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第25章

 ギベルネスは地獄の庭園で朝を迎えたその日、レンスブルックが置いていってくれた盆の上のものを食すと、例の喀血病に対する薬だというものを携え、ローリー・ロットバルトの寝室のほうを訪ねた。


 見ると、扉のほうは半分開いていて、早朝だというにも関わらず、人の出入りのほうが激しいようだった。中には、先日紹介されたばかりの伯爵家の侍医らがおり、彼らがどうやら瀉血の準備をしているようだと目にすると、ギベルネスは急いでそちらへ駆けつけた。


(しまった……!!きのう、気分が暗く落ち込むあまり、私は一日くらい延びたところでどうということもあるまいとしか思わなかったんだ。私は馬鹿だ。あれからすぐ、なんの疑いの心も起こすことなくローリーにあの薬を与えていれば良かったのに……)


「待ってくださいっ!!私はローリー君のことを診た医師たちに順に話を聞き、薬ほうを調合したんです。先にこの薬のほうを試させていただけませんか!?」


 実をいうと、ギベルネスなりにこの点については色々考えていたことがある(それがすぐローリーに薬を服用させなかった理由でもあった)。何分、薬のほうは一包しかないのだ。経験からいってもギベルネスにはただ一度の薬の服用によってある重病――それも難病の類に属するもの――が癒されたという話など、聞いたことがない。そこで、いかにこの薬が霊験あらたかな由来を持つものであるか、まずは物語を作った上、似たような色合いの偽薬を製造する必要性があると考えていたのだ。だが、きのうのギベルネスの精神状態では、とてもそこまでのことをする気力が湧いて来なかったのである。


 ユベールに頼んで、<竜血樹>について調べてもらうと(無論、彼はAIクレオパトラに「竜血樹でなんかヒットするもんある?」と聞いただけだが)、過去に惑星学者(言語・民俗学専攻)の論文に、次のような記述があったということだった。『竜血樹とは、エレゼ海の中心に浮かぶ理想郷と信じられているアルティマ島に生える樹木である。そして、その真っ赤な樹液を吸った者はどんな病いもたちまち癒え、不老不死の力を得るという言い伝えが、ロドリアーナ地方を中心に、今も一般に信じられているようである』と。


 また、「霊験あらたかな物語を信じる」ことにも、このくらいの文明の発達具合の惑星では、特に強い意味と精神力があるとギベルネスは知っていた。というのも昔、彼がまだ医大生であった頃、教授のひとりがこんな話をしていたのを覚えていたからだ。たとえば、ある聖なる泉に七度浸かれば癒されるという言い伝えがあるとして――そうした場所で奇跡が起きたと言われる例が本当にあるのは何故かといえば、信心による癒し、といったように一般には解される。だが、癒されなかった者は信心がなかった、ということになるかといえば、もっとも科学的な説明として近いものは(あくまでもその教授の話によれば)それは「自己治癒力の解放が起きた」かどうかの差なのだと……。


 無論、ギベルネスは眉に唾をしながらこの教授の話を聞いていた。つまり、民間療法などで同じように「眉唾もの」の治療法で癒される人間が仮に若干名であれ本当に現れるのは、そのような人間の精神から肉体への働きかけが無意識レベルで起きるからなのだ、という話なのである。言い方を変えたとすれば、小さな頃から「その錠剤を飲めば必ず頭痛がやむ」とか「腹痛が和らぐ」といったものを持っている人が、その薬が実際に効果を発揮しはじめる前から――その薬をゴクリと飲んだその直後に頭痛や腹痛の止むことがあるが、これがそれに相当する行為だというのである。


 ましてや、これだけ神や神々への信心深さが強い文明を持つ惑星でのこと、ギベルネスはこうした「霊験あらたかな物語作り」というのは極めて重要なことだろうと考えていたのである。


「一体なんだね、君は!?」


 侍医頭のキルボーン医師がすでにランセット(静脈切開のための細身のメス)を手にしているのを見、ギベルネスは自分でも顔が青ざめるのを感じた。瀉血を受けた人間のうち、助かった人間よりも死亡した人間のほうが多いと――少なくとも過去の地球においては、西暦十九世紀頃に至るまでそうだったと、医学の教科書にあるのを読んだ記憶がある。


