表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/30

第1章

「おいっ!しっかりしろ……大丈夫かっ!?」


 ウルリカは最悪の気分で目覚めると、グプッと胸の奥とも腹の底からとも言えぬ場所から何かがこみ上げてくるのを感じた。次の瞬間、彼女は痙攣に襲われ、自分の力では制御出来ぬ波が体から去った時……彼女は「ぐえっ!!」と横ざまに水を吐いていた。


「よし、水は吐いたな。おそらくは、これで大丈夫だ」


(一体何が大丈夫なもんかいっ!!)


 そう自分を助けたと思しき男に悪態をついてやりたかったが、今のウルリカにはそんな気力もない。また、これは彼女があとになってから気づくことであったが、実際にはこのあと、ふたりの言葉は何ひとつとしてまったく通じなかった。にも関わらず、この時ウルリカはこの男が『これで大丈夫だ、良かった』といった意味のことを自分に言ったのだろうと直感していたのである。


 海で溺れて意識を取り戻したウルリカだったが、この時再びすぐに気を失った。だが、浜辺の砂の熱さ、磯の香り、ウミネコの鳴く声……何かそうしたものだけは不思議とその後も記憶に残った。おそらく自分の故郷の大陸側の海岸と、エレゼ海を渡ったこちら側でも――似たりよったりの光景が広がっているだけだとはっきりわかった、そのせいだったに違いない。


「……ここは、天国なのかい?」


 そのはずはない、そうとわかっていて、あえてウルリカはそう聞いた。彼女のことを助けた男は、浅黒い顔に精悍な体つきをしているせいで、若く見えたものの、その顔に走る細かい皺から見てとるに、実際にはそれ以上年がいっていたに違いない。


「今、一体なんて?」


 板張りの、傷んで隙間風の入ってくる小さな家屋で、ウルリカは寝かされていた。男は魚網を繕っているところだったが、ウルリカが目を覚ますと土間から立ち上がり、彼女の元までやって来て屈み込んだ。


「天国なのかって、聞いたのさ」


 男は、ウルリカの言った言葉の意味がわからなかったらしく、しきりと首を傾げてばかりいる。


「もしかしてあんた、東王朝の人か?」


 この瞬間、ウルリカはまるで、電撃に打たれでもしたようにハッとした。男の言った言葉の意味がわかったからではない。むしろその逆だった。彼女の住んでいる場所では、<北王国>と<南王国>という場所が互いに覇権を巡りしのぎを削っているが、ウルリカは元は<南王国>の出身なのだ。正確には、<南王国>の一地方の領主の娘だった。ところが、彼女の父親は親戚の裏切りにあい、伯爵の座を追われることになった。ウルリカは何不自由なく蝶よ花よと育てられたにも関わらず、突然なんの地位も金も持たぬ娘となり、最後には戦争慰安婦にまでその身を落としていたのである。その上、<南王国>が<北王国>に戦争で負けた時、彼女は<北王国>に捨てられる形となり――奴隷としてさんざん嬲り者にされるのに耐えられず、(これだけの高さがあれば、きっと死ねる……)そう思った岬の突端から投身自殺を図ったのだ。


「クックックッ………」


 ウルリカが目の端に涙を滲ませつつ笑いはじめると、男は不安そうな様子を見せた。伯爵の娘から敵国の奴隷の身分にまで身を落とした彼女ではあったが、元は非常に高い教育を受けていたから、すぐにそれと悟ったのだ。確かに、噂では聞いたことがある。<北王国>の端にはエルゼ海という海があって、さらにその向こうには別の国があるらしい、といったようなことは。


(そうか!ということは、わたしは結局死ねなかったのだ。なんという不幸なことだろう……運命の神は、どうやらわたしという人間をまだ嬲り足りないらしい!!)


