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第19章

 ギネビアは自分の言いたいことを言ってしまうと、舞踏室から廊下へ出、緩やかにカーブを描く石の階段を下りていくと、まだ雨の降っている中庭のほうへ向かい、さらにそこから城門塔に守られた跳ね橋を渡り――イルムル川の支流に沿うようにして、水門塔を目指した。


 と言っても、衛兵室のほうを訪ねて挨拶するでもなく、ギネビアは桟橋に繋留されている屋形船のひとつに入ると、キャビンまで下りていってドサリと横になった。ロットバルト州の貴族たちはおそらく、こうした船に乗って川下りするというのがひとつの趣味のようになっているのだろう。寝心地のいいソファもあれば、部屋の床にしっかりくっついている精緻な彫刻のテーブルなど、壁には絵画や豪華なタペストリーも掛かっていて、貧しい農家で寝泊りするよりは、こちらで過ごしたほうがよほど贅沢というものだったに違いない。


 もともと、アストラット城へは一泊だけする予定であり、荷物などについてはほとんどがそのまま積んである。ゆえに、本来は見張りが必要であったが、水門塔の衛兵たちが「自分たちに任せとけ!」と酔っ払って言ったことをいい加減にもバサーニオらは信じ、五艘の屋形船のどこにも、今は誰も人がいなかった。


(へえ……面白いもんだな)


 ギネビアは壁にかかった特殊な燭台を見てそう思った。それは船がどんなに揺れても蝋燭が床に落ちたりしないよう金属の加工品によって覆われていたが、その格子模様の合間から、十分な量、光があたりを照らすように出来ている。


(美味しい食事のほうにもありついてきたばかりだからな。まあ、ガルドローブ(トイレのこと)のほうは水門塔のおっちゃんたちのを使わせてもらうとして……今晩はここでぐっすり眠らせてもらうことにしよう)


 実をいうとギネビアは、ランスロットのことはあまり考えなかった。彼女にとって彼は、いるのがあまりに当たり前の存在だったからだ。さながら空気の如く……けれど、空気というのはなくなってから初めてその貴重さに気づくのであって、普段はほとんどあまり意識されない存在である。ゆえに、ランスロット自身がそうと気づいているように、ギネビアはそうした意味で残酷であったに違いない。


 ここまでやって来る道の途中で、確かにランスロットにキスされたことを思いだしはしたが、彼女はそのことできのうほどにはすでに怒っていなかった。きのうの夜も、今朝目を覚ましてからも(よりにもよってこのわたしに、あんなイヤらしいキスをしてきやがって!!)ということで、確かにギネビアは怒っていた。空気の騎士ランスロットの側としてみれば、そうすることで自分の婚約者が少しくらい自分を男として意識すればいい――そのように思っていたというのに、ギネビアは「がらがらがら、ぺっ!!」と何度かうがいすると、ランスロットのしたことを<なかったこと>として記憶から可及的速やかに葬り去ることにしていたのだ。


 また、ランスロットとエレイン姫に関してギネビアが思っていたことというのも、大体のところ次のようなものだった。ローゼンクランツ城砦で行なわれる公式の馬上試合において、たとえばパーシヴァルやクレティアンといった騎士たちは独身時代、三度も四度も違う娘のドレスの袖やらスカーフやらを身に着けて戦っていたものである。ギネビアはそうした事柄について、彼らを「なんという不実な浮気者だろう!」とは思っていなかった。それは相手の女性とどのような形で話がついているかによるからだ。けれど、ランスロットがエレイン姫にしたことは、ギネビアには許しがたいことだった。ふたりの間に肉体関係が存在したかどうかは、この場合関係がない。エレイン姫ほどの女性が失恋によってイルムル川へ身投げし、危うく死ぬところだったという一事を取ってみただけでも――ランスロットは責任を取ってエレイン姫と結婚すべきなのである。


(それをあの野郎は……一体何を血迷ったのか、このわたしにキスなぞしくさりやがって!!何考えてんだ。エレイン姫は非の打ちどころなくまったく美しい女性だった。きっと両親に大切に育てられた、教養もある素晴らしい人に違いない。それなのに、馬上試合で姫の真紅の袖までつけて戦っていながら、何故彼女の愛を拒まなきゃならないんだ?わたしと婚約してるからだって?馬鹿も休み休み言えってんだ)


 エレイン姫の愛情に応えられない理由として自分のことを持ち出したというのも、ギネビアには許せないことだった。(それに、あんなイヤらしいキスの仕方を知っているということは、<都上り>の時にでも、パーシヴァルやクレティアンなんかと一緒に歓楽街あたりででも一緒に遊び歩いたっていうことなんだろうしな。まったくけしからん奴だ)――そんなことを思って腹を立てていたギネビアだったが、ある瞬間にふと考え方を変えた。この場合、大切なのは課程ではなく結果である。エレイン姫が実らぬ恋のことを思ってイルムル川へ身投げしたというのはなんとも痛ましいことだったが、起きてしまったことは起きてしまったことである。なんにせよ、今彼女は生きていて、ここアストラットの地をランスロットが再訪することになったのも何かの縁に違いない……しかも二年前とは違い、すでに自分とランスロットは完全に婚約を解消している――となれば、ふたりが結ばれるのに一体どんな障害があるというのだろうか?


 エメラルド色のクッションを枕にして横になり、ギネビアがそんなことをつらつら考えていた時のことだった。ドカッと甲板を叩くような音がしたかと思うと、ガチャガチャというドアノブを回すのに似た音が続き、階段を下りてくる足音がする。


(……誰だっ!?)


 帆立貝や珊瑚、それに人魚などが彫刻されたテーブルの上から、ギネビアは念のため剣を手に取った。おそらくは、アントニオといった船頭の誰かが様子を見に来たのだろうとは思ったが。


「……ハムレット王子」


 思ってもみなかった人物の姿を見出して、ギネビアは驚いた。拍子抜けしたように、もう一度手にした剣を手放す。


「タイスやギベルネ先生は一緒ではないのですか?」


 ハムレットに続き、誰かが後ろからやって来るものと思っていたギネビアは、ハムレットが船室のドアを後ろ手に閉めるのを見、不思議そうな顔をする。


「いや、オレひとりだ」


「そんな……今ごろみんな心配してますよ。それに、アストラット城からここまで来るにもちょっと距離がありますからね。ギロン男爵はどうやらもてなすべき客としてエレアガンス子爵が一番大切なお客人といったように認識してるみたいですけど、それはともかくとして、暗殺の心配というのは常にしていなくてはなりません。これからは、こうした単独行動は慎んでいただかないと……」


 ハムレットはくすりと笑うと、ギネビアが慌てて起き上がったソファの向かい側へ腰かけた。ソファもまた、脚の部分がしっかりと床に固定されており、川下りの時にいくら揺れようとも、部屋の隅に移動していくといった心配はない作りとなっている。


「いや、こんなことが出来るのも、今だけかもしれないと思ったものでな。ある意味、メレアガンス州までの旅は良かったよ。気心の知れた仲間だけの旅っていう意味で……でも、おそらくこれからはもうあんな思いは出来ないということなんだろうな。もちろん、炎天下の中砂漠を移動するのはつらかったし、いつでも楽なばかりというわけではなかったかもしれない。だけど、これからは自分が好ましいと感じる人物とだけでなく――特に利害の絡んだ相手とは内心ではいけ好かない奴と感じていようとも、どうやら友好な関係というのを続けるべく努力しなけりゃならんらしい」


