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第18章

 晩餐会の食事のほうはきのうにも劣らず、まったく素晴らしいものだった。サフランで色・香りのつけられた魚介類たっぷりのスープ料理、カレイのムニエル、ヒラメの蒸し煮、ウナギのソテー、エビやカニを使った新鮮なサラダの他にヤマメやニジマスのフライなどもたくさんあり、肉料理については牛肉のステーキ、ポークソテー、チキンのカツレツ、ひな鳥のゼリー寄せ、雉のオレンジソース焼き、コールドタン……などなど、様々な調理法によって料理されたものが、それぞれ酸味が利いていたり甘かったり辛みのあるソースと一緒に出てきた。それぞれ好みに合わせて食すようにといった趣向なのだろう。


 白パンや丸パンやサンドイッチ、ケーキやパイ類もたくさんあり、どれも美味しいものばかりだった。もっとも、誰もがみなワインやシードルなど、美味しい酒類にすぐ酔っ払ったようになり、食事の席も中盤にもなると、こうした料理を作る職人たちがいかに心を砕いたか――ということはまるで考えなくなり、ただひたすらにクリームやチーズ、くるみやベリー類の詰まったパイを食べ、食事のマナーもそこそこに、何かのソースが手についてもあまり気にせずそれをなめ、次の料理に取りかかっていたものである。


「みなさま方、まだ食後に我がアストラット自慢の菓子職人の作ったデザートが残っておりますからな。胃袋のほうを調整しておいてくださると、こちらももてなし甲斐があるというものですわい」


 ガノン・ギュノエ郡長官のしみったれた――といってはなんだか――もてなしに慣れていた面々は、ギロン・ド・ティリー男爵の気前の良さに驚いていた。食卓の後ろのほうに立つ給仕人たちの気遣いも申し分なく、彼らや彼女たちは実にタイミングよく皿を下げたり、また新しいものを持ってきたりと、いないようでいているといったような、さり気ない感じ良さによって酒を杯に注いだり、間違って落としてしまったカトラリーを交換したりしてくれたものである。


 この、『ハムレット王子とその八十八人の従者』とのちに呼ばれ、そのように書物に書き記されることになる人々は(数のほうはあくまで概数であったろう)、実に満足な思いで遠慮なくギロン男爵のもてなしを受けていたわけだが、この中のある人々はあるひとつの事実に気づいてもいた。ハムレット王子がまだ身分を隠さねばならぬ事情から、エレアガンス子爵が招待客の筆頭としてもてなされていたことではない。エレアガンス子爵とほとんど同等か、その次くらいに騎士ランスロットとカドールが客の中で特に重要な人物としてもてなされているのが何故か、その理由をすでに察していたのである。


 無論、晩餐会のはじまった最初のほうで、ギロンがエレアガンス子爵と儀礼上の会話をあれこれ交わしたあと、二年前、いかに騎士ランスロットと騎士カドールが我がティリー家の名誉のために馬上試合で戦ってくれたか褒め称えるといった過程があったことから――エレイン姫がランスロットの向かい側の座席に座るという栄誉を賜ったというのは、誰にも文句の出ないところではある。だがこの時、もしエレイン姫が当初の目的通り、ランスロットに対し気のある素振りを見せていたとすれば……彼はおそらく他のメレアガンス出身の貴族らの嫉妬を買っていたのは間違いない。


 だが、当のエレイン姫からは、なんの恋のオーラすら出ておらず、彼女は刑場に引き出されてきた囚人のように、というたとえは流石に大袈裟だが、これだけのご馳走を前に食欲もあまりないようで、ずっと俯いたまま、静々と食事をしていた。もちろん、嬉しいことには嬉しいのだ。父と兄の巧みな采配により、彼女が心から愛する男性であるランスロットは今目の前にいて、お互いの声が届くところに存在してさえいる。けれど、いかに肉体的距離が近かろうとも、それであればこそむしろ、エレインとしては心の遠さを感じるばかりだったのである。


