序章
~名もなき漁人の王の物語~
今から遥か、何百年も昔ことでございます。ロットバルト地方を治めていた王さまは、次から次へと国難に見舞われ、大変困っていました(この頃、地方領主たちは臣民からただ「王さま」とだけ呼ばれていたのです)。
まず、王さま御自身がそのなかなか癒えることのない病いのために、よく病床に伏しておいででした。と言いますのも、その病いはロットバルト王の家系に特有のものであり、王さまの父上も、そのまた前の王さまも……まったく同じ病いに苦しみつつ、このロットバルト王国をどうにか上手く治めてきたのでした。
王さまが悩んでいたのは、実は自分の病気のことではなく、いずれ王となるであろう息子のことでした。自分や先代の王たちのように、喀血を繰り返しつつ、それでも国の平和のためには時に無理をするということも――王としては当然の務めであるとして、そのような心構えによって王は代々この国を治めてきたのでした。
ロットバルト王国の代々の王のこの病いについてはずっと秘密にされてきました。ただ、新しい御代に息子が誕生するたび、その王子にこの病気の症状が出ないようにと何人もの祈祷師が祈ってきたものの、効果のあった試しはただの一度もありません。いえ、効果のほうはあったのでしょう。王さま方はみな、病いに苦しみながらもみな、その驚くべき神を信じる信仰の力により、五十を過ぎる前に亡くなる者はひとりもいないくらいでしたから。
実をいうと、ロットバルト王のこの病気は、遠いご先祖のある王さまが犯した罪に対する呪いだということでした。このご先祖の王さまは、海に棲む竜の娘と婚姻を交わし、いずれこの娘と結婚するという約束をしたにも関わらず、海の洞窟にて彼女の純潔だけを奪い、結局は隣国の王女と結婚してしまったのですから!
エレゼ海に住む竜王リヴァイアサンは怒り狂い、ロットバルト王に約束していた航海における安全と、そこにある財宝を譲るという契約を完全に破棄すると、ロットバルト王家を末代までも呪うと宣告したと言います。以降、エレゼ海は沖より向こうへ航海しようとする者には容赦なく牙を剥き、漁師たちの船に大損害を与え続けたということです。
こうした事情から、王家では代々あらわれることになった呪いとしての病いを隠し続けてきたわけですが、実はこの呪いを打ち砕くことの出来る唯一の方法があるということも、竜王リヴァイアサンは言い残し、大海へ去っていったのです。それは、いつの御世かに心正しく清らかな純潔の騎士が現れ、数々の誘惑にも負けず、ロットバルト家にかけられた呪いを自らの行動を持って打ち破るだろう、というものでした。
ロットバルト騎士団とはまさしく、このためにこそ創設された騎士団でしたが、今では最初のその興りについて知っている人はほとんどありません。ただ、王さまは心正しく清らかな純潔の騎士があらわれ、いつか自分たち王家の家系にかかった呪いを解いてくれるに違いないと……日々そのことのみを星神・星母に祈ってきたと言います。
ところで、ロットバルト王国のある時代に、漁人の王と呼ばれる人がいました。と言ってもこの人は、大変貧しい生まれであって、王、などと呼ばれることになったのも、その伝承が世々に伝えられた後世になってのことです。竜王リヴァイアサンが元は穏やかだった海を荒海に変えてから、羽振りの良かった漁師の暮らしというのはすっかり苦しくなりました。のちに、<名もなき漁人の王>と呼ばれることになる人もまた、大変貧しく、海の浅瀬や河などで魚や蟹、海老などを取って、大変つましく暮らしていました。
ある時、漁人の王は、ロットバルト騎士団にて騎士を応募しているという話を聞きました。資格のほうは、心正しく清らかで、純潔なこと、とあります。漁人の王は、村の人々が笑うのも構わず、騎士団で騎士になるための試験を受けようとしましたが、ロットバルト騎士団の人々に笑って追い返されたのでした。
ところが、時のロットバルト騎士団の騎士団長ゴルネマンツは心の中でふとこう思ったのです。騎士団の中で、王家にかかっている例のご病気の呪いについて知っているのは、代々騎士団長のみでしたから――この時ゴルネマンツは(もしや、このような純朴な漁師の青年からこそ、本物の純潔の騎士が生まれるということがあるやも知れん)そう思い、さんざんからかわれ、泣きながら騎士団の建物から追い返された青年のあとを追ってゆきました。
ゴルネマンツは自分こそがロットバルト騎士団の騎士団長であると打ち明けることはせず、漁師の青年にこう声をかけました。「もしわしで良ければ、騎士としての心得と技量のすべてを授けてしんぜよう」と。恥かしい思いをさせられ、悔し涙を流していた青年は、騎士団長のこの申し出に一転して喜びました。漁村のほうへは「立派な騎士になって戻ってくる!!」などと言って飛び出してきた手前、彼はもはや前に進むことも、かといって後戻りすることも出来なかったがゆえに、途方に暮れていたのです。