 男のほうでも、海で助けた女とはどうやら言葉が通じないらしいと悟ったのだろうか。彼は彼女と会話を通しての意思疎通を諦めたらしく、代わりに魚介類の入ったスープをウルリカに渡し、それを食べるよう仕種で勧めた。


「ありがとう(ディオクレージュ)」


 ウルリカが有難がるように一礼してから深皿を手にしたからだろうか、彼女がこちらの言葉における「ありがとう」といった種類のことを口にしたことが、男にもわかったらしい。


「ディ・オ・クレージュ……」


 その不思議な言葉の響きを楽しむように、男はウルリカの言った言葉を繰り返した。それから、「ミリーシャス」という言葉を何度も繰り返す。


「ミリーシャス?もしかして、それがあんたの名前なのかい?」


 彼女の言った言葉の意味は男にわからなかったはずである。だが彼は、しきりと首を振ってのち、「ディオクレージュはミリーシャス」といったように繰り返したわけである。


「ああ、そうか。こっちの国ではありがとうってのは、ミリーシャスってのかい……」


 魚介類のスープは、出汁が利いていてとても美味しかった。住んでいるところから察するに、<北王国>の北端にある貧しい漁村とここも似たり寄ったりの場所なのではないかとウルリカは思った。漁へ出て、そこから出る僅かばかりの売上でどうにかこうにか暮らしていくしかないといったような……。


 彼女のことを助けた男は親切だった。次の日には、一体どこにそんな金を隠し持っていたのか、髪の毛を梳かすための木製の櫛や、白木綿の清潔な下着や大青で染めた安っぽいスモックのような服や……何かそうしたものをウルリカに渡してくれた。


「有難いけどね、こんなものもらっても、あたしにはあんたに返せるアテなんかないよ」


「ああ、べつに」と、男のほうでもまた、自分の言葉が通じないとわかっていて、それでも話さずにいられないのだった。「こんなのは全部、オレが自分で好きでやってることさ。あんたが気にする必要はない」


「…………………」


 こうして、ウルリカと漁師の男――名前をウィロウといった――の、奇妙な共同生活がはじまった。この惑星に冬というものはないが、それでも一年のうち、12~2月の四か月間は、比較的涼しく、場合によっては「寒い」とさえ言えるくらい、昼間の温度が下がることもある。ウルリカが世を儚み、投身自殺をはかったのが11月のことだったから、漁村でも農村においても収穫時期といったものがちょうど過ぎ、この期間というのは労働者たちの手が比較的梳く時でもあった。


 ウィロウはふたり分の食事の何がしかを採ってきては、ウルリカの手を煩わせるでもなく自分で調理して彼女に美味しいものを食べさせてくれた。また、近くの林から村長の許可を得て木材を切り出してくると、それで掘っ立て小屋に等しい家屋のあちこちを補強して住み良いようにもしてくれた。


 こうしたことすべてにおいて、ウルリカは驚くばかりだったと言える。というのも、言葉が通じないので理由のほうはわからないのだが、ウィロウには片腕がなかった。それでも彼には運命の神を呪っているような素振りはまったく見受けられず、毎日楽しそうに日々を生きていた。両手でやれば楽だろうことを片腕だけでこなすのは大変なのは間違いない。また、人目だってまったく気にならないというのは嘘だろう。いや、ある程度年齢を重ねた今であればいざ知らず、少なくとも若い頃はそうであったのでないかと、ウルリカにはそのように思われた。


 ウィロウは大抵のことは片腕だけで器用にこなしたが、ウルリカは彼の大工仕事や手仕事などを、それと察してただ黙々と手伝った。そういう時、ウィロウはよく口笛を吹いた。それはなんとも快い響きの口笛で、まるで犬が尻尾でも振るように、彼は自分の喜びを口笛を吹くことで表していたのだった。


 やがて、一年が過ぎた頃、ふたりの間には男の赤ん坊が生まれた。その頃には、ウィロウとウルリカは完全というのには程遠いものの、言語による意思疎通もある程度取れるようになり、幸せに暮らしていた。他人がよそから遠目に見た場合、彼らの暮らしというは極めて貧乏で、少しも幸せそうに見えなかったことだろう。だが、彼と彼女とは、自分たちの不幸な身の上に奇跡が起こったとしか思われず、ウルリカは南王国で主神として崇められる運命の神ヤヌスを呪うのをやめ、ウィロウは海神リヴァイアサンの祠に何度となくこっそり感謝の品を捧げていたくらいである。


