八尺様はメンヘラ激重女
人生には旅に出たくなるときがある。
それは自分探しと言われたり、逃避行とか食い倒れの旅などと言われるものだ。大学二年生の夏。いろいろあったことが片付いたのを機に私――一和七子は当てのない旅に出た。そこで私はある男と出会った。このときの出来事を男は人生最低の日と呼び、私は人生最良の日と呼んだ。
この日、私は海を見るために両手にスケッチブックを掲げていた。
『舞鶴まで 無理なら近くまででいいです』
真夏の太陽は傾きかけたとはいえ、SPF50の日焼け止めクリームをやすやすと透過して肌に突き刺さる。頬を汗が滑り落ちる。流れる汗のわりに国道には人通りも車通りもない。この道でヒッチハイクをしながら二時間。すでに太陽は西に傾いている。今夜は風呂なし飯なしの野宿か、それも青春っぽいと諦めかけたときだった。ハートを揺り動かす低い振動音が聞こえた。前方からは一つ目のバイクがかなりの速度で向かってきていた。私は国道の中央に踊りだすとバイクに向かってスケッチブックを叩いて見せる。
バイクの持ち主は、可憐で清楚な私が助けを求めているのがすぐにわかったのだろう。ブレーキランプを夕日よりも赤く点灯させて、地面に派手に車体をこすりつけながら止まった。そこまで身体を張って私のために停まってくれたのは嬉しいが、やややりすぎだと思う。
私は倒れたバイカーのもとに駆け寄る。白いワンピースと不釣り合いな薄茶色のバックパックに吊り下げたホーロー鍋がカンカンと音を立てるが、可愛らしい女子である私を損なうものではない。
「あのー。私、旅の途中なんですけど近くの街まで送ってもらえませんか?」
白いワンピースに見えそうで見えない脚のラインを意識しながらしゃがんで声をかける。バイカーはいきなり現れた美少女に言葉も出ないのか。ヘルメットを左右に揺れ動かすばかりだった。私は奥手なバイカーのためにヘルメットのロックを外し、ヘルメットをすぽんと引き抜いた。年のころは私と同じくらいか少し上くらいだろうかまずまず整った顔だが、どうにも腰抜けの気がある。動物で言えばイタチだろう。
バイカーは私の姿を認めると腰の抜けた無様な様子でバイクに背を預けて「く、来るな」と震えた声を出した。これには温厚な私も激おこで、バイカーの頭に飛流直下三千尺のチョップを食らわせた。
「私はか弱いヒッチハイカー。舞鶴まで乗せてほしいだけなんですよ」
私が微笑むとバイカーはなにかの堰が開いたように悲鳴をあげた。そして、私の脚にすがりつくと「助けてくれ。頼む」と何度も繰り返した。絵ずらとしてはワンピースの美少女にすがりつく脚フェチにしか見えないので蹴り飛ばして、彼の首ねっこをつかみ上げ、耳元に声をかける。
「いいですよ。あなたを助けましょう。そのかわり、お代はきちんとたっぷりたんまりとりますよ」
男は言葉が少しわからないような顔をしたがすぐに数度も頷いて「追われてるんだ」と言った。
私は彼が来た方を見るが何かがやってくる様子はない。先ほどと変わらない静かな国道と限界都市一歩手前の田畑とちょこちょこと頭をみえる家々があるだけだ。夕暮れの赤だけが人工物のように濃くて気持ちが悪い。
「何もいませんけど?」
私は男が正気かを見定めるように彼の瞳を覗き込んだ。うっすらと彼の瞳に見目麗しい女性の姿が見える。白いワンピースにバックパッカーが好みそうな大きなリュック。つまり、私である。
「いや、追ってきてるはずなんだ。ずっと聞こえる気がするんだ」
聞こえる? なんだろうか?