「もうお互い、二年前にあったことは忘れましょう」


 カドールが、きのうとは打って変わった態度で、何度となくギロン男爵が例の馬上試合のことで感謝の言葉を述べるのを聞き、気を利かせてそう言った。


「俺もランスロットも、ただ騎士としてちょっとした腕試しをさせていただいたまでのことですから」


「いやいや、この地方で土地を治めておる、他のバルバロス男爵やロックウッド子爵などはですな、わしがお抱えの騎士を馬上試合においてあまり自慢できんことを知っておるもので、ずっとどうにかあやつらの鼻を明かしてやりたいと、わしも息子のリオンも思ってきたというわけでして……ですが、戦利品を受け取るでもなく我が城へ残していってしまわれた。どうですかな。もしよろしければ、今からでもおふたりのために鍛冶屋に言って立派な甲冑を作らせたく思うのですが……」


「いえ、滅相もない」とすかさず言ったのはランスロットである。「あの時もそうでしたが、今もこのように最上のもてなしにより厚遇してくださっていること……お礼であるならば、これだけでもう多くの払いきれぬほどの釣りが出ようというものです」


「ランスロットさまには、鎧の他にも受け取っていただきたいものがあるのですがな」


 海蛇の巻きついた銀のゴブレットで味のよいワインを飲みつつ、リオンが意味ありげにそんなことを言うと、「お兄さま」と、エレインが控え目な視線によって兄のことを制した。


「いや、この際はっきり言わせていただこう」リオンは妹の制止を聞かなかった。というより、最早今を逃せば機会など次はいつになるやらわからないと考えていたのである。「ランスロット殿、二年前にあなたさまが騎士としてこのティリー家に尽くしてくださったこと、我らは今も感謝の念に絶えませぬ。しかしながら、何故妹のことをそれこそ袖にするのなら、このエレインの真紅の袖をつけ馬上試合で戦ったりなどしたのです?何分、騎士殿というのはモテますからなあ。ドレスの袖でなくともリボンやら服の切れ端やら、娘たちは自分の贈ったものを馬上試合で身に着けてくれたとしたら、それが自分に対する好意のしるしだというのがわかるということです。また、騎士としてそのことを知らぬあなたさまではございますまい。それなのに……」


「お兄さま、もう二年も昔のことでございますわよ!!」


 エレインはカッと頭に血が上り、そのまま席を外したいのは山々だった。けれど、もう一生、二度と会うこともあるまいと思っていた彼女の心からの想い人が今目の前にいる――そして、自分の頭で繰り返しえんえんと妄想しているばかりでは出ない答えが、本人の口から聞けるかもしれないのだ。そう思うと、エレインは恥の気持ちよりも真実を知りたいと感じる思いのほうが勝り、影を釘で打ち抜かれでもしたように、その場から動くということが出来なかった。


「どうやら、お互いの間に誤解があったらしいことは認めます」


 ランスロットは食事の終わりを示すように、ナプキンで口許を拭ってから説明した。実際のところ、エレイン姫を前に食事をしていると、彼にしても味などほとんどわからなかったのだ。


「俺は――確かに、エレインさまから戴いた真紅の袖をつけて馬上試合に臨みました。けれど、それは恋心から出たことではなく、ティリー男爵家の名誉のために戦うわけですから、その娘さんの品を身に帯びて戦うというのは、礼儀に外れているとは思わなかったということなのです。何分、エレイン姫はここアストラット地方の美姫として名高く、そのお名前は内苑州の貴族社会でもつとに有名と聞いておりましたゆえ……このように、俺のようなむさくるしいだけが取り柄の騎士に、エレインさまがほんの励まし以上の意味をあの真紅の袖に込めておられるなどとは――思いもよらなかったのです。それに、そのような心のゆき違いがあったとて、どのような貴族の男性のことも思いのままに出来るエレインさまなのですから、そのまま城を去ったとて何も問題ないだろうと、そう思ったということがあります」


「ああ、そうだったのですか」


 ギロンもリオンも、途端にパッと顔を輝かせていた。


「ではもう、何も問題ありませんな」と、ギロンが嬉しげに言う。「娘のエレインはこの二年、ランスロットさま、ただあなたさまがこの城を再び訪れてはくれぬものかと、そのことだけをひたすらに念じてきたのでございますよ。ああ、本当に良かった。この嵐が過ぎ去ってしまえば、またすぐにご出立になるとのことでしたな?では、せめても婚約の儀だけでも交わして旅をお続けくだされませ。おお、エレインよ、なんとめでたいことであろうな。おまえの想い人たるランスロットさまは、決しておまえのことを憎く思っていたわけではないのだよ」


