を売ったりしてどうにか暮らしを立てようとしたものの、今までろくに働いたことすらないお嬢さま育ちである。あちらこちらで頭を小突かれたり怒鳴られたりと、ろくに人間扱いされないような労働環境に最後まで一向馴染めず、ほとんど過労死するような形でレイラの母エレーヌは亡くなった。やがて、レイラ自身もレガレットと呼ばれる貧民街の集合住宅の家賃を支払うことが出来なくなり、大家がマルテの元までレイラのことを連れてきたわけであった。
「おやまあ、なんて可愛らしいお嬢さんだこと!それであんた、家賃の代わりに体で払えだなんて、この娘と何度か寝た関係なんてんじゃないだろうね?」
マルテの経営する娼館はどこも、見た目自体はとてもそれとわからぬほど、瀟洒で手入れがゆき届いていた。ゆえに、しゃくりあげるようにして泣きながら大家に連れてこられたレイラは、最後には「ああ、神さま。どうかこの大家さんに慈悲の心を生まれさせてくださいませ」などと呟いていたため――本当に神さまがこんなに惨めな境遇へ陥った自分の祈りを、即座に聞いてくださったのかと勘違いしたほどだった。
「いやいや、そうしたいのは山々だったがね。俺の女房がどういった性質の女かは、マルテ、あんたもよく知ってるところだから、説明する必要すらないだろう。というより、俺はね、この娘のおっかさんのほうにどっちかってえと惚れてたのさ。ところが女房の奴がそれと察して、『あの女は一体いつまで家賃を支払わないつもりなんだい』とか、『務め先まで世話してやった恩も忘れて、あの女は体の調子が悪いだなんだ言って、また怠けてるよ』だのと、異常なほどこのおっかさんに対してだけは厳しく金を取り立てようとしたわけだ。で、俺だって鬼でもなければ悪魔でもない……この娘のことも適切に優しく取り扱ってやりたい気持ちはあったが、何分女房の奴が毎日のように『いつ追いだすんだい』、『あの惨めったらしい娘は金なんか持ってないよ』、『それなのに、家賃を取り立てないってことはあんた、つまりはあの娘とそのうちねんごろな関係ってやつになろうと虎視眈々なんだね。そうはいくもんか!』だのとうるさくて堪らない。というわけでだ、マルテ。この娘に溜まった家賃の半年分、耳を揃えて俺に返せるようしてもらえないもんかね」
(ふふん!あんたもあんたの女房も、人の面してるのは、上っ面のその部分だけさ。その下には恐ろしい鬼か悪魔が潜んでるってことは、あたしだけじゃなく、締まり屋夫婦のあんたらから部屋を借りてる人間は誰もが知ってることだろうよ)
マルテはそう思ったが、レイラのことが一目ですっかり気に入ったため、この小鬼のように醜い魂を持つ守銭奴大家に、のちのち文句が出ぬよういつも以上に多めに金を払ってやった。『第一王子の愛人であるあの娘はな、その昔うちに住んでたことがあるんだ。いやあ、あの娘のことも死んだおっかさんのことも、俺も女房の奴も、そりゃあよく世話してやったもんさ』……マルテには銀貨の詰まった小さい袋を上機嫌で持ち帰った親父が、いかにも得意そうにそんな話をする姿が、その時からすでに思い浮かぶようですらあった。
「さてと、これで腐った性根のゴブリンも追っ払ったことだしね、そろそろ本題に入ろうかね」マルテはまるで、独り言でも呟くようにそう言った。「ところであんた、生娘かい?」
部屋へ案内される前に、廊下でそんなことを聞かれ、レイラは戸惑った。彼女は自分はこれからこの立派なお屋敷で小間使いか何かとして働かされるのだろうとばかり思っていたのである。
「あんた、レイラとか言ったかい?今はまだあんたもよく状況のほうが飲み込めてないんだろうから許してやるがね、わたしは自分の従業員に二度も三度も同じ質問をするほど、いつもは気が長くないんだよ!わたしが愛想よくするのは、金の払いのいい上客にだけさ……そんなこともいずれ、嫌でもわかるようになるだろうがね」
だが、やはりレイラは答えなかった。この年の割に厚化粧で着飾った老婆が、一体何を自分に聞きたいのか、よくわからなかったのである。
「さてと、あたしとしちゃ、これはもう大出血の鼻血サービスとかいうやつなんだがね……もしこれであんたにいい金蔓になるだろうという予感が今なければ、もっとつらく当たって裸にひん剥いてやるところだが、未来の木に金が成るだろうことを期待して、ちょいとばかし親切にしてやるってことにしようかね」