 ふたりは、間違いなく心から深く愛しあっていた。ふたりとも三十も半ばを過ぎ、この惑星の人間としては「いい年をした、盛りをすぎた中年」といったくらいの年齢ではあったろう。さらに、男のほうは容貌もさして良いとはいえず、女のほうはかつて美しかったのが、娼婦として何十人もの男を相手にしてきたせいで、年齢以上に老衰して見え……ウルリカにとって男というのはただの軽蔑の対象でしかなかったし(だが、生きていくためにはこの軽蔑の対象に媚を売り、さらには何度となく肉体を征服されねばならなかった)、ウィロウのほうでは女性とのつきあいどころか、結婚して子供に恵まれるということ自体、諦めて久しかったからである。


 ウルリカにしてもよくこう思ったものだ。(何故この男との生活があんなにもしっくりうまくいったのだろう。そもそも、言葉さえろくに通じもしなかったというのに)と……だが、あとにしてみると、(いや、むしろ言葉が通じなかったからこそ良かったのかもしれない)とも思った。(もし言葉が通じていたとしたら、自分の身の上についてあれこれ説明したりだなんだ、流石のあの人でもわたしに対して軽蔑を禁じえなかったろうからね……)


 ウィロウは、彼女が伯爵家の城を追い出されて以来、一度として受けたことのない扱い――ひとりの人間、女性として敬い、優しく丁寧に接するということ――をしてくれた、初めての人間だった。そのせいで、ウルリカは海を渡ったこちらの世界では、男が仕事と家事の両方をするのが当たり前なのだろうかと思ったほどだったが、もちろんそんなことはない。ウルリカは同じ漁村や近くの農村の暮らしを見て、女たちの生活というのはこちらでも似たり寄ったりなのだと思った。朝から晩まで男と同じように働いているというのに、野良仕事のあとには、やはり女が夕餉の仕度をし、その後繕い物の仕事をしたり、子供がいれば乳をやったりして……男が土間にゴロリと横になる間も、女は何かの手仕事をしているのが普通なのだ。


 その点、ウィロウは全然違った。ウルリカという存在を海の神の贈り物でもあるかの如く有難がって大切にしたのだ。そのことには、おそらく彼の左腕がないこととも関係があったろう。少なくとも、ウルリカはそう思った。彼女は人生で数々の苦労を経験してきたそのせいで、人を見る目があると自惚れていた。そのウルリカの価値基準に照らし合わせていえば、ウィロウは間違いなく「真心のあるいい男」である。だが、ろくに女性とつきあいもせずずっと独身できたのは、片腕のない自分と結婚して苦労させたのでは申し訳ない……そのような意識が強く働いてのことだったのではあるまいか。


 自分が堕胎せず、いつか本当に心からそうと望んで子供を生むことなど、ついぞ想像してみたことのなかったウルリカだが、ふたりが出会って約一年後、元気な男の赤ん坊が誕生した。ウィロウはこの子供のために、畑の手伝いや漁の仕事を増やし、今まで以上に一生懸命働いた。だが、そのことが結果として夫の寿命を縮めることになったのではないかと、ウルリカは彼が死んだ時、大声で泣き叫んで切ながったものである。


 とはいえ、ウィロウはウィルフレッドと名づけた息子が十四歳になるまで生き延びたのであり――息子の成長をある程度見届けられたという意味では、幸福だったと言えたに違いない。もっとも、普段はウィリーと愛称で呼ばれるこの子供は(ウィルフレッドというのはウルリカの父の名なのである)、幼い頃から父と母双方の悩みの種となりつつはあったのである。


 まず、ある程度大きくなると(ウルリカの記憶では九歳とかそのくらい)、父親のことを馬鹿にしだした。「いつでも真っ黒で、人にアゴで使われる以外能がない」、「こんな片腕の父親なんか持って、オレは恥かしいよ」など、この息子がそんなふうに悪態をつくたび、ウルリカは怒鳴りつけ、一体何度この可愛げのない息子を殴り飛ばしたことだろう。


「母親のあたしじゃなく、あんたが一度ガツンと言ってやらなきゃあ!!」と、そのたびにウルリカは夫に言うのだったが、ウィロウのほうでは「う、うむ。そうだな」と頷くだけで、息子に対し何か強く言ったことは一度としてない。