「すみません。ですが、俺には婚約者が……」


 ランスロットが申し訳なさそうにそう言おうとした瞬間のことだった。彼らよりもずっと下座のほうで、聖ウルスラ騎士団の騎士に混ざり食事をしていたギネビアが――テーブルに皿やカトラリーを叩きつけなかったのが不思議なほどの勢いで立ち上がる。


「男らしくないぞ、ランスロット!!わたしとおまえはとうの昔に婚約なぞ解消しているはずだっ。第一、このように美しい姫に想われて、一体何が不満だというんだ!?わたしがもし男で騎士なら、これ以上の素晴らしい申し出は他にないとして、ありがたくお受けしたことだろう。そうだ、おまえ如き無骨で無口で武芸以外に取り柄がなく女の気持ちのわからぬ男は、この機会を逃したらもう二度と縁談話なぞどこからも持ち上がらんことだろうなっ。そのことをようく肝に命じて返事についてはもう一度よく考えろっ!!」


 食事の途中だったが、ギネビアはそのまま舞踏室から去っていった。ランスロットとしては心苦しい限りだったと言える。彼はエレイン姫の心が今もまだ自分にあるとまでは思っていなかった。それなのに、彼女のようにプライドの高い女性に大勢の前で恥をかかせてしまったように感じ、とうとう自分からこう切り出していた。


「エレイン姫、もし差し支えなければ、ふたりだけでお話したいのですが……」


「えっ、ええ………!!」


 エレインとしては、周囲の誰の顔を見ることも出来ず、ただ俯いたままでいた。だから、彼女は何も知らない。柱と柱の間に控える給仕係が、皿を下げたり、新しい料理を出したりするたび、キッチンへと繋がる通路では――特に食器室などにたむろしている侍女たちが、今どのようなことになっているかと聞いては、いかにきゃあきゃあ騒ぎ、盛り上がっていたかということなどは……。



   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *



『ふたりだけで話したい』などと言っておきながら、ランスロットが第一に気にしていたのはエレインのことではなく、ギネビアのことだった。ギネビアとエレイン、このふたりの女性のうち、どちらにより多く言葉を費やして誤解を解くため弁解せねばならないか――それはランスロットの場合、ギネビアがいかに否定しようとも、やはりそれは自分の婚約者と信じる女性のほうだったのである。


「お話ってなんですの?」


 頬を薔薇色に上気させていたにしても、エレインにはこの時すでにわかっていた。彼女が今まで何度となく妄想してきたように、騎士ランスロットが自分の前に跪き、突然結婚を申し込むようなことは決してないだろうということくらいは……。


 しかも、雨が小止みになった露台バルコニーにエレインを誘いだしたというのに、ランスロットは暫し無言のままでいた。バルコニーの天蓋部分には、今は咲いていない藤の枝が張り巡らされていたが、そのこととエレインのドレスの色を関連させ、バルサザールのような詩人が即興で詩を作る時のように気の利いたことが彼に言えるわけでもない。


「愛していらっしゃるんですのね、あの方のことを……」


 その露台からは、昼間であれば一本の大きな樫の木が見える。小さな頃は、兄のリオンと競い合うようにしてよく登ったものだった。けれど、いつも大木の真下にはその頃まだ生きていた母のエレノアや乳母がいて、「女の子はそんなことするんじゃありません!」などと叱られたものだった。先ほど私室で会ったギネビアも、きっと幼い頃はそんな感じだったのではないだろうか。流石にエレインは兄リオンと一緒に剣術を習おうとまではしなかったが、スカートなる着物のことを不自由に感じ、男の子のほうが女の子より自由度が高いのは何故だろうかと、彼女にしても不思議に思う一時期というのは、その昔確かにあったのである。けれどその後、エレインは女性としての役割を演じることに特段疑問を感じるでもなく成長し、むしろそのことを楽しんで生きてきた。だが、あのギネビアという公爵家の娘は違うのだろう。おそらく、女としてよりも男としての特権を得、男と同等の立場で事を論じあいたいのではないだろうか。エレインは舞踏室でのギネビアの権幕を思い出し、なんとなくそんな気がしていた。