「もしかして、エレアガンス子爵と彼の取巻き連のことですか?」


 ハムレットは頷いた。だが、その顔にはどこか無邪気な、何かを面白がるような表情が浮かんでいるばかりである。


「いや、子爵殿のことはいい人間とは思っているんだ、これでも……おそらく育ちがいいというのは、彼のような人物のことをいうのだろうなといったようにも。カドールなんかは、エレアガンスのことを将来的に典礼儀官長にでもしたらどうか、なんて時々冗談で言ったりしてるがな……見た目の装いのことでは常に完璧を期そうとするので、向いてるんじゃないかというわけだ」


「確かに、そうですね」ギネビアも笑った。「でも、エレアガンスは王子がいずれ王になるから、今から政治的利権にありつこうとか、そんなことを考えてハムレットさまと一緒にいるってわけじゃないですもんね。そこは、確かに彼のいいところだと思います」


「そうだな。だが、そもそも元はといえば、カドールやランスロット、全然そうは見えないにしてもキリオンやウルフィンも、一応はそんなふうに聞かされているはずなんだがな。とはいえ、あの頃は今以上にまだまだ全然……オレ自身にしてからが、自分がいずれこの国の王になるだなんて信じてなかった気がする。でも、オレ自身がそう信じてなくても、みんながそう信じさせてくれたんだ。もちろん、そのことの内にはギネビアの力も大きかった」


「え?わたしですか……」


 ギネビアは照れたように赤くなると、どこか落ち着かなげにそわそわしだした。彼女は今、エレイン姫と相対していた時のように足を大股に開いてもいない。


「ああ。オレはちょっと、ランスロットにはコンプレックスを感じるところがあるし、それにカドールはほら、タイスとタイプがまったく一緒だろ?三度の飯より陰謀が好き……とでも言えばいいのかどうかわからんが、いい意味であいつらはオレのことを王として担ぎ上げたその下で、実質的に政治そのものを動かそうというのか、いってみればそんな感じだろう?だが、ギネビアは違う。政治的利権がどうこうといったことは関係なく、何が正しくて間違っているのか、一見正しそうに見える楽なほうを取るのではなく、徹底して正義を追求しようというところとか……それは、メレアガンス州の聖ウルスラ騎士団にも、他の誰にも――同じところはないと思うんだ」


「いやあ、そんな……一騎士として、当たり前のことを言ってるだけなんですけどね。それに、ハムレットさまほど立派な方が、何故ランスロットの奴になぞコンプレックスを感じる必要があるんです?ほら、今回のことでもわかるとおり、あいつは実際のとこ、優柔不断なしょうもない奴なんですよ。エレイン姫ほどの美しい方が相手では無理ないとは思いますけどね、ギロン男爵やリオン殿がそれで許してやると寛大にもおっしゃってくださっているのですから、明日にでも婚約の約束を正式に取り交わして、そのあとにでもロドリアーナへは旅立てばいいのではありませんか」


 ここで、ハムレットは心底驚いた、といったような顔をしてギネビアのことを見返した。実をいうと彼はランスロットとエレイン姫の件に関して、ギネビアが本当はどう思っているかを知りたくてここまでやって来たのだ。


「……本当に、それでいいのか?」


「ええ。むしろわたしとしては……この船の浮かぶ外を流れる青とも緑ともつかぬ水の流れを見ていると、本当にゾッとしますね。すぐそこの水門塔にいる衛兵たちが最初に身投げした姫の変わり果てた姿を発見したらしいですが、ギロン男爵も兄のリオン殿も驚いたことでしょう。本当に、生きていて良かった。ランスロットの奴はね、そうした償いの意味もこめて、責任を取ってエレイン姫と結婚するのが一番いいんです」


「だが……オレが聞いたところによれば、ランスロットにその気持ちはなく、あくまでもエレイン姫の片想いだといったように聞いたぞ。もしそうなら……本当は愛してもいないのにそのようなことを強要することは、誰にも出来ないことなのではないか?」


 ギネビアはハムレットのこの言葉に対しても、まるで『王子は何もわかってらっしゃらないから』とでもいうように、ただ肩を竦めている。


「どこの騎士だって、大体のところそんなふうにしているじゃありませんか。ハムレットさま、わたしは小さな頃からローゼンクランツ騎士団の騎士たちをずっと見て成長してきましたけどね、好きだ、惚れた、愛しただの言って結婚しても、うまくいくとは限らないのですよ。もちろん、愛のない政略結婚だって、うまくいかない場合のほうが多いのかも知れない。でもその点、ランスロットの奴はエレイン姫のような女性と結婚すれば結構うまくいくんじゃないかと思います。むしろ、あれほどの素晴らしい女性に想いを寄せてもらっているということを、あいつはもっと神に感謝すべきと思うのにそこのところをわかってないというのが、なんともあいつの男として駄目なところですね」


「いや、ギネビア……オレはてっきり、君が本当はランスロットのことを憎からず思っていて、エレイン姫のような恋敵が現れたことで――彼への自分の本当の気持ちに気づいたとか、そういったことがあったんじゃないかとばかり思ってたんだが」


「まあ、そりゃそうですよ」ギネビアはあっけらかんとしたものだった。「わたしがもし男で騎士だったら、エレイン姫のような女性がほんのちょっと意味ありげな目配せをしたというだけで、すっかり参ってしまうかもしれません。あるいは、自分でなく親友のランスロットのほうがあのような美人にモテたというので、腹が立って絶縁していた可能性だってあります。今だって、確かにわたしはランスロットの奴のことを羨ましいとは思ってるんですから……どう言ったらいいのかなあ。もし明日あたりにでもエレイン姫とランスロットが婚約を交わしたとしたら、ふたりのことを祝福しつつも、わたし自身は内心では複雑ですよ。でもそれは、たとえばわたしの姉のテルマリアがどこか遠くの貴族の男と結婚して、今後は滅多なことではそうしょっちゅう会えない……そのことを悲しく思い、姉をその男に奪われたということで嫉妬し、でもテルマ姉さんの美しい花嫁姿を見て、結局のところ嬉し涙によって見送るといったような、そんな気持ちに近いことなんです。ランスロット程度の奴があんな美女と?その点については確かに腹が立つ。でもそれは元婚約者として嫉妬してるとか、そういうことじゃあないんです。あいつがこれから結婚して所帯を持ったりして、ローゼンクランツ騎士団やそこに属する仲間であるわたしが優先順位としてそれより低い立場になること自体は寂しい。けれど、あいつが幸せになること自体は仲間として、友達として祝福してやらなけりゃならない……大体、そんな感じのことなんですよ」


「なるほど」


 ハムレットは驚いた。彼自身、ギネビアはおそらく幼馴染みとしてあまりに近しい存在であるがゆえに、ランスロットこそ自分の本当の意味での理想の騎士の体現だということに、彼女が実は気づいてないのではないかとそう思ってきただけに。


「じゃあオレがしていた心配は、まったくもって余計なことだったということになるな……」


 ハムレットは、自分の勘違いがなんだかおかしくなった。とはいえ、いくらギネビアが「あんな美女、おまえの人生にもう二度と現れんぞ」とか「逃がした魚の大きさにおまえが気づくのは、エレイン姫が他の貴族の男と結婚したその時なんだろうな」といったように、あてつけがましくランスロットに言ったとしても――ランスロット自身はエレイン姫からどうにか逃げることしか考えないだろうことは間違いない。そしてその上で、「親の決めた婚約者だからじゃない。俺はおまえのことだけが好きなんだ」と、ランスロットが面と向かってはっきり言ったとしたら……その時こそギネビアは、この国随一とも言われる腕前の騎士、ランスロットの愛を受け容れることになるのだろうか?