「ギベルネ先生、あなたはきのう、他に何か方策があるかもしれないだとか息巻いておられましたが、今となってはそれも最早意味なきことと思われますな……」


 キルボーンを手伝うべく、他にも四人ばかりもの医師がベッドのまわりを取り囲んでいる。ひとりはゼイゼイと苦しそうな呼吸のローリーのことを起こし、その背中や腰に枕をいくつも入れていた。また他のふたりはローリーの体を押さえつける役であるように思われる。


「そのような薬など……!!」と、キルボーンは鼻でせせら笑った。彼は四十手前ほどの年齢だが、医師の中では最年長であるように思われた。身に着けているものや、若干太って見えるところから、結構な俸給を伯爵家から得ているに違いない。「根本的な解決にはなりませんよ。おそらくはせいぜいのところを言って、一時的に咳止めの役割を果たすか、症状が回復したように見せかける程度のものに過ぎない。ははーん、お宅、あれでしょうな?あのヤブのラルゴ医師から、そのような薬の調合法を教わったのではありませんか?ロドリゴ伯爵、このようなよそ者の言うこと、ペテンに過ぎませぬ。さあさ、おわかりになったらみなさま方、部屋から出ていってくださりませ。本物の医者の治療の邪魔になりますのでな」


「いや、キルボーン先生。やはり、瀉血はまた今度ということに……」


 隣にいた妻のローリエから縋るような眼差しで見つめられ、ロドリゴは苦渋の表情でそう言った。ローリーの部屋には他に、三男のロキルス、四男のロマンド、他に娘たち五人が全員顔を揃えていたが、家族はその全員が父親のこの決断にほっとしたような顔をしてばかりいる。


「またそのようなことを、伯爵さま!」と、キルボーンはなおも引き下がらなかった。他のヤブ医者であればともかく、自分が瀉血をするからには必ず成功するのだと、そう信じ切っているような口振りだった。「いついつまでもそのように決断なさるのをグズグス先延ばしにしていると、その分ローリーさまが苦しむことになるのですぞ。そう思し召して、次に発作が起きた時にはと、あれほど約束したではございませぬか。それを……」


「ギ、ギベルネ先生……」


 ローリーは、苦しい息の合間合間に、訴えかけるような必死な眼差しで言った。


「ぼ、ぼくは……先生を信じます………!!瀉血なんて、怖いもの……」


 末の息子がはっきり不安と恐怖を口にすると、医師たちを押しのけるようにして、ローリエ夫人や五人の娘たちがすぐ彼のことを抱きしめたり、足や体の一部を涙ぐみながら必死に撫でさすった。


「その薬とやらは、本当に効くのでしょうな」


 キルボーンが疑わし気にそう言うのを、ギベルネスは首を振って無視した。(わからない)というジェスチャーではなく、(この場にいる誰よりそう思っているのは、この私ですよ)と心の底で感じていることを――誰にも気取られないためであった。


「発作がはじまったのは、いつ頃からですか?」


 ギベルネスはテーブルの上にあった水飲みに薬を入れると、ピッチャーから水を注いで溶かした。このほうが飲みやすいと思ってのことである。


「今朝方からですが……バーナビーがローリーの異変をすぐに私たちに知らせにやって来たのですよ」


 ギベルネスの調合した薬が、真紅に近い真紫をしているのを見、ロドリゴはその不吉な色に眉根を寄せた。(本当に大丈夫なのだろうか?)という、彼の不安をコピーしたような顔を、家族の全員が浮かべているのがはっきりわかる。まるで、毒でも調合されたとでも思っているかのようだ。


「この薬の原料は、竜血樹の樹液から採取したものです」


 仕方ないと思い、ギベルネスはそう言った。不思議なことに『そんな証拠など、一体どこにある!?』といったような疑問は誰からも投げかけられなかった。ギベルネスは血を吐いたのであろう痕の残る枕からローリーのことを抱え起こすと、彼のことをしっかり抱いたまま、水飲みを口許まで持っていった。