「ええ、そうです」ランスロットは、何故突然こうも自分の気持ちがエレインに通じるようになったのか、不思議に感じつつ、この時初めて姫のほうをはっきり振り返った。そしてこの日、初めて気づいた気がする。彼女がとても素晴らしい装いをしているということに……けれど、それが自分のためといったようにはまるで思わないところが、騎士ランスロットのなんとも鈍いところだったに違いない。「俺は、あいつでなければ駄目なんです。ですから、ローゼンクランツ公爵が俺の父と話しあい、将来の婚約者としてくださった時――顔にはまったく出さないまでも、内心とても喜んでいました。もちろん、ギネビアはその頃からずっと怒ってはいましたよ。俺程度の男を押しつけられたということに対してね……とはいえ、あんなじゃじゃ馬を押さえつけることの出来る男というのは自分以外ないだろうということでは自惚れていましたので、先ほどは流石に少々傷つきました。もう少しくらいは俺に対し気持ちのあるものと、そう自惚れていたものでね」


「まあ。わたくしにそんなことをおっしゃるだなんて、残酷な方ね」エレインはあまりのことに、思わずくすくす笑いだしていた。この時、不思議なことにエレインはあまり傷ついていなかった。いや、あとから部屋に戻ってひとりになった時、間違いなく自分は泣くだろう。けれど、今はまだ嬉しかった。何故なら、妄想の優しいランスロットより、彼女にとっては今目の前にいる現実のランスロットのほうが……よほど素晴らしい存在だったから。「わたくしがあなた以上に傷つかないとでも、そう思ってらっしゃるわけではないでしょう?」


「いえ……すみません。正直、俺は女性のことはよくわからないのです。あんな男勝りのじゃじゃ馬のことばかり小さな頃から目で追ってきましたもので……ですが、もし俺に落ち度があったとすれば、いかような罰でもお受けしましょう。エレイン姫、あなたのお気が済むまで」


「そんなこと、おっしゃってはいけませんわ。そんなことおっしゃったら……このアストラット城にわたくし、永遠にあなたのことを閉じ込めてしまってよ。いいえ、そんなお顔をなさらなくても大丈夫ですわ……わたくしもあれから、人間として少しくらいは成長しましたもの。ランスロットさま、あなたに袖にされたせいで、今まで自分が同じようにすげなくしてきた殿方の気持ちもよくわかりましたしね。先ほど、晩餐会がはじまる前に……ギネビアさまがやって来られて、あなたと自分がすでに婚約解消した身であることを何故かお話になっていかれました。今にして思うと……きっと、誰かから何かをお聞きになったのでしょうね。かと言って、変に同情的というのでもなくて……なんにしても、ランスロットさまほどの方でも自分の思い通りにならないことがおありになるのだと思うと、不思議な話、ほっとしました。わたくしも、あなたに対して同じようなものなのかもしれないと思うと――まあ、世の中そんなものなのだと、どうやらわたくしの場合は諦めて、心を整理する以外にないようですもの」


 この時、エレインは初めてランスロット・ヴァン=ヴェンウィックという男のことを、真実本当の意味で少しだけ理解したような気がした。彼はただ無言のまま、壁の燭台が映しださない深い闇の向こうをただじっと見つめている。以前のエレインであれば、自分の愛する男が何を考えているかわからず、ただ戸惑ったことだろう。けれど、今はほんの少しだけ彼のことがわかる気がした。騎士ランスロットは、実は自分が思っていたほど男として色々なことがわかっているわけでもなく、意外にも――少年のように純粋な心を持っているだけなのではないか、と。


(そうね……わたくし自身、単に騎士ランスロットという方に、自分の理想の衣装や鎧を着せて愛していたという、ただそれだけなのかもしれない。でもこの方は違う。ギネビアさまと小さな頃からずっと一緒にいて育ち、相手のいいところも悪いところも知り尽くしたその上で愛しているという、そうしたことなんでしょうからね……)


「ランスロットさま、でもあなたにはわたくしと違って望みがあるという点において決定的に違う、ということだと思いますわ。どうですか?いずれはギネビアさまのことを振り向かせることがお出来になる自信がおありですか?」