(わからない)とハムレットは思う。だが、ギネビアが自分の気持ちをわざわざ偽って話したようにも見えなかった。幼馴染み、同じローゼンクランツ騎士団の仲間、兄弟のようなもの……そうした意味で、彼が他の誰かと結婚することは、確かに妹のような存在として寂しいことではある。けれど、それは元婚約者として嫉妬しているというのとはまるで別の感情だ――とギネビアは言った。ということは、その部分をランスロットもカドールも、正確には理解していないということなのだろうか?


「ギネビアは、ランスロット以上の騎士でもない限り、そのような男が求婚でもしない限りは絶対結婚はしないということなのかい?」


「いえ、ランスロット以上の男なぞ、そこいらにゴロゴロいますからね。ですがまあ、結婚はしないでしょう。わたしはね、王子。ハムレットさまがわたしのことを騎士に叙任してくださったことを、今でもそれはもうこの上なく恩義に感じているのです。騎士たちに混ざって剣や槍、それに体術や馬術を学ぶことまでは許しても、父上もランスロットの父である騎士団長も――わたしが正式に騎士としてローゼンクランツ騎士団に名を刻むことまでは決して許してくれませんでした。わたしが女でも、今もこうしてともに旅が出来るのはハムレットさまあってのこと……それ以上の自由など、わたしには必要のないことです」


「そうだったのか……」


 ハムレットは再び、今度は別の意味で驚いた。人の気持ち(女の気持ち、というつもりは彼にはない)というのは、こうして膝を突き合わせて本当のところを聞いてみなければ、案外わからないものなのかもしれない。


「その……我々にとっては今こそが大切な時期であって、こんなことは捕らぬタヌキの皮算用のようなもので、今話すのはオレとしても恥かしいことではある。だがやはり、前もって聞いておきたいんだ。もしオレがこの国の王になれたとして――その時にはギネビア。ギネビアにも騎士として、この国のどこか好きな場所を領地として取ってもらいたいと思っている。そのこと、今から覚えておいてくれないか?」


「いえ、わたしの中ではこの国はすでに、ハムレットさまのものです」ギネビアは恭しく頭を垂れてから、はっきりそう言った。「また、わたしはのちに領地が欲しくてハムレットさまに従っているわけではありませんが、そのお気持ちは嬉しいものとして受け取っておきたいと思います。そうですね。ひとつくらい、女が領主となって治める土地があってもいいかもしれない。というのも、それが自分のためだからじゃないんです。そうした前例があれば、女でも十分有能にひとつの広い土地を治めていけるという模範を周囲の州に示すことが出来れば……女しか跡取りがないというので、ある土地を他の欲に狂った男の豪族に奪われるとか、そうしたことがなくなるかもしれません。そのためにはやはりそうした前例と法律が必要だと、そんなふうに思いますからね」


「そうだな。オレもそう思う……おそらく、そのことにはカドールはどうかわからんが、少なくともタイスは同意してくれるだろう。新しく国造りをするという時、やるべきことが多すぎて、今ギネビアが言ってくれたようなことが後回しになるといけない。もしオレが忘れているようだと思ったら、その時にはそうせっついてくれると助かるよ」


「ええ、もちろんです」


 ハムレットはこの時、心の底からほっとした。無論、だからといって今後もギネビアはどの男のものにもならないだろうから安心だ――などと思っているわけではない。ただ、ギネビアがカドールが言っていたように『子供すぎて、ランスロットに対する自分の本当の気持ちに気づいていない』といったような、そうしたこととも彼女の本心は別なのだとわかって、ほっとしたのだ。


(もちろん、結局のところギネビアはランスロットが領主として治める州で、賢い妻としての座に収まった……そんなことだって十分ありえることだろう。だが、何故か彼女がランスロットこそ理想の騎士の姿だと思っていない以上、そうと認めることは同じ騎士のライバルとして屈辱だと感じているらしい以上――オレにも少しくらいは望みがあると思えること、今はそのことがオレにとってはこの上もない恋の救いとは言えたろうな……)


 自分のこうしたギネビアに対して感じる恋心を、他の誰も理解はすまいと、ハムレットにはわかっていた。第一、彼自身ランスロットと男らしく騎士として戦い、最低でも三本勝負のうち、一本を取れるくらいの剣の腕前でもないことには――ギネビアはそのような軟弱な男のことは相手にしないだろうと思っていた。かといって、現実問題としてそのようなことは難しい以上、彼にはどうしていいかわからなかった。自分の好意をそれとなく相手に示すことさえ出来ない、最初から手詰まりの恋。だがこの時、ハムレットは理由なきある種の希望を抱いた。それは、あと一歩手駒のポーンを相手陣地の先に進めることさえ出来ればクイーンに変えることが出来るような、根拠のない予感だったと言える。


 そしてこの次の瞬間、敵がそうはさせまいとして、ナイトが不規則な動きをし、不意に歩兵を叩き潰すシーンが連想的に思い浮かんだが……そんなキングとしてのハムレットを救ったのは、最初から最強の駒であるクイーン・ギネビアだったわけである。


 ハムレットのこれから先も報われそうもない恋がはじまったのは、ローゼンクランツ騎士団擁するあの試合会場にて、ギネビアが相手プレイヤー(選手)であるランスロットを殺そうとし、白銀の冑を脱いだ瞬間のことだった。その一瞬前までてっきり男の騎士とばかり思っていた相手に恋をするなど、おそらく奇妙なことではあったに違いない。もちろんそれ以前にも、ギルデンスターン城砦にいた頃からすでに、若い娘たちやすでに結婚している女性などの、自分やタイスに対する意味ありげな視線にハムレットは気づいていた。『将来王になることを考えて、恋の軽挙や妄動には気をつけること』といったように、誰かが警告したようなことは一度もない。けれど、彼自身(そうした可能性もある)と思い、注意深く周囲にいる若い女性たちを観察していたものである。


 けれど、単に美しいとか優しいとか、そうしたことが理由で相手の女性のことを考えて夜も眠れない……そのような感覚をハムレットにもたらしたのは、唯一ギネビアだけだった。そしてそれは、彼にとって最初から敗北の決まっているも同然の恋でもあったのだ。今も時々、ハムレットは内心でこう思うことがある。実は自分などではなく、ランスロットこそが王としてこの国を治めるのに相応しい男なのではないか、ということを……。


(まあ、カドールやタイスがこの国の将来のことに対し、捕らぬタヌキの皮算用よろしく、新しい国にはこのようなことが必要だ、あのようなことが大切だと、理想的なユートピア建設について色々語る時……オレは時々冗談でからかってやることがある。『オレなど抜きで、おまえたちふたりで新しい国の王になればいいのじゃないか』といったように。無論、彼らにはわかっている。つまらん議論が長くなったのにオレが飽き飽きしてそんなことを言ったのだろうといったことは……だが、ランスロットに対しては冗談でも言えん。『おまえがオレの代わりに王にでもなったらいいのじゃないか』なんていうことはな)


 ハムレットはこのあと、ギネビアと楽しい世間話を何気なくした。いつもまわりには誰かしら彼らの仲間がいて、ふたりきりで話せるようなことはほとんどないゆえに、それは彼にとって心ときめく楽しいひと時だったと言える。


「ほら、あのどこか気難しい顔をした操舵手のソレーニオな。なんでも次にロドリアーナへ戻ったら、ある求婚の試練を受けなきゃならないらしい。アントニオがそう言っていた。『いつもはあんな胞子を作りだすキノコのように陰気な男でなく、真夏の太陽を喜ぶヒマワリのように陽気な男なのですが、彼は今運命の赤い糸で結ばれていると感じる女性と結婚できるかどうかの瀬戸際にいるのです』ということでな」


「へええ……でも変な話、運命の赤い糸で結ばれているんなら、この全世界、あるいは全宇宙が反対しても、そんな恋人同士は結ばれることになるんでしょうから、そんなに難しく考える必要はないんじゃないですか?」