こうして、ゴルネマンツによる、漁人の王とのちに呼ばれることになる男への、厳しい修行の日々がはじまりました。槍や剣の扱いや体術、それに馬術に至るまで、漁師の青年はまったく何も知りませんでしたが、飲み込みのほうは比較的早かったことから、ゴルネマンツはそれと平行して若者に文字の読み書きその他、必要なことのすべてを伝授しました。その後、八年もの時が経ち、ゴルネマンツが騎士として若者のことをロットバルト騎士団のみなに紹介しようと考えた時のことです。ロットバルトの宮廷にて、ある事件が起きたのです。さる国の美しい姫が、故郷の国から数々の財宝を携えて供の者たちと訪れたのですが――この時、王宮に招かれていた騎士たちは、この姫がまだ未婚であり、将来夫となる人もまだ決まっていないというので、すっかり色めき立っていました。
そこで、宮廷では恋の鞘当てとばかり、連日色々なゲームが行なわれていたのですが、姫がそうした楽しみの最中に突然涙を流しはじめたのです。彼女は実は、ある使命を帯びてはるばる海の向こうの国から命を懸けてやって来たのでした。「わたしはここに、一振りの呪われた剣を持っています。竜王リヴァイアサンの与えた呪いがこの剣にはかかっており、優れた騎士で、悪意も邪意もない騎士でなければ、この剣の呪いを解くことは出来ません。それで、わたしの国には誰もこの剣の呪いを解くことの出来る者がいなかったので、わたしは自分の王国にかかった呪いを遠くへ持ち去るために、この呪われた剣とともに命懸けの旅をして来たのです」……この話を聞くと、騎士たちの多くが怒りだしました。ただ、一部の少ない騎士だけが、このお姫さまのことを深く憐れみ、同情して慰めの言葉をかけました。
そして、王さまはこのお姫さまの話を騎士たちから聞くと、どうすればその剣にかかった呪いは解けるのかと彼女に訊ねました。王さまご自身が、竜王リヴァイサンの呪いを代々その身に受けていましたから、その苦悩がどれほど深いものか、十分すぎるほどよく理解していたのです。
「この剣を抜いた者は、必ず最愛の者をこの邪剣によって殺すという運命にあるのです。ただ、本当に心正しく清らかな、純潔の騎士だけが、その嘆きの一撃を受けても死ぬことはないと言います」
「心正しく清らかな、純潔の騎士……」
王さまは、もしやそれは自分たちロットバルト王家に伝わる呪いをも解くことの出来る騎士と同じ者でないかと考えました。ところが、このことのためにお姫さまの国では、今までに代々何百人もの騎士たちが命を落としていると聞くと……みな怖気づいてしまって、誰もこの呪われた剣と関りあいになろうという勇気のある者はいませんでした。
この時、漁人の王は、このことをゴルデマンツ騎士団長から聞くと、「自分がなんとかしましょう」と王さまとお姫さまに願い出ました。ロットバルト騎士団の騎士たちは、いつぞや、自分たちの元にやってきた田舎漁師のことを覚えておりましたので、再びさんざん彼のことを笑い者にしました。「格好つけるのはよしたほうがいいぜ」、「田舎騎士さまに一体何が出来る」、「我々騎士団の名前にまで泥を塗るんじゃない」などと言って……。
漁人の王は、もはや八年前のあの時のように純朴な紅顔の青年というわけでもありませんでしたから、ただ騎士らしい品格を示し、冷静に王さまとお姫さまにこう申し上げました。
「わたくしも、よもや自分がそのような呪いを解く大役を果たせるとは考えておりませぬ。ただ、お姫さまがこのように遠く呪いを運ぶことで、故郷の国に剣の呪いが及ばないようにしたように……わたくしもまた、その剣を帯剣して、遠く旅へ出ようと思います。そうすれば、その剣の呪いは我が王国ロットバルトに降りかかることはありますまい」
王さまとロットバルト騎士団の騎士たちは、漁人の王のその提案を名案であるように思い、ほとんど賛成しかけましたが、ただひとり、お姫さまだけは違いました。彼女は今にも泣きださんばかりに、悲しげにこう言いました。
「いけません。この剣は、本当に呪われているのです。ただ持っているだけでも、あの手この手を使い、あなたにこの剣を抜かせ、海の波よりも数多く、深い嘆きと悲しみをあなたに与えようとするでしょう。そうして、この剣によって自分の胸を貫いた者までいるほどなのです。あなたはきっと、まだこの魔剣の本当の恐ろしさがわかっていないからこそ、そのような愚かな申し出をすることが出来るのです」
けれども漁人の王は、このお姫さまの心遣いを感謝しただけで、やはり自分の気持ちは変わらないと申し上げました。漁人の王の決心があまりに固いのを見てとって、お姫さまも最後には、「あなたは我が王国の命の恩人です」と言って、別名嘆きの剣と呼ばれる呪われた魔剣を漁人の王に授けたのでした。
騎士団長ゴルネマンツは、自分の愛弟子が騎士として武勲を立て、一人前になるチャンスがやって来るのを見てとると、実は一年前から鍛冶屋に注文してあった漁人の王の鎧兜や剣、盾などを彼に与えました。こうして漁人の王は、師の気遣いに感謝しつつ、ロットバルト王国から旅立っていったのです。
さて、お姫さまが言っていたとおり、漁人の王は旅先で次から次へと危難に見舞われました。ゴルネマンツは武具類一式のみならず、素晴らしい馬をも下賜してくださったわけですが、夜、森の中で眠っていると――まずは盗賊によってこの馬を盗まれてしまいました。また、その翌日には盾を、その翌日には冑を、さらにその翌日には鎧を……最後には、これも肌身離さず持っていた、呪いの剣ではないもう一振りの剣も盗まれてしまいました!
