3 右が左、下が上になった日
月明りと、頼りない2つのランタンが照らす、深夜1時の田舎道は、当然人通りなどなく、泣きたくなるほどお粗末な地図と、緊張に緊張をかぶせていい加減で掛け算したような手綱さばきでさえ、意外となんとかなるもんだ。
いかれたあおりかたの早馬をやり過ごせば、右へ左へ分岐が続く王の街道も、ご先祖様の神通力で迷う事なく、気付けば目的地ラーグルの港の停車場に、たっぷり朝まで居眠りができる時間には到着した。
深夜3時頃、馬車から外した我が家の馬は、そのまま草地ですやすや寝ている。
そして俺は、もこもこした昼間の残熱を半端にふき散らかす汐風にあたり、寝そべって波間を見ていた。茂みの虫の音と船着き場の石組が吸った波の音を聞くとは無しに聴きながら夜釣りをしていた。
もちろん竿などない。 潮目もいまいち解らず、手首に巻いたテグスにでたらめに結んだ仕掛けと、さっき捕まえたカニの半身を針に繋いで、クジラでも釣る気であたりを待っている。
見がギャンブルの大半の時間であることは釣りにも同じで、たぶんあの時王国で一番、何かをしながら何か起きないかを期待していた男でいたことと思う。
暇に気づくとなんとなく帽子の具合が気になりだして、目深にかぶったそれを外してようやく。
星がすごいことなってる。帽子を外すと途端明るく感じるほど。頭上に数多広がる星の蠢きに息をのんだ。普段はこんな夜中に外など出ない。田舎に住みながら夜空と無縁の日々を生きていた自分に呆れた。
大魔王は世界の半分をやるから勘弁してくれと持ちかけてくるそうだが、世界など大地と同義。
大地より太陽より大きい星がこれほど小さく見える宇宙で、しかも大地に暮らしてて何が世界をだ。
大魔王よ、この夜空を観て同じ事を言えたら話を聞いてやる。久しぶりにじっくり眺めた空を見てそんなことを考えてた。
――明日にはすべてが変わる。ソルベールと卒業以来1年ぶりに会う。
浮かれていた。すごく、浮かれていた。
あっという間の朝は、快晴の朝で、割合暑い朝だった。
居眠りから覚めたのは十分日が昇った頃だった。
慌ててあたりを見回すと、我が家の馬は飼い主よりもいぎたなく、昨日最後に見た場所で横になりしぶとくスヤスヤ寝ていた。
俺は、帽子を拾い、釣り道具を片付けると無理やり、むにゃむにゃしている老馬を引っ張って、馬車につなぐ。
そして、朝一番の船便を待つ出迎えの列に並んだ。
◇◇
「久しぶり! 元気だった?」
記憶の中のソルベールと全く同じ声をした、まったく垢抜け髪が肩まで伸びた天使が俺の目をみてそう言った。
薄ピンクのリボンが目を惹く、艶のある真っ白なトキヤ草の幅広帽をかぶり、淡緑色のワンピースを纏った、同い年の女の子。微笑む彼女の美しさは、さながら絵画世界からこの世に使わされた使者。
俺は、元気だったように見えたらいいな、とほとんど祈るような気持ちで、
「もちろん! 君も元気そうで安心したよ」と、答えた。
久しぶりに会ってみると、どうやらお互い変わったのかもしれない。
いつだって学園は楽しいものであったし、それはなかなか確かなことで、それは、学園があったレーヌの町でのあらゆる出来事、ただ昼寝して無為にすごした時間さえ、煌びやかな暮らしの一部だったのかも、との想念を半ば本気で肯定できるほどの宝物のような記憶。
あいさつもそこそこに、気の置けない仲であることを頭が忘れないうちにソルベールからトランクを受け取り、馬車に積む。
本来、学園の外で対等に口をきける関係ではない。学園を出て肌で感じた常識の一つだ。
つとめて敬語にならないように、あの頃と俺は変わってないよと自分でも信じたくて、明るく振る舞った朝だった。
「君の活躍を紙面で読んだよ。 ずいぶん忙しいみたいだね」
ソルベールは得意顔を作って、
「そうよ。 あたしもいまや一端のレディになったの」
ともすれば俯きそうになる。こういうときは相手の喉をみるといいよ、とのタムの教えを思い出す。
「それじゃ行こうか」綺麗に笑えたと思う。
「手紙貰って嬉しかったよ。君が僕のこと忘れてなかったって」
言ってて胸が苦しくなる。半ば本気で言った言葉だから。
「あら。 あなたはずいぶん忘れっぽいのね? いつかラースを案内するって言うから楽しみにしてたのよ?」
「もちろん僕は忘れないよ。 記憶しておくべきことが君より少なくて済む分楽だしね」
言ってしまってから、皮肉に聞こえたらまずいと慌てて、言葉をつなぐ。
「それから、今日の予定だけど、まずはラースの村から少し南に行った港町フォンルーフを案内するよ。 とっても綺麗なとこなんだ。そこで昼食にしようよ」
ソルベールは、昨晩見た星空が霞むほど美しい微笑を浮かべ、
「お任せするわ」と言った。
あんまりじろじろ見るのも悪いと思い、いそいそと馬車のシートに案内した。
幌馬車の御者席に並んで腰かけたのを確認し、俺は膝に手製の地図を広げると、老馬に手綱で合図する。
「さあ出発!」
停車場を出て右手、港町フォンルーフへ続く街道の道行き。さっそく馬が下生えに頭を突っ込み朝飯をもしゃもしゃやりだした。
飼い主がソルベールを出迎えている間に、オーツ麦をたんまり食べたはずなのに、信じがたいことに馬具をつけたまま食事をしてやがる。無理やり鞭を入れれば馬車が脱輪しかねない。
それさえ分かっているように、ふざけた馬はひたすらのんびりしていた。
一連を見たソルベールは、鈴を鳴らすようにケラケラ笑った。
午前8時、空は快晴、長い、あっという間の旅がこんな感じで始まった。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
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