この男は借金取りか質の悪い女に追い回され続けて頭があっぱぱーになって変な声が聞こえているのかもしれない。だとすれば早々に人通りのある所まで送ってもらって、さようならするのが一番だろう。私が男にバイクを起こして立ち上がるように促したときだった。
――ぽぽぽ
急に破裂音が連続して聞こえた。
動物では発することのない音だ。唇の中で小さく弾ける空気の振動。音の出どころは国道の彼方だった。夕日がちらちらと何かにあたって揺れる。それはいきなり現れたように見えた。ゆっくりとしていたが確実にこちらに向かっている。男はそれの声が聞こえると私のか細い身体の後ろで身を固くした。正直、立ち位置が逆じゃないか、と思う。
――ぽぽぽ、ぽぽぽ
それが十メートルほどの距離に来てようやく、私に似た真っ白なワンピースの女の姿だと分かった。そして、それが見上げるほど大きな姿だということも。血のようなややトーンのかかった赤い帽子をかぶっていても、人の形を模していても人ではない何かだということも。感覚的にわかった。毛が逆立ちそうになるほどの違和感だった。
「あれだよ。あれがずっと追いかけてきて」
「良かったですね。あなたは運がいい」
「そん訳ないだろ。あんなのに追われるなんて最悪だ。人生最悪の日だ」
「いいえ、あなたは最高に運がいい。人生最良の日です。貴重な経験ですよ」
私はあれを直接見たことはない。
だが、あれについては知っている。有名すぎるネット怪談だ。
『八尺様』
田舎の祖父のもとに帰省した青年が出会った怪異。明らかに人を超える身長に赤い帽子に白いワンピースを着たそれに魅入られると、数日のうちに取り殺されるという。家の中で身をひそめた青年をあぶりだすために様々な声色を使うその性質は、知性があるものだと示しながらも対話する意思がないことを表していた。物語では青年は親族の協力で田舎から脱出して事なきを得る。が、数年後に八尺様を封じていたという地蔵が壊されて、八尺様が外に放たれたと後味の悪い形で話は終わる。
「貴重なって……」
男は慌てて逃げようとバイクを起こして、焦る手でエンジンをかけようとするがセルがひどく頼りない音をあげるだけで、力強いエンジン音はしなかった。私は持っていたスケッチブックにペンを走らせるとページを破り裂いて私と『八尺様』の間に置いた。
『行き止まり』
八尺様はそれだけで歩みを止めた。ただ、そこにいることは分かるのか止まったまま真っ赤な目を瞬きさせることもなく「ぽぽぽ」と破裂音を鳴らしている。
「これで、しばらくは大丈夫です。なんせ、いまこの道は行き止まりになりました。進めません」
「……何をしたんだ? それに君はあれを知っているのか!?」
バイカーが大きな声を出すと八尺様が激しく反応して破裂音が連続する。
「落ち着いてください。まず、私は君ではなく一和七子です。あなたは?」
「俺は佐藤だけど……」
「佐藤さん、甘そうな名前ですね。その甘さが良かったのでしょう本当に運がいい。こういうときに私という専門家がいるなんて、殺人事件のときに名探偵が同席するくらいの幸運です。まぁ、犯人でなければ出すけど」
私は立ち上がると名探偵っぽい気取った口調で微笑んだ。
「……専門家?」
「そうです。怪異の専門家」
「そんなものがあるのか」
「ありますよ。ワインならソムリエ。犯した罪を減刑されたいなら弁護士。税金をちょろまかしたいなら会計士。いろいろな専門家がいるように怪異にもあるのです。さて、ではあれがなにかからお話を始めましょう」
私は八尺様を指さす。
「君はあれを知っているのか?」
「君ではありません。一和です。私は初めて見ましたが、怪異のなかでは有名です。それも近年になってから。ネット怪談ってご存じですか? いわゆる都市伝説とか怪談のインターネット上で流行ったものといえばいいでしょうか。その中でもエース格といえる『八尺様』と言われるものです」
「はっ、八尺様?」
「簡単に言えば、主に若い男子をかどわかす怪異と言えばいいでしょう。まぁ、かどわかしたあとナニをするかは分かりませんが。いい趣味をしてますよね」