漁人の王は困り果てました。何故といって、この数日後、彼の武具類一式を盗んだのとはまた別の夜盗と遭遇し、戦う羽目になったわけですが、漁人の王には最早、例の嘆きの剣しか、戦える武器は残っていなかったからです。ゴルネマンツはこの八年の間、非常に厳しく漁人の王のことを鍛えていましたから、武器がなくとも、漁人の王は夜盗と戦って次々と倒していったわけですが――それでも、最後の最後、後ろから不意打ちを食らいそうになった時、咄嗟に呪いの剣を鞘から抜き、とうとうこの敵を殺してしまいました。
「これが、呪いの剣の持つ恐ろしさか……」
漁人の王は、思わずそう呟きました。けれども、彼はまだ希望を捨てはしませんでした。何故といって、お姫さまの話によれば、この呪われた剣を抜いた者は、最愛の者を殺すことになる運命にある――とのことでしたが、彼は「心正しく、清らかで純潔な者たれ」として厳しく騎士の心得を教え込まれていましたから、女性と関りを持つつもりは元よりありませんでしたし、(それでも友達くらいは欲しいなあ)と願う気持ちはありましたが、呪われた剣をその身に引き受けた時から、そのような希望もすべて自分の心から追い出すことにしていたのです。
こうして漁人の王の、誰にも知られぬ孤独な戦いがはじまりました。漁人の王は、どこへ行くにもただひとりきり。自給自足で生活をし、村でも町でも、誰か人と関わるのは、あくまでも必要最低限、何か物の売買をしたりする時だけです。それでも、呪われた剣の呪いはなおも漁人の王に襲いかかってきました。彼がさらに旅を続けていると、湖のほとりに立派なお城が見えてきたのですが、「キャーッ!!」と女性の叫び声がしてきたかと思うと、この若い娘は漁人の王の傍らに、白々しく倒れていたからです。
「おのれっ!このような若い婦人に、なんという奴っ!!」
女性のドレスが破れていたことから、後ろから襲いかかってきた男がどういった意図を持っていたかは、普通の人ならすぐわかったでしょう。けれど、漁人の王は男女に関することについて何も知りませんでしたから、彼の場合は「いい年をした男が、自分の娘ほども年の離れた若い女性を『殴ろうとしている』」と、本当にそう思い、怒り心頭に発したものと思われます。
この頃、漁人の王はある町に立ち寄った時、親切な鍛冶屋に一本の剣を作ってもらっていましたから、例の呪われた剣の他に、見事な意匠の剣をもう一本佩剣していましたが、その剣すら抜くことなく――この酔っ払って下卑た振るまいに及んだ中年男をちょっとした体術のみによって失神させていました。
「大丈夫ですか、お嬢さん!?」
「はい。ありがとうございます、どこの国の方ともわからぬ騎士さま……わたくしはすぐそばにあるお城のほうで、さる高貴な方に仕えている侍女なのでございます。どうか、ご主人さまがお喜びになるでしょうから、お礼に宴会をともにしていただきとう存じます」
「いやあ、そんな。私はただ、騎士として当たり前のことをしただけでして……」
漁人の王はこの時、若い侍女の申し出を断ろうとしましたが、運悪く「グウ~」とお腹が鳴ってしまいましたもので、彼女の親切な勧めに従い、「それではまあ、お食事だけ……」と、一緒に近くの湖のほとりにあるお城まで行くことになりました。
このお城には見目麗しい若い女性がたくさんいて、みな、城の主の奥方であるイグロンさま、その娘で、湖の姫とも呼ばれるイネスさまにお仕えしているのでした。城の主であるリウェイン男爵は、いかなる理由によってかはわかりませんでしたが、とにかく留守にしておられ、暫くの間はお帰りになる予定がないとのことでした。
湖の姫にとって大切な友達である侍女のひとりを助けてくれたということで、漁人の王は非常に歓待されました。次から次へと運ばれてくる豪華なご馳走、その間も続く見目麗しい娘たちの踊りや音楽……漁人の王は、イグロンとイネスという美しい女性ふたりに挟まれた格好で食事をしていましたが、とてもお腹が空いていましたので、暫くの間はひたすら出されたものを食べてばかりいたものでした。
けれども、イグロンとイネスがそれぞれ左右からこの地方きっての銘酒というワインを勧めても、「それでは一口……」と漁人の王が言うことはなく、彼はお酒については一滴も飲もうとはしなかったのです。それでも、野宿が続いてすっかり疲れ切っていたところに美味しいものをたくさん食べたので、お腹のほうがくちくなるとすっかり眠くなってしまいました。
イグロンにとってもイネスにとっても、大切なのは<結果>でしたから、ふたりは「これは好都合」といったように目配せすると、頑なに辞退しようとする漁人の王に、「せめても一晩だけお泊まりになっていってくださいませ」としつこく言い、最後には美しい何人もの侍女たちがお城の出口に続く門を輪になって封鎖することまでして、漁人の王がこの城へ泊まっていくようにさせたのでした。