マルテは自分の居室のほうへレイラのことを連れてくると、まずは開け放っておいた窓を娼館で働く娘のひとりに閉めさせた。このマリアンという娘は、おかしな性癖を持つ客が自分の首を絞めたことで文句を言いにきたのだが、新しく売られてきた娘の品定めをおかみがするらしいと察すると、ニヤリと淫靡に笑っていたものである。
「ちょうど良かった。マリアン!この娘が裸になるのにちょいと手を貸しておやり」
「ええ。もちろんですとも、おかみさん」
マリアンは「一体何をするんですか!?」と、すっかり戸惑っているレイラのことなど無視して、その粗末な服を脱がせにかかった。彼女が抵抗すると、頬を二発殴ってやった。「いいから、黙ってな、このメスブタ!!黙って言うとおりにしないと、従僕や用心棒の男たちを連れてきて、その華奢な体を押さえつけて服を引き裂くことになるよ。せめても女のわたしがいるだけだっていう今のうちに、大人しくおかみさんの言うとおりにするんだね!」
こうしてレイラは震えつつ、シュミーズ姿になった。煙管に煙草を詰めていたマルテは、一服してから後ろを振り返り、新しい従業員のその姿に、心の底からがっかりした。
「なんという色気のない……あたしが男だったら、まったくがっかりしちまうね。もっといいサテンとレースのエロティックな下着を用意させる必要があるね。なんにしても、そんなぼってりした色気のない下着にはうんざりだよ」
マリアンはくすくす笑った。その戸惑ったような様子を見ているだけでも彼女にはレイラがいいところのお嬢さま育ちであることがわかる。彼女もその昔は大地主の娘としてこんな上等の下着を身に着けていたことがある。だが、マリアンの父は成り上がりであり、金のある間は小作農たちを容赦なく顎でこき使ったため、財力が衰えた時……その者たちによってたかってリンチを受け、もっとも残酷な形で殺害されたのだった。
(きっとこの娘も、そんなような境遇なんだろうね)
赤の他人の前で裸になったことのないレイラは、下着を脱ぐことを最後まで嫌がったが、マリアンは「男の前で裸にされるよりいいだろ!」ともう一度怒鳴り、レイラに抵抗するのをやめさせたのだった。
「マリアン。ちょいと氷を持っておいで」
「はい、今すぐ……!!」
ショーのもっともいいところを逃してはならないとばかり、マリアンは急いで走っていくと、台所の侍女のひとりに氷室まで氷を取りにいかせた。「おかみさんが急いでるんだよ!」と、マリアンは何度もぷりぷりして言ったが、実際には一刻も早くあのまだ世間ずれしてなさそうな娘の裸を見たかったのは、彼女のほうだったのである。
一体どうしたものか、マリアンが戻った時、レイラは生まれたままの姿で、窓の前に立たされていた。レイラのほうではそれでもやはり恥かしそうに頬を染め、胸の前を片手で隠し、下のほうも必死で隠すような仕種をして、身をよじっていたものだった。
「おかみさん、氷を持ってきました」
「ありがとよ、マリアン」
マルテはレイラの手をピシャリとはたいてどけさせると、彼女の男が舌を這わせたことのない乳首に氷を押し当てた。それから、そのサクラ色の乳首の屹立具合を両方とも確かめ、「処女でも感度のほうは悪くないようだ」と独り言のように呟いた。それからマルテがレイラの足の間に残りの解けかけた氷を持っていくと、「あっ!」と彼女は思わず声を洩らしている。
「ふふふ。恥かしいかい?だけどね、この娼館には色々な男がやってくるからね、こんな程度のプレイはまだまだほんの序の口といったところだよ。マリアン、あんたはどうせあれだろ?あれの最中に客のひとりが首を絞めてきただとか、逆に絶頂に達しそうな時に首を絞めてくれと頼まれただの、そんな苦情を言いにきたんだろうね?」
「ええ、まあ……」
けれど、今はもうマリアンもすっかり、そんなことはどうでもよくなった。マルテがレイラの性感帯でも探るように、体のあちらこちらへ氷を移動させるのを見て――そのたびにレイラが敏感に反応するのを見るだに、きのうの野蛮な客の振るまいのことなどは、一時的に頭のどこかへ弾き飛んでしまう。
「よし、いいね。まだ処女で、清らかそのものだという様子をしているにも関わらず、その反応……気に入ったよ。あんたには最初から、高級娼婦になるための訓練を受けてもらおう」
「高級……娼婦?」