とはいえ、伝わっている話を想像すればどういうものかは知れてくるものだ。
「……どうしてあいつは止まってるんだ。俺たちの目の前にいるのに」
「簡単な話です。いま地面に『行き止まり』と書いた紙を置きました。よく聞きませんか。神棚のある家で神棚の上に部屋がある場合、神棚の上に『天』と書いた紙を貼って誰も神様の上を歩いたりしてませんよ、と神様を騙す呪いのこと。それと同じです。あれの進路の道に『行き止まり』を作ったんです。だから、あれは進めなくなった」
言葉は古い呪いの一種である。意味のないはずの音や図形が、規則を持って並ぶことで言葉や文字となって意味を帯びる。それはどこかの宗教的に言えば『最初に言葉あり』ということで創世の力だといえるのだろう。
「去れって書けば消えてくれるんじゃ?」
「それは難しいですね。この道は行き止まりです、は状態を表しますけど、去れは相手の意志そのものに干渉しすぎています。ネゴシエーションの基本は押しつけではなく、引き出すことなんです。命令すれば反発されるだけです」
「じゃ、このままどうするんだ?」
「そうですね。まずはあれがどうして佐藤さんを狙うのか、から始めましょう。怪談では青年が生垣よりも背の高い八尺様を見たことから始まります。つまり、八尺様が現れるのはそれを『見る』ことが起点になる。佐藤さんはいつあれを見たんですか?」
「俺はツーリングをしていたんだ。その途中で工事か何かで通行止めになっていて、近くにいた爺さんに迂回された。それから数百メートルくらい進んだときだったと思う。あれの頭が見えた。真っ赤な帽子がT字路の右手からやってくるのが見えた。塀よりも高いところにあの真っ赤な帽子だ。すぐに変だと思った。そして、T字の合流であれの全身が見えたとき身震いしたよ。異常な大きさにポポポっていう変な声。俺は一気に加速してあれもいない路地を抜けた。だが、走ってるうちに聞こえるんだ。ポポポって。ミラーを見ればあれが後ろにいる。それからはずっと走り続けた。最後は一和さんが飛び出してきてこのざまだよ」
やはり、変だと思う。
昔から『見る』という行為は呪いを含んでいた。ギリシャの怪物ゴルゴーンは見たものを石に変え、ケルト神話のバロールは視界に入ったものを殺すという。つまり、邪視というものは相手を見ることで相手に影響を与える。だが、八尺様は逆なのである。
見た側が影響を受ける。まるで見たことで何か入られたように。
だから、『魅入られる』のか。私は八尺様の怪談を思い返して納得した。
「見たから入られた、ということでしょうか。佐藤さんは歴史はお得意ですか?」
「いや、あまり」
「教養は大切ですよ。料理のさしすせそは、砂糖、塩、酢、醤油、ソース。合コンのさしすせそは、さすが、知らなかった、少しだけ、先端だけでいいから、そんなこと言わないで、という具合に日常生活を助けてくれるわけです」
「絶対に違う言葉が混ざっていたんだが」
佐藤が私を胡散臭そうに睨んでくる。名前の割には甘くない人らしい。だが、こんな緊迫した状況でもウィットなジョークセンスを保てることを評価してほしいものだ。
「日常は日々進歩してるんです。アップデートです。アップデートって普通のデートの上位互換みたいな感じしません? プロポーズでもされそうな感じ。……では次は歴史の問題です。三種の神器をお答えください」
「神器って伊勢神宮とかにある? 草薙剣、八咫鏡、八尺瓊勾玉」
「正解ですけど面白みがありませんね。家電の三種の神器を答えてくれても良かったのに」
「答えたらこの状況から解放されるのか?」
「いいえ、全然まったく解放も解決もしません。私が面白いだけです。ですが、一応の答えは出ていますね。疑問だったんです。八尺様が人に害をなす怪異だとしてどうして『様』なんて敬称を使うのか。」
「……そりゃ怖いからだろ?」
「なるほど、怖いから。それなかなか正しい気がします。一和ポイントを一点さしあげます」
「それが貯まっていいことは?」