「少しずつでいいですよ……いきなりいっぺんにすべて、というよりも、何度かに分けてで構いません。ゆっくり無理せず飲んでください」


 ローリーは一度だけ噎せ込んだが、残りはすんなりすべてごくごく飲み干していった。それから最後に「はあっ」と、苦し気とも、満足気にも聞こえるような吐息のあと、再び枕に頭を就けた。今度は「ふーっ」と、肺の奥深くから空気を吐きだすような溜息を着いている。


「先生、ぼく、眠いの……寝てもいい?」


「ええ。もちろんそのほうがいいです。むしろ、薬の効いてきた証拠ですからね」


 ギベルネスは自分がとんでもないペテン師になったような気分だった。(こんなもの、本当に効くのか?)と思っているのは、誰より彼自身であるにも関わらず――それでもギベルネスは(いや)と、唯一自分を肯定できることがあるにはあった。とにかく、あんないい加減としか思えぬ瀉血法に頼るよりは、プラシーボ効果があるやもしれぬ薬に頼ったほうがまだしもマシだということである。


 ローリーは一度瞳を閉じると、すーっとどこか遠く、夢の世界にでも吸い込まれるように眠りに落ちていった。呼吸音のほうも静かであり、脈のほうも落ち着いていた。ロドリゴ伯爵から許可を得ると、心臓と肺の音を聴いてもみたが、その間もやはりローリーは目覚めるような気配を一切見せなかったものである。


「大丈夫ですよ。みなさん、まだ朝食のほうもまだなのでしょう?ローリー君には私がついていますし……ご心配なく、まずは食事のほうをお済ませになってください」


「ギベルネ先生、心から感謝致します……!!」


 ロドリゴ伯爵はギベルネスの肩に額をつけると、そのように感謝の言葉を述べ、一度息子の寝室から出ていった。彼は城主として、今は客人が宿泊中ということもあり、執事や従者らと朝から話し合うべきことがたくさんあったからである。部屋のほうには結局、ローリエ夫人と五人の娘たち全員が残った。ロキルスとロマンドは「ローリー、本当に大丈夫なんだよね?」と確認し、それぞれの部屋のほうへ一度戻っていった。可愛い弟が、発作が過ぎ去った時いつもそうであるように、長い眠りに就いたように思われたからである。


 だが、そのことを知らなかったギベルネスはある意味不幸であった。というのも、具体的に自分が何を患者に飲ませたのか、正確にその成分について何も知らぬ彼は、俄かに心配になってきたわけである。(このままもしローリーが目を覚まさなかったら?)ということもそうであるし、次にもし重篤な発作が起きた場合、自分には瀉血法に勝るような治療法を何も提示できないからでもあった。


「ギベルネ先生も少し、お休みになってはいかがかしら……?」


 娘たちが交代で出たり入ったりするにも関わらず、ギベルネスが変わらず、犬の相手をしつつベッドの傍らに居るのを見かねて、ローリエが気遣わしげに言った。彼は夫人の口からローリーの病歴についてあらためて聞き、末の娘のロザリンドが「ねえ、竜血樹の樹液ってことは、先生、アルティマ島まで行ったことがあるの?」といった疑問に答えることになっていた。「いえ、ありません」と、ギベルネスは正直に言った。「ですが、信頼できる薬種商から手に入れたものですから、効果はあるはずです」と、(もしなかったら困る)と思いながら話していたわけである。


 他にも、五人の娘たちの好奇心を満たすためだけの質問にも答えていたが、彼女たちはどうやら、ハムレットやタイス、カドールやランスロットに恋人はいるのかどうかなど、随分個人的なことを知りたく思っているようだった。無論、そのようなことを上流階級の女性が食事の席であれどこであれ、訊ねたりするのははしたないことであるとされている。だが、おそらくギベルネスに(余計なことは黙っていてくれそうな人)という雰囲気が備わっていたからであろう、彼女たちは随分不躾なことまで彼に聞いていたものである。


「ごめんなさいね、あの子たちったら……気の許せる男の人との会話というのが楽しいというそれだけなんですわ。貴族同士のパーティや何かだと、つまらないしきたりがあったりなんだりで、結局のところ気取った会話しか出来なかったりしますものね」