「いえ、どうでしょう」ランスロットははにかむように微笑って言った。「結局、このまま俺も独身、ギネビアも独身のままでいて、いつか故郷のローゼンクランツ州へ戻ったとするでしょう。そしたら、ギネビアの父上である公爵さまはやはり俺と結婚させようとするでしょうし……俺は、特に何もせずにあいつと一緒にいて、単にそんなことを期待しているだけなのかもしれません。いえ、もっと言うなら、結婚云々といったこと自体、実はあまり興味がないのです。結局、今のようにただ一緒にいられれば……そのう、まあいずれは何かそんなことになるのではないかと、そう思っているというのか」


「よく、わかりました……」


 エレインの声は震え、その美しいエメラルドのような瞳からは涙が溢れだした。もちろん、彼女としても自重しようとはしたのだ。けれど、これほどまでにはっきり自分は諦めるより他ないのだとわかってみると――ある種の清々しさとともに、突然涙がどっと溢れてきた。自分の感情をどんなに抑えようとしても、どうしても涙だけは彼女にも止めることが出来なかったのである。


「えっ、エレイン姫、そのう、姫には俺などより他に、よほど素晴らしい縁談というか、必ずそのような男性が現れ、そのうち俺のことなどすっかり忘れてしまうことでしょう。そして、あんな砂漠州出身の田舎騎士のことを何故自分は少しでも相手にしたのかと、その頃にはすっかり不思議に思われているに違いありませんよ」


「いえ、いいんです。ランスロットさまが優しさと親切心からそのようにおっしゃってくださっておられることは、わたくしもよく理解しております……ただ、最後にひとつだけ、愚かで浅はかな女の願いをお叶えください。わたくしが泣きやむまでの間、ただそっと抱きしめていただきたいのです」


「…………………」


 ランスロットは、エレイン姫の言ったとおりにした。いや、本当はそのようなこともあまりしたくなかったのだが、かといって他にどうしようもなかったのである。


 結局、どのくらいの間自分がそうしていたのか、ランスロットはよく覚えていない。五分くらいの間だったような気もするし、もっと長かったようにも、短かったようにも感じた。だが、エレインの側ではまったく違った。彼女のほうではそれを永遠にも等しい時間のように感じ、(これから先も自分はこの瞬間のことを決して忘れることはないだろう)と、そんなふうに感じていたのである。


「これで、もう結構ですわ、ランスロットさま……ただ、このようなことを申し上げるのは、きっとあなたさまにはご迷惑なことでしょうけれど、もし万一ギネビアさまとのことが上手くいかなかったとしたら……ここアストラット城とわたくしのことを今一度思いだしてくださいませ。父はわたくしを、たとえばロットバルト伯の息子のどなたかですとか、出来るだけ貴族の有力者と結婚させたいらしいことは承知しております。けれど、そうした強いられる事情でもない限り、わたくしもまたずっと独り身でいることでしょうから」


「エレイン姫、まさかそのような……」ランスロットは(困ったな)と思った。けれど、結局やはりこう思い直した。「いいえ、姫に限って決してそのようなことはありますまい。真心と熱意を持ってあなたさまのことを求める貴族の男たちが山のようにたくさんいる以上……きっと、その中にあなたのお目に適う男性がいずれ出てくることでございましょう。そう思えばこそ、俺もまた二年前と同じく、安心してこの地を去ることが出来るのですから」


「ええ、わかっております。そしてわたくしもまたもう少し年がゆき、鏡で自分の容貌が衰えつつあるのを見、兄リオンの可愛い子たちが大きくなるのを見届けるうち……やはり、将来が不安になったりなんだりで、ランスロットさまほどでない殿方との結婚といったことを、これもまた女の弱さから考えはじめるかもしれません。でも、今はまだ無理ですわ。ただ、あなたさまとギネビアさまに直にお目にかかれたことだけ、神さまに感謝しております。自分の妄想からすっかり目が覚め、これこそが現実なのだとわかったのですから……」


 ランスロットのほうでもそれ以上、自分の気持ちに関して弁解はしなかった。エレインはドレスの袖で瞳の涙をもう一度拭うと、「それではごきげんよう、ランスロットさま」と言って、アーチ型の扉のほうへ歩み去っていった。なんにせよ、彼としてはこれで一安心とばかり、濃い闇の中でほっと安堵の吐息を着く。戦争へ行く前に行なう閲兵式同様、行なわなければならぬ、面倒な儀式上の何かを無事に終えたような、彼としてはそんな心持ちであった。