 遅くなってから出来た子供は可愛い……とはよく言うが、ウルリカの見る限り、夫のウィロウはほとんど盲目的といってもいいほど、息子の幼い頃から甘かった。もっとも、それが長じて親に平気で生意気な口を利く子に成長した原因だった――とはウルリカは思わない。彼女は父親のウィロウが甘いため、その分を補うようにウィリーに対してしつけの面においては厳しくしてきたつもりである。だが、そのような母親に対しても、十を過ぎる頃には「海草みたいな髪したババアが何言ってやがるっ!!」、「もうてめえのことなんかちっとも怖かねえ」、「ろくにうまく言葉もしゃべれねえ頭の悪い女のくせして」……などと、父親のいないところで罵るようになってきた。


 一応、こうした原因について、ウィロウにもウルリカにも心当たりがあった。というのも、漁村の子供たちが何人か集まって<王さまと家来ごっこ>をしていたことがあるのだが、数人でジャンケンをして勝ったのはウィリーだったのに、彼は王様にはなれなかった。「だって、おかしいだろ?こいつの家、この村に住む誰よりも貧乏なのにさ」と、そうからかわれても、家で親に怒鳴る時のような勇気はウィリーにはないようだった。結果、自分の息子が王さま役の子の下僕としてなんでも言うことを聞く姿を見て――ウルリカにしても(そういうことか……)と、初めて理解したのだった。


 その後、家に帰ってきた息子に「内弁慶の、情けない子だね」とは、ウルリカにも言えなかった。けれど、母親に自分がガキ大将の家来をしているところを見られて以来……ウィリーのほうでも、暫くの間は両親に対し悪態をつくことはなくなった。だが、貧乏であることは、ウィロウにもウルリカにも、どうしてやることも出来ないことだった。しかも、親の育て方というよりはおそらく、生来持って生まれた性格の気質として――ウィルフレッドはプライドが高く、我が儘で、間違いなく自分のことしか考えない性向にあったのである。


(これは間違いなく、ウィロウの両親や先祖の気質でなく、我が伯爵家に代々伝わる気質だ……)と、息子が十二になる頃にはウルリカはほとんど確信していたほどである。かといって、そのことを夫に説明できるわけもなく、ウルリカはただそのことを彼に対し心から申し訳なく感じるというそれだけだった。


 ウィロウが過労によって体を壊し、寝込むようになった時、ウィリーは父親に代わり漁の仕事をしたり、畑の小作人の手伝いをして家計を支えてくれたが、父親が臨終のその時、「これからはオレにかわって母さんのことを頼むぞ」と言い残したにも関わらず――この息子は葬式が終わったその日のうちに家から飛び出していったのである。


「ずっとこんなあばら小屋、出ていきたくて仕方なかったんだ!必要最低限の親孝行ってもんはこれでもしたつもりだぜ!!俺はこれから軍隊に入って稼ぐ。じゃあな、ババア。これから先どこかで会っても、母親面なんかするんじゃねえぞ!!」


 最愛の夫を亡くしたばかりだというのに、必死で育てた息子からはそんな言葉を浴びせられ……並の神経の女性であれば(この世に自分ほど不幸な女はいない)とでも思い、よよと泣き崩れていたことだろう。だが、ウルリカは並の神経の女であれば、軽く二十度か三十度は自殺するか自殺未遂を起こしているだろうところを生き延び、今は五十に手が届こうかという年齢だった。


 ウルリカはウィロウを亡くしたことは心から悲しいと感じ、幾日となく涙に暮れて暮らしもしたが、このような(貧乏ではあっても)素晴らしい立派な夫を持てたこと自体は、彼女にとって大きな喜びだった。ウルリカにとって、彼のような人間を知っているのと知っていないのとでは、人生において雲泥の差となることだったし、どのみち自分の老い先も短かろうことを思えば……息子に捨てられたということ自体は、彼女は普通の母親ほど傷つきはしなかったのである。


 ただもちろん、心配ではあった。(軍隊だって?それで一体、これからどうやって暮らしていこうってんだい)と、ウルリカが息子に聞かなかったのには理由がある。最愛の夫を亡くし、息子と喧嘩する気力もなかったのが第一、他に、止めたところで聞く耳を持たないだろうとわかりきっていたのが第二といったところである。