「あら、お母さま。お言葉ですけどわたしたち、ハムレットさまやタイスさまのような素敵な殿方と、貴族のパーティで出会ったことなんて一度もありませんことよ」


 次女のロマーナがそう言った。五人の娘たちは「ローリーが発作を起こした」と聞かされた時、最初はそれぞれ部屋着の上に軽くガウンを羽織り、急いで末の弟の寝室までやって来た。だが、ギベルネスが薬を飲ませてローリーが深い眠りに就くと、それぞれ交替で着替えたり、髪の毛も梳かすなど、身だしなみのほうを整えてから再び順に戻って来たというわけなのである。


「そうそう!」と、三女のロリアンナ。「わたしたち、難しいことはわからないけど、とにかくこれで内苑州の貴族のどなたかだの、あるいはここロットバルト州の貴族の誰かと――もうそんなに無理して結婚したりとか、そんなこともしなくていいのでしょう?お母さま、わたしたち、あれから色々話したりしていたのよ。もし誰とでも自由に……恋愛したり結婚したりしてもいいのだったら、ハムレットさまやタイスさまがお相手でもいいのかしら、といったようなことをね」


「あなたたちったら……」ローリエは呆れたようでもあったが、同時に悪戯っぽく微笑んでいる様子でもあった。「まあ、気持ちはわからなくもありませんけどね。けれどまあ、ロリアンナ、あなたが憧れていたような家庭教師のサザーランド先生とか、ご無理な方はいらっしゃいますからね。とにかく、暫くの間あなたたちの縁談話のほうはストップするというのは確かですよ」


 ここで、長女のロレインと次女のロマーナが「きゃあっ!」と叫んで抱きあい、互いの手のひらを握り合わせて喜んだ。実をいうと彼女たちはふたりとも、内苑州の有力貴族との縁談話が水面下で進んでおり、ほとんど婚約寸前というところまでいっていたからだ。三女のロリアンナはまだ良かった。ここ、ロットバルト州の貴族とそうした話はあったにせよ、それはまず上の姉ふたりが片付いてから――ということになっていたからである。


 そして、これから先起きる戦争のことを思うと、ローリエ夫人にしても気が重くなるのであったが、娘たちの行く末のことを思うと心が明るくなるのもまた事実であった。一度内苑州のいずこかの州に嫁いでしまえば、どんなに心配であっても年に数回行き来できるかどうかといったところだったろう。そう思うと、ローリエはほっとした。実際のところ、娘たちと同じように結婚相手の侯爵家の息子たちについては、身分が高いという以外、彼女自身あまり好きになれなかったというのがその理由である。


「ギベルネ先生は、結婚されていないの?」


 五女のロザリンドが無邪気にそう聞くと、ギベルネスは「ええ、してませんよ」と、ローリーの脈を取ってからそう答えた。彼は今、ステンレス製のようでもなかった穿刺針のことを思いだし、同じように医療器具を作ることが可能なのではないかと考えているところだった。


「ふう~ん。ねえ、お母さま。わたし、結婚するとしたらギベルネ先生のような人がいいわ。それでね、先生のお医者さんとしてのお仕事を手伝って、あちこちを転々として暮らすのよ!」


「まあ、ロザリー、あなたまで!」と、ローリエはえくぼをへこませて優しく微笑んだ。「でもきっと、先生にはすでに心をお決めになった方がいらっしゃるでしょうよ。それに、あなたもまだ十四だし、一人前の立派なレディになるにはお勉強しなくちゃいけないことがまだたんといっぱいありますものね」


「先生、それ、ほんと?」


(この六人の女性たちは、何故ずっとここにいるのだろう……)ギベルネスはそう思いはじめてさえいたが、何分追い出すことも出来ない。そこで、溜息を着きたいのを堪えつつ、「本当というのは?」と聞き返した。


「心に決めた方がいらっしゃるって、お母さまが言ったこと!!」


「ええと、そうですね……いるといえばいるような………」


「ロザリー!先生を困らせたりしないの」


 四女のロスティンが妹の額を指で弾いて言う。


「姉さまたちもよ。カドールさまもランスロットさまも、そりゃとても素敵な方だけれど、今婚約されてる方がいらっしゃらなくても、意中の方がおられるとか、恋人を故郷に残してきたとか、きっと誰かいらっしゃるのじゃなくて?」


