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第21章

 ロドリゴ=ロットバルト伯爵が主館としているマリーン・シャンテュイエ城は、エレゼ海に面した崖を背景にして聳え立っていた。そこから海の宝石のような港湾都市ロドリアーナをも見下ろすことが出来、さらにはこのマリーン・シャンテュイエからは、離れ小島のようになっている人工島の上に建つ、別名<岩船>とも呼ばれるリーン・デュノワ城をも見晴るかすことが出来た。


 他に、ロットバルト伯爵家は城下町や近郊に四つほど別邸を持っているため、マリーン・シャンテュイエ城へ向かったのはハムレット一行と、エレアガンスと彼の近衛五名といったところである。残り、七十名ほどの騎士や将兵らはこれら別館へとそれぞれ振り分けられていたようである。


 折しも、あたりは陽が暮れかかっており、馬車で海に沿った道をゆく時、遠く水平線に沈みゆく大きな太陽が見えた。しかも、これから港のほうへ戻ってくるというのでなく、今から漁へ出るらしき船の姿が三艘ほどあり――これらの船は水平線の涯てへ向かい、燃える赤い炎の腕に抱かれるようにして、まるで幻の影絵であるかのように消えゆこうとするところだったのである。


「これから漁へ出るだなんて、危険じゃないんだろうか」


 ハムレットは、海という雄大な景色に心から深く感動し、その余韻に浸りつつ――ふと、そんな現実的な問いを口にしていた。先頭の馬車にはエレアガンスとその近衛が、二台目の馬車にはハムレット、タイス、ギベルネス、それにカドールが乗車していた。三台目の馬車に、ランスロットとギネビア、それにレンスブルックや最初の馬車に乗れなかった近衛が乗り込むのを見て、ハムレットはこの時もチクリと嫉妬の棘に胸を刺される思いだった。


 アストラット城を出てまだ暫くの間は、ギネビアはまだランスロットにエレイン姫のことで怒りを燃やしていたものである(そしてこの時に、ギネビアが何にそんなに怒っているかといえば、彼女はエレインほどの素晴らしい女性がランスロット如きのために投身自殺までした……その原因を作ったのが元婚約者であるということに何より怒りを燃やしているのだと、カドールもようやく理解していたのである)。ところが、虹が行く先々で現れたり、さらには<海>という初めて見る巨大な水の果てしもない壮大な光景を目にするなり――己という人間の小ささと海の大きさを比較したわけでもないのだろうが、ギネビアはいつも通りランスロットのことをあっさり許していたのである。


 さらには、ランスロットが綺麗な巻き貝をひとつ、アクセサリーを扱っている店先で買ってやり、その貝に耳を澄ますようにさせるなり、ギネビアは「なんだこれは!」と、すっかり子供のようにはしゃいでいたものだった。


「おそらく、夜であればこそ大量に獲れる魚か、仕掛けてある網といったものがあるのではありませんか」


 ハムレットの呟きに誰も答えないのを見て、ギベルネスはそう言った。彼も海や漁といったことに詳しいわけではまったくない。それでも、大学時代の友人に漁師町出身のディエゴという男がいて、夏休みに彼が父親を手伝いイカ釣り漁へ行くというのについて行ったことがある。それはギベルネスにとって、まったくもって大変な経験であった。一口に『漁をする』、『イカを取る』といったことがあんなに大変とは思ってもみなかった。真夜中、照明に引き寄せられて昆虫が四方八方からやって来るし、スーパーで見るのでない生きた大きなイカはまったくもって薄気味悪く、見知らぬヌメヌメした怪物にしか見えなかったものである。


「随分詳しいんですね」


 カドールは(もうよそう)と何度も思い、自分を戒め続けているにも関わらず、やはりそう口に出さずにはいられなかった。


「ギベルネ先生、あなたは先ほど、生まれて初めて海というものを見たギネビアやハムレット王子ほどには――何も感じてらっしゃらないようだった。いえ、だから特段何がどうだという話ではないんです。ですが、あなたが夜に漁をするらしき漁船にお詳しいようだったので……以前もここロドリアーナあたりに来たことがあるのかと、少しばかり気になったものですから」


「いえ、まあ……」


(直接来るのは今回が初めてですが、衛星の映像を通してはこのあたりの景色は何度も見たことがあります)――などと言うわけにもいかず、ギベルネスは返答に窮した。(『来たことがある』と言えば、『一体いつごろ、なんの用事で』といった話運びになるだろうしな)と、そう思ったのだ。


「そうか。きっと夜に活動が活発になる海の生き物というのがいるのだな。オレも、うなぎのパイなんてメルガレス城砦で初めて食べた。世の中には自分の知らない随分美味しいものが色々あるのだなと思ったというか……」


「王子、うなぎは海ではなく、川で獲れるものです」


 ギベルネスは咄嗟に訂正した。(いや、正確にはうなぎは海で産卵し、その後川に上ってくるのではなかったか?それに、いくらそのヌラヌラした姿や味のほうが似ているとはいえ……惑星ロッシーニのうなぎの生態と比較するのは間違っているかもしれない)と、次の瞬間にハッとする。


「ああ、そうか。オレも、魚屋の店先であの気味悪くうねうねしているのを見たというそれだけだったものでな……確かにそうだ。じゃああれは、ムートンメリエール川で獲れたものだったんだろうか」


「おそらくそうでないかと思いますが……」


 流石にギベルネスにも確信まではない。そして、どこか自信なげに首を傾げるギベルネスのことを見て、タイスとカドールは顔を見合わせて笑った。彼はいつでも自分にある知識をひけらかしたり、それを自慢にしたりすることがなかったからである。


(まったく、不思議な人だ……)と、カドールとタイスは大体のところ似たようなことを思った。(年齢を聞くと「三十いくつということにでもしておきましょうか」とか、どこかぼんやりしたことしか言わないし、ここロドリアーナへ前にも来たことがあるならあるで構わないのに、何かを曖昧に誤魔化そうとするのだから、こちらとしてもどこまで聞いたらいいかわからなくなるのだ)


「ああ、そういえばハムレット王子」と、ギベルネスはこの時もふと何かを思い出したような調子で言った。「先ほど、魚介類の何がしかを売り物にしている店で思ったことですが、おそらくこれからマリーン・シャンテュイエ城あたりでは、海の珍味と言いますか、今まで王子たちが口になさったことのないようなお食事が出されるかもしれません。無論、ロットバルト伯爵は心からのおもてなしといった意味で自慢の御馳走を色々出してくださるに違いないのですが……口に合わないと感じたものは、無理にお召し上がりにならないほうが良いかもしれません」


「だが、それだともしかしたら、礼を失するということになるかもしれないし……」


 ハムレットはいくつも並ぶ水槽の中に、海栗やアワビといった変わった存在がいるのを見て、店の親父にこう聞いていた。「これ、なんですか?」と。すると、親父はムシャムシャ食べるジェスチャーとともにこう答えていたものだった。「中身を取り出して食べるのさ」と。「酒をきゅーっと一杯やりながら食うとうめえんだ、これが」とも。


「そのう……実は私は牡蠣にアレルギー……いえ、牡蠣がダメな質でしてね」


 どうにかアレルギーという言葉なしで、ギベルネスは説明しようと試みた。


「牡蠣というのは、貝の一種でとても美味しいんです。海のミルクと呼ばれるくらい栄養もたっぷりです。ですが、他の多くの人はなんともないのに、私はそれを食べると次の日……いえ、速ければ数時間後には必ず蕁麻疹に苦しめられるんですよ。つまり、海栗でもアワビでも海老や蟹といった甲殻類でも――そうした症状の出る人というのが、おそらく極少数かもしれませんがいるということです。ここ、ロドリアーナや海に近い漁村などに住む人々は、小さな頃からそうした海の幸といったものを食べ慣れている人ばかりでしょう。だから大丈夫かもしれませんが、王子もタイスもギネビアも砂漠州育ちですしね……とにかく生ものに関しては、口に合わなかったとすればあまり無理して食べないほうがいいと思います」


「俺もランスロットも、その牡蠣とかいうのは以前ヴィヴィアンの屋敷へ招かれた時、食べたことがある。翌日に蕁麻疹は出なかったが、食べるのに最初は勇気がいったというそれだけだ。その後、牡蠣の美味しさについてはわかったが、海栗だのアワビだの、あれのどのあたりが美味しいのかは、俺にもランスロットにも謎として残った。というより、よくあんなものを苦労して割ったりほじったりして食べようと思った人間がいたものだと――まったく感心してしまったほどだ」