 ウルリカは戦争慰安婦をしていたこともあったから、戦争の恐ろしさというものについては、身を持ってよく知っていたといっていい。軍隊、というとよく『男だけの世界』、『女性の立ち入れない世界』と思われているが、<北王国>や<南王国>の戦争においては、爵位を持つ夫のことを夫人が助け、野営地の兵士たちに食事を振るまうといったことは普通に行われていることだった。また、軍人の中でも特に高い地位に就いている夫を、夫人が助けてそのように行うこともある。確かに、女性は戦力としては主力とはなりえない。だが、もしひと度自分の住む領地が敵陣に渡れば、どれほどの情容赦のない略奪行為により蹂躙されることになるか……そのことをわかっている人々は、男も女もなく、戦いに勝利するためにはなんでもするのだ。


 ウルリカにしても、ひとりの子を持つ母親として、同じ母の胎から生まれた誰かの息子を、ウィリーが殺すかもしれないと思っただけで堪らないことだった。けれど、ウルリカは戦場におけるあまりに酷い殺戮行為や拷問行為、強姦行為といったものをよく知っているだけに……感覚として、麻痺しているところがあったのだろう。一方で、(自分の息子はもしかしたら軍人向きかもしれない)と思うところもあったのである。彼女は、あのまま息子が自分と一緒にボロ屋に暮らし、母親の最後を看取って欲しかったとは思っていない。ただ、自分の好きなように自由に生きていって欲しかった。そして、貧乏から脱却し、それなりの社会的地位の得られる方法がそれしかないなら……軍人になるというのもやむを得ぬ選択ではないかと考え、自分を納得させようとしていたのである。


(きっと、ウィロウが亡くなったことと、あの子が軍人になろうということは関係なんかないんだ……父親が生きていたって、大体のところ似たような捨てゼリフを親に吐いて、あの子はこの家から出ていったろうよ。もっとも、あの子がよく口にしていたとおり、家とも呼べないボロ屋だけどね、そもそも……)


 息子のウィリーは、軍人になるための多少のツテを持っていたのだろうと信じ、ウルリカはその日以降、漁村や農村で色々な手伝い仕事をしては、その日暮らしをするといった生活をその後も続けた。ウィロウは人から好かれる人間だったし、その彼が自慢にし、心から愛してもいた女だという意味で、元はよそ者のウルリカもまた、人々から好意を受けることが出来ていたのである。


 けれどウルリカが毎日、海のさざ波の中にウィロウの声を聴き、ブツブツ夫と会話するような日々を続けていた、その一年後のことだった。<東王国>が歴史上一体何十回目になるのかわからない、バリン州バロン城砦に攻囲戦を仕掛けた時のことだった。この頃、バリン州の領主はまだサミュエル・ボウルズ卿であり、彼はこれが自分にとっての最後の戦争になるとも知らず、<東王国>の第一王子、リッカルロ・リア=リヴェリオンを待ち設けることになったわけである。


 この時、ロットバルト伯爵領にもメレアガンス伯爵領にも戦争への召集がかかり、まだ訓練も十分でないにわか兵士の雑兵にすぎぬウィルフレッドも、この戦争に参加した。攻囲戦のほうは約半年間続いたが、結局のところどちらが勝ったとも言えない、不毛な戦いだった。だが、攻囲戦に慣れたボウルズ卿も、聖ウルスラ騎士団の騎士として、当時まだ引退していなかったラウール・フォン・モントーヴァン卿も、ロットバルト騎士団の騎士団長であるヴィヴィアン・ロイスも、いずれは次の王となるであろうこの第一王子に非常な脅威を感じた……というのは事実である。


 というのも、彼はまだ二十一歳と若く、のちに得た情報によれば、この戦争はいわば王であるリッカルド・リア=リヴェリオンが、息子のリッカルロが本当に王位を継ぐのに相応しい器かどうかを試すため、「<西王朝>との戦争に勝利せよ」と無理難題をけしかけたことに起因するということだったからである。リッカルロはリッカルド王の先妻との間に出来た子供であり、息子の容貌が醜いのを見ると、彼の母親をほとんど自殺に追い込むような形で殺し、次に侯爵の娘と再婚すると、この若く健康な娘との間に双子の第二王子と第三王子をもうけたという。