 ギネビアが彼女らしい単純な恋愛観を口にするのを聞いて、ハムレットはおかしくなった。無論、ランスロットとエレイン姫が恋人として結ばれないのは、全宇宙や神が反対しているからでないのは間違いない。


「いや、それが聞いてみるとなかなか興味深い話でな。ソレーニオが求婚しようとしている女性はポーシャと言って、港湾都市ロドリアーナでも指折りの豪商人の娘らしい。ところで、この豪商人がある日天寿をまっとうして死んだ。彼は美しい一人娘が財産目当てに近づいてきた男と結婚するのでないかと、最後の最後まで気に病んでいたらしい。そこで、次のような遺言を残したのだ。ポーシャの求婚者は、金の箱、銀の箱、鉛の箱の三つの中からひとつを選ぶ。その中にポーシャの美しい絵姿を見出した者だけが彼女と結婚できるという、どうやらそうした話運びらしい。何人もの求婚者たちが挑戦したが、今のところまだ彼女は結婚していないところを見ると、誰もポーシャの絵姿をその宝箱の中に見出していないということなんだろう」


「なるほど。そりゃ確かに悩ましい話ですね。第一、今ソレーニオがこうして操舵手をしているということは……今この瞬間も――いや、彼がロドリアーナへ戻ったら、すでにポーシャは彼女の美しい絵姿を引き当てた誰かと結婚したあとだったと、そうした可能性だってありますもんね」


「そうなんだ。しかも今回、この突然の嵐で足止めを食うことになったろう?ソレーニオはそりゃあ、見るも惨めな姿をして思い悩んでいるらしくてな……しかもソレーニオには三千ダカットばかりの借金があって、今回操舵手の仕事を引き受けないわけにもいかなかったらしい。もしそうじゃなかったら、ロドリゴ伯爵の仕事のほうは断って先にプロポーズすることに決めていたらしいのだがな」


「ふうむ。確かにそれはなかなか入り組んだ話、という気がしますね。わたしはどちらかというと愛があれば金なんてというタイプではあるのですが、それでも自分が金持ち女で、三千ダカットも借金のある男がプロポーズしてきたら……まあ、まずは真っ先に疑うでしょうね。『所詮この男も自分の持参金目当てに違いない』といったようには。でも、まずはせめても借金を減らしてからプロポーズしようというあたり、あのソレーニオという男、なかなか見るべきところのある男なのではありませんか」


 テーブルには鍵がついていて、それを開けると中にはワインやゴブレットなどが収納されていた。そこで、ふたりは酒を汲み交わしながらそんな話をしていたわけである。


「そうなんだ。アントニオたちも、友達であり、仕事仲間でもあるソレーニオがすっかり憔悴しきっている姿を見て、みんなで金をかき集めて彼の借金をすべて支払ってやってりゃあ良かったと、今後悔しているところらしい」


「なるほど……まあ確かに、三つの宝箱の中からポーシャさんの絵姿を引き当てることが出来たとして、その大金持ちの女性と結婚できた場合、最初に自分の妻に頼む仕事として『まずはオレの借金三千ダカット、肩代わりしてくんねえかい?』というのは――立派な夫として、その後も永久に妻と対等になれるのはベッドの中だけ、ということになりかねなさそうですもんね」


 ベッドの中、などという言葉がギネビアの口から発されて、ハムレットは一瞬ドキリとした。「そ、そうだな……」などと、彼はゴブレットの中の薔薇色の液体に目を落とす。ごくり、と不自然に喉が鳴った。


「うまくいくといいですけどねえ。雨もすっかり小止みになったようですし、明日には再び川下りを再開できたとして……ロドリアーナへ到着するのは夕方くらいなのでしたっけ?」


「そうらしい。アントニオたちの話によると……バサーニオもグラシャーノもサレアリオも、他の操舵手たちはアストラット城主の歓待にすっかり満足して、永久にこの城で暮らしたいとすら思っているらしいのだが、唯一ソレーニオだけが『一分一秒の遅れが、おのれの運命に破滅をもたらす』とばかり、すっかり気も塞いで落ち込んでいるんだな。まわりで見ている者のほうが、肺病持ちのような顔色になって落ち込まずにいるのが無理だと感じるほどに」


「でもまあ、他人の恋愛のことは、他の誰にもどうにも出来ませんからね」ギネビアは実際には大した恋愛経験もないのに、恋の道にかけては海千山千の者だというように、妙にうんうん頷いている。「それでいて運命ということを考えると、やっぱり少し不思議な感じはします。何故といって数学的な確率からいえば、結局は三分の一の当選率、みたいな感じのことでしょう?ポーシャさんという女性に真実本当に恋しているとか、心から彼女を愛しているというのでなくても……なるべく早くその運試しというやつに挑戦しないことには、誰かが金か銀か鉄の箱に当たってしまいそうですからね」


「一応、ルールはあるらしいぞ。挑戦する者は、まずポーシャ嬢のことを心から愛していると愛の女神ヴィーナスに誓い、またこの挑戦のことを巷間に流布しないこと、さらにはこの運命の選定に失敗した者は、他のどのような女性にもその後求婚してはならない――そんなふうに取り決めがしてあるのだとか」


「へええ……それなら少しくらいはわかる気がしますね。ポーシャさんのことを愛しているかどうかは別として、財産と欲にくらんだ者であればいくらでもそんな振りをして、恥かしげもなく愛の神にでも金の神にでも喜んで誓いを立てることでしょう。けれど、その後どのような女性にも求婚してはならないというのは――そこにはそれなりの覚悟がいる」


「そうだな……」


 ハムレットはゴブレットに刻まれた海神ポセイドンの顔をなぞりつつ、ふと考えた。(もしギネビアがそのポーシャという女性だったら……オレだってあの気の毒な様子をしたソレーニオと一緒だ。彼女が公爵の娘で結構な財産持ちだからとか、そんなことは関係なく――さらには、二度と他の娘にプロポーズしてはならぬと宣誓することになったとしても、その三分の一の確率に賭けずにはいられなかったことだろう)……ハムレットはこの瞬間、不意に自分は何かすべきなのではないかという焦燥に駆られた。何故といって、今のようにギネビアとふたりきりになれる時など、次は一体いつ巡ってくるやらわかったものではなかったからだ。


 とはいえ、実際には何を言う勇気もなく、ハムレットとギネビアはこれから向かう予定の州都ロドリアーナのこと、ロドリゴ=ロットバルト伯爵がどのような方かということ、ロットバルト騎士団のこと、ふたりが見たことのないエレゼ海のことなど……どうということもないような話をしては笑ったり、仲間たちのことをあれこれしゃべったりするうち、夜はますます暗闇の中へ沈みこむように深くなっていったわけである。


「そろそろ、横になって眠ったほうがいいんじゃないか?」


 ギネビアがある瞬間、「ふあ~あ」と、何気にあくびするのを見て、ハムレットはそう聞いた。時間というものは、苦役に服している者には重く長く、恋の楽しみに溺れている者にはほんの一瞬だと言うが、本当にその通りだった。自分も彼女もそろそろ眠ったほうがいいだろうと、ハムレットにしてもそう判断する。


「いえ、王子はアストラット城のほうへ戻ったほうがいいですよ。わたしが送っていきます」


 この瞬間、ハムレットはある種の羞恥心からカッとした。無論、ギネビアは一流の騎士だと思っているし、彼女がそう認められることを何より望んでいるともわかっている。けれど彼にとってギネビアは、同時に彼が男として生涯をかけて守り、大切にしたい存在でもあったからだ。