「もう、あんたはわたしたちより年下のくせして、現実主義者なんだから!」と、長女のロレインが呆れたように言う。「聖ウルスラ騎士団の騎士さま方も素敵だけれど、ローゼンクランツ騎士団の方々はもっと素敵な印象だわ。我がロットバルト騎士団だって、騎士としての風格や腕前といった点では負けないでしょうけれど、女性のことに関していえばあまりいい噂を聞かないものね。騎士団長のヴィヴィアン・ロイスにしてからが、女癖が悪いって評判なのですもの」


「色男だし、颯爽としていて格好いいことは認めるけれど」と、次女のロマーナ。「わたし、どちらかというと同じ騎士でも妹のブランカ・ロイスとなら結婚してもいいわ。そこらの軟弱な男どもなどより、よほど腕が立って頼り甲斐がありますもの」


「ほんと、ほーんと」と、三女のロリアンナ。「でもこのままいくと、わたしたち五人姉妹のうち、誰かがあのヴィヴィアンと婚約するってことになるのよ。何より、威光輝くロットバルト騎士団の騎士団長さまなんですもの。形式的にせよ、そんなふうにしなくちゃいけないってことなんでしょ?」


「そうよねえ」と、四女のロスティン。「わたしも、ブランカみたいに騎士になってたら良かったわ。もちろん、お父さまもお母さまもそんなの、大反対なさったでしょうけど……ギネビアさまのあの凛々しいお姿を見たら、ブランカと同じように女だって騎士になろうと思えば出来るんだって思っちゃう」


「わたし、ギベルネ先生に誰か他に女の人がいるんなら、ギネビアさまとだったら結婚した~いっ!!」


 五女のロザリーが最後にそう叫ぶと、「あら、そんなこと言ったらわたしだって」と、ロレインとロマーナがほとんど同時に言い、みな顔を見合わせて笑った。ローリエ夫人は困り顔をして、ギベルネスのほうへ戸惑ったような視線を投げた。(この子たちのこと、許してやってくださいね。ちょっとした冗談ごとなんですのよ)とでもいうように。


 そしてこの時、ドアが二度ほどノックされ、「少し、よろしいですか?」という声がした。ハムレットだった。途端、五人姉妹の笑いさざめく声がぴたりとやむ。


「ええ、どうぞ」


 そう答えたのは、ローリエ夫人である。ハムレットは後ろにタイスだけを連れ、そっと気遣うように入室した。この時、長女と次女はぱっと顔を赤らめると、「それじゃあ、わたしたちはそろそろ……」と小さな声で囁くように言い、ふたりの男と入れ違いになるようにして退出していった。


(不思議なものだな)と、ギベルネスは妙に感心してしまう。(ふたりとも末の弟が大丈夫そうだとわかるなり、一度部屋へ引っ込み、まずはある程度身だしなみのほうを整えてきた。そしてさらにその後、気合の入ったドレスに着替え、髪型のほうも凝ったものにしてきたのは……今この瞬間のためだったのだろうに、いざ本人が来たとなるなり、すぐさま退散してしまうとは)


 ハムレットやタイスと、せめても一言か二言でも話したかったのは、彼女たちの口振りからいっても間違いなさそうだった(ふたりに恋人がいないかどうかと熱心に聞いてきたのは、特に長女のロレインと次女のロマーナだったのだから)。けれど、せっかく彼らのために趣味の良いドレスに着替え、髪型も凝ったものを侍女に編ませたのだろうに――その甲斐もなく、ロレインもロマーナもすぐさまいなくなってしまったのである。


「変なのー!」その点、五女のロザリーは生まれついての天然だった。「お姉ちゃんたち、きのうからハムレットさまがどうこうとか、タイスさまがどうこうとかくっちゃべってた割に、実際にふたりが来たらどっか行っちゃうんだもの」