「おそらくは」と、タイス。「その昔、不漁などで食糧事情が悪化した時などにとにかくなんでもいいから食べられはしないかと、あのトゲトゲの中身を割って食べた人間がいたのではないですか?俺は、あのイカとかタコとかいう連中も嫌ですねえ。最初に捕まえた漁師はよく悪魔のしもべとも思わず、食用にしたものだと思いますよ」


「あれも、調理の仕方によってはなかなかイケるんだがな」と、カドール。「だが、タイスの言いたいこともわかる……あれは最初の原形を思い浮かべるとそれだけでダメだという奴もいるらしいからな。ああ、そうだ。ここロットバルト州では――何かの折にでも「何か魚くさいな」とか「魚介類くさい」などと言って、鼻のあたりを摘まんだりするのはこの州の人たちに対する侮蔑的行為として受け止められるらしいから、気をつけたほうがいい」


「それは、こちらの人が我々砂漠州の人間に対して「水のない干からびた場所からやって来たあの連中」とか、「砂漠の田舎者」といったことに該当することなんだろうな、おそらくは」と、ハムレット。


「まあ、そんなところですよ」と、カドール。「あとで、レンスブルックや他の連中にも一応注意しろと言っておかなくては」


 ここで、ギベルネスは思わず笑った。


「レンスブルックは「魚くさい」と何度連呼していても、おそらくはキャラ的に許されますよ」


「そりゃあいつはな」と、呆れたようにカドールが肩を竦める。「『魚くさいぎゃ』とか、『魚介類くさいぎゃ』なんて言っても、語尾にぎゃさえつけておけば、大して無礼だとも思われないというある意味とても得な奴ですよ」


 それから他の三人も大笑いしているうちに、馬車はとうとうマリーン・シャンテュイエ城の外郭へ到着した。とはいえ、そこからさらに距離があったとは言えよう。マリーン・シャンテュイエ城の入口を守る二塔の城塔を備えた城門を箱馬車が通り、城に仕える者たちの住む居住区や管理棟郡が並ぶ下城区域を通り抜け主城門へ達するまでには、豊かな森林地帯を囲んで大きな湖まであったからである。そして、ハムレットたちを乗せた馬車がようやく停まったのは、一口に<中庭>と呼ぶにはあまりに広いそのような場所を通り抜けてのちのことだったからである。


 マリーン・シャンテュイエは、海のように青いスレート葺きの屋根を備えた、白亜の壮麗な宮殿であった。もっとも、陽暮れ時のこの時、ハムレットたちにはその白い壁が薄い茶色のようにも薔薇色ががっても見えており、ある種の胸を締めつけるような郷愁の念すら、その美しい城は見る者に与えていたと言える。


「マリーン・シャンテュイエは、南側にある部屋や城塔などからは海が見えますし、人工島に浮かぶリーン・デュノワ城も、見ていてそれは飽きない光景なんですよ。海側に面していない部屋からは、緑溢れる森林地帯を遥か遠くまで見晴るかせますしね、旅の疲れを癒せること請け合いですよ」


 中庭にある、妖精でも住んでいそうな庭園の道を、城の執事は馬に乗り先頭を走りながら案内してくれた。(実際のところ、おそらくオレたちが今まで見てきた中で、一番素晴らしい宮殿だ……)とすら、ハムレットは感じたほどである。ローゼンクランツの五角形をした特殊な形状の城砦も、ライオネス城砦も、メルガレス城砦も――それぞれ、素晴らしい築城を有してはいたに違いない。また、つい昨晩宿泊したアストラット城も美しかった。だが、マリーン・シャンテュイエはそれらすべてを圧倒的に凌いでいたのである。


 坂を上ってきた頂上に位置しているせいで、より見る者を威圧するといった部分もあるには違いなかったが、ハムレットが窓の数を順に数えて思うに、まず七階分の高さがある。さらには、屋根の中にも窓が二階層分見えるのみならず、さらにそれより高い位置に城塔が聳えてすらいるのである。


(あの一番高い城塔から海を見下ろす景色は、さぞかし壮観であろうな……)


 執事に案内され、先頭を近衛とともに歩いているのはエレアガンスであったが、ハムレットはこの時もまったく気にしていなかった。先頭の馬車に乗っていたのも彼なのだし、執事がそのように誤解したとしてもまったく無理からぬことである。


 マリーン・シャンテュイエ城は、外観も壮麗であったが、室内の内装のほうも、ハムレット一行の心を打つところがあったと言える。それは決して強く自己主張するような芸術的美しさでなく、控え目で繊細な美の世界であった。壁や格天井には、貝殻や海草や魚など、海を思わせる組み合わせの模様がそこここに描かれているのだったが、見る者の目にそれはある種のさり気ない<美>しか与えなかった。廊下にはほぼ等間隔に丸みを帯びた官能的な大理石像が置かれていたが、彼らや彼女たちはみな、優しい静けさによってただそこに佇むように存在している。


(この彫像は、一体どういったモチーフによるものなのだろうか……)


 壁に飾られた絵画なども、あまりじっくり見ている時間はなかったが、ハムレットの感じやすい心は、裸の女性が着衣の男性と天使にそれぞれ手を取られているところを見て、何か気になった。もうひとつ次の彫像では、美青年だった天使が少年のようになっており、女性は白いローブを一枚だけ着て、完全に最初の着衣の男性のほうを見ている。天使の少年は女性が自分のほうを見るよう促しているかのようだったが、女性は少年天使を無視するような姿勢だった。彼女と彼とは次の彫像においてワルツを踊るように抱きあっている。だが、天使の少年はさらに体を小さくし、子供のような姿で女性のドレスの裾を引っ張っていた。さらに次の彫像で、女性は男性に打ち据えられて頬を押さえており、男性は彼女に背を向ける場面が描かれている。


(おそらく、何かあって捨てられたのだろうか……)


 そして、角を曲がるところの最後の彫像では、女性は美青年の天使に手を引かれ、どこかへ行こうとしている場面が描かれていた。この一連の彫刻像にどのような物語を与えようと、それは見る者の自由ではあったに違いない。(これはもしや、このロットバルト地方に伝わる有名な物語か何かなのかもしれないな……)と、そう思いつつ、失礼にならない程度、その後も廊下に飾られている彫刻や絵画などを順にハムレットは見ていった。


「こちらが、我が城の客間となっておりまして……」


 頭髪に白いものが混ざりはじめた、感じよくふっくら太っている執事は二階まで上がってくると、そこに並んだ部屋のほうを腕で大きく示して礼をした。


「空いております部屋のほうは、いかようにお使いいただいても結構でございます。何か御用の際にはこちらの」と、執事ホアキンは、子供のように丸っこい手で廊下に並ぶ侍従や侍女を指し示す。「城の侍従や侍女らになんでもお申しつけくださいませ。伯爵さまからは、お客さまはお腹がすいておられるでしょうから、あらたまったお話のほうはまずはお食事してからでもとそのように承っております。晩餐室のほうは、二階の、こちらの廊下を真っ直ぐ進んだ奥のほうでございます。扉のほうが開いておりますゆえ、見ればすぐ場所のほうはおわかりになることでございましょう」


「ハムレットさま、どこでもお好きな部屋をどうぞ」


 エレアガンスはこの時になって初めて、自分の主君ともいえるハムレットに深々と礼をしてその座を譲っていた。(もしや、自分が先頭に立つことで、本当に暗殺者の目を眩ませるとでも彼は考えていたのだろうか)……タイスとカドールなどは、そのことを何やら疑わしく感じていたものだった。だが、ハムレット同様何やら憎めぬように感じるところが、このエレアガンス子爵の良いところでもあったろう。彼はこの日、真紅にぶどうの房模様のダブレットを着ていたが、おそらくは晩餐の席へ出席する前にもう一度別のものに着替えるだろうことは間違いない。


「ありがとう、エレガン。だけど、君が先にどこでも好きな部屋を選んでくれていいんだよ」と、ハムレットはにっこり笑って言った。彼にとって部屋など今も、雨露を凌げる屋根があればどこでも同じだった。今までも、ローゼンクランツ公爵の宮殿において、トリスタンの城で、その他豪華なしつらえの場所へ宿泊したことは何度となくある。だが、彼は物心ついた時から十六歳になるまで、ヴィンゲン寺院のあの固い岩室で暮らしてきたのだ。