「よう、色男。まったくおまえも隅に置けない男だな」


 バルコニーの天蓋を支える円柱のひとつから、カドールが姿を現すのを見て――ランスロットは「チッ」と舌打ちした。


「一体いつからそこにいたんだ?ギネビア言うところのずる賢い赤ギツネは」


「誰がずる賢い赤ギツネだ!あいつだって見事な赤毛のくせして、一体何言ってるんだろうな」


 ハハハ、とランスロットが快活な声を薄暗闇の中へ響かせる。アストラット城における一番気の重い儀式を、何かの通過儀礼のように終わらせることが出来て、彼は今心の底からほっとしていた。


「ギネビアはどうしてる?」


「さあな。メシ食ったあとどこへ行ったかはわからんが、あいつのことは心配いらんだろ。俺たちは明日か明後日にはここを旅立ち、ロドリアーナへ到着する頃にはギネビアの機嫌も直っていることだろうしな。怒りを長く持続させることが出来ないっていうのは、あいつの性格の美点のひとつだ。その点、普通の女はそうはいかんからな。一見許したような振りをしていながらいつまでもひとつのことを執念深く覚えている……女というのは大概がそんなものだろう?」


「なんだ?それはカドール、おまえの経験談か?」


 カドールはただ、肩を竦めて親友の質問への返事に変えた。彼らはふたりとも、初めて<都上り>へ連れてきてもらった時に――他の護衛の騎士らの許可を得て、内苑州のあちこちの城砦都市にて色々遊び回っていたものである。


「その場限りの関係で、おそらく二度と会うこともない……とそう思って多少調子に乗った、ということは確かにあった気がするな。とはいえ、金を持ってる男が娼婦たちにモテるのは当たり前なのに、そこを勘違いしてしまうというのが若さというやつなんだろうな」


「まあ、おまえの場合は金は関係なかった気がするがな。彼女たちはいい男には金なぞ大してなくとも特別にサービスしたがるものなんだろうよ」


 ここでカドールが問題にしたいのが実は、エレイン姫の何がランスロットをその気にさせなかったのか――ということだった。もちろん、高貴な血筋の姫と娼婦の女性を同列に並べるようなことは口にすべきではない。けれど、二年前のあの時にしても、下品な言い方をすれば夜這いをかけてきたのはエレイン姫のほうなのだから、女性に恥をかかせないという意味でも騎士としての大義は立とうというものだった。ゆえに、いわゆる一夜限りの関係というやつで、二度とランスロットがアストラット城を訪ねて来なかったとしても、おそらく彼を責める騎士というのはいなかったに違いない。唯一、ギネビアだけは別としても。


「それで?おまえは何故サービスを受けるのを拒否することにしたんだ?婚約者に操を立てる……というのは、あくまで女の言葉であって、男の言葉ではあるまい。正直、俺は今回のことで女というやつがあらためてよくわからなくなった。ギネビアのことをわかっていると思っているのは、おまえだけじゃなく俺だってそうだ。ずっと、あいつはまだ子供で、子供すぎるからおまえの良さがわからないんだと思ってきたんだ。でも結局、騎士としてランスロット以上の男なぞいるわけがないのだし、そう納得して最後にはおまえと結婚することを承知するだろうと……なんとなく漠然と、そう思ってきたわけだ」


「俺の気持ちは、さっきエレイン姫に語ったとおりだ」と、ランスロットは溜息を着く。それが親友相手でも、彼は普段滅多にこんな話をすることはない。「婚約解消、なんて言ってもな。結局、あいつも俺もずっと独り身でいて、ローゼンクランツ州へ戻ったとするだろ?そしたら公爵は俺の言い分と気持ちを認めて、間違いなく花嫁としてギネビアのことをあらためて与えてくださるだろう。だが、あいつはきのう、ちょっと変なことを言っていたんだ。俺が姉君のテルマリアさまに懸想してると勘違いしてるといったような話をな」