 リア王朝の当時の政治状況をかいつまんで簡単に説明するとしたらば、以上のような事情から、王家に次ぐ広い領地を持つオールバニー公爵とリア王は仲が悪かった。何故といえば、リア王はオールバニー公爵の長女ゴネリルと結婚し、第一王子リッカルロをもうけたのだが、この元は気の強い長女をいびってノイローゼにし、ほとんど自殺に近い形で死に追い込んだのが王自身だったからである。また、このリッカルロにしても本来であれば、秘密裏に亡き者にされるところだったのを――ディオルグが首を括って死なんとするゴネリルより託され、まだ四歳になるかならずかの彼を連れ、王の別荘の城から逃げたという事情がある。


 その後、ディオルグは怪我を負いながらもリッカルロのことを公爵領までお連れし、ゴネリルとの約束を無事果たした。オールバニー公爵はこの時、血の復讐を誓ったという。すなわち、大切な娘の忘れ形見であるリッカルロをいつの日にか必ず王位に就けるということを、である。その後、リア王がオールバニーの政敵であるマクヴェス侯爵の娘と再婚し、世継ぎの王子をもうけると……いつか彼のこともダンシネインの丘で殺し、世継ぎの双子王子のことも必ず亡き者にすることを娘の墓前において重ねて誓ったオールバニー公爵だったのである。


 ディオルグはもともとはリア王の忠臣であったから、このあたりのもつれた政治的ややこしさに巻き込まれたくなかったのが、彼が国を捨て、ヴィンゲン寺院へ身を寄せることになった理由だろう。オールバニーは彼にこそ、今後ともリッカルロの身を護って欲しいと願っていたが、ディオルグはオールバニー公爵に内乱の意志があるのを見てとると、出家して僧になることを彼の前で誓っていたわけである。


 こうしてオールバニー公爵はリッカルロ第一王子の後見人ということになった。公爵はリッカルロの教育に、自分のすべてを注ぎ込んだと言われている。すなわち、マクヴェス侯爵の娘とリア王の間に生まれた双子の息子よりも、リッカルロにはあらゆる点で王の世継ぎとして優れていてもらわねば困るのだ。何より、リッカルロは生まれつき口が裂けていて醜かった。ゆえに、容貌の悪さのことを誰もが口に出来ぬほどの叡智を身に着けているだけでなく、武勇に優れ、人格的にも最高の徳を備えていることが期待された。オールバニーの孫に対する教育は、彼が十分すぎるほど満足できる結果を彼自身にもたらした。リッカルロは公爵が彼に着けたどの教師も舌を巻くほどの英邁な頭脳を有しており、「王子さまは一教えただけで十も百ものことを覚えられるのでございます」と、世辞ではない言葉を何度も繰り返したものである。武勇、という点に関しては、オールバニーは特に力を入れた。というのも、リア王がいずれ邪魔な第一王子を亡き者とするため、暗殺者を送り込んでくるものと想定していたため、リッカルロには自分で自分の身を守れる術をなるべく早く身に着けてもらわねばならなかった。また、この点に関してもリッカルロはオールバニー公爵が目を瞠るほどの成果を彼に見せつけていたといっていいだろう。リッカルロは生まれついての武人であるかの如く、日々黙々と鍛錬するのを好み、槍術、剣術、弓術、馬術、体術……どれにおいても、同年代の貴族の師弟の中で彼に敵う者はひとりもないくらいであった。かといって、性格のほうも荒くれ者ということもなく、学校でも親しい級友が何人もおり、オールバニーはこの可愛い孫が十を過ぎる頃にはすっかり安心するようにさえなっていた。


(リア王も愚かなことをしたものよ。あのまま、ただわしの孫のリッカルロを大切にしておれば、王位継承争いなど経験せず、黙っておっても賢い世継ぎを得ることが出来たものを……)


 そうなのである。オールバニー公爵は、長女ゴネリルの無念を晴らすためにも、彼にとっての可愛い孫であるリッカルロのことを必ず王位に就けるという心積もりでいた。だが、公爵はリッカルロが十八歳となり、無事成人するところまでは見届けられたものの――リッカルロが彼と娘ゴネリルの悲願であったところの王位に就くところまでは見届けられずして病没した。享年六十二歳。