この段になると、漁人の王にしても本当のことを話さないのはフェアではないように感じられ、自分が帯剣している呪われた剣のことを話し、「あなた方に何かの不幸が及ぶといけませんから」と言って城から出ていこうとしました。ところが、この話を聞くとイグロンとイネスのみならず、その場にいた侍女たちはみな泣きだし、そういった不幸を背負い込むことになった漁人の王の運命に対し、非常に同情してくれたのです。
彼女たちの優しい涙と心遣いに、最後には漁人の王までが泣いてしまいました。というのも、彼はずっとひとりきりで旅を続けてきたのですし、そうした自分の不幸に同情してくれる人に初めて出会ったからでもありました。そうしたわけで、漁人の王はその日、この美しい女性たちに勧められるがまま、湖のお城のほうへ一晩だけという約束で泊まることにしたのでした。
漁人の王が豪奢なベッドに横になり、(このような寝心地のいいベッドに自分が寝ることは、二度とあるまい)などと思いつつ、眠りに落ちていった夜半のことでした。彼がふと目覚めて見ると、すぐ隣では湖の姫イネスが横になっていました。驚いた漁人の王は、すぐに仕度をして城から出ていこうとしましたが、お姫さまはそんな漁人の王のことを見るなり、しくしく悲しそうに泣いています。
「わたくしの、一体何がそんなに気に入らないのですか……?」
「いえ、気に入らないなどと、とんでもございません」と、漁人の王は慌てて言いました。「先ほどお話しましたとおり、私には旅の目的があるのでございます。眠ろうとする前にも、ここでこんなにも豪華なお食事をしてしまったことも、その目的に反することでなかったかと反省しておったところ。それゆえ、これ以上のことは決してなりませぬ。それではお姫さま、ごきげんよう」
漁人の王がなんのためらいもなく出ていこうとすると、イネスは必死にあの手この手を使い、彼のことを寝室に引き止めようとしました。
「もしかして、助けた侍女のほうがお好みでしたか?それともお母さま?もしそうでしたら、はっきりそうおっしゃってください。とにかくわたしたちは、あなたさまにお礼がしたいだけなのですから」
「お礼であれば、つい先ほど受け取りました……それも、お礼以上のものを。それは、あなた方美しいご婦人たちの、私の不幸に対する真心からの同情と優しさ、それに悲しみの涙です」
こうとまで言われては、イネスも漁人の王のことを行かせないわけにいきませんでした。けれども、イネスの母イグロンは、娘以上に邪悪で奸智に長けておりましたので、城門から出ていこうとする漁人の王に城塔の上からこう呼びかけたのでした。
「お待ちなさい、旅の騎士よ。よくもわたくしの娘に恥をかかせてくれましたね」
「いえ、決してそのようなことは……」
漁人の王はすっかり戸惑い、困ってしまいました。見上げると、城の胸壁には見目麗しい侍女たちがズラリと並んでいるのが、星や月の輝き、それに篝火の照り返しによって妙にはっきり浮かんで見えます。
「イネスはあんなにあなたさまをお慕いしているというのに、なんということでしょう。あなたも男なら、もう一度城の中へ戻って来なさい。娘を傷物にされて、もし夫が戻ってきたら、わたくしは母として一体どのような申し開きができましょう」
「それは誤解です、イグロンさま。きっと、イネスさまにお聞きくだされば、私が潔白であることを必ず証明してくださるはずです」
漁人の王は、闇の中目を凝らして、城の胸壁に並ぶ女性たちの中に湖の姫イネスの姿を懸命に探そうとしましたが、どうやらその中に彼女の姿はないようでした。すると、やがて侍女たちがみな悲しげにすすり泣きをはじめます。
「お願いでございます、お優しい騎士さま。どうか、どうかわたしたちの美しい湖の姫イネスさまとご結婚を……」
「そうすれば、リウェイン男爵はあなたさまに爵位を譲られ、あなたさまはこの地方一帯を治める王にも等しい方となれましょう」
「何より、一晩だけご関係を持たれて捨てられたとあっては、イネスさまももう男性のことなどお信じになれないことでしょう。お慈悲でございます、お優しい騎士さま。このような恥がこの地方一帯に広まる前に、どうかイネスさまとご一緒になってくださいませ」
侍女たちのこの言葉を聞いて、むしろ漁人の王の心は頑なになりました。もはや何を話してもこの不幸な誤解は解けまいと思い、彼がそのまま城門を出ていこうとした時のことです。
「お待ち!この城を出ていく前にこれを見るがいいっ!!」
妖妃イグロンは、自分の背後にいた者の髪の毛をがしっと掴むと、漁人の王の目によく見えるよう、篝火の下にまでこの侍女のことを連れて来ました。彼女は漁人の王が助けた、あの侍女でした。次の瞬間、漁人の王が「あっ!!」と思う間もなく、この娘は城塔の上からイグロンに突き飛ばされ、墜落しました。
城塔の高さは軽く十メートル以上はありましたから、もし仮にまだ生きていたとしても、大怪我をしているか、虫の息かのいずれかだったでしょう。城は堀に囲まれていましたが、侍女の体は堀の水の上ではなく、城塔の真下、城を支える土塁、それに槍といった障害物のあるところに落ちていたからです。
「なんという酷いことを……っ!!」