「……じゃあ、オレをアストラットへ送っていったら、ギネビアはまたこちらへ戻ってくるのか?」


「そうですね。ランスロットの奴の顔を見ただけでムカっ腹が立ってくるので、あいつの横っ面を殴りつけたい衝動を堪えなくて済むように……わたしは今夜はこちらで眠ろうと思っています」


「だったら、オレもここで休む。一応、タイスに書きつけを残しては来たんだ。それにどうせ、明日になったら同じこの船に乗って出発するのだし……」


 この時、ギネビアは初めて(困ったな)という顔をした。もちろん、ハムレットにはわかっている。男女が同じ船の屋根の下で眠るのはよくない――などということは、まず間違いなく彼女の頭にはないだろうことは。単に、それだと城主であるギロン男爵に失礼にならないかどうかといった、儀礼的なことしかギネビアの頭にはないだろう。


「いえ、もしここにカドールでもディオルグでも、腕の立つ者がもうひとりくらいいればいいんですよ。そしたら、王子には船室の好きな場所で寝てもらって、わたしと交替で見張りに立てばいい。ですが、現況そういうわけにもいかない以上……」


 ギネビアが困り顔でそう説明していると、ドカッという甲板に誰かが降り立つ音がした。音から察するに、間違いなく相手はひとりであるように思われた。そして、その足音はなんの迷いもなく階段を下りて来、ふたりのいるキャビンの扉をノックしていたのである。


「しっ!」と、ギネビアが人差し指を口許に立てたかと思うと、剣を片手にドアの傍らへ立った。暗殺者であれば、暫く黙っていれば無理にでも扉をこじ開けようとしてくるだろう。


「ハムレット、いるんだろ?俺だ。開けてくれ」


「なんだ、タイスか」


 ギネビアはほっとして、鍵を開けた。続く、蝶番のキィと軋む音。


「なんだじゃないよ、ギネビア」と、タイスが眉間に眉根を寄せて言う。「ハムレット、おまえもおまえだ。あんな書き置きひとつ残していなくなるだなんて……」


「わかってるよ。ただ、オレにだって色々考えるところはあるんだ。それにギロン男爵だって、自分が最上客としてもてなさなきゃならんのはエレアガンス子爵のほうだと誤解しているようだからな。第一、ランスロットのことを今度こそ娘のエレイン姫と結びつけようと必死なようだし……オレがいなくたって何も不都合なことはないと思ってさ」


「ああ、そうだった。ランスロットな」


 タイスはくるりとギネビアに向き直ると、単刀直入にこう聞いた。


「ギネビア、君は本当にランスロットがエレイン姫のものになってもいいのか?いや、確かに彼の心はエレイン姫にないにしても、ただ意地を張ってるとか、もしそういうことなら……」


「くだらないっ!!なんだ、タイス、おまえまで……まさかとは思うが、わたしがあの美しいエレイン姫に嫉妬して、臍を曲げているからこんな場所で寝ようとしているとでも思っているのではあるまいな?」


 ギネビアが帯刀している剣の柄に手をかけたため、タイスは「い、いや……」と、少しばかり怯んだ。だが、ハムレットは普段冷静沈着な彼が、うろたえる姿を見て――悪いとは思ったが、思わず笑わずにはいられなかったのである。


「ハハハッ!!い、いや、ごめん。悪かったよ……タイス、どうやらおまえにもオレにも色々誤解があるようだ。ギネビアはランスロットのことは……なんというか、同じ騎士団の対等な仲間、小さな頃からの幼なじみという、そうした感情以外のものを持ってないらしいよ。いや、オレにもギネビアの本当の気持ちなんてわからない。ただ、さっき話を聞いてた限りにおいてはそうなのかなって」


「そうですよ」


 ぶすっとした顔のまま、ギネビアは再びどすっとソファに腰を落として座る。一度、ワインの瓶とゴブレットをコンソールのほうへ移すと、テーブルの鍵を開け、もうひとつ銀製のゴブレットを取り出す。


「ランスロットの奴は、エレイン姫とこのまま婚約でも結婚でもしたらいい。第一、あんなやぼったい奴があんな美人に男として求められるなんてこと、あいつの今後の一生において二度とないでしょうからね。それに、相手の贈り物であるドレスの袖なりスカーフなりを槍の柄や、あるいは鎧のどこかにでも巻いて馬上試合で戦ったということは……それは自分にも相手に気があると意思表示したも同然のことなんですよ。それなのにそういう意味じゃなかっただなんて言ってエレイン姫に恥をかかせるだなんて、あいつはまったく騎士の風上にも置けない奴です」


 ここで、タイスは軽く首を傾げた。どうやら、ギネビアの怒りのポイントは自分たちが思っていたのとは全然違うらしいと、彼もようやく気づいたのである。


「どうやら、俺も酒でも一杯飲んだほうがいいらしいな」


 最初、タイスは葡萄酒を飲む気はまったくなかったが、一杯だけ頂戴することにしようと、この時気が変わったのである。


「そうか。なるほどな……」一通り話を聞き終わると、酒のせいで陽気になったというのではなく、タイスもハムレット同様笑いたくなった。「だが、それでもランスロットは、これからもギネビア、自分は君の婚約者であると思い続けるだろう。何故といって、君はランスロットが仕えるローゼンクランツ公爵家の娘で、それだけを取ってみても、彼にとっては命に代えても守らねばならない姫だからだ。そして、ランスロットにとっては――エレイン姫とギネビア姫がもし同時に溺れていたら、君のことをまず真っ先に助けるだろうな。それで、そのことであとから君がどんなにランスロットに文句を言おうとも……少しも意に介さないに違いない」


 ギネビア姫、などと言われた瞬間、彼女は「けっ」とでも言うように、あからさまな嫌悪の表情を顔に張りつかせている。


「でも、これではっきりすっきりして良かったんですって。わたしはもしあいつがエレイン姫と結婚するとしたら、そのことを心から祝福します。まあ、そのことに対して嫉妬しないとか、全然寂しくないとか言ったら、多少は嘘かもしれない。わたしにだって、騎士として昔は兄貴分だったような男に対して友を失うような寂しさはあるし、嫉妬する気持ちがないわけでもない。だけどその嫉妬っていうのはね、『なんであんなやぼったい奴が、あんなエレイン姫なんていう美人と結婚するんだ?世の中おかしいじゃないか!!』といったような意味での嫉妬なんですよ」


 タイスもハムレットも、ランスロットのことをやぼったいなどとは少しも思わない。だが、タイスもハムレット同様、ようやく事態がどういうことなのか飲み込んだというわけだった。


「ふうむ……そうか。どうやら、イルムル川を挟んだ向こうから見た景色と、こちら側から見た景色では、見えるものが似たようでいて相当違う――という、そうしたことなんだろうな」


 このたとえだけで、ハムレットにはタイスの言いたいことが十分察せられた。だが、ギネビアはよくわかっていなかった。彼女はただ、確かにここまで川下りをしてくる途中、自分たちはイルムル川の右岸や左岸に深い緑の遠く、城の尖塔の連なりやら、鹿の跳ねていく姿などを見てきたが、確かに両岸の向こうとこちらでは見ている景色に違いがあるだろうと思ったというそれだけである。