「はあ!?それで、おまえはどう答えたんだ?」


「いやまあ、その……」ランスロットは初めてギネビアにキスしたとまでは――流石に言えなかった。テルマリアさまの本当の想い人はおまえだと思う、ということも。「可愛いなと思ったんだ。そんなふうにずっと誤解してきたから、あんなふうにずっと婚約解消に拘ってきたのかと思うと。だが、やはり俺にはわからんよ。もちろん、ギネビアがエレイン姫に嫉妬して怒ってるとか、これはそういう話じゃない。さっきの食堂でのあれも、あいつの場合はそういうことじゃないんだ。だから……初めてよくわからなくなった。俺もあいつも、お互いのことはいちいち言葉になんかしなくてもわかりきってる、飽き飽きした関係だといったような、そんなところがあったからな」


「ようするに、エレイン姫に同情したんだろ。ほら、このアストラット城のどこから姫が身投げしたかは知らんが、一番低い城塔でも、軽く見積もって八メートルはあるだろうからな。しかも、ここから水門塔のある場所までは、結構な距離がある。簡単にいえば、もしかしたら姫は一歩間違えば今はもうすでにこの世の人でなかった可能性もあるということだ。そう考えるとわかるだろ?ギロン男爵とリオン殿が肉親として、何故おまえにああも強いプレッシャーをかけようとして来たのかっていうことが……死ぬくらいだったら、砂漠州の田舎騎士でも相手として不足はないと、ギロン男爵が無理にでもおまえと娘を婚約させたがったのが何故か、俺にはわかる気がする」


「身投げといっても」と、ランスロットは再び溜息を着いた。そんなことまで自分のせいにされるのは、彼としては心外なのだった。「本当に自殺なのか?まあ無論、城塔の頂部にあるクレノーから事故で落ちるなどということは、普通であれば考えにくいが……俺は、自分のせいでそうなったと認めたくないというのではなく、やはり俺には女のことがよくわからんのだ。恋なぞのために思い詰めて命を捨てるといった、そうしたことがな……エレイン姫には他に何か悩みでもあってそうしたと考えたほうが、俺にはよほど理解できる気がするのだが」


 クレノーとは、簡単にいえば城塔頂部の矢狭間のことで、凹凸の凹部分のことである(凸部分のことはメルロン(小壁体)という)。


「まあな。だが、ギネビアは『自分のことは騎士として、男として扱え』などと口癖のように言っていたとしても、結局はあいつも女だ。あいつが今怒っているのは俺が思うに……それもまたやはり、騎士の怒りというやつなのだろうな。我々騎士は婦女子に対して礼儀を尽くして守る必要がある――それが、エレイン姫のように高貴な血筋の女性となれば尚更だ。むしろおまえ、エレイン姫と婚約していたら良かったのかもしれんぞ。そうしたらギネビアも、おまえのことをただの騎士仲間の兄貴以上に大切な存在だったと、初めてそう気づいたかもしれないのだからな」


「まさか。そんな恐ろしい博打は俺だとて、流石に打てんさ」


 ランスロットとカドールはこのあと、互いに顔を見合わせて笑った。実をいうと、ここロットバルト州を流れるイルムル河には、大体のところ似たような伝説がいくつも存在している。漁師の娘が貴族の男と身分違いの恋に落ち、男が去ってから悲嘆のあまりイルムル川へ身投げした。だが、川の精霊がそんな娘の魂を哀れに思って救い、自分の精霊の息子と結婚させたとか、そうした悲しい恋の果てに身投げした女たちの魂が、川を堰き止め漁師を水の中へ引きずり込むことがあるといった、お馴染みの精霊民話である。


 だが、この時カドールは(もし、エレイン姫ほどの美貌の女性が、あのままこの世の人でなくなっていたとしたら)と思い、少しばかりぞっとしなくもなかった。吟遊詩人のバルサザールは、アストラットの美姫のために長大な詩を書き、方々を旅して竪琴を奏でつつ、伝承としてその歌をこれからも残し続けたことだろう。そして、エレイン姫の死の原因がなんであれ、それはローゼンクランツ騎士団の騎士ランスロットと結びつけられ――彼は婚約者がいたにも関わらず、エレイン姫の美貌と色香に惑い、非情にも一夜の関係を持ってのち彼女のことを捨てたのだと、そんな歌が国中で流行っていた可能性もあったのだから……。




 >>続く。






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