 そしてこの時、あるひとつの問題が浮上した。リア王国内にて、王の直轄地に継ぐ広い領地を持つオールバニー公爵の広大な土地を一体誰が継承するのか、という問題である。公爵は無論、孫のリッカルロにと遺言を残して死んだのであるが、リア王がもしこのことを気に入らなかったとすれば、究極、第二王子のエドガーか第三王子のエドマンドに公爵領を治めるよう命じることも……まったく不可能ではなかった。だが、流石にリア王もそこまでのことはしなかったのである。ただその代わり、「公爵らしく戦い、その初陣を勝利で飾ってみせよ」と、のちに第一王子に自ら命じることはしたのだったが。


 武勇に優れると評判のリッカルロではあったが、戦争の指揮を取るのはこれが初めてであった。無論、戦術についての理論的なことであれば、優れた先達である騎士団長や元帥などに教えてもらっていたし、いずれ今のような立場に追い込まれることを予測してもいたので、攻囲戦における歴史の本については、ほとんどソラで暗誦できるほど読み込んでもいた。だが、このまま包囲戦を続ければ、バロン城砦が陥落するのは時間の問題でないかというほど追い込んでおきながら――ある日、リッカルロ率いる公爵の軍隊は引き上げていったのである。何故か。出征時、リッカルロの理解としては次のようなことだったのである。「自分は戦争などしたくないが、王である父の命令であれば仕方がない」……また、最初の三か月の間、彼らの軍のほうが優位であるように思われ、続く二か月の間に甚大な被害が出たという時にも、リッカルロはこう思ったわけだった。この損害に見合うだけの勝利を得ないことには、自分は決して国へ帰れない、と。だが、攻囲戦が半年にも及んでからようやく――彼は気づいたのだった。(そもそも、あわよくば第一王子である邪魔な俺が死ねばいいと考え、この戦争へ向かわせた父の命令になぞ従わなければ良かったのだ)と……。


 サミュエル・ボウルズ伯爵が拷問死したのは、この時の戦争時における失態を気高い卿が決して認めようとしなかったからだ――とも言われているが、真偽のほうは定かでない。とにかく、兵糧が尽きたというわけでもなく、城壁カーテンウォールや防御塁を攻撃するための飛翔体といった武器類が尽きたというわけでもないのに、リッカルロ王子の軍隊が引き上げていったのは、<西王朝>陣営にとってはもっけの幸いとすら言える出来事だったに違いない。


 この時、リッカルロが軍を引き上げ、公爵領へ戻るという英断を下したのは、兵士らの損耗を考えてのことであった。だが、生き残った兵士たちは軍の高官から雇われた傭兵に至るまで、「この方ならば、もしかしたら確かに我が<東王朝>と<西王朝>を統一するかもしれぬ」という希望を持ったほどだったという。というのも、リッカルロ王子のバロン城砦攻略はそのくらい最初から徹頭徹尾考え尽くされたものだったからだ。三重城壁によって囲われている中で、地形的に高い崖の上にあるがゆえに、城壁が二重でさえない薄い箇所がバロン城砦にはあり、リッカルロはここをまず強襲した。さらに、隣の州から援軍がやって来るための道すべてに仮の駐屯地を築いたのである。基本的に、城砦の攻囲戦において有利なのは圧倒的に防御側となるのは常識中の常識であるが、攻囲している期間が長ければ長いほど、城砦内にいる者たちは糧食や攻撃された場所を塞ぐための防御壁の材料となるものや、弓矢といった武器類など、補充するのがだんだんに難しくなってくる。リッカルロの軍は最初の三か月のうち、今までボウルズ卿ですらが経験したことのない奇襲作戦によって戦争を有利に進めたが、それでも三重壁の内壁までは兵を先に進めることが出来なかったのである。