「ギネビア、ただ誤解しないで欲しいんだ」と、タイスが真剣な面差しで言う。「これは、君が女性だからどうこうとか、そういう問題じゃなく……いや、やっぱりそういうことになるのかな。だから、ギネビアにとってわざわざこんなふうに言われるのは腹が立つだろうけれど、君とランスロットの関係が本当はどうなのかっていうのは我々にとって大切なことなんだ。いや、変な意味で言うのじゃない。最後まで聞いてくれ……たとえば、これから我々はロドリアーナへ向かう。それで、マリーン・シャンテュイエ城でロットバルト州の貴族のお方々と顔を合わせることがあるかもしれない。君はただ王子の護衛としてハムレットのそばにいるつもりでも、『あの美しいレディは誰か?』なんていうことは、おそらく人々の口に上る。そうした時、君のことをランスロットの婚約者として紹介できるのは、仮に方便であったとしても我々には便利なことなんだ。すでに誰か別の男に売却済みというか、予約済みの女性なんだと紹介できるっていうことはね……でも、ギネビアが『自分は自由な身のひとりの人間だ』といったことを強く主張しだしたら――やっぱり、炎に惹かれる蛾のように、男たちが群がってくるものなんだよ。そして、ランスロットはそうした事態に到底我慢がならないだろう。また、そんなことが原因で君とランスロットが始終喧嘩してるか、あるいは不機嫌そうな顔をしてろくに口を利かないというのは……我々の今後の士気やチームワークに強く関係してくることなんだ」


「じゃあ……わたしは一体どうすれば?」


 ハムレットの側近として、ギネビアはタイスのことを尊敬に足る人物と見なしていた。ランスロットもハムレットも、カドールとタイスを『陰謀を巡らせるのが好きな同種類の人間』と見なしていたが、もしカドールに同じことを言われたら、ギネビアは即喧嘩を吹っかけていたに違いない。だが、タイスの言うことならば耳を傾け、その意見も尊重しなければならないと素直に考えられるのである。


「そうだな。まず、ランスロットがエレイン姫と婚約するつもりがまったくない以上――今後も、君たちは婚約している仲であると、嘘であったにせよ、一応はそういうことにしておいたほうが何かと便利なのは間違いない。でも、もしギネビアがそれを嫌だというなら……」


「簡単じゃないか、タイス!」と、ハムレットが名案を思いついたように、瞳を輝かせて言う。「何もべつに、相手はランスロットじゃなくたっていいんだ。ギネビアにはローゼンクランツ州にでも婚約している男がいるっていうことにすれば、それで万事解決だよ」


 ハムレットのこのアイディアを、ギネビアも気に入ったようだった。実際にはそんな男なぞいないし、騎士が嘘をつくのもよくないとは思う。けれど、ランスロット・ヴァン=ヴェンウィックが自分の婚約者だと偽り続けるよりは、それはギネビアにとって軽微な嘘であるように思われるのだった。


「でもまあ、わたしのことなんてそもそも誰も気にしないって話ではあるんですけどね」その髪の色と同じく、ギネビアは照れたように言った。「せいぜいのところを言って、あの男のなりをしている女は一体女なのか男なのかと聞かれるといったようなところで……」


 ハムレットは自分の提案した解決策に心からほっとし、喜んでいた。今後はそれが仮に嘘であっても、ギネビアはランスロットの婚約者と呼ばれることはなくなるのだ!!それでも自分はまだ、騎士ランスロットに勝利したわけではない……だが、ハムレットとしてはランスロットという名の黒い竜の翼に、長槍によって一撃を加えたような気分だったのである。


 タイスはギネビアが一目置くほど頭の切れる男ではあったが、その一方、事務的なつまらぬ男でもあった。彼は話の要点がすっかり片付いたとなると、「それでは明日に備えて寝たほうがいいな」と言い、ハムレットの恋心を知ってか知らずか、自分が見張りをするから、ふたりは別々の部屋で眠るのがよろしかろう……といったようなことを言った。そこで、ギネビアはちょうど眠気を催していたこともあり、タイスの申し出を有難く受けると、同じ船室で横になるなりぐうぐう眠ってしまったわけである。


「やれやれ。ランスロットの奴がまったく気の毒になってくるな……」


 タイスは棚にしまいこんであった掛け布を一枚取ってくると、それをギネビアの肩にまでかけてやっていた。確かに今まで、色々な場所で雑魚寝してきた仲ではある。けれど、こうも全幅の信頼の元、ぐっすり眠り込まれてしまうと……彼女の髪にほんの一房触れることさえ、何かの取り返しのつかぬ大罪のように感じられてくるのだから不思議である。


「タイス。実はおまえに話があるんだ」


 ハムレットはギネビアの可愛らしい寝顔を一瞥すると、そっとタイスの服の袖に触れて言った。秘密の話の合図、といったようにも、単にギネビアを起こしたくないためとも思われたが、ともかくふたりは隣の船室のほうへ移動した。


 そこには、しっかりした造りの四柱式ベッドが、他の家具同様波に揺られても傾くことがないよう、床と天井にしっかり固定されている。その、柱頭のところに船首像とよく似た女神像が彫刻されたベッドの他には、黒豹の敷物が敷かれ、壁には牙を剥くサーベル・タイガーの彫刻物、テーブルは象の背中に宝石の嵌まった板が置かれており、ソファの背もたれにはライオンの像が描かれている――といったような、若干けばけばしい赴きのある部屋であった。


「本当は、ギネビアにはこちらのベッドで眠って欲しかったんだがな」


 真紅のベルベットカバーに覆われたベッドのほうを見て、ハムレットは言った。ベッドの上には枕がふたつ並んでいる。確かに恋敵であるはずのランスロットが、彼にしても気の毒ではあった。何故といってこれと似たような状況というのを、ランスロットは『兄として』何度となく経験していたろうからだ。


「いや、それはギネビア自身が承知しないだろうから仕方がない。それより、話って?」


「その……言おうかどうしようか迷ったんだが、実はオレは――彼女のことが好きなんだ」


 タイスはハッとした。頬を赤らめるハムレットのことを見て、一瞬エレイン姫のことかと思ったほどである。だが、違うとすぐに察した。


「まさか……ギネビアのことか?」


「そうなんだ。ずっと前から……ギネビアのことをローゼンクランツの馬上試合で見た時からだと思う。でも、最初はそれを恋とも思っていなかった。だが、だんだんにその気持ちがはっきりしてくると……今度は苦しくなった。何故といって、ギネビアはランスロットと婚約しているのだし、本人はどう思っているにせよ、カドールが言っていたとおり――オレもギネビアはずっと一緒にいすぎたせいで、ランスロットの騎士としての素晴らしさ、男としての良さが本当の意味で理解できてないんじゃないかと思っていたからだ。でも、幼い夢から覚めてそのことに気づいた瞬間、彼らは本当の意味で愛しあうようになるのだろうと……まさか、そんなところへ一応は主君である立場のオレが横恋慕するわけにもいくまい。だから、オレはこのまま……自分の恋心については黙っていようと思ってたんだ」


(迂闊だった)と、タイスは咄嗟に思った。(ハムレットのことは誰より、俺が一番よく理解しているとばかり思っていたのに……そんなことに今の今まで毛一筋ほども気づかなかったとは。だが、逆に考えてみよう。そうした場合、もしやこの婚約はすべてが丸く収まる良い縁談とも言えるのじゃないか?)