「そうですねえ」


 エレアガンスは世間知らずの若者らしく、部屋のほうを前から順にいくつか検分していった。それから、廊下のハムレットの元へもう一度戻ってくる。


「どの部屋もそれほど、しつらえなどの点で格差はないようですよ。ただ、てっきり海の見える側の部屋とばかり思っていたのにそうじゃないのがちょっと残念ですね」


「ああ、そうか。じゃあ、こちらは北側の部屋の並びということなんだろうか」


 窓から海が見えないらしいとわかり、ハムレットも少しばかりがっかりした。とはいえ、すっかり疲れていたこともあり、彼らは銘々、おのおのが選んだ部屋のほうへ順に落ち着いていった。唯一、レンスブルックだけひとりあぶれそうだったので、「私と同室では嫌ですか?」とギベルネスが聞き、同じ部屋で休むということになっていたが。



   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *



 晩餐会でハムレットやギベルネスが驚いたのは、ロットバルト伯爵の家族の多さだったに違いない。長方形のテーブルの前には、一段高い位置にロットバルト伯爵夫妻が普段は食事している座席があったが、伯爵は夫人とともに今日はそこから下りていた。ハムレットとエレアガンスは伯爵夫妻と向かい合わせに座り、ローリエ夫人の隣は長子のロカインとその夫人、次に次男のロマイユ、三男ロキルス、四男ロマンド、長女ロレイン、次女ロマーナ、三女ロリアンナ、四女ロスティン、五女ロザリンド……といったように続いた。ハムレット側の座席は、エレアガンスの次にタイス、カドール、ランスロット、ギネビア、ギベルネス、ディオルグ……といったような順である。さらに下座の別のテーブルには、エレアガンスの近衛らやレンスブルック、キャシアスやホレイショがどこか気楽な様子で腰かけている。


「いやいや、まずは政治的な堅苦しいお話などは抜きにして、お食事のほうをお楽しみください」


 ロドリゴ=ロットバルト伯爵は、気取りのない感じの良い方であった。ハムレットもタイスもギベルネスも、一目会うなりそう感じた。身の丈のほうは高く、百八十センチばかりもありそうであり、狩猟といったスポーツが大好きだという評判通り、肩幅の広い精悍な体つきをしているのが、セルリアンブルーの上着を着た、フリル付きドレスシャツの上からでさえ感じられる。伯爵は現在四十七歳ということであったが、陽に焼けて色の薄くなったブロンドに、浅黒い肌の顔は――多少目尻などに小皺が見られたものの、若い頃は非常にハンサムであったろうことを忍ばせる顔立ちをしていたものである。


 伯爵の奥方のローリエ夫人は、感じよく健康にぷっくり太っていた。夫の趣味に長くつきあってきたとは思えぬほど、肌の色は陶器のように白く、ブロンドの髪も色艶が実に良かった。もしかしたら、何かこの州に特有の美容法でもあるのかもしれない。十人の子供すべてに自分で乳をやったかどうかはわからぬものの、そう言われても頷けるほど豊満なバストをしており、ローリエは夫より二歳年上であったが、彼女もまた若かりし頃はどれほどの美貌により伯爵の心を射止めたのだろうか……と、そのことが偲ばれるような容貌をしたお方であった。


 伯爵夫妻に続く子供たち――といっても上から、ロカイン27歳、ロマイユ25歳、ロキルス23歳、四男ロマンド20歳……といったところであり(末の弟、幼いローリーの姿はなかった)、娘たちは長女ロレイン22歳、次女ロマーナ18歳、三女ロリアンナ16歳、四女ロスティン14歳、五女ロザリンド10歳――といったところである。この子供たちも、実に感じが良かった。貴族らしくしつけが行き届いているといった雰囲気があるのと同時、これもこちらの海岸地方の人々の気質によるところなのかどうか、よく晴れた日、海に照り返す太陽光のような楽観的な陽気さが、彼らの顔にはそれぞれ存在しているように見えたものである。ただ、その中でも長男ロカインは穏やかな時の海のような雰囲気があり、次男には少しやんちゃで生意気そうな感じが、三男にはまた別の意味での無邪気さが――といったように、それぞれ違いがあったりはするのであったが。


 娘たちは作法通り、音を立てないようにスープをすすったりしながらも、ハムレットやタイスといった美少年、あるいは道化のようなレンスブルックや、初めて会う客人たちに興味津々といった様子であった。そのような好奇心を剥き出しにするのは失礼に当たるとわかっているため、(特にそのあたり、何も感じてませんことよ)とあえて取り澄ましているのだったが、彼女たちが早く自分たちの部屋へ戻り、客人たちの品評会を開きたいらしいのは母であるローリエの目には明らかだったものである。


 晩餐会のほうは、「砂漠の旅のほうは難儀だったでしょうなあ」、「時に、ローゼンクランツ公爵はお元気ですかな?」、「あの方の馬気違いは病気の域に達していますからな。いえいえ、決して悪い意味でいうわけではなく……」、「ライオネス伯爵の跡取りである甥のトリスタン殿は、まったくご立派な青年で……」、「メレアガンス伯爵の奥方には、ついこの間も随分素晴らしい反物を贈っていただき、感謝の気持ちに絶えません。エレアガンス子爵、そのこと、どうかよくお伝えくださいませ」――などなど、儀礼上の会話が多かったにせよ、とても楽しいものだった。ギベルネスが想像していたほど味のほうが疑わしく思われるような海産物が出ることもなく、魚肉と浅蜊のスープや、大きなロブスターや伊勢海老など……他に肉料理のほうは詰め物をした豚の丸焼きや七面鳥、キジや孔雀料理など、見た目にも豪華な皿の他に、鶏や羊や牛の肉に味付けしてローストしたものなど、食べやすいものが何品も次々運ばれてきたものである。新鮮採り立てといった旬の野菜や果物類もたっぷりあり、最後にデザートが出る頃には、言うまでもなく客人たちの腹のほうはすっかりくちくなっていた。


(アストラット城でも思ったことだが、何も毎回毎回、ここまで食事のほうが豪華じゃなくてもいいんだよな……)


 ハムレットはうぷ、とすでに胸焼けにも似た症状を感じ、あとでギベルネ先生から消化に良いという薬をもらおうとすでに考えていたほどである。また、彼個人としては――こうした伯爵のもてなしに心から感謝するのと同時、どこの州にもいる最下層の飢えた貧民たちも十分な食事を日々食べられるためにはどうしたらいいかということを、いつでも考えずにはおれないのであった。


「ハムレット王子、食後にもう一杯、私につきあってもらえませんでしょうかな」


「ええと……ああ、はい」


(美味しいワインのほうであれば、もう十分いただきました)――咄嗟にそう言いかけて、ハムレットは頷いた。デザートのアプリコットタルトの最後の一切れを、フォークで刺して頬張る。


 そしてこの時、ハムレットの気のせいでなければ――というのも、壁や天井にフレスコ画の描かれている大広間の片隅では、ずっと静かにヴァイオリンのカルテットによる演奏が続いていた――廊下のほうから何か床をシャッシャッと擦りつけるようにして走って来るような物音がした。と思うと、それは僅かばかり開いた広間の扉に黒い鼻面を突っ込み、衛兵にその大きな体を捕えられ、今度は何やら「フゴフゴ」呻いていたものである。


「こら、ドミンゴ!よさんか」


 ロドリゴはナプキンで口許を拭うと、扉のほうへ向かっていった。愛犬家である伯爵の飼い犬ゆえ、衛兵のほうでは殴りつけて大人しくさせるわけにもゆかないと、彼自身わかっていたからであった。


 ハムレットのほうでも、食事のほうがちょうど終わったため「お葡萄など、もう一房いかが?」などと、ローリエ夫人に勧められる前に一礼して席を立ち、伯爵と犬のいるらしき廊下のほうへ向かった。するとそこでは、マスチフとボクサー犬のハーフのような大型犬が、ロドリゴに半ば襲いかかるようにしきりとジャンプしているところだったのである。


「す、すみません、伯爵さま。今日は大切なお客さまが見えられる日と聞いておりましたもので、南翼の棟のほうに閉じ込めておりましたのですが、ほんの一瞬目を離した隙に……」


「いや、いいんだ、リナルド」と、お仕着せを着た犬の調教師に向かい、ロドリゴは微笑んで見せた。「しかし、あすこからここまでは結構な距離があるというのにな。よくここに私がいるとわかったもんだ」


 叱るというよりも、実に感心したといった様子で、ロドリゴは飛びかかってくる犬の黒い頭をがしがし撫でてやっている。


「すみませんな、ハムレットさま。少々私の犬好き……まあ、妻のローリエに言わせるとただの犬馬鹿ですかな。ローゼンクランツ公爵が馬気違いだとしたら、私は大の犬狂いでしてな。こいつらのことが可愛くて可愛くてならんのですて」