「十点で私が微笑んであげます。ハンバーガーショップと違ってタダじゃないあたり人道的ですよね。それはそうと様なんて偉くないとつけてもらえません。河童は尻子玉を抜く恐ろしいものですが、河童様とは呼ばれない。妖怪の総大将といわれるぬらりひょんも様はつけられない。なぜ、八尺様には様をつけるのか。つまり、八尺様が神だからです。そして神は怖いものなのです」
「あれが神様?」
佐藤が恐ろしそうに八尺様の足元から上までをゆっくりと見つめる。
「神様がどうして人を襲うんだ? 神様っていうのは人にご利益を与えるものだろう」
「それはあまりに神様に失礼ですよ。十円とか五円を賽銭箱に投げ込まれて「億万長者にしてください」とか「才色兼備でジョークも上手い恋人がほしい」とか願われても神様としてはスパチャ安くない? って思いますよね。そもそも、この国の神様は願いを叶えると言う物じゃないんです。ほとんどの神様は恐ろしいなのですから」
「神様が恐ろしい?」
「そうですよ。この国では恐ろしいものが神様にされるです。簡単なところでは自然信仰です。人の手ではどうしようもない天候や恵みを与えてくれる半面で危険を多くはらんだ山々、そう言った恐ろしいものが神様として祀り上げられてきました。他にも天神様で有名な菅原道真。彼は権力者に無実の罪を着せられて大宰府に左遷され、恨みを持って怨霊になったとされ。彼の死後、祟りが起きた。道真の政敵は雷に撃たれたり、病で死んだ。その怨念を慰めるために菅原道真は神として祀り上げられ、いまでは学問の神様です。でも、どちらも恐ろしい、と人々が考えたから祀り上げられたのです。そんな神が願い事なんて叶えてはくれないでしょう」
「なら、どうして願い事をするんだ」
「そんなの簡単じゃないですか。本来はどうか私たちを祟らないでください、とか山から無事帰れますようにみたいなことを願ったんです。自分を祟らないでください。危害を加えないでくださいって。それがいつの間にか祟り恐れることから、願望をかなえてほしいに変わってしまった。神様はそんな願い聞き入れないのに」
神は神。人は人。どこまでもその理屈は交わらないし、お互いの意思なんてものは分かり合えない。
「……じゃ、あれが神様ならどうしようもないってことか?」
八尺様に視線を向けて佐藤が言う。八尺様は見えない壁を叩くようにスケッチブックの上の空を叩く、手が振り下ろされるたびにスケッチブックが揺れる。
「どうしようもないですが、それをどうにかするのが専門家です。おめでとうございます。やはり、佐藤さんにとって今日は人生最良の日ですよ。相手は全知全能の唯一神ではなく、目の前には見目麗しい専門家がいる。こんなラッキーはありません」
私が誇ると佐藤は嘘だろと言いたそうに口をパクパクさせた。
「では、八尺様がどんな神様か考えてみましょう」
じっと八尺様を見る。白いワンピースに真っ赤な帽子を着た女性に見える。普通に見えないのは、その大きさだろう。百六十二センチの私を垂直に二つ重ねた巨大な体躯に、不釣り合いに女性的で細い身体。その口から吐き出される「ぽぽぽ」という破裂音。見えるはずなのに輪郭の像を捉えられない顔。それが八尺様だ。
「どんなって……。大きさだろ」
確かに八尺という大きさはざっくり二百五十センチ。誤差はあれど名は体を表すにこれほどぴったりなことはない。ただ、怪異としてはそれほど大きいものではない。山をも越える大きさの『だいだら法師』や
「みこし入道」など大きなものがいる。だが、それらはただ大きいわけではない。だいだら法師は山や陸、盆地を作った話が多く、それらは国造りの神々から別れた巨人の妖だ。みこし入道は、その姿を見上げた者の首をかき斬る。人は何かを見上げると自然と顎があがり首が無防備になる。そこを斬るということは見えている入道はまやかしで首を斬る何かが正体なのだろう。
つまり、大きいことが本質ではない。
ならば八尺様とはなにか。
「はっしゃくさま……はっしゃく……ああ、そうか」
「なにがそうか、なんだよ」
行き止まりを叩き壊そうとする八尺様に佐藤がバイクにすがりついたままこちらに逆切れの様に叫ぶ。
「八尺様を『はっしゃくさま』と呼ぶからややこしいのです。『やさかさま』と呼べば分かりやすいのです」