レイラはわけがわからなかった。けれど、マリアンもまた、ここへやって来たばかりの頃にその訓練を受けていたから、レイラの身の上がこれからどうなるのかはよく理解できた。最初からそのように、やんごとなき貴族の誰かから<発注>があるか何かしたのだろう。そのような初々しい娘の初めての蕾を自分が摘み取りたいとでもいったような。
「そうとも。マリアン、今日からあんたには高級娼婦教育を手伝ってもらうとするかね。今夜からは断れない客か、あんたの好きな客だけを相手にするのでいいから、このレイラお嬢ちゃんにどうやって男を喜ばすかのコツについて、教えてやらにゃあね。また、そのためには体だけの関係で相手を繋ぎ留めるっていうんじゃなく、男のほうでもあんたの心や精神ってものにぞっこん惚れ込むくらいでなくちゃあいけない。さて、まずはあんたのおつむがどの程度の教育を今まで受けてきたのか、確かめさせてもらわにゃなるまいよ」
レイラが次に連れていかれたのは、マルテがおもに店の売上や必要経費の帳簿をつけている、書斎にあたる部屋だった。またそこは、何十冊もの本が壁の本棚に収まっている場所でもあった。
「古典や詩学についてなんかは、どの程度のことを知っているね?」
マルテは、今では使われなくなったにも関わらず、文学者たちがもっとも権威あるもののように扱いたがるレガルタ語で書かれた本を、壁から数冊引き抜いた。
「音楽になっているものは大抵……レガルタ語は正しい語順で話すのは骨が折れますが、響きが美しいので、音楽になっているものは大体歌えます」
「そりゃいいね。もっともあの方は、女というものに教養なぞというものは大して求めそうもない気もするが、こんなに美しくて教養もあるのに、親の責任で没落貴族に成り果てた……ということであれば、きっととても同情してくださるだろうからね」
このあと、レイラがレガルタ語で美しい詩の歌を歌うのを聴くと、普段は現実的な実務家であるマルテのみならず、マリアンもほう、と溜息が洩れるほど、彼女の歌声に聞き惚れたのだった。
「こいつはびっくりだね……!こんな場所へ身売りされてこなくても、これなら場末の飲み屋ででも歌を歌って、適当に男と関係を持つような形でも、あんたひとりなら食べていけるかもしれないね。が、まあ、ある意味レイラ、あんたはやっぱり運が良かったよ。この界隈じゃあたしはこれでも、まだしも人情味のあるほうだからね。それで、楽器のほうは何か出来るものがあったりするのかい?」
もしレイラが「ありません」と答えたとすれば、マルテは誰か伴奏者を用意させるつもりだった。そこへあの口裂け王子がやって来て聞き惚れる――という、マルテがそこまでのことを妄想した時のことだった。
「ハープを少々……」
レイラがおずおずしてそう答えると、マルテは思わずぱちん!と指を鳴らした。(これで決まりだ!)と、彼女はもうほとんど確信していたほどである。
マルテは他にも、レイラの食事マナーを侯爵令嬢らしく身に着けているところや、文学好きな母親や歴史好きな父親などから受け継いだという教養の高さに十分満足した。これならばおそらく、話術という点でもリッカルロ王子のことを退屈させず、むしろその逆の効果を得させられるに違いない。
「マリアン、あたしゃあんたの時には随分骨を折って食事のマナーについて指南したり、基礎教養ってもんについてもお貴族のお坊ちゃん方が満足するようしつこく教えてやらにゃならんかったものだけどね、レイラはさらにその上ダンスが大好きなんですとさ!あたしゃ、なんだかだんだん腹が立ってきたほどだが、まあ、せっかくの大事な商売道具だからね。あんたも、変な嫉妬心なんか起こしてあの娘に陰でこっそり意地悪なんかするんじゃないよ」
「レイラがもし、エル=エスカラス公爵の愛人になるのにせっせと準備してるとかだったら」と、マリアンは意味ありげに笑って言った。「わたしも嫉妬したか知れませんけどね、あの娘はほんと、世間知らずすぎて、時々見ていて気の毒になるほどですわ。おかみさんがドレスや帽子を新調してくださるのも、栄養満点の美味しい食事を三度三度出してくださるのも……いずれは、あの口裂け王子さまに処女をお捧げするためなんですもの。その時、レイラは一体どうしますでしょうかしらねえ。その次の日にレイプされた我が身を思ってよよと泣き伏していたら、『あらあ、可哀想に!』と心から同情すればいいのか、それとも心の中じゃ『ふふっ。ようやくこの娘もあたしたちと同じ身分になったわね』と、意地悪く喜ぶことになるのか、自分でもよくわかりませんわ」