「はあ……」


 ハムレットは暫し呆然とした。というのも、犬はどこかで優雅に泥遊びでもしてきたのかどうか、汚い足でロドリゴに飛びかかっては、その白いズボンといい、上等な絹の光沢を放つ上着といい、ほとんど破かんばかりに汚していたからである。


 このあと、ハムレットは海を見晴るかせるテラスのある、犬が三十匹ばかりも集っている一階のサロンのほうへ伯爵と移動した。何分、部屋が三百五十室もあると言われるマリーン・シャンテュイエ城のことである。案内もなしにそこへ行けと言われたら、ハムレットにしても迷ったことだろう。だが、今回ばかりは侍従の供などなかったとしても、ひとりで真っ直ぐそちらへ到達できたに違いない。何故といって犬の足跡と思しきものが、廊下や階段などに点々と痕跡として残っていたのであるから。


 一度、「あの馬鹿犬めが!」とか、「またあのクソ犬がやってくれたらしいわね」だのと、廊下の向こうで掃除道具を片手に怒る侍女らの声がしたが、ロドリゴはただ「ハハハ」と愉快そうに笑うだけであった。


「この城ではね、仮に主人である私の持ち物であるとはいえ、唯一犬のことは悪く言ってもいいということになっているのですよ」


「そうなんですか……」


 と答えるハムレットも、すでに多少呆れてはいた。ドミンゴ、と呼ばれた悪魔のように黒く、腹の部分だけ白い犬は、ロドリゴの腕を甘噛みしたまま――そのまま半ば引きずられるようにしてついてきたというのでは無理もない。


 犬は、ハムレットも嫌いではない。なんだったら猫だって好きだ。その他、うさぎや馬、羊や山羊やロバだって好きだとは思う。だが、その犬専用の遊び部屋と思しきサロンをロドリゴが開けた途端……絨毯の上で寝転んだり、窓から吹いてくる海風に鼻をくんくんさせていた犬が一斉に――気でも狂ったかとばかりロドリゴの元へやって来るのを見ると、あるひとつの動物を偏愛することに対し、何か重大な問題があるように直感したものである。


 犬たち――ゴールデンレトリバー、グレイハウンド、パピヨン、ビーグル犬その他――大型・中型・小型犬をそれぞれ取り揃えたような三十匹ばかりもの犬たちは、(おまえのことをキスと愛撫で殺してやるぞ!)とばかり、恐ろしい勢いで襲いかかってきた。攻撃が集中しているのは九割方ロットバルト伯爵に対してであったが、残りの何匹かは(まあ、ちょっとくらいならおまえを構ってやってもいいけど?)というように、尻尾を振ってハムレットの元へやって来る。


「ようし、よしよし……可愛いやつらめ。食事のほうはちゃんと与えてもらったんだろうな?ふむふむ。散歩にも連れていってもらったと見えて、みな機嫌が良いのだな。それならば、良し良し……」


 ロドリゴが大の字になって絨毯の上に寝転がると、彼は顔をなめられたり、体中のすべての箇所をくんくん嗅がれたりと、可愛い犬たちの大興奮が過ぎ去るのを暫し待った。おそらくこの場面だけを見た人であれば、成人男性が犬に襲われ事切れようとしているとでも勘違いしたことだろう。だが、ロドリゴは犬たちの歓迎の儀式を存分に受けると「よっこらしょ」とばかり起き上がり――「これはこれは失礼致した」と、服から犬の毛を払うなどして、身支度を整えていたものである。


 気がつくと、ドミンゴと呼ばれた犬はテラスに通じる窓から出ていって、どこにもいなかった。犬たちは「もっと遊んで!」というようにロドリゴにしきりと追い縋ったが、彼は「すまんすまん。またあとでな」と言って一度犬部屋を出た。それから、「やれやれ。また誘惑に負けてしまったわい」などと、扉の向こうでガリガリいう犬の爪音を聞きつつ、ドアの鍵を閉めている。


「まあ、ハムレット王子も犬に癒されたいと思ったら、ここへ来なさるといいですよ」


「そうですね……」


(いえ、結構です)と断るわけにもいかず、ハムレットは曖昧に頷いた。彼が撫でていたのはおもに、チワワやパピヨン、狆といった小型犬だったが、モップのような毛並みの大型犬がロドリゴに体当たりするのを見た時には――(伯爵は噛み殺される可能性というのを考えたことがないのだろうか)と、一瞬不安になったほどである。


 ロドリゴは大好きな犬たちと会ったせいかどうか、その後も上機嫌に口笛など吹きつつ廊下を歩き、再び階段を上がっていくと、三階の角にある伯爵専用の書斎のほうへハムレットのことを案内した。そこは彼の執務室といった趣きのある部屋で、オレンジブラウンの書棚に囲まれた窓際に書斎机が置いてあり、そこには積み重なった書類挟みに挟まれた紙束がいくつも折り重なっている。また、その横にはサインのための鷲ペンやインク壷、それにロットバルト家の伯爵印――偽造されぬよう、旗に描かれているものよりも複雑な形をした紋章印――が、鍵付きの箱の中へ収められていたものである。


 書斎机の前のほうには向かい合わせのソファと、その間にテーブルが配されていたが、後ろの壁には海図や航海図が額に入れて飾られ、他に黄金のコンパスや小型帆船の模型などが、その横の棚には所狭しと並べられていたものである。


「こんな魚が、海には本当にいるのですか?」


 航海図の片隅で、翼の生えた魚が飛び跳ねているのを見、ハムレットはふとそんな疑問を口にした。他にも、貝殻で胸を隠した髪の長い人魚や、恐ろしげな顔つきの海蛇、三椏の矛を手にした海神など、およそ架空の生物としか思われないものたちがそこには描かれている。


「飛び魚ということであれば、確かに海をピョンピョン跳ねるような連中はいますよ。ただ、そこの海図に描かれた天使のように大きな翼を持っていたりはしませんがね」


「そうなんですか……」


 ハムレットが何故かがっかりしたように見え、ロドリゴはなんとはなし笑った。メレアガンス伯爵の親書には、『まだ十七歳くらいの年齢ながら、我が箱入り息子などよりよほど世間を知っておられ、しっかりされた方です……』といったように書いてあった。だが、やはりある部分はまだ年相応に少年らしい冒険心を持ち合わせたところがあるのだろうと、そんなふうに感じる。


「私は七人兄弟の次男で、他に妹が三人いました。貴族の家としては、なかなか子だくさんなほうでしょう?」


 そのように目で勧められた気がして、ハムレットは真紅のベルベットのソファの片側へ腰掛けた。ロドリゴもまた、書斎机の椅子のほうにではなく、彼の向かい側に座る。テーブルの上にはほとんど手で持ち上げるのは不可能と思えるほどの、分厚い台帳が三冊載っている。そして、壁の書棚のほうにも大体似たようなものがずらりと並べてあるのだった。


「オレは僧院育ちなもので、いまだにこの世の習いについてはわかっていないことが多いのですが、それでも一般庶民や農民たちの間では、子供が十人くらいいたとしても不思議でないらしい……というのは、ここまで旅をしてくる過程で見てきました。ですが、貴族であってもご夫妻の仲が良ければ――世継ぎが多いというのはとても大切なことではないでしょうか」


「そうなんですよ。メレアガンス夫妻もいわゆるおしどり夫婦というのではあると思うのですが、ご夫人が流産したりと、エレアガンス子爵という立派な跡取りが無事ご成長されるまでは……なかなかその点ではお悩みが多かったことでしょうな。実をいうと我がロットバルト伯爵家は、エレゼ海に住むと言い伝えられる海竜リヴァイアサンに呪われているのですよ。我がご先祖さまがその昔、何かリヴァイアサンの気に入らぬことをしたらしいとか、一族繁栄と引き換えに、そのような呪いを受けたのだとも言われています。その原因についてははっきりしないが、とにかく我々にはわかっているあるひとつの事柄がある……つまり、ロットバルト伯爵家の世継ぎのうちの誰かが、必ず喀血病と呼ばれる病いにかかるということなんですよ。不思議とこの病気は女児には現れず、世継ぎとなる男児のうちの誰かに現れるのです。私の代では、兄のロレンゾがそうでした。兄は非常に頭のいい人で、おそらく今も生きていたとすれば、私などよりよほど優れた領主としてロットバルト州を治めていたことでしょう。我が家では代々このようなことがありますもので、伯爵家を継いだ者はみな、健康状態に問題のない家柄の女性を特に選んで結婚します。そして、子供のほうもひとりふたりの男児というのでは心許ないので、最低でも五人以上は……といったように、両親から勧められるというわけです。時に、私には十代の頃、この女性と結婚したいという貴族の娘がいました。ですが、その時にはすでに病気の症状のほうが兄に表われていましたもので、その女性のことは諦め、バルバロッサ家の今の妻、ローリエと結婚しました。それが何故か、おわかりになりますか?」