八尺瓊勾玉と同じく「やさか」と読めば捉え方も変わってくる。「やさか」には大きなもの、連なるもの。栄える。というほかに、思いが募る。という意味がある。八尺瓊勾玉を名のまま考えれば、大きな赤い勾玉となる。だが、神話のなかでは岩戸に隠れた天照大神に捧げられたり、素戔嗚尊が天照大神に二心無いことを宣誓する際にささげられている。どちらも天照大神に募る思いを告げるために用意された勾玉だと言える。
「やさかさま?」
「そうです。募る思いの神様ということです。そして、おそらくは八尺様の依り代は勾玉のような装飾品だったのだと思います」
「なんでそんなことが分かる?」
「八尺様に魅入られるのは、こちらが八尺様を見たときなんです。見られたときじゃないんです」
佐藤は違いが分からないというような顔をした。身体はまだバイクにすがりついたままなので、なにをしようとしているのか分からない姿に見える。
「世界で一番古い呪術は『見る』ということだと言われています。よく邪眼とか魔眼とか聞きませんか? あれは見ることで相手に害を与えることです。では、それに対抗するにはどうすればいいのか? 『見る』呪術への対抗策は見られないこと。ようは視線を向けられなければいい。例えば地味な女性でも派手な服装に映える宝石を身につければ華やかに見えるように視線を散らしてやるんです」
「散らす? それが宝飾品」
「そうです。海外にはそういう魔眼除けの呪いとして男性器をモチーフにしたチャームが見つかっています。すごいですよね」
「いや、すごいけど……」
「男性の人は良く銭湯で他の男性のアレを見て『勝った』とか『負けた』と思うそうですね」
「……いや、うん、その」
歯切れの悪い佐藤を無視して私は続ける。
「そんなわけで、八尺様を見ることで生じる怪異なのは、あれの正体が思いの募った装飾品だから、こちらが見たことで、カウンター的に現れるんです。考えても見てください。道で行き合った男性に見られたってだけで募る思いをぶつけて追い回すなんてクッソ重い女の典型じゃありませんか? 今で言えばメンヘラですよ」
「メンヘラってそんな。それが正体だって言うならどうしようもないじゃないか?」
「だから、祀り上げられた。怖いですからね、メンヘラって」
「怖いけど、どうすれば?」
「知ってます? メンヘラって執着するわりには移り気なんですよ」
「はっ?」
「ネットロアの中で八尺様を見た青年の祖父は、いざというときは祖父が身代わりになるつもりだと言うんです。それって八尺様のターゲットは変わることを示していますし、祖父はその方法を知っている、ということでもあります。遠くの相手より、近い相手。本当にメンヘラですよね」
私は腰の引けたままバイクに取りついている佐藤をきちんと立たせるともう一度、バイクのエンジンをかけるように促した。転倒してから時間が経ったからか、エンジン内のガソリンが上手く気化したのか。三度目でバイクは鼓動を再開した。
「動いたけどどうする?」
「それは決まってるじゃないですか? 佐藤さんが来た道を戻るんです」
「戻る?! そんなことして」
何もない空間から板の割れるような音がして佐藤の言葉が停止する。見れば八尺様の前に置いた行き止まりがボロボロになっていた。もう持たないだろう。
「さぁ、時間はありませんよ。メンヘラはあっという間に来ますよ」
私はバイクの後ろに飛び乗ると前のシートをドンドンと叩いた。佐藤はなにかを諦めたのか。シートにまたがると一度大きくエンジンを吹かして「わかったよ」と叫んだ。バイクは一気に加速すると道路を半周して八尺様の真横を駆けた。
表情の読めない八尺様の顔がじぃってこちらを追尾して手が揺れるが、バイクには届かなかった。夕暮れでも湿気と熱をはらんだ空気は風になってもまとわりつくようだった。加速するバイクの荷台から後ろを見ると八尺様が歩くように追いかけてきているのが見える。歩くほどの足の動きにもかかわらず、バイクにぴったりとついてくるのはやはりあれが人でないことを示していた。
「ひっ」