漁人の王はすっかり恐ろしくなるのと同時、だんだんにわかってきました。イグロンが恐ろしい悪魔のような女であり、見目麗しい胸壁に並ぶ侍女たちも――彼女のことを恐れるあまり、イグロンが気に入るようなことを口にしているに過ぎないのだということが。
「お願いです、お優しい騎士さま……このままではわたくしたちまでもが………」
侍女たちのすすり泣きはより一層悲愴なものになってゆきます。
「どうか、わたしたちを助けると思って、お城の中へお戻りくださいませ」
彼女たちがこんなふうに嘆いていると、イグロンの魔手は次の侍女の体へと伸ばされてゆきました。
「ああっ!!」
若く美しい侍女は、イグロンに胸壁の上から突き飛ばされましたが、彼女は堀の水の上に落ちるかという寸前で――一羽の大きなコウモリに姿を変え、漁人の王のほうへやって来ました。
『お逃げください、騎士さま……!!どのみちわたくしたちはもう、みな助かりません……っ』
漁人の王は、闇の中、まるでこのコウモリに導かれでもするように、逃げ出しました。乙女たちの叫び声が続き、一度だけ後ろを彼が振り返ると――なんと恐ろしいことでしょう!!妖妃イグロンが侍女たちを全員、次々と胸壁の上から突き落としているところだったのです。
(ああ、神さま……っ!!何も出来ない力なきこの私を、どうかお許しくださいませ……)
漁人の王がふと気づくと、闇の森の中、黒いコウモリの姿はどこかに消えていました。やがて、遠くに夜明けの虹色の光が一条輝きはじめると、漁人の王は深く嘆息して、こう思ったものでした。
「本当に、あのお姫さまの言ったとおりだった。私はきっと、自分の手に負えぬ難事に手を出したに過ぎないのだ……私は、この嘆きの剣の本当の恐ろしさというものを、今の今までまったく何も知りもしなかったのだから……」
漁人の王を襲う不幸はさらに続きました。彼が旅を続けて野山を彷徨っていると、リウェイン男爵に仕える騎士だという男が馬に乗ってやって来るではありませんか。
「いざ勝負!いざ勝負!!貴様、我が男爵さまの奥方とその娘、さらには侍女たちを汚しておいて、逃れられると思うなよ!!」
「な、なな、なんだってッ!?」
漁人の王はまったく驚いてしまいました。ところが、この憤怒に燃える騎士の一方的な攻撃があまりにすさまじく、漁人の王に弁解する隙すらまったく与えません。
「恥を知れ!!リウェイン男爵の奥方と姫を手篭めにし、若く美しい侍女たちにも淫らの限りを尽くした騎士の風上にも置けぬ男よ!!私は誓った。貴様の首を刈り取るまでは、決して湖の城へは帰らぬということをな」
「誤解だと言ったところで、貴公はまったく受けつけまいな!!」
かくなる上は、剣と剣で決着を着ける以外なさそうでした。漁人の王は憤怒の騎士と長く打ち合い、正午頃から戦いはじめ、陽が暮れようかという頃になり――この騎士の首を逆に冑ごと刈り取っていたのです。
精魂尽き果てるまで戦い、漁人の王はその場にバタリと倒れ込みました。そして目が覚めてのち、(こんなことばかりが続くのなら、いっそのこと私のほうが死ぬべきだったのではないか……)とすら漁人の王は思いました。それでも最終的に、(それではこの呪いの剣の思う壷ではないか……)と考え直すことが出来、第一それではなんの根本的な解決にすらなっていないと思い直したのです。
漁人の王は、名前もわからぬ憤怒の騎士の亡骸を、近くにあった寺院にて手厚く葬りました。そしてこの時、寺院の僧侶に何故このようないきさつになったのかと聞かれ、漁人の王は何かの懺悔でもするように、自分の身の上話をしていました。すると、この聖なる僧侶はある有難い助言を漁人の王にしてくださったのです。
「ここから北東の砂漠に、ローゼンクランツ城砦という聖なる天使たちの導きによって造られた場所があります。そこで天啓を求められてみてはいかがですか?」
漁人の王は「そうしてみます」と、昔は騎士であったという僧侶に答え、さらに旅を続けました。漁人の王にとっては、呪いの剣の呪いを解くことの出来る望みはそのくらいしかありませんでしたので、ローゼンクランツ城砦を造るよう導いてくださったという天使たちが、この嘆きの剣の呪いを解いてくださるか、もしそれが無理でも、なんらかの方法を教えてくださるに違いないと信じたのです。
けれど、その昔<ライアノア大王の都>と呼ばれた場所から、漁人の王がさらに砂漠へ向けて旅をしようとしていた時のことでした。例の憤怒の騎士の兄だという男が現れて、「弟の仇だ!いざ勝負!!」などと言い、漁人の王にしつこく纏わりつきはじめたのです。
漁人の王は、あんな無意味で無益な戦いはもうご免でしたから、憤怒の騎士とは違い、この男が少しは分別があり、正々堂々と騎士らしく戦おうとするのを見て、順に事情を説明しはじめました。リウェイン男爵の妻子を辱めてなどいないこと、その侍女たちにもなんの手出しもしていないこと、にも関わらず突然憤怒の騎士に「問答無用」とばかり襲われて、戦わざるをえなかったことなど……憤怒の騎士の兄である嫉妬の騎士は、漁人の王が近くの寺院に彼の弟を手厚く葬ったと聞くと、最後には「それはまったくもってかたじけない」と言って、落涙していたほどでした。