この時マルテとマリアンは、レイラに男との色恋沙汰のあれこれについて指南してやり、この清楚な生徒のことを部屋へ帰すと、ひとしきり笑ってから、こんな話をしていたのだった。というのも、レイラが娼館へやって来て、彼女たちと共同生活をはじめて三か月としないうちに――マキューシオより「ちょいとあの未来の王さまに将来の子作りの予行演習をさせてもらえないかね」という依頼があったからである。
「まあ、マリアン。あんたの気持ちはあたしにもよくわかってる……言ってみればあたしはね、レイラに住むところと食べるものと着るものの世話を十分してやって、よく肥えて太った家畜を生贄に供じるように、あの娘のことを最後には男の手に渡すんだからね。レイラはそこのところをわかっているのかいないのか、『こんなに良くしていただいて申し訳ない』だの、『せめて何かお手伝いでも……』なんて具合で感謝してるがね、あたしゃこれもまた親切心から、『あんたはいずれ自分が好きでもない殿方に花を摘まれる運命なんだよ』と、何度も言って聞かしてるんだが、レイラは『それはそれ、これはこれですわ。おかみさん』なんて言うんだからね。が、まあやはりあの娘にはリッカルロ王子のお気に入りの愛人になってもらって、投資した分の軽く十倍は稼いでもらわにゃなるまいよ」
マルテとマリアンがこんな話をした三日後、レイラが下働きの娘たちに混じって娼館の掃除をしている姿を見つけると、マルテはそんなことは彼女にすっかりやめさせて、「とうとうその時がやって来たから、準備しなさい」と命じたのだった。
「いいかい、レイラ」と、マルテは上客用の部屋へレイラを通すと、いつも以上に真剣な様子で、世間知らずの侯爵の娘にレクチャーをはじめた。「このオールバニ領の領主であるリッカルロさまのことは、おまえも名前くらいは聞いたことがあるだろう?人の口には戸を立てられないとはよく言ったもんさね。ええと、あたしも忘れてしまったが、生まれつきの口蓋奇形というのかね。そこへ加えて、リア王からただ醜いという理由によって、ナイフで口を裂かれて追い出されたというのがあの人のことだよ。リア王は賢いこの第一王子でなしに、双子王子のどちらかを自分の世継ぎにしたいらしいとの専らの噂だがね、ま、ここオールバニー領に住む者ならば誰しも、リッカルロさまに王さまになって欲しいと望んでいるものさ。この場合、そうした政治的なことはどうでもいいっちゃどうでもいいのだが、あの方の大切な御親友であるマキューシオ・エスカラスさまがね、あの方は心がけ正しく立派な御仁であるにも関わらず、あの御容貌であることから、女性に対して極めて奥手であられる。だからちょいと手ほどきしてやって欲しい、などとおっしゃるのだよ。ねえ、レイラ。おまえもここへやって来てもう三か月にもなるのだから、どういった事情で自分がここへ来させられたかくらいは、もう十分承知していることだろうね?」
「は、はい……」
先ほど、小間使いの娘たちとシーツ交換したばかりのベッドに、レイラは座らされた。マルテもまた彼女の隣に座ると、荒いリネンで出来た頭巾をレイラの頭から外し、三つ編みにしてピンで留めてある彼女の見事なブロンドをほどいてやる。
「とりあえず、難しいことは何もないのさ。今は掃除用のみっともないスモックを着ちゃいるが、その時になったら前にサイズを測って作ってもらった煌びやかなドレスを着てだね、おまえは今みたいにこうしてベッドの上に座ったままでいればいいのだよ。この場合、大切なのはこういうことさ。あの方がそこのドアから入ってやって来る、そしたら、特段挨拶も何もなしに、もしかしたら不躾におまえのことをじろじろ眺めまわすかもしれないね。レイラ、そんな時にもおまえは失礼だなんて思っちゃいけないのだよ。あの方がおまえにキスをするのが先か、それともドレスを脱がせようとするのが先か、それはわからない。いいかい、今から一番おまえがすべきことで大切なことを言うよ……あの方の醜い御容貌のことを見ても、少しも驚いたりしてはいけないということだ。そうだねえ。あたしに言わせりゃあの方は美男子なんだがね、瞳のほうは大きくて美しいし、鼻筋だって高く通ってなさるが、唯一口だけが醜い奇形なのだね。それで、女性のほうではそんな自分の容姿に恐れをなして近寄ろうとも思わないだろうと、まあ、こう思いこんでなさるというわけなのさ!ここへやって来る男どもというのは、クズかカスみたいな連中ってのも多いが、あの方は黄金の心意気があるとでも言っておこうかね。レイラ、おまえのほうではただ、恐ろしさに悲鳴を上げたりしないことだ。それで、ただあの方のなさるままに、身をお任せしていたらいいのだよ……」