「ハムレット、ギネビアはああ見えても……いや、決して悪い意味で言うのじゃない。第一、俺だってギネビアのことは好きなのだからな。心配しなくていい、女としてどうのというのじゃなくて、ひとりの人間として尊敬できる、好ましい人物といった意味だ。それに、彼女は美しい。いくら普段は勇ましく男のように振るまっていたとしても、内に秘める女らしい美しさというのとそういうのはまた別の話だからな……ハムレット、おまえがギネビアに惹かれる気持ちというのは十分理解できる。それに、彼女はローゼンクランツ公爵の娘だ。そうした意味でも、王子であるおまえと今後結婚したとしても、身分的にも理想的なくらい釣り合いが取れていると言えるだろう。いや、ハムレット。話してくれて本当に良かった。実は俺は、そのうちおまえがそこらの町娘にすっかりのぼせてしまい、王になったらその娘と結婚するのだと強情に言い張ったらどうしようかと、そうした可能性についてちらと考えなくもなかったからだ。その点、ギネビアなら……おまえの王妃になる相手として、何の問題もない」


「問題ないって……本当にそうなのか?いや、オレが言ってるのは身分の差云々といった話じゃない。ギネビアが本当に騎士として剣を捨てドレスに着替えてもいいだなんて、そんなことを承知するとでも……タイス、おまえは本当にそう思っているのか?」


 タイスはくすりと笑った。ベッドの端に腰掛け、恋する若者の憂わしげな横顔をした、親友の隣に腰掛ける。


「そうか。なるほどな……先ほど話したことがギネビアの本心であったとすれば、おまえにとっては恋のチャンス到来というわけだ。ランスロットはただの幼なじみ、友達、血よりも濃い絆の騎士仲間――というのがギネビアの本心であり、彼が他の女性と結婚しても本当に構わないと思っている……それであればハムレット、ギネビアはおまえの王妃としておまえから宝石の冠を戴き、玉座の右隣に座るに相応しい女性ということになるぞ」


「それこそ、捕らぬタヌキの皮算用というやつかもしれない」と、ハムレットは自嘲的に笑う。「オレはまだ王冠も手にしていない、ただの若造にすぎん。血筋のほうだって、普通に考えたとすればローゼンクランツ公爵とギルデンスターン侯爵がそう主張しているに過ぎない、どこの馬の骨かもわからぬ人間だ。だが、旅の最初の頃はいずれ自分がこの国の王になる実感などなかったというのに――今はもう、これは自分のためなんかじゃないんだ。この国、ペンドラゴン王朝のためにも、ここに住む国民全員のためにも……重税のくびきからの解放というのは間違いなく大切なことだ。放っておいてもいずれ地方のあちこちで一揆が起き、何かが崩壊していく臨界点というのがいずれ訪れることだろう。そうなれば今から約四年前に<東王朝>が戦争を仕掛けてきたように、内憂外患、追い詰められたペンドラゴン王朝はその名を歴史から消すことになるに違いない」


「わかっている。そしておまえが王になってのち、王妃として誰を迎えるかということも、政治的に重要なことだ。それは俺が考えるには……ランスロットがエレイン姫を愛してもいないのに結婚するようなものであってはならないと思っている。いや、エレイン姫は美しい人だし、もしハムレットが彼女に一目惚れしたという理由によって是非とも王妃にしたいというのであれば、それもいい。だが、おまえとギネビアの間には――もうすでに断ち難い強い絆がある。さらに言えば俺にしてもカドールにしても、ギネビアに対してであればなんの遠慮もなしに政治的なことその他、なんでも話しあえるだろう?ハムレット、俺はおまえとギネビアの恋を心から応援したいが、今暫くはこの件について黙っておいたほうが賢明なのだろうな」


「もちろんだ」と、ハムレットは弱々しく微笑った。「それに、まだ王権も取ってすらいない男から愛を告白されても、ギネビアだって迷惑なだけだろうからな……何より、今はオレたちにとって一番大切な時だ。ロットバルト伯爵は必ず我々の味方になってくれるとカドールもランスロットも信じきっている様子なのだが、何分オレもおまえも伯爵とは一面識もないので、そこまでのことは確信できない。さらに、ロットバルト伯爵の協力が得られたとして――次の難事業はバリン州のバロン城砦攻略か。この戦争に勝利し、バロン城砦を占拠する。ある意味、それが内苑州を統治できるかどうかのはじまりということになるわけだしな」


「あるいは、終わりのはじまりか……ということかも知れないがな」と、タイス。「もっともそれは、俺たちの側の話じゃない。クローディアス王統治の終わりのはじまりという意味だ。バロン城砦を攻略・占拠してのち、ここを拠点に王都テセウスまで攻め上る。バロン城砦は難攻不落の城砦と言われているが、逆にここを落とすことさえ出来れば……内苑州の他の州を順に攻略していくというのはそう難しいことではない――ということらしいぞ。カドールとランスロットの話によればな」


「それもまた、オレたちは」と、ハムレットの顔に今度は不敵な笑みが浮かぶ。「実際にはその土地のどこも、今はまだ見たことさえないのだからな。もし星の導きということがなかったとすれば……オレは単に自分が先王エリオディアスの息子だと聞かされ、その仇を討つべきだと言われただけだったとすれば、おそらくとっくの昔に勇気が挫けていただろうよ。それに、その星の女神たちの託宣にしても、タイス、それを一緒に見たおまえやそのことを信じたディオルグやキャシアス、ホレイショといった仲間がいればこそ、今も決してあれは夢などでなかったと思えるのであって――自分の夢の中でだけ、そのようにお告げがあったといった程度のことでは、今ごろは『あんなもの、ただの夢に過ぎなかったのではないか』としか思えなくなっていたことだろう。さらには、メルガレス城砦においても、最初はどうやって近づけばいいかさえわからなかった聖女ウルスラが味方についてくださった。無論、これからだって困難は色々あるだろうが、それが他でもない神の御旨だと信じられるというのは何より大きい。そしてオレにとっては……ギネビアの存在も大きいんだ。彼女が騎士というものに対し高い理想を持っているように、オレは同じようにギネビアの理想に適うような立派な王にならなくてはと、そんな気がするからな」


「なるほど。まさかハムレット、おまえにそんな隠されたモチベーションがあるとは、今の今まで俺は考えてみたこともなかったよ」


(そろそろ休め)というように、タイスはぽん、とハムレットの肩を叩く。


「俺は外の廊下や、時々船の甲板へ出たりして見張りに立つことにする。ギネビアのこと、話してくれて良かった。俺のほうでも彼女におかしな虫がつかぬようこれからは目を光らせることが出来るし、ローゼンクランツ公爵の娘だというだけでも命に代えても守らねばならぬ存在ではあるが、将来の王妃殿下ということになれば……それは尚更のことだからな」


「ああ。ギネビアは女扱いされることをよしとせず、ランスロットと騎士として肩を並べようとばかり、すぐ無茶をしたがるからな……だがオレは、戦争ということになったら彼女に一部隊を任せようといったようにはまるで思えない。それはおそらくランスロットも同じだろうから……いや、オレもよくないな。こんなふうに都合のいい時だけランスロットのことを利用しようと考えるだなんて」


「そもそも俺にしてもそうだが、部下の務めというのはそうしたものなのだから気にするな……そのことはランスロットにもわかっているはずだ」


(そうだろうか。ランスロットはギネビアのことを愛している……だからこそ、エレイン姫ほどの美女にも心を動かすことはなかったのだ。だが、このオレはどうだ?ランスロットのように危難が降りかかった時、果たして剣や槍の力で彼女のことを救いだすことが出来るだろうか?いや、今のオレの力ではまだ無理だ。ただ口で愛しているということは出来ても、行動のほうには男としての力強さがまるで伴ってなどいないのだからな……)


 ハムレットがずっと以前から常々そのように悩んできた――ということも、タイスはまったく知らなかった。そしてこの時も、彼はそのような幼なじみの悩みについてまるで気づかず、ハムレットが横になるのを見届けてのち、そっと船室から出ていった。


(それにしても、女というのは大したものだな……男のようななりで男のように振るまっていてさえ、ただ女であるというそれだけで、こうも男どもの心をかき乱せるのだからな)


 タイスはギネビアが眠っている、隣の船室にちらと目をやって思った。彼はそのまま、八角形の角燈を持ち、階段を上がり、甲板のほうへと向かう。


 水門塔の縦長の窓からは燭台からの灯りが洩れ、衛兵室からはがやがや笑い騒ぐような人声がした。なんでもカドールの話によれば、ギロン男爵もその息子のリオンも、人の好さそうな顔をして、実は結構な<やり手>なのだという話だった。