 ロッバルト伯爵やメレアガンス伯爵の軍隊が到着すると、大規模な白兵戦となったが、ここでも最初のうち、押していたのは<東王朝>側であった。オールバニー公爵は、いずれリア王が必ず第一王子を都合よく亡き者にしようと考え、リッカルロを戦場へ向かわせるだろうと覚悟していた。それゆえ、自分の抱える軍隊を日頃から厳しく鍛錬することを決して怠らなかったのである。野戦が行なわれるのと同時に、バロン城壁攻略についてもほとんど同時に行なわれた。移動式の高い攻城塔ベルフリーにより三重壁の一番外側に取り憑き、内部への侵入を試みるのと時同じくして、幾つもの坑道が掘られた。坑道は、地中を掘り進み、内部陣地へ侵入を果たすためのものだが、あるものは掘削の途中で<西王朝>の軍に襲われて潰され、あるものは内部陣地より逆に堀り進められた対坑道により侵入前に潰され……という、そうしたことの繰り返しであった。


 無論、頭で考えた理論上の戦術について(そう巧くはいくまい……)ということは、リッカルロにしても覚悟の上ではあった。彼は負傷した兵についてはすぐ国のほうへ帰らせるようにしていたため、十万の兵を率いて攻めてきたのが、六か月後にはその半分ほどになっていた。とはいえ、<西王朝>の軍も怯んでいた。そのくらいバロン城砦の外城壁はかつてないほどに破壊されつつあり、ロットバルト伯爵軍は二万、メレアガンス伯爵軍は一万、さらにその後、ライオネス・ローゼンクランツ・ギルデンスターンからも総勢約一万五千の兵が到着していたが、それでも苦しい戦いだった。内苑州のどこからもその後援軍がやって来ないとなれば尚更だった。


<西王朝>軍側には、何故この時鼻息荒く戦争を仕掛けてきた第一王子が、強襲してきた時と同じく、突然引き上げていったか、その本当の理由についてまでは当然わからなかったろう。むしろ、一度帰国してのち、今回の戦略についての問題点を話しあってのち、再びまた体勢を整え攻めて来るのではないかと、その後も随分長い間警戒して過ごしていたほどである(ゆえに、この時ランスロットもカドールもトリスタンも……少しばかり長くバリン州やロットバルト州、メレアガンス州などに滞在することになった)。


 こののち、<西王朝>の、特にバロン城砦に暮らす人々から「まるで鬼人のような人物らしい」とか、「戦場では悪魔のような活躍ぶりだったそうだよ」、「恐ろしい口裂け公爵」などと呼ばれることになるリッカルロだったが、実際のこのリア王朝の第一王子が、少年のように無垢で繊細な心を持っていればこそ――彼が一年とせずして自国へ帰っていったのだと彼らが知ったとすれば、さぞかし驚いたに違いない。


 そしてこの時、歩兵として戦争に参加し、重傷を負ったウルリカとウィロウの息子、ウィルフレッドは、捕虜としてそのまま<東王朝>へ連れていかれることになった。戦争後、負傷して漁村へ戻ってきた他の兵士らにそのことを聞くと、ウルリカは居ても立ってもいられず、すぐに<東王朝>へ旅立っていった。ウィリーとともに軍隊に志願していた彼の友人は、「いずれ、戦争捕虜の交換が行われるから、それまで待ったほうがいい」と言ったが、ウルリカは待ってなどいられなかった。とにかく、彼女の出身国の価値基準としてはそうだった。(戦争捕虜の交換だって?そんなもの、軍の高官といった人間であればいざ知らず、なんの利用価値もない一兵卒の歩兵が相手じゃ、今ごろ気まぐれに拷問されて、ようやくそんなことにも飽きたって頃に虐殺されるに決まってるよ!!)……彼女にはそうとしか思えなかった。


 こうして、ウルリカは<東王国>のオールバニー公爵領を目指して旅立っていったのであるが、彼女はそこでひと月とせず息子と再会を果たすことになる。彼女のひとり息子、ウィルフレッドは手厚い看護を受け、<らい者の塔>と呼ばれる場所で、案外元気に暮らしていた。ウルリカがそこへ訪ねていくと、このろくでなしの親不孝者も流石に心が動いたらしく、「まったくこの子はなんて子だろうっ!!」、「親のことをこんなにも心配させてっ!!」と母親が泣きながら打ち叩いても――そこに初めて母の深い愛情を感じたのだろうか。ウルリカと一緒になって、ただ抱きあいつつ滂沱と涙を流すことしか出来なかったようである。




 >>続く。




 


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