「ええと……」


(この百科事典よりも分厚い書物は一体なんだろう?)と思いつつ、その年季の入った革表紙に目を落としたまま、ハムレットは答えた。


「最初の女性とは、身分に差があったとか?それとも現在の奥様であるローリエさまほど、健康面で優れていなかったとか……」


「そうなんですよ!一応、誤解のないように申し上げておきますとね、私はローリエを愛しています――それも心から。ですが、もし兄があのまま世継ぎとして健康だったとしたら、私はローリエとは結婚してなかったかもしれません。最初に愛を交わした女性と、若い情熱の赴くままに結婚を決めていたでしょうね。何分、私は次男でしたから……自分は彼女と結婚して、伯爵家の爵位を継ぐのは三男の弟でも良いのでは、と思ったりもしました。ですが、病床の兄が三男のロディはなんとも心許ないと申したのみならず、両親の意向のほうもそのようなものでありましたので、嫁にはバルバロッサ家のローリエを迎えました。その時から、彼女の丸い頬には可愛いらしいえくぼが浮かんでおりまして――あれの赤ん坊の頃、きっと妖精がやって来てへこましていったに違いないというようなえくぼがね――最初に会った時から、(この女性ははち切れんばかりに健康だが、将来はきっと太るだろうな)と予感はされたものでした。私の初恋の女性はそりゃもうほっそりしていて、ウエストなんて彼女より細いお嬢さんなぞお目にかかったことがないというほど、そりゃもう痩せていたのですよ。ですが爵位を継ぐとなったら、そんなひとりかふたり子供を生んだら、ぜいぜい言って病気になりそうな女性と結婚するわけにゃいきません……というわけで、私はローリエを選びました。そしてそのことを今日に至るまで、一度として後悔したことはありません」


「…………………」


(ロットバルト伯爵は何をおっしゃりたいのだろうか?これは、オレに対する何かの教訓話とか?)


 ハムレットは戸惑って俯いた。だが、いきなり『内苑州と戦うのに同盟を結んでくれるというのは本当ですか?』などと切り出すのもおかしい……彼がそんなふうに思い迷っていた時のことだった。


「いやいや、すみませぬな。まあ、ハムレット王子、今はまだ王子であるあなたさまが、いずれこの国、ペンドラゴン王朝の王となるわけですから……私が今申し上げたことは、王妃選びの時のちょっとした参考にしてくださればと思ってしたことではないのです。ただ、我がロットバルト家にはある特殊な事情があると、そんなふうに頭の隅に覚えておいていただきたかっただけなのですよ。例の喀血病には、今は末の息子のローリーがかかっておりましてな……医者の話では余命いくばくもないとのことでしたが、もうそんなふうに言われて一年半以上にもなります。何分、なんの症状も出てない時には顔色も良く、本人も犬と一緒に遊んだりしておりまして、私もローリエもそういう時には何度もこう思うのです……『もしや、病気が治ったのではないか』と、そんな夢のようなことをね」


「ローリー君の病気について、オレも決して無責任なことは言えませんが……」と、ハムレットは躊躇いがちに言った。「オレの旅の連れに、ひとり有能な医の業を持つ者がいます。もしよろしければ、ローリー君を一度診ていただくのはどうかと思うのですが……」


 ハムレットはあえて<神の人>という言葉は使わなかった。何か過度な期待をロットバルト伯爵に抱かせてはいけないような気がしたからである。


「ありがとうございます、ハムレット王子」と、ロドリゴは溜息を着いた。だが、彼はハムレットの申し出にも何か諦めた横顔しか見せなかったものである。(この州にいる何人もの優れた医者より、その方のほうが優れているとは思われない)とでもいうように。「ですが、ロットバルト家では代々、あの病気にかかった者は死ぬ運命にあるのですよ。家系を遡っても、二十歳になるまで生きていた男児はひとりもおりません……ここ数年、私はあまりいい領主とは言えなかった。というのも、可愛いローリーがあの病気にかかったことで、神と運命というやつを呪うのに忙しかったからなのです。ですが、あなたさまという方がやって来られると聞き、私もこのままではいけないと、目が覚める思いが致しました……」


「そうだったのですか。そのような事情とも知らず、突然押しかけるように訪ねて来てしまい、大変失礼致しました。ローリー君は今、そのような大病の床でお休みになっておられるのですか?」


「お気遣い、痛み入ります」と、ロドリゴは目尻に滲んだ涙をよく陽に焼けた手の甲で拭っている。「一度、是非見舞ってやってください。何分、家族以外で同じ年頃の友達というのがおりませんでな……ハムレットさまのような方と少しばかりお話が出来たとしたら、ローリーも喜ぶことでしょう。結核などと違ってローリーの病気は伝染性というわけではありませんし、その点についてはどうかご安心くださって大丈夫ですから」


 ハムレットが晩餐の席で見たロットバルト伯爵夫妻の息子は他に四人いた。それぞれ、健康面には問題なさそうで、食欲のほうも旺盛だったものである。だが、やはり例の魔の病気というものから、息子のひとりがどうにも逃れられないらしいと知った時……どれほどの絶望が家族を襲ったのだろうかと、ハムレットはそう想像せずにはいられなかった。


「いやいや、本当にすみませぬな。余計なお話が長くなってしまったようで……ところで、これが何かわかりますかな?」


「いえ、先ほどからこの分厚い本は何について書き記してあるのだろうと、そう考えていたところです」


「これは、実は我が州の住民台帳なのですよ」


 本はハムレットのほうを向いていたが、ロドリゴはそれをぱらりと捲って指で名前を指し示した。――アルゴス・アンダルーシア、三十四歳、聖ヴァルガス町四番地……家族構成、妻と息子三人、娘ひとり、妻ルダ、長男マッテオ、次男ベルナルド、三男バルナバ、娘ルルカ、アンダルーシア家の職業は代々鍛冶屋……。


「たとえば、ここロドリアーナ州であれば、おそらく人口その他、簡単な住所に至るまで、かなりのところ正確と思います。ただ、地方へ行けば行くほど、台帳のほうは多少なり不確かになっていくのはある程度仕方のないことです。というのもですな、ここロットバルト州は四十八の県から成り立っておるわけですが、一年に一度、納税時に住民登録を確認することになっているのですよ。ところが、税金をごまかしたいであるとか、末の息子についてはまだ住民登録してないなど、その家によって事情は色々あるでしょう?他の州も大体似たような登録制を取っているでしょうが、住民の登録料のほうは州によって違います。たとえば、王都テセウスや他の内苑州の住民登録料は、我がロットバルト州などとは桁違いだと聞きますからな……ここロットバルト州では、成人男性ひとりにつき二ヴォカードだ。他に、収入に応じて納税の義務があるわけですが、税を納めることのうちには、もちろん市民たちにもメリットがあるのですよ。たとえば、税金を毎年きちっと納めている善良な市民であれば、何かあった時、とりわけ裁判になった時などに有利です。また、相手がどこにも住民登録のない、税金をまともに支払ったこともない人物であるというのであれば、殊更不利な立場に置かれても仕方がない……といったようなわけでしてな」


「すごいですね……ですが、こんなふうに細かく登録していても、今年は無事税金を支払えたが、翌年は支払えなかったなど、色々な事情が出て来そうな気がするのですが……」


 ハムレットは、ある場所には大きくバツ印が引かれているのを見て、気が遠くなりそうになった(他の郡へ引っ越すなど、何かあったのかもしれない)。おそらく、ギベルネスであれば、この住民台帳を見て思いだしたのは、今はとっくの昔に古くなった電話帳のことであったろう。ハムレットは表紙を見て、ロカルノ郡、ロノエール郡、ロッドギア郡……といったようにあるのに気づき、尚のことそう思った。ということは、向こうの本棚にあるのもまったく同じ住民台帳の写しということなのだろうから(最新の原本のほうは、それぞれの県の役所などに保管してあるに違いない)。