「醜いって、そんなに?」
レイラは反射的にそう聞いてしまってから、後悔した。彼女も無論、リッカルロ第一王子のお噂であれば、聞いたことがあった。けれど、彼女がそうした時に思うのは――(実の父親にまで嫌われる醜さとは、どういった種類のものだろう)という、そのことだったのである。
「レイラ、どうやらおまえにはまだ訓練が足りなかったかね?」
マルテは一転して厳しい顔つきになると、隣の若い娘の太腿のあたりをピシャリと扇子で叩いた。彼女は淑女らしい歩き方の出来ない娘や、食事マナーの稽古中に作法のなってない娘、あるいは教養のまるでない娘が自分の質問に答えられなかったりすると……今のように扇子で容赦なくぶつのだった。だが、レイラのことをマルテがはたいたのは、これが初めてである。
「い、いえ……違うんです、おかみさん。わたしも、わたしなりに今までの人生の間で、何人もの人に会ってきました。けれど、その中に誰か耐えられないほど醜いとか、そんなふうに感じた方はひとりもおりませんでしたもの。太っているということで言えば、わたしだって将来そんなふうになるかもしれませんし、ご病気でお顔に吹き出物が出ている方だって……何か不潔であるとか、そんなふうにはまるで思いません。でも、おかみさんのような方が何度も醜いとおっしゃるだなんて……そう思うと、なんだか少し怖くなったんですの」
「ふうむ。ようするにだね、あの方は勘が良すぎるのだよ。たとえば、おまえと会った瞬間に、おまえが自分に対して何をどう思ったか、すぐに察してしまうのだね。そこで、だ。レイラ、おまえ、あの方の前では目の見えない娘の振りをおし」
「えっ、ええっ!?」
(そんなことは出来ない)と、レイラは反射的に思った。何故といって、自分はそれでなくとも嘘が得意なタイプでないし、しかもそんな勘の鋭い高貴な方に対してだなんて――第一、それが嘘とわかった時、自分は一体どうすればいいのだろうか。
「何、心配はいらないよ。あたしが理想としているのはね、おまえがリッカルロ王子にすっかり気に入られて、愛人の座に出来る限り長く座っていられることだが……人生そう思ったとおりにはうまくいかないものだということは、これでもわかっているつもりさ。だが、あの方はお優しい方で実に情が深く、男なのに女のように繊細なところがおありのようだから、おそらくはうまくいくよ。もし仮に、実はあまり気に入らないタイプの女が相手でも、ただ一度契りを交わしたというそれだけで、住むのにいいところを充てがってくださって、暮らしていくのに困らない程度の財産を与えてくださりそうなくらいね。それがレイラ、おまえのように清純な美しい娘となれば尚更のことさ。だからね、とにかくおまえは余計なことをせず、ただありのまま、あの方のことを受け容れてさしあげればいいのだ。それ以上のことは余計なことだよ。おまえの場合、あまり出しゃばりすぎることさえなければ、ただそれだけで十分うまくいく」
「…………………」
レイラは、マルテの言ったことのすべてを即座に理解したわけではない。ただ、ここオールバニーの領主として、リッカルロ・リア=リヴェリオン王子が領民たちから実に慕われている評判については、以前より伝え聞いていた。自分の醜い容貌を見たご婦人方が失神してはいけないので、普段女性のいる場では顔の半分に布を巻いておられるというのも誰もが知っていることである。つまり、領民の多くは雲の上の貴族のひとりとしてではなく、そうした弱さを特段隠すでもないコンプレックスを抱えるひとりの人間として、この第一王子に親しみを覚えている――そうした意味でも彼は領民に慕われ、人気があるということなのだ。その上、領民を治める政治的手腕においても、領主として優秀であったとすれば尚更だった。
(わたしが、そのような方の愛人に、本当になれるのだろうか……?)