「弟は小さな頃から、怒りに我を忘れると、人の話をよく聞かないという悪癖がありましてな。ですが、よくよくご事情を聞いてみますと、悪いのは弟のほうだったようでござる。ところでわしはあれの兄。弟のした不始末については償うのが道理と申すもの。あなたさまの旅の供をし、何かのお役に立ちたいと思いますが、いかがかと?」
ですが、漁人の王は、自分の旅の目的を話し、嫉妬の騎士にはついてくるのを諦めてもらうことにしました。お気持ちは嬉しいのだが、自分の旅には常に思いがけないことがついてまわり、いつか私とあなたが戦うという結果になるかもわからない、と。
けれども、嫉妬の騎士はしつこく漁人の王につきまとい続けました。実は事はこうしたことだったのです。嫉妬の騎士は嫉妬深い性格をしておりましたので、漁人の王は呪いの剣の呪いを解くという冒険の褒美をすっかり自分のものにしてしまいたいがゆえに、自分の同行を拒んだにすぎないと考えていたのでした。
漁人の王はその後も、嫉妬の騎士が行く先々の町や村に姿を現すので、最初は驚き戸惑いましたが、とうとう根負けして彼と一緒に旅をすることになりました。嫉妬の騎士はほんのちょっとしたことにもすぐ嫉妬を覚える男ではありましたが、そこのところだけ気をつけていればつきあいやすい男でもあったからです。「自分より料理の量が多い」とか、「旅籠のいいベッドで寝ている」といったようなことですぐブツブツ文句を言いだすのでしたが、漁人の王にとってそうしたことはどうでもいいことでしたので、すぐ彼に良いほうを譲ってあげることが出来ました。
やがて、ライオネス城砦までやって来ると、煌びやかな騎士の一団とすれ違いました。それはライオネル騎士団の一団だったのですが、嫉妬の騎士がその中のひとりと話すのを見て、漁人の王は「知りあいなのですか?」と聞きました。すると彼は、肩を竦めてこう言いました。「あれは従兄弟の虚栄の騎士です。騎士としては大した腕もないのに、鎧兜や盾、それに剣などを煌びやかに飾ることだけが好きだという、しょうもない男です。わしと弟はあいつと会うたびに何故だかムカムカするので、よくいじめてやったものです」
(どうやらこれは、関わりあいにならないほうがよさそうだぞ)と漁人の王は思い、それ以上は深く聞きませんでした。ところが虚栄の騎士は友達の高慢の騎士を連れて来ると、ふたりが泊まっている旅籠を訪ねて来たのです。「久しぶりじゃないか、我が友よ。こんな機会は滅多にあるものではないのだから、酒を飲みながら語らおうではないか」……漁人の王は、虚栄の騎士と従兄弟でもなければ、高慢の騎士と知己というわけでもありませんでしたので、この誘いを断りました。ところが、嫉妬の騎士は旅籠の一階へ下りていくと、夜は酒場になるらしいその場所で、どんちゃん騒ぎをはじめたのです。
漁人の王はその騒ぎを(うるさいなあ)と夢うつつに思っていましたが、それでもただ眠ることにだけ集中しようと頑張りました。ところが夜半に突然どんどんドアを叩かれ、いい気持ちで寝ていたところを結局叩き起こされていたのです。「あんたの連れが、虚栄の騎士と高慢の騎士と喧嘩になって手がつけられないんだ。助けてくれ!!」と宿の主人が申すもので、漁人の王は階下へおりていくことにしました。
見ると、嫉妬の騎士は大剣を振り回して大暴れ。宿の主人の話では、つまりはこうしたことでした。虚栄の騎士と高慢の騎士が、自分たちの騎士団がいかに立派か、給金その他の保障がいかに手厚いか、騎士団長は立派な人物で云々……などと、長々自慢話ばかりするもので、嫉妬の騎士はついには激しい嫉妬に駆られ、ふたりの騎士に大怪我を負わせ追い出したということだったのです。
「な、なんということを……」
ですが、酔いのほうがすっかり醒め、嫉妬の騎士がさめざめ後悔の涙を流しているのを見ると、漁人の王はこの旅の友にすっかり同情し、翌朝早々にはこのライオネス城砦を出ることにしたわけです。
ふたりは二頭のルパルカを手に入れると、厳しい砂漠の旅を続け、遂には目的とするローゼンクランツ城砦へと辿り着きました。そしてローゼンクランツ騎士団を訪ねると、事情のほうをすっかり話し、どうすべきかの指示を仰ごうとしました。
ですが、時のローゼンクランツ騎士団の騎士団長の言葉を聞くと、漁人の王は失望のあまりがっかりしたものです。というのも、「わざわざおいでくださったのに申し訳ないが、どうやらそれは我々の手には余る問題のようだ。王さまにもご相談してみたが、もしかしたらここからさらに北にあるヴィンゲン寺院の僧侶さま方なら、そのような恐ろしい剣の呪いを解く方法をご存知かもしれないと、そうおっしゃっておいででしてな」ということだったからです。