「そりゃそうですよ」と、ロドリゴは領主として深い溜息を着く。彼は以前までは税の取立てにそれほどうるさくもなく、情状酌量の余地があれば鷹揚に対応するよう指導さえしてきた。だが、今はもうそうしたわけにもいかなくなっているのが実情だった。「それもまた致し方ないことですが、それでも大体のところ、どの町や村にどのくらいの人間が何名くらい住んでいるか、常に把握しておくことは重要です。その地方それぞれからどの程度の成人男性を兵として徴集し、兵役に就かせることが出来るかの目安にもなりますしね」


「では……」


 ハムレットはハッとして、住民台帳より顔を上げる。


「そうです。すでに、そのように方々から兵を募っております。ハムレット王子よ、私がこの書斎にあなたさまのことを案内したのは……私のその覚悟を知っていただくためでした。実はこの住民台帳は十何年も昔のものでして、父がある戒めのために私に寄越したものだったのです。つまり、ロットバルト州の伯爵になるのはそういうことなのだと……ここに登録のある人間全員の暮らしの幸福が、私の肩ひとつにかかっているということでもあるのだから、この重みを忘れぬようにと、父は私に爵位を譲る時、そのように申しておりました。県ひとつの住民台帳でさえ、こんなにも重い。私は日頃から鍛えているせいもあって、筋肉と体力には自信がありますがね、それでもこのテーブルの上の三冊の本を同時に持ったら間違いなく床に落としますよ。つまり、これはひとりの人間には到底担い切れない重責だということです。その上、<東王朝>から軍がやって来て一度戦争ということにでもなれば、この中に登録のある成人の男たちを徴兵する権利が私にはある……ほら、ここに赤い線が引いてあるでしょう?名前に赤線が引かれているのは、戦争で死んだという意味なのです。私には五人も息子がいて、そのうちのひとりが病気で死にそうだというだけで、こんなにも悲しい。その悲しみを、この家のひとつひとつに負わせるかもしれない――そう思いながら兵を徴募したわけですが、各県の意気は相当上がっているようです。それというのもハムレット王子、あなたさまが重税からこの市民らを解放してくださる希望の星であり、メレアガンスの聖ウルスラ闘技場で聖女ウルスラが予言したことを今ではみなすっかり知っていて、あなたさまの背後には神が座しておられると、信じて疑ってもみないそのせいなのです」


「…………………」


 咄嗟に何を言うべきか、ハムレットは言葉を失った。ローゼンクランツ公爵やギルデンスターン侯爵のロットバルト伯爵宛ての親書のほうは、ロットバルト騎士団のヴィヴィアン・ブランカ兄妹がすでに届けてくれているはずである。その内容についてハムレットは聞いたりしなかったが、自分が先王エリオディアスの息子であること、殺される運命であったところを忠臣ユリウスが救い、その後ヴィンゲン寺院にて育てられたこと、その血筋についてはローゼンクランツとギルデンスターンが公爵と侯爵の名にかけて保証するといったことが書いてあるはずであった。また他に、星母神からの神託や導きがあるということについても……。


「ここ、ロットバルト州ではどのような神――あるいは神々が信じられているのですか?」


 メレアガンス州では、聖女ウルスラに対する信仰が篤い。とはいえ、それはキリスト教信仰でいうところのマリア信仰や聖人信仰に似たところがあり、それよりも当然上位に父なる神や、子なる神イエス・キリストが存在するように……最高神として星神ゴドゥノフや星母ゴドゥノワ、娘の神々らが存在する。つまり、言ってみればハムレットはここロットバルト州においても聖女ウルスラに相当するような海にまつわる聖人などが存在するのではないかと、そう想像していたわけである。


「そうですねえ」


 意外な質問だったのかどうか、ロドリゴは不思議そうに小首を傾げてのち、こう答えていた。


「我が州では、おそらくもっとも強いと思われるのが精霊信仰なのですよ。といっても、それとても最終的には創造神ゴドゥノフや星母神ゴドゥノワに繋がるものです。というのも、星神と星母が我々の住むこの惑星に目を留め、岩と砂だらけだったというこの地上を人が住めるよう、山や海を整え、森林地帯を形成してくださったわけですからね。我々はゴドゥノフやゴドゥノワの形作ってくださったこの地上に宿る自然の神、あるいは神々を信仰しています。海竜リヴァイアサンも星神・星母の創造の御手の業なのですし、森林や山川にも彼らの産み落とした森や川や野山に宿る精霊によって満ち満ちているのです。ハムレット王子、あなたがここロドリアーナへ至るまで下ってきたイルムル川、その両岸にはそうした神々を祀った大小の祠などがいくつも並んでいたはずです。まあ、両岸に生える樹木や草の背が丈高く、船に乗ってスッと通り過ぎただけでは、よく注意して見ないとわからなかったと思いますが……」


「なるほど。それならば、オレにしてもよく理解できます」


 砂漠のオアシスなどに点在する村々にも、星神・星母信仰の他に、彼らの創造物としての似たような精霊信仰というのは存在したから、そうした意味でハムレットは「わかる」と答えたのであるが、ロドリゴは今の自分の言葉だけでは不十分と思ったのだろう、さらに補足して説明した。


「そうですね。ここロドリアーナは海に面していますから、海岸線に沿った町や漁村などには、色々な信仰対象としている精霊が存在します。中には、翼の生えた人魚を祀った祠などもありますし……けれども船乗りたちが暗礁に乗り上げるとか、船底に穴が開くといった窮地に立たされた際には、星神や星母に助けを求める場合が一番多いそうですよ。ただ、このふたりが天空で創造して海に投げ入れたという護り神リヴァイアサンにも救いを求めてみたり、その他海に纏わる民間伝承に出てくる不思議な精霊神の名をひたすら唱えて助けを求めたりと……ここ、ロドリアーナの海岸線にあるいくつもの洞窟の中には、そうした神々を祀った祠も多いですしね。私は先ほど、我がロットバルト家は海竜リヴァイアサンに呪われていると言いました。となるとどうなります?我々は海竜に怒りを解いてもらうために、ひたすらそうした祠で祈りを唱え続けるべきと思いますか?だが、私にはわからない……代々男児のみに受け継がれるあの病いがリヴァイアサンの呪いであるというのならば、ローリーは海竜に対する生贄ということですか?私は――私はね、そんな残酷な神のことを信じることなど到底出来ません!ええ、断じてね!!そして、私が怒るべきはリヴァイアサンに対してですか?ご先祖さまが犯したとかいう罪を子々孫々に至るまで伝えようとするこの忌々しいまでにしつこい海竜に対して怒るべきなのですか?それとも、こんな呪われた竜を創造したという星神や星母のことを?いや、それでは我がロットバルト家は神々から捨てられた呪われた家だということになってしまう……私は――私とローリエはね、そのことで悩んでいるのですよ。今、私たちには男の子の孫が三人いる。一番下の子は、まだ生まれたばかりの赤ん坊です。だが、ローリーのことを思うと素直に赤子の誕生を喜べない!!いずれこの子たちの誰かが、やはりあの呪いとしての病いを背負うことになるのだと思うとね!!」