レイラはこのあと、自分に与えられた部屋で鏡と向き合うと、口の端のほうを引っ張って、裂けたような状態にしてみたが、やはり彼女は頭の中でうまくそのような男性の顔を想像することが出来なかったのである。
(そうよね。それに、これはおかみさんが直接おっしゃらなかったことだけど……すぐ飽きて捨てられてしまうとか、リッカルロ王子のほうで正妃をいただくことになって、わたしがその頃にはつらい思いを味わうとか、そんなことだって十分ありえるのだわ……)
二段ベッドの下のほうでは、娼婦たちの世話をする小間使いのイーディが昼寝している。昼寝、などと言っても、彼女は仕事のために夕方には起きてきて、そのあとは夜明け過ぎまでずっと働くというライフスタイルなのだ。彼女はレイラよりも年下の十四歳だったが、娼婦になるつもりはないという。「顔があんまり美人じゃないってのもあるけど」と、イーディはレイラのことを気の毒がるような調子で言っていた。「ここにいるとね、この稼業がまったく気狂いじみてるといったようにしか、あたしには思えないもんでね。料理や裁縫や掃除その他、小さい頃からおっかさんに仕込まれてきたもんで、そういう方面でのほうが役に立つだろうって、おかみさんが免除してくださったのさ。じゃなかったら、もっと前に変態趣味の男に十二くらいの年で抱かれてたんだろうね。ほら、結構ここにはいんのさ。そのくらいの小さい娘に一番発情するって類のおかしな連中がね」
その話を聞いた時にも、レイラは仰天したものだった。もちろん今では、夜にはこの娼館は客でいっぱいになり、着飾った美しい女たちが男の客を相手に何で金を稼ぐのか、その具体的な意味について彼女も理解している。けれど、イーディは十二かそこらで売られてきて、その現実的な男女の営みについて真の当たりにし、それのみならず娼婦の女たちの我が儘につきあったり、男の客たちが不機嫌な顔をして帰る時には腰を低くしてあやまったりと……そんな生活に今やすっかり慣れきってしまっているのだ!
(わたしも同じようになれるものだろうか?いや、慣れるなんてとても出来やしないと思ったところで、慣れるしかないのだと、自分に言い聞かせて人生のすべてを諦めることが果たして出来るものだろうか……)
レイラはいずれ高額の値がついて売られるだろう札がすでについているも同然の娼婦であったため、イーディたち小間使いの侍女たちに混ざって働く必要はない。けれど、彼女が不器用ながら、じゃがいもの皮むきをして料理を手伝ったり、掃除や洗濯の仕方を熱心に聞いて覚えようとしたことから……通いでこの娼館に来て、娼婦たちの身の回りの世話をしている侍女も含め、レイラのことについてはみなが心から心配していた。
「ショックのあまり、自殺したりしなきゃいいけどね」
「あたしが言ってんのはね、最初の男が実に立派でハンサムな男かどうかってことは関係なく……ああいう娘にとってはそんなことじゃなく、もっと別のことがショックだろうってことを言いたいのさ」
「やれやれ。あたしたちの役目としてはただ、そんな時にも慰めの言葉をかけてあげて、自分の亭主はどうだの、客の中にはもっとひどいこんな連中もいたことがあるだの言って、少しは優しくしてあげて、この世の荒波に耐えられるようにしてあげるか、美味しいものでも食べさせてあげるくらいしか、してあげられることはないからね」
――だが、厨房で料理の下ごしらえの時や、ベッドのシーツ交換をする時に囁き交わされるこうした小間使いの女たちの心配は、結局のところ杞憂で終わることになる。というのも、リッカルロはレイラと初めて会った時、彼女に何もしなかった。「目の見えない気の毒な娘」とか、「親の侯爵さまが借金だらけの火の車になって売られてきた、可哀想な身の上」だのと聞かされていたせいだろうか。口裂け王子は野獣のように突然襲いかかるということもなく、ただ二十分ばかりレイラと話して帰っていった。そしてその翌日、公爵の使いを通してマルテは多額の現金を受け取ることになり、(狙いどおり!!)と思ったこのやり手婆は――踊り上がって狂喜するということになるのだった。
>>続く。