第三章 バミュール邸での密議 4-7
この回で、第一巻「ヒューリオ高原の戦い(后篇)」は終わりです。
続いて第二巻「祭のおわり」をUP予定です。
よろしかったらご覧下さい。
そしていまクエンティの躰は、広いバミュール家の庭苑の端に置かれている、白い椅子の上にあった。
陽はもうとうの昔に沈み切り、いまは満天の星が空に輝いている。
秋を象徴する〝ユニコーン座〟が西の夜空に浮かび、辺りには虫の音が絶え間なく響いている。
彼の左隣には埋めるべくもない過ぎ去った時間を持て余すかのように、沈黙したままのフェリップ婦人ダイレナの姿があった。
あれほどうるさかった虫の音が一瞬途切れた。
「お元気だったのですね──」
長い沈黙に耐えられず、ダイレナが口を開いた。
「すいませんでした──」
ぽつりとそれだけを返す。
「なにをお謝りになっているのですか、バラードさま」
「すいません──、いまはクエンティと名乗っています」
「でもあなたはわたくしにとっては、いまでもバラードさまです。そうお呼びしてもよろしいでしょ」
「すいません」
「ふふっ、謝ってばかりなのですね。昔からそうでしたわ、可笑しな方」
「すいません」
「ほら又そうやって──」
そういってクエンティの横顔を見た刹那、たった一筋ではあるが彼女の瞳から涙が流れた。
二十年の歳月を込めた一筋である。
「謝るのはわたくしの方です、あなたがお迎えに来るのを待っていると約束しましたのに、他人の妻になってしまいました。さぞ怒っていらっしゃるでしょうね──」
「いいえ、悪いのはわたしの方だ。あなたには本当にすまないと思っている」
「あなたはご結婚なさってるのですか」
「いいえ、未だに一人です──」
「まあ、未だに・・・」
ダイレナの顔が曇る。
「でもね、これだけは信じて下さい。わたくしは待ったのです、あなたが再び目の前に現れてくれるのを。一年半待ちました、でもあなたは来てくださらなかった。たった一言の言葉もなく居なくなってしまわれた」
「すまない、わたしはあなたに会う資格のない男になってしまったのです。二度とあなたの前に姿を見せることはないと思っていました。それが思いも掛けずこんなことになるとは、世間とは不思議なものです」
「わたくし死のうとしましたのよ、こんな気の強い女がとお笑いになるでしょ。でも本当に生きているのが嫌になったのです、あなたのいない一生などなんの価値もないもののように思い詰めていました。でもいまのわたくしは倖せです、優しく寛大な夫に可愛い子供もいます。あの時に死ねなくて本当によかった、あなたには申し訳ないことですが」
左手首の飾り布を軽く擦りながら、ダイレナが微笑む。
「生きていてくれてよかった。もしあなたが自ら命を絶ったと知ったならば、わたしもその時に死んでいたでしょう。あなたがフェリップに嫁いだと噂に聞いた時、わたしは心の底から嬉しかった。彼ならあなたを倖せにしてくれる、一生大切にしてくれると確信できたからです。負け惜しみや嫉妬ではありません、本心からそう思いました」
「ありがとう、いまのわたくしは本当に倖せです。思えばあの若く短い日々は一体なんだったのでしょうか、毎日がきらきらと輝いて見えていた。明日も明後日も、ずっとそんな日々が続くと信じていました、遠くレノリア湖へ行った夏の夜を覚えていらっしゃいますか」
彼女は懐かしむように、若き日の思い出話しを始める。
「忘れることなど出来るはずがありません、あの時もこんな星の降るような夜だった。いまでも夕べのことのように目に浮かびます、わたしの人生で最高の瞬間だった」
フェリップは星空を見上げた。
「空にも湖面にも無数の星が瞬き、その静寂の中であなたはわたくしを見詰めて、好きだと言って下さった。あの時が初めてだったのですよ、殿方と口づけをしたのは」
まるで恥じらう少女のようにダイレナが俯く。