 ロドリゴが突然激昂したため、ハムレットは驚いた。だが、同時に彼の青い瞳の奥に揺れる苦悩の色を見てとって――ハムレットなりにその懊悩の深さを読み取ったのであった。


「オレには生まれた時から身近に血の繋がりのある家族というのがなく、むしろ理解できるのは、そうした天涯孤独な人の孤独のほうなのですが……」ハムレットがポツリと呟くように言うと、ロドリゴはハッとしたようだった。「ですから、僧院で育った者として、長老たちの話を聞いていて思うに――この場合、誰にも罪はないということです。一度、ヴィンゲン寺院を訪ねて、生後間もない赤ん坊を抱えた母親がやって来たことがありました。おくるみに包まれた赤ん坊はすでにミイラのような状態でしたが、遠く旅をして母親はヴィンゲンまでやって来て、ここの高僧たちの祈りがあれば自分の赤ん坊が生き返ると信じて遠く旅して来たというのです。長老は、そのまだ若い母親にこう言いました。というのも、その女性が語るのをオレも聞いていましたが、赤ん坊が死んだのは彼女の日頃の行いが悪かったからだのと、何かと周囲に責められたということだったので……『赤ん坊が死んだのは、あなたのせいでも、当然赤ん坊自身に罪があったせいでもなんでもありません』と長老は諭すようにして言いました。それでもやはり母親のほうでは、『では何故この子は死んだのですか』と泣き叫びながら言い――『わかりません。神の御心です』とでも長老は言うのかなとオレは思ったのですが、長老の答えは違いました。『この世界に人間というものが誕生して以降、赤ん坊を亡くした女というのはあなたが初めてというわけではありません。その中に誰か、特別に赤ん坊を甦らせてもらった女が、今まで誰かあったでしょうか』と、その若い女性に長老は聞いたのです。女性が答えられずにいると、長老は続けて言いました。『我々は長く神に仕えているが、我々のうち、生前に神にそれと頼んで祈り続け、死後に甦ったというような者はひとりもおりません。というより、僧院に生涯籍を置くと決めたような者には、何か自分のために祈るということはほとんどなくなっていくものなのです。我々はこの地上のすべての人々の罪が贖われるよう、そして星の導きにより、死後に天上の世界においてひとつになれるよう祈っています。我々にその罪のない赤ん坊を生き返らせることは出来ないが、せめても洗礼を受けさせ、あなたに対しては罪の贖いが与えられるよう祈ることは出来ます』と……女性には、長老のその言葉に納得した様子は見られませんでしたが、『何故、何故!!』と喚き散らすことはもうせず、翌日には赤ん坊の洗礼式が行なわれ、その子は僧院の墓に特別に葬られることになったわけです。長老は、その女性に罪の贖いを与えましたが、まだ彼女にはそのような運命を自分に与えた神に逆らう気持ちが残っていると見てとったのでしょう。最後に、こう注意してから彼女のことを送りだしました。『夫や姑、その他まわりの人たちに恨みの気持ちが起こったら、今与えられた罪の贖いの恵みを思いだしなさい』と。『それは、あなたが今これから死ぬ瞬間に至るまで、あの赤ん坊の罪なきゆえに、あなた自身は他人を恨むという罪が許されているということなのだから』と、長老はそのように言って女性のことを送りだしました」


「…………………」


 今度は、ロドリゴのほうが押し黙り、(これは、自分に対する何かの教訓話なのか?)と考える番だった。彼には、よくわからなかった。だが、神への信仰といったことでは自分よりも賢い妻に相談しようと、ロドリゴはそのように心に決めたわけだった。また、ハムレットの語ったことを、自分に対する何かの神の嫌味や当てこすりである――といったようには感じておらず、彼はただ(これは確かに賢い若者だ)と妙に感心したのだった。


「それは、素晴らしいお話ですな」と、考え深げにロドリゴは言った。彼はものを考える時、無意識のうちにも顎に手をやり、首を傾げるという癖があり、そのことを家族や側近の者たちはみな知っていたものである。「もしかしたら私やローリエも、息子や娘たちを僧院にでも預けて僧たちから教えを受けるようにしたら良かったのかもしれません。私はね、王子……やはりその女性のように神や海竜を恨む気持ちを捨てられないかもしれない。ハムレットさまも、きっとローリーに一度でもお会いになればわかってくださる思います。親馬鹿と思われるかもしれませんが、あんな可愛らしい天使のような子は、私は見たことがないと我が息子ながら思うくらいでしてね。無論、だからといって他の子供たちが何かの病気で死ぬのは構わないが、うちの天使のようなローリーだけはどうか神さまお助けください、ご容赦くださいと願っているというわけでもないのです……」


「いえ、違うのです、伯爵」


(やはり誤解させてしまっだろうか?)そう思い、ハムレットは少し困ったような顔をした。


「オレは……ここから遥か遠い砂漠の僧院で育ったもので、ヴィンゲン寺院にある地図を見て、<海>なるものをずっと不思議に思っていたのですよ。ようするに、人から『海とはこのようなものだ』と説明されたり、『そこにはリヴァイアサンという名の海竜が住んでいる』と聞かされても――いつか自分が実際にこの目で海を見、その海竜に纏わる伝説について色々聞くことになるなどとは、その頃のオレには想像してもみないことでした。つまり、オレにも無責任なことは決して言えませんが、未来のことは誰にもわからないということです。いつか……それが<いつ>ということはわからなくても、オレ自身はいつまでも永遠にロットバルト家に海竜の呪いが表われ続けるとは思えない。何か――きっとあるのではないでしょうか。海竜の呪いを贖うための、何かしらの方法というのが。もちろん、そのような方法についてであれば、ロドリゴ伯爵、あなただけでなく、あなた以前の祖先の人々にしてからが、ありとあらゆる方策を探して来られたことでしょう。ですが、まずはローリー君の加減のいい時に、是非お見舞いさせてください。それに、ギベルネ先生なら……何か、調合してくださるかもしれません。咳が止まったりですとか、そうした薬か何かを……」


 変に期待させてはいけないと思いつつ、ハムレットはなるべく慎重な物言いをするよう心掛けた。だが、ロドリゴは彼の言葉に希望を見出したりはしなかったようである。何かの善意の社交辞令としてそれを受け止めたように見えた。そして、それであればこそロットバルト伯爵の苦悩と絶望は尚のこと深いのだということが、ハムレットにはよくわかった。おそらく州中の名医と呼ばれる医者にであれば、すでに診せるか、あるいは何かの薬を調合してもらったにせよ、それらは根本的に病いを治癒するようなものでなかったに違いない。


「そのお言葉だけでも、十分嬉しく感じますよ」


 ロドリゴは書斎を出ようという時、ハムレットに握手を求めた。また、彼の優しい気持ち、その心遣いが十分自分に伝わったことを示すのに、ロドリゴは右手で握ったハムレットの手の上に、さらに左手を重ねたのだった。


「ローリーは、ここから二階上の、同じ角の部屋にいます。そこからは、海がよく見えますのでな……海の近くというのは、塩害で建物が傷みやすいというのがなんですが、やはりそれ以上に素晴らしく心を慰めてくれるものですから。何より、海というやつはね……永遠ということを我々有限なる生き物である人間に教えてくれるのですよ。私から遥か遡った時代のご先祖さまたちも、海岸線などに多少の違いがありこそすれ、同じ海の景色をずっと見続けてきたのですし、それはこの州の民だってみな同じです。海にとっては、人間の身分の高さや低さなどはまったく関係がなく、いつまでも永遠に同じなのでしょうな……ただ人間のほうでだけ、荒れ狂った波を見ては『海神リヴァイアサンの怒りだ』なんだと騒いでいるという、それだけのことに過ぎぬのかもしれません、まったくのところ」


 書斎のドアを開けると、その脇には灰色のグレイハウンドがいた。ハムレットの記憶する限り、一階の例の犬部屋では見かけなかった犬だった。


「おや、バーナビー。ローリーのところからやって来たのかい?」


 ドミンゴのようにやんちゃなところはなく、バーナビーは『心得まして候』とばかり、静かに先に立って歩きだすようにして、廊下の途中、一度だけ振り返っていた。


「バーナビーは、ローリーが特別に可愛がっている犬なのですよ。彼がここに来たということはもしかしたら、ローリーは寝ているのかもしれませんな」


 そう言いながらも、ロドリゴはどこか嬉しそうに犬のあとへついていき、ハムレットのことを末の息子のいる部屋のほうまで案内しようとした。バーナビーは賢い犬で、鍵のかかっていないドアであれば、ドアノブをその前脚で回して開けることも出来た。そしてこの時も、そのような自分の特技を披露して、ハムレットのことを室内のほうへ導き入れたのだった。


「だれなの?パパ、それともママ?」


 十二歳、と聞いた気がするが、その声は年齢以上にずっと幼く、七歳か八歳くらいの子供の姿を連想させるものだった。もしかしたら、病気の深刻な症状が表われる前から病弱で、床に就いていることのほうが多かったのかもしれない……と、ハムレットは直感的にそう感じた。


 寝室のほうは、子煩悩な貴族の息子の贅沢なそれといった雰囲気であり、壁にはカケスや駒鳥、ボボリンクといった鳥が森林の中に描かれ、奥の湖の場面には白雁が何羽も描かれている。また、その傍らにはバンビが立っており、のちにローリーは『あの子、ぼくの友達なの。名前はキースっていうんだよ』と、ハムレットに教えてくれたものだった。ベッドの傍らの机には、何冊かの本と、途中まで描いた絵がそのままになっていたが、その絵をちらと見て、ハムレットはハッとした。おそらく、姉妹のうちの誰かをモデルにしたのだろう。ローリーは絵を描くのが特別上手なようだった。