ミラーを見たのか佐藤が悲鳴をあげる。私はスピードを上げるように手を前に伸ばして降ると、風が強くなった。人通りの少ない田舎の国道だったのが救いだった。スピード違反に信号無視。ヘルメット着用違反。免停になりそうな違反の総合デパートのままバイクは古い町並みに入り込んだ。
町に入り込んでいくつかの路地を曲がると年寄りのお爺さんと中年の男性たちが立ち入り禁止と書かれた黄色と黒の看板を運んでいた。私は「止めて」と佐藤の耳元で叫ぶと、彼はハンドルをフラフラさせながらバイクを止めた。
「佐藤さん。道を迂回するように言ったのはこのお爺さんですか?」
「ああ、そうだけど」
「本当に? お爺さんのよく目を見て答えてください」
私が言うと佐藤はじっとお爺さんを見た。反対にお爺さんは「えっ」と驚いた顔をした。
「間違いない。このお爺さんだ」
私はその言葉を聞くと佐藤の頭を掴んでごめんなさい、とばかりに下を向かせて「このまま、目をつぶっていてください。何があっても目を開けないように」と囁いた。
「工事中って割には工事業者に見えませんね」
「な、なにが言いたいんだ。それにその男は!?」
明らかに焦った様子のお爺さんと中年男性たちが私たちの前に立ちふさがる。それぞれの服装は休日のお父さんといった感じで統一感がない。
「いけません。いけませんよ。怪異に出くわすのは本人の勝手ですけど、出くわすように細工をするのはいけません」
私が口を開くとお爺さんたちは目を見開いて怒りを露わにした。
「何を言う! 俺らが何をしたっていうんだ」
「どこの誰だ! 偉そうに」
思い思いの敵意を悪口をこちらに向ける彼らに私は微笑む。ただで微笑むなんてサービス過多だがある種の優しさである。
「わざと道を封鎖して、八尺様の出る場所にバイカーを誘導した。悪意百パーセントの純度ありありだと思いますけどね」
八尺様の名前を出すと急に数人が言葉を濁し、残りの人間がさらに敵意をこちらに向ける。
「お前さんが何を知っとるか知らんが、ずっと町中にあれがいる俺らの気持ちなど分かるまい」
話の中で八尺様は地蔵に囲まれた限られた地域を歩いてるのだという。ならば、その地域に住む人というのは常にその危険があるということなのだろう。だが、それを誰かに押し付けるというのはあまりに理不尽で卑怯だろう。
「分かりませんよ。分かってたまるものですか?」
私が不貞腐れた子供のように言うとお爺さんの後ろにいたおじさんがこちらに殴りかかってきた。私はじっと彼の顔を見る。彼の瞳には私が写り、そのあと私の背後が写ったように見えた。白いワンピースに赤い帽子。身の丈は私の倍。それが誰かなどすぐにわかった。
背後に八尺様がいる。
私と佐藤からは見えない。背中に目でもない限り見えない。
だが、お爺さんやおじさんたちはそうではない。彼らは私たちのほうを向いていた。それは自然と私たちの背後を見ることになる。きっとこのときだろう。彼らは八尺様に魅入られた。お爺さんが「嫌だ」と言って踵を返そうとするが「ぽぽぽ」という破裂音が耳の横を通ったときには地面に倒れ込み、うわ言をつぶやいて倒れる。
その次は別の男が倒れ、逃げていく男がさらに倒れる。数名の男が逃げ散っていった。ぽぽぽ、という破裂音はもう聞こえない。私は「もういいですよ」と佐藤に告げるが、彼はぎゅっと目を閉ざして開けない。
どうやら私が目を開けないようにと言ったのを守っているらしい。
めんどくさい。と思って私は思いっきり彼の太ももを蹴った。ワンピースがふわっと広がる。はしたないがきっと見目麗しい私がやることだ。美しく見えただろう。
「痛っ!」
衝撃で叫んで目を開けた佐藤に「メンヘラは別の男のところに行きました。残念でしたね。振られてしまいましたよ」と伝えた。勝手に好かれて勝手に振られた佐藤は「……あそう」と淡白な返事をした。
「じゃ、早く私を舞鶴まで送ってください」
「……めっちゃ遠いんだけど?」
「助けたじゃないですか? 命の恩人ですよ。これは人生かけて返してくれてもいいくらいですよ」
「なにそれめちゃ重い女じゃないか」
「八尺様に魅入られたかな?」
そう言って私は笑った。