この時、嫉妬の騎士はまた従兄弟の怠惰の騎士と出会うと、久しぶりに会ったせいもあってか、ふたりはすっかり意気投合し、「この住み良い町でこれからは暮らしてゆこうと思います」と言って、漁人の王から離れてゆきました。ですが、漁人の王は深い失望にも関わらず、この旅を諦めようとはしませんでした。ローゼンクランツ騎士団の人々は「送っていって差し上げましょう」とすら申し出てくださったのですが、このような立派な騎士さま方を何かの不幸に巻き込むのは良くないと考え、漁人の王はひとりぼっちの旅を続けるということにしたのです。
漁人の王はその後も、色々な不幸や誘惑に会い続けましたが、ギルデンスターン城砦を経由し、砂漠のオアシスや小さな村や町などに立ち寄りつつ、最終的にヴィンゲン寺院の岩屋の僧院にまで辿り着くことが出来ました。時の修道院長は漁人の王の話をすっかり聞くと、「神々に天啓を伺いましょう」と言ってくださり、その日から僧院を上げて呪われた剣の呪いを解く方法を星神・星母に祈りの中で聞くということになったのでした。
漁人の王がやって来て四十日後、ついに一同に天啓が下り、その日、僧院の岩屋は地震によって大きく揺れ、天空は日蝕によって陽が翳った……と言い伝えられています。そして、その暗闇の中、雷鳴が閃いたかと思うと、祭壇の上に捧げ置かれていた嘆きの剣に一撃を加えたのです。こうして、この呪われた剣は聖なる神々の力によって粉々になり、砂漠の砂とまったく同じようになると、風にさらわれて見えなくなりました。
もちろんこれで、本当に嘆きの剣の呪いが完全に潰え去ったのかどうか、漁人の王にはわかりませんでしたし、確信と呼べるような神々からの語りかけを直接心や魂に聞いたというわけでもありません。ですが、彼はそのことを心の底から信じ、ヴィンゲン寺院の力ある僧侶さま方に岩屋の床に頭をこすりつつ感謝したのでした。
「聖なる僧侶さま方に、ここまでのことをしていただきながら、何もお返しすることも出来ぬ我が身が呪わしい。本当にみなさま方、ありがとうございます。本当に、本当に……っ!!」
「とんでもないことです、立派な旅の騎士さま」と、修道院長はそう言って、漁人の王に立ち上がるよう手で合図しました。「僧院という場所は、このようなことのためにこそあるところなのですから。きっとこれで、この嘆きの剣をロットバルト王国へもたらした国の方々も呪いが解け、万民が平和のうちに暮らしてゆけましょう。ロットバルト王家に代々かかっていた呪いもこれで解けたはずです。また、すなわちそれはエレゼ海の主、リヴァイアサンの怒りが解けたということでもあります。ロットバルト王国もまた、あなたさまがお帰りになる頃には再び、海の宝物によって富んだ国となっておることでしょう。それらはみなすべて、あなたさまが長く旅をし、艱難辛苦を乗り越え、はるばるここまでやって来られたからこそ起きた奇跡……むしろ我々こそ、そのようなあなたさまを十分にもてなすことも出来ず、申し訳ないくらいです」
「いえいえ、私ごときにここまで気を遣っていただき、こちらこそ、まったくもって申し訳ないやらもったいないやら……」
漁人の王は、さらに八日間ヴィンゲン寺院に留まり、聖なる僧たちと嘆きの剣の呪いが解けたことに対する感謝の祈祷を捧げてのち、ロットバルト王国へと帰って来ました。途中、ギルデンスターン王国やローゼンクランツ王国へ立ち寄り、お世話になった人々に旅の目的の成就を知らせ、ともに星神・星母の御名を讃えました。憤怒の騎士の遺骸を手厚く葬った寺院のほうへも、「そもそも、そのように僧侶さまがご教示くださったからこそ、私めはローゼンクランツ王国へ旅立つという志しを持つことが出来たのでございます」と、深々と頭を下げてお礼を申し上げたのでした。
ロットバルト王国へのさらなる帰り道、漁人の王はあの恐ろしい妖妃イグロンと湖の姫イネスのいた、あの立派な石造りの城のあったあたりを通りかかったわけですが――そこにはただ、崩れかかった石造りの城の遺構が残っているばかりだったものです。
「まったく、不思議なこともあったものだ……」
漁人の王は湖に流れ込む、清らかな川の流れを背にすると、さらに旅を続け、師匠ゴルネマンツからいただいた鎧、冑、盾、馬……といったように順に失った場所も通りすぎ、とうとう自分の出身国であるロットバルト王国へと戻ってきました。
ところが、あれから何年も過ぎていたからでございましょうか。ロットバルト騎士団に彼のことを覚えているものは誰もいなかったのです。旅ののしかかる苦労と苦悩がすっかり漁人の王の容貌を変えていたというせいもあったでしょうが、彼が「我こそは呪われた嘆きの剣を帯びて旅立ち、その呪いを解きて帰りし者」と名乗っても、「おお、貴殿があの……!」と思い出す者すらひとりもいませんでした。
むしろ、「もし仮にそうであったとて、その証拠は一体どこに?」などと、馬鹿にしたようにからかわれるという始末だったのです。せめて、騎士団長のゴルネマンツが生きていたら良かったのでしょうが、彼は漁人の王が旅立った五年後、突然の心臓発作で亡くなっていたのでした。そのことをロットバルト騎士団の騎士たちに聞いた時、胸を刺し貫くような痛みが漁人の王を襲いました。
「まったく、嘆きの剣とはよく言ったものよ。この世における姿かたちを失くしてなお、その呪いは今も生きているが如く、この身に降りかかりおったわい」