 四女のロスティンが妹の口許をむぐっとばかり押さえつける。けれど、ハムレットもタイスも何も気づかなかった振りで、ギベルネスの隣にそれぞれ座った。


「ローリー君のお加減のほうはどうですか?」と、ハムレット。タイスは目礼ののち、気遣わしげにロットバルト家の末の弟のことをじっと見つめた。


「ギベルネ先生がお薬をくださいましてね」と、ローリエ。「そのあと、ずっと安らかに眠っております。先ほども先生にお伝えしたのですけれど、明らかにいつもとは違いますわ。いつも、大きな発作のあとは眠ってしまうんですけど、それでも自分の咳で起こされたりと、そんなことを繰り返すものですから……本当に、ハムレットさまにはいいお医者さまをご紹介いただいて、どう感謝してよいものやらわかりません」


「先生、ローリーのほうはどうですか?」


(このまま治りそうですか)と、そう聞かれているようにハムレットの眼差しから感じ、ギベルネスは溜息を着きたくなる。


「おそらくは……このままいけば大丈夫でしょう」


 ギベルネスは彼自身、自分の言っている言葉が信じられなかった。だが、この場合他にどう答えればいいのかわからなかったのである。無論、再び悪化したとすれば、ギベルネスにしても責任の取りようもない。ぬか喜びさせたこの場にいる全員に対して、詫びる言葉もないという状況へ追い込まれることになるだろう。


「おお、ローリー!ほんとに、本当に……」


 ローリエは可愛い息子の手をぎゅっと握りしめると、それを自分の額にまで持っていき、静かに涙を流しはじめた。三女のロリアンナと四女のロスティンも瞳に涙を滲ませていたが、ただ、五女のロザリーだけが「わたし、ギべルネ先生が治してくれるって知ってたもん!!」と、どこか誇らしげに満面笑顔だったものである。


「良かった、ローリー……」


 ハムレットもまた、ほっとしたようにロットバルト家の末の弟の手を祈るように握りしめた。ローリーがハムレットと会って話したのち、どんなことを聞かせてくださったか、事細かく嬉しげな報告を受けていた五人の娘たちは――(見目麗しいというだけでなく、心までお優しい方なのだわ)などと、暫くぼうっとしてしまったほどである。


「その、ハムレット王子……実はお話があるのですが………」


 ローリー・ロットバルトは熱もなく、呼吸のほうも規則正しく、脈のほうも正常に打っていた。そこで、一時席を外しても大丈夫だろうと、ギベルネスはそう判断したわけだった。


「そうですわ、先生!」と、ローリエはハムレットが何か答える前に言った。「食堂へでも行ってお食事して、少しお休みになってくださいませ。もしローリーが目を覚ましたら、すぐに誰か、従者が知らせるために走りますからね」


「ええ、すみません。そんなに長くかかる話でもありませんし、もし何かあればすぐお知らせください」


 ハムレットと一緒に、タイスが側近として当たり前のようについて来たが、暗殺者等が襲ってきた場合、彼には王子の身代わりとなって死ぬ覚悟があるからだとわかっている。ゆえに、ギベルネスは気にしなかった。それに、タイスに聞かれて困るような話でもない。


「ロドリゴ伯爵からも、泣いて感謝されたのですよ」


 廊下を並んで歩いてゆきながら、ハムレットは少し困ったような顔をして言った。


「それで、我々はすぐにピンと来たわけです」と、タイス。「きっとあなたが医師として、もっと言うなら<神の人>として、何かしてくださったに違いないと……」


「ハムレット王子、その件に関してなのですが」と、ギベルネスは慎重に言葉を選ぼうとした。三人はハムレットとタイスの居室のほうへ向かう途中だった。「私はこれから……<東王朝>のほうへ向かわねばなりません」


「なんだって!!」


 そう叫んだのは、ハムレットとタイス、ほぼ同時だった。廊下を行き来していた侍従や侍女、それに窓のあたりでおしゃべりしていたウルフィンやキリオンが、ほとんど同時にこちらを振り返る。


「い、いや、詳しい話のほうは、部屋のほうで聞こう……」


 自分たちの聞き間違いを信じてでもいるように、タイスとハムレットは視線を見交わしている。ギベルネスとしては想定していた反応ではあったが、廊下の端にディオルグの姿を認めた時、ふと不思議にはなった。果たして彼は、『一緒に来て欲しい』とはっきり意思表示しなかったとしても――自ら同行することをハムレット王子に本当に願いでるものだろうか、ということを……。




 >>続く。






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