『ここに来るまでの間も水門塔というやつはいくつも立っていたし、その傍らには必ず立派な城が建っていた。アントニオが正式なロットバルト伯爵からの通行許可証を持っているから、当然どこからも一ドーリアたりせしめられることはなかったとはいえ……実際には、こんなに大きな屋形船が五艘も通るとなったら驚くほどの通行税を取られるものだそうだぞ』


『つまり?』


『ただ、船が一艘通るというだけでだぜ……何もしてなくても濡れ手に粟とばかり税収が入ってくるということさ。まあ、近ごろじゃそちらにも重い税が課せられるというわけで、昔ほどには旨みがないのかもしれんが、それでもだ。地方の森林監督官よりはイルムル川流域に城を持つ城主たちの羽振りがいいのは、そうした理由もあるということらしいんだ』


『だが、通行税として一体いくら取るのか知らんが、そんなことを言ったら誰も――ある程度金を持っているだろうロドリアーナの貴族たちですら、おちおち川遊びも出来んということになるのではないか?』


『そこはそれ、さ』と、カドールは訳知り顔に肩を竦めていたものである。『貴族たちは川沿いの誰それと親戚同士だったり、互いに何かのことで便宜を図りあうことで……そのあたりのことを適度に見逃しあってるんじゃないか?だがそのかわり、村の貧乏人がここらの川で鱒一匹釣ることはないというのは、そんなことがわかったが最後、裁判にかけられて縛り首にされる可能性があるからさ』


『…………………』


(カドールとランスロットの話では、『ロットバルト伯爵は犬好きのそれは感じのいい方さ』ということだったが、本当にそうなのだろうか?川沿いの貴族たちが暴利を貪るのを許し、森林地方においては村人が領地の草花一本採ることさえも許さない……そんなことを許し、自分は豊かな生活を変わらず送っているような領主が?確かに、王都からかかる重税ということはあるだろう。だがそれにしても、だ。メレアガンス州の宮廷でも思ったことだが、それでも貴族たちは結構ないい暮らしをしているではないか。こんな不平等が許されていいのだろうか?メルガレスの最貧層などは食べるものがなく、一時的にせよ飢えから逃れるため、麻薬にまで手を出しているというのに?)


 タイスは夜空の雲間から覗く月を見上げ、我知らず溜息を着いた。なんにしても、ロドリゴ=ロットバルト伯爵には味方になってもらわねばならない。そしてそのためには、メレアガンス伯爵に対してもそうだったように、多少の貴族としての尊大さや庶民との価値観の相違といったことには目を瞑らなくてはならないということなのだろう。


(それに結局のところ俺たちだって、絶対にそんなふうにはならないなどと言い切ることは出来ぬのではないか?俺はどんなに貧しい農民のひとりに至るまで、ある程度の平等が保証されるべきと考えているが……だが、カドールは考え方が多少違うらしい。ここまで重い税が国民に課されているのが問題なのであって、健全な範囲の税率を保つことさえ出来れば自然飢える人間も減るだろうなどと言うが、俺には甘い考えとしか思えん。あいつはやはり育ちの良い人間だから、貴族の既得権益こそある程度守られるべきであって、その他の農民などの一般大衆はその次といった価値観なんだろうな……)


 メルガレス城砦においては、聖女ウルスラが税制改革を行なうと約束していた。まず、その手初めとして、ウルスラ神殿に納められる日々の奉納物の中から貧しい人々に分け与えるべき食物や物品が下賜されることになるという。そのための法律を取り決め、法案が議会を通過するためには、大法官であるセシル・ヴォーモンの力がものを言うことになるだろうとのもっぱらの評判であった。さらには、<世俗的神官>と揶揄される神官たちは軒並み首となり、すでに何人もが逮捕され、神殿から追放される形で今は牢獄へ入っているという。


(断固たる改革には血が伴う……見ようによっては小柄で地味ですらあり、どこにでもいるようさえ思えるあの聖女ウルスラと呼ばれる娘のどこに、あれほどのカリスマ性と力が潜んでいたのだろうか。だが、いまや彼女は民衆の非常なる人気の的、それは領主であるメレアガンス伯爵のそれすらも遥かに凌ぐものになっているくらいだからな……)


 タイスはこの時、いずれハムレットも聖女ウルスラのように、王都テセウスにおいて民衆に歓呼の声を持って迎えられるところを想像した。そして(それが星神の御旨であるならば、そのように事は成るはずだ……)と、彼が星空を見上げ、考えていた時のことである。


「……ギベルネ先生」


 桟橋のずっと向こうから、カンテラの揺らめく光が現れたかと思うと、その茶色のローブ姿の人物は船に渡り橋をかけ、革のサンダルで上がって来ようとした。


「なんとなく、心配になったものでね。ハムレット王子とギネビアは一緒ですか?」


「ええ。ふたりとも寝ているはずです……もちろん、それぞれ別の部屋でね」


(そうだ。何よりも我々には<神の人>である彼がいる!一体なんの心配をする必要があるものか……)


 ちゃぷちゃぷという波を飛び越え、ギベルネスが甲板のほうへ到着すると、タイスは思わず笑った。彼がその時危うく、下の揺らめく波のほうへ墜落しそうになっていたからだ。


「大丈夫ですか、先生?」


「ええ。ちょっとばかりバランスを崩しましたがね……タイス、あなたも休んだほうがいいのではありませんか?私が想像するに、ギネビアは叩き起こせば起きるといった状態のような気がしますし、あなた自身は全然休んでもいないのでしょう?」


「ええ、まあ……」


「じゃあ、少しくらい眠ったほうがいいですよ。私は今日、暇な時に昼寝などしていたのでね、アストラット城で朝食がはじまる前くらいには戻れる時間に起こしてあげましょう」


 この時もタイスは(この人のこういうところは不思議だな)と、あらためてそう感じた。彼自身をしてさえ遠慮することなく、(じゃあそうさせてもらおう)と甘えられるという意味において。


「ギベルネ先生。あなたがいてくださって、本当に良かった」


「え?今、何か言いましたか、タイス」


 近くの水門塔からその時、タイスの言葉に覆い被さるようにしてわっと喚声がしたため、ギベルネスには彼の言葉がはっきり聞こえなかった。どうやら誰かがトランプゲームでいかさましていたことがバレたらしい。


「いいえ、なんでも。お言葉に甘えさせていただきます、と言ったんです」


「ええ。それじゃ、おやすみなさい」


 タイスとカドールはふたりとも、仲間内において『大した策謀家だ』といったように見なされていたが、それでもこのふたりには神への信頼度という点において違いがあったのは間違いない。たとえば、先ほどもしギベルネスの長い足があのまま索具にでも蹴躓き、甲板から落下していたとしよう。カドールのほうでは(いくら暗いとはいえ、<神の人>だというのにそんなものも見えなかったのだろうか。というより神は、自分を遣わした人間が水に落ちぬようにさせることが出来なかったのだろうか)といった思考法だったことだろう。一方タイスのほうは、そんな細かいことは意に介さなかった。彼が湿原の沼ででも鰐に襲われ、命は助かったが片腕は失った――というような悲劇的事態でも起きぬ限り、(いくら<神の人>でも水に落ちることくらいはあろう)と思うという、ただそれだけである。


 だが、このふたりのうちどちらも、ある理由によりギベルネスが彼らの戦列を離れるという段には、神に見放されたように感じ、絶望にも近いような失望の思いを味わう、という意味においてまったく変わりなかったのであるが……。




 >>続く。






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