漁人の王は、特にこのことに対する褒美が欲しかったというわけではなく、ただロットバルト王家にかかっているという呪いが果たして本当に解けたかどうかが気になって、王宮のほうへ出かけていきました。けれども、漁人の王が初めて王都へやって来た時以上に輪をかけて貧乏くさく見えたからでしょう。彼はただ城の門番に追い返されて終わっていました。
それでも、自分が王国にいなかった間に先代の王が亡くなり、その王子さまが今ではなんの健康問題も抱えておらず、さらには玉のように元気な赤ちゃんにも次々と恵まれている――との話を城下町で聞くと、「おそらくは間違いなくロットバルト王家に代々伝わる呪いは解けたに相違あるまい」と、漁人の王は確信を持つことが出来ました。
こうして、漁人の王は王都をもあとにし、自分の生まれ故郷の小さな漁村へ戻って来ました。ここでも、彼がかつて「ロットバルト騎士団の騎士になる!!」と言って飛び出していったことを覚えている人は誰もありませんでした。漁人の王は海のほとりに小さな家屋を建てると、そこで騎士になる前そうしていたように、魚や蟹や海老などを採ってつましく暮らしてゆきました。
世界は、そもそも最初から嘆きの剣など存在していなかったように平和でした。ただ、昔のように海は荒れてばかりいることはなく、今では漁師たちは沖のほうまで行って海の色々な宝をその網の中へ捕えて帰ってくることが出来ましたし、豊漁の年が続き、漁師たちの暮らしは非常に祝福され続けているようです。
もっとも、そのことを漁人の王に感謝する者は誰もいませんでしたし、彼の騎士としての立派な偉業と神の成してくださった奇跡について、故郷の国で褒め称えてくれる者がひとりとしてあったわけでもありません。けれども、漁人の王は満足でした。まるで、彼が騎士となって非常な艱難辛苦を乗り越えなかったとしても、漁人の王の人生の最初と最後は、何ひとつ変わっていなかったかのようにすら思われますが、彼はその違いについて知っていました。そしてそのことは、ただ漁人の王自身と神だけが知っていればいいという、そうした出来事なのだと、彼はそう思っていたのです。
その後、漁人の王は自分が経験した冒険譚について書き記すと、ゴルネマンツの騎士の息子の元まで持っていき、「あなたのお父さんには昔、大変お世話になりましたから」と言って、その書物を託したのでした。
こうしてのち、名もなき漁人の王は「まるで人生で何も成さなかったかのような人」として、静かに亡くなりました。ただ、彼がいつどのようにして亡くなかったかを知っている人は誰もありません。何故なら自分が死ぬという八日前に、漁人の王はある啓示を海の洞窟の中で祈っている時に受けたのです。その海洞海門を通り抜けたところにある、小舟でしかやって来れない場所は、漁人の王のお気に入りの場所でした。
『今からちょうど一週間後に、あなたは死ぬだろう。だが、そのことをあなたは嘆く必要はない。何故なら、すべての人生の悲しみはすでに通り過ぎ、あなたの行く手にはただ永遠の歓びだけが待っているのだから……!!』
夢の中、海の波濤の間から聴こえてきたその声は、北のヴィンゲン寺院で神鳴りの中聴いたように感じた声と、とてもよく似ていました。すでに何ひとつこの世に思い残すことのない漁人の王は、このことをとても喜びました。そこで、自分の人生の冒険について書き記した書物をゴルネマンツの子孫に託すと、あとはただ連日、この神の啓示を受けた海の洞窟で祈りに専心していたのでした。
漁人の王は幸福でした。そして実際に、彼が想像していた以上に素晴らしいことが起きました。彼は死を味わわずして肉体の死を経験し、その魂は海の波濤を渡り、遥か遠くの国へと運ばれていったからです。
「漁人の王よ、お目覚めになられましたか……?」
漁人の王は、海の洞窟の中で目を覚ますと驚きました。肩のあたりを揺すって彼のことを起こしたのは、とても美しい女の人だったからです。と、同時に彼は、彼女のことをどこかで見たような気もしたのですが、何度思いだそうとしても、やはり思い出せませんでした。
「やあ。これはどうもどうも、かたじけない……」
まるで寝ぼけている人でもあるかのように、漁人の王はそんなことを口走り、頭をボリボリかいていました。そんな彼の様子を笑うように、美しい姫は微笑んで見ています。
「嘆きの剣の呪いを解いていただき、誠にありがとうございました。父とも話した結果、あなたさまこそは我々の眷属の一員として相応しい者として認められることになったのですよ。あなたさまこそ、わたくしのお婿さまとして相応しいお方……さあ、永遠の国へともに参りましょう」
竜王リヴァイアサンの娘が漁人の王の手を取ると、ふたりはそのまま海の波濤を渡り、ずっと遠くの国へと旅立ってゆきました。このひとつの魂とも、ふたつの魂とも思われるふたりは、時に踊りながら、笑いながら、そして歌いさざめきながら――海の至るところで永遠の愛の契りを、今も交わし続けているということです。
>>続く。