「わたしも初めてだった、あの夜のあなたの唇の感触がいまでも忘れられない。緊張しすぎてて多分うまく出来なかったと思うが──」
クエンティの顔がまるで少年のように、恥かし気に赤く染まっている。
「嬉しかった、あなたから告白されるのをずっと待っていたのです。あの夜わたくしの心はあなたのものになりました、生涯をこの方と共にと心に決めたのです」
ダイレナの顔は、二十年前の乙女の表情になっていた。
はにかんだように伏せた睫毛には、先程流した涙の滴がまだ微かに残っていた。
「まさかバラン家のお姫さまが、わたしなどの告白を受けて下さるなど思ってもいなかった、まるで夢の中にいるような気持ちでした。あの時これは現実ではないんだろうと、なん度も自分で自分の手の甲を抓ったんですよ。わたしの生涯であの瞬間以上の時は二度と巡って来ない、わたしは倖せの真っ只中にいたんです」
「わたくしも倖せでした、あなたを初めてみた時から恋に落ちてしまったんですもの。いろんな方がわたくしに言い拠ってこられたけど、わたくしの心を動かした方は誰もいなった。でもあなたを一目見た時に感じたのです、わたしが一生を寄り添うのはこの方以外にいないと。なのにあなたはわたくしに話し掛けてさえくれなかった、それからの半年間、どんなにあなたを待っていたか想像できますか」
「すいません──」
「ほら又謝ってばかり。あなたはずっとわたくしに、すまないすまないとばかりおっしゃってた。こんなに男らしいお方が、わたくしの前ではまるで気の弱い少年みたいになられて。そこが可愛くってわたくしもつい強いことを言って、あなたをからかってばかりいましたね」
当時を思い出し、ダイレナの唇に笑みが浮かぶ。
「なにもかもが夢だったのです、若さが見せたひと夏の夢。哀しいからこそ美しい、若さゆえに眩しい。叶わないから心から離れない、恋とはそういうものなのかもしれない」
「やっぱりあなたはいまでも詩人なのですね、あの頃のあなたの口から出てくるのは、美しい言葉ばかりだった。フェリップからはそんな言葉は聞いたことがない、あの方は現実的なんです。真摯に真っ直ぐな言葉でわたくしを愛してくれる、いつだって全力でわたくしを守ってくれる。申し分のない夫です、彼じゃなかったら先の騒動の時に、わたくしは処刑されていたことでしょう。彼は一族の全力を挙げてわたくしを庇って下さった、並の人に出来ることではありません」
「お父上が亡くなられた後、バラン家の人間をすべて処刑するというお触れが国中に回った。あのときわたしはこの屋敷に駆けつけたのです、万が一の時にはあなたをここから連れ出し、異国へ逃れようと思ってね。しかしわたしの目に映ったのは、一万三千もの兵たちで固められた館の姿だった。やはりフェリップは頼むに足る男だとつくづく感心させられた、奴は男の中の男だった」
「ええ立派なお方です。だから此度もきっとあなたと二人して、国を正しい方向へと導いて下さるとわたくしは信じております」
「もう夜も更けて来た、わたしはこの辺でお暇しよう」
「お会いできてよろしゅうございました、多分これで言葉を交わすのは最後なのでしょうね」
「ああ、もう二度と逢わないほうがいい」
「ええ、そうですね──」
「最後に訊いていいですか・・・」
「どうぞ」
「もし生まれ変わったら、今度はわたしの妻になってくれますか──」
「・・・・・」
ダイレナは頷きもせず、首を振りもせず、泣いているのか笑っているのか分からない表情で、ただ黙ってクエンティを見詰めた。
「──よかった、あなたはフェリップを愛しているのですね。これでわたしの長年の気持ちがすっきりしました。いつまでもお幸せにお暮しください」
「あなたも、バラード・・・」
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