「海からの風はおまえの喉にあまり良くないと、先生もおっしゃっていたろう」


 ロドリゴは潮の香りで満ちた室内に気づくなり、すぐに窓際まで大股に歩いていき、窓のほうをぴたりと閉めた。おそらくローリーは今までにも何度となく似たような言葉を周囲の誰かしらから聞かされてきたに違いない。ひとつ口笛を吹いたかと思うと、甘えるように鼻面を差しだしてきたバーナビーの頭をよしよしと撫でている。


「パパ、ぼくそう思わないんだよ。潮の香りはぼくの体にも、他の誰にとってもいいものだよ。海はね、波を通して毎日ぼくに語りかけるんだ……『病気が良くなかったらここまでおいで!でも、病気が良くならなくっても、やっぱり君はわたしたちのものだよ』ってね」


「ローリー、またおまえはそんなことを言って……」


「だってぼく、よくそういう夢を見るんだもの。それに、ここロドリアーナの人たちはみんな、海を渡って天国へ行くのでしょ?少なくとも船乗りたちはみんなそう言ってるよ。だから、海で死んでも悲しくないし、海で死んだ人間の魂こそがもっとも天の御国に近いんだって……きのうもね、ぼく、海辺で貝殻を拾う夢を見たの。それでね、その貝殻を耳に当てると、とっても素敵な音楽が聴こえてきて――ぼく、そのこと一生懸命覚えておこうとしたの。そしたら、ロザリンド姉さんかロマンド兄さんに楽譜に記してもらって演奏してもらえるでしょう?でも、ダメだったの……海の妖精たちがね、せっかくあんなに美しいアリアをぼくのために歌ってくれたのに、魂が揺すぶられるような素晴らしい旋律だったのに、やっぱり目が覚めたら忘れちゃったんだ!でもね、きっと天国ではそんなふうに海の妖精や天使たちが一緒になって歌を歌ってるんだと思うの。そしたらね、毎日当たり前みたいにそんな素晴らしい音楽会にぼくは招待されることになると思うんだ。ねえパパ、パパもそう思うでしょ?」


「う、うん。そうだな……確かにパパもそう思うよ」


 ロドリゴは明らかにうろたえているようだった。おそらく父親であるロドリゴにしてみれば、『人は死んだあと、きっとそんな素晴らしい世界へ行くのだろうね』などとは、なるべくなら口にしたくないことなのだろう。ましてや、そのように息子の魂が死に近いところにあるからこそ、そういった夢を見るのだろうなどとは――認めるのが絶対嫌だったに違いない。


「こんにちは。初めまして」


 父と犬以外にも人の気配がするのを感じ、ローリーが枕元から首を巡らすのを見て、ハムレットは自分から挨拶した。ローリーは見知らぬ人の姿を見て、一瞬恥かしそうにパッと顔を赤らめた。だが、しきりと犬の頭や体を撫でることで自分を落ち着かせることにしたようだった。


「こ、こんちは……もしかして、新しい家庭教師の人ですか?」


 ハハハッ、とロドリゴが、(こりゃ参ったな)とでもいうように笑い、ハムレット王子のほうを振り返る。


「いや、この方はね、新しい家庭教師の人なんかじゃないよ。ハムレット王子とおっしゃって、いずれこの国の王になられる方さ」


「ええっ!?」


 ローリーはすっかり驚くのと同時、どうしていいかわからずまごついた。もう愛犬バーナビーのことをいくら撫でても、なんの効果もないようにしか思われない。


「いや、お父さまは冗談をおっしゃっているのですよ」ローリーがおどおどしなくてもいいように、ハムレットは隣に座るロドリゴ伯に向かい、ウィンクして見せる。「オレが……まあ、芝居小屋のほうで、そういう役を演じたことがあるというそれだけなんですよ。そしたら、お父さんが息子のローリー君と仲良くしてくれないかとおっしゃったので、それでオレは友達になるために今日こちらへ伺ったのです」


「そ、そうだったんですか……ぼく、なんだか恥かしいな。パパも前もって言ってくれてたら、ぼく、ちゃんと着替えて髪も梳かしておいたのに……」


 ローリーは突然、ブロンドの巻き毛を両手で撫でつけたり、寝巻きの肩の埃を払ったり、あるいはベッドの上の皺を伸ばしたりしだした。バーナビーには恥という概念がないらしく、部屋の隅のおしっこ専用の場所へ行くと、そこで片足を上げていた。それから、勢いをつけたようにベッドの上へ上がってくるなり、ローリーの洗顔を手伝うようにその顔をなめはじめる。


「ハハハッ。ハムレットさまは気立てのお優しい方なのでな、そんな小さなことを気になさったりしないから大丈夫だよ。それより、気分のほうはどうだね?」


「ぼく、実はさっき起きたばかりなんだ。一生懸命起きていて、絵の続きに取り掛かったり、ご本の続きを読んだり、調子が良かったらバーナビーや他の犬たちとも散歩に行きたいのに、大きな発作のあとはどうしてもすぐ眠くなっちゃうの。どうしてかな……」


「眠たい時には寝るのが一番さ。ローリー、特におまえの場合はな……」


 ――このあと、ハムレットはローリーと色々な話をし、ロドリゴはその途中で席を外した。ハムレットは王子であることは冗談の設定であるとして隠し、砂漠を長く旅してここまで来たことなどを話して聞かせ、その間にその土地で聞いた民話について、ローリーが好みそうな物語を語ってみせたわけである。ハムレットのそうした物語に想像力を刺激されたローリーは、時折画用紙に何かの挿絵のようないたずら描きをした。そうしておけばハムレットがいなくなったあとでも、彼の話してくれたことを思い出し、きちんと絵として描き直せるに違いないと思っていたのである。


 この翌日の午前中から、マリーン・シャンテュイエ城のもっとも奥まった場所にある広間にて、軍事会議が開かれることになっていた。そこでハムレットは昼食をとってのち、さらに午後いっぱいも続いた会議のあと、今度はギベルネスを伴い、ローリーの部屋を訪ねることにしていたのである。例によって、会議の席には参加しつつも、何か意見を求められるか、そうした雰囲気を感じでもしない限り、ギベルネスは彼らの会議に口を挟むことはなかったが……(この国の大きな時代の転換点に自分は異星人として立ち会おうとしているのだ)と、彼にしても自覚はしていたわけである。だが、ハムレットからローリー少年の病気の症状について聞き、この天使のようにあどけない子供を診察すると、ギベルネスの頭の中は近づいている重要な会戦のことよりも、この<喀血病>と呼ばれる病いのことで一杯になってしまったのである。


『一度症状がはじまるとね、喉がぜいぜい言って、お胸が苦しくなるの。それから咳が止まらなくなって……それに血が混じっているものだから、パパもママもね、とっても心配するの。今まで、たくさんお医者さんがやって来てぼくのこと診ていったけど、時々ね、お薬を飲んだお陰で良くなったように感じることがあるけれど、結局ダメなのね。べつに、そのお医者さんがパパが言うみたいにヤブってことでもなく、きっとぼく、そういう運命だってことなんだと思うの。兄さまも姉さまも、ぼくのことを可愛そうがって時々泣いてくださるけど――ぼく、自分のことを不幸だなんて思わないよ。だって、パパもママもみんなぼくのことを愛してくださって、なんでもしてくれようとするんだものね。近いうちに天使さまが迎えにきたって、それだって幸福なことで、きっと不幸なことなんかじゃないと思うんだ……』


 脈を取ったり肺や胸の音を聞いたり、全身の状態を見たりといったギベルネスなりの診察が済むと、彼は同席していた父ロドリゴに別室にて話を聞くことにしていた。これまでに処方された薬のことや、彼がヤブと呼んでいたという医者の見立てのことなど……それから、家系図とその中で喀血病の出た男兄弟のこと、またロドリゴの兄ロレンゾの病気の過程とその死に様のこと、彼が父や祖父などから伝え聞くなどして知る限りの喀血病の症状のことなどを。


 正直なところを言って、ロドリゴはその中でも特にギベルネスが家系図に拘るのを見て、少々苛立ったものである。(すでに死んだ人間を霊媒よろしく呼びだして、病気の対処法について聞こうとでもいうのか)――そうとすら思ったくらいだったが、この時ロドリゴがギベルネスに対し(この医師であればもしかしたら……)と、なきがごとしの期待を抱くでもなく、(こいつも今までいた藪医者のひとりに相違あるまい)と確信に近い気持ちを持ったのは、もしかしたら彼にとって良いことだったかもしれない。特に、随分あとになってからギベルネスが実は<神の人>と呼ばれているとロドリゴにもはっきりわかる、その瞬間が遅れてやってきたということは……。




 >>続く。






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