蓋付き個室
これは、真夏のトイレの個室に籠もっている、ある男子生徒の話。
うだるように暑い夏、蒸し暑い公衆トイレの中。
その男子生徒は、個室の中に閉じ籠もっていた。
もうどれくらいの時間、そうして便座に腰を下ろしているのか。
思い出すことも出来ない。
額は汗びっしょり、顎からは汗の雫が落ちていた。
その男子生徒が通う学校は、夏休みの真っ最中。
こんな暑い日は、冷房が効いている家で涼んでいたいところ。
しかし、その男子生徒は受験を控えた受験生なのでそうもいかない。
予備校の夏期講習に出席するため、
楽園のような家から、
カンカン照りの日差しの下に出ていかざるを得なかった。
「それで予備校へ向かう途中に、
急にお腹が痛くなって、
こうして公衆トイレに駆け込んだんだったっけ。」
その男子生徒は汗の雫と共にそんな言葉を漏らした。
公衆トイレの個室の中で、独り言は続く。
「夏期講習、行きたくないな。
暑いし、勉強は面倒だし。」
すると、
自分以外に誰もいないと思っていたトイレの中に、何者かの声が響き渡った。
「なんだ。
お前も夏期講習に行く途中だったのか。」
「だ、誰だ!?」
その男子生徒は慌てて周囲を伺う。
何者かの声は、公衆トイレの個室の壁の向こうから聞こえている。
どうやら、隣の個室に人が入っていたようだ。
隣の個室の人に、独り言が聞こえてしまったらしい。
独り言を聞かれて気まずい思いをしていると、
隣の個室からさらに声が聞こえてきた。
「夏期講習も学校も面倒だよな。
俺もだよ。
夏期講習なんてサボって、どこかに走りに行きたいよ。」
右隣の個室から聞こえてくるその声は、
声色からして、その男子生徒と同じくらいの年頃に思える。
低い声の男子生徒の声だった。
話しかけてくれているのに、黙ったままなのも気まずい。
その男子生徒はおずおずと応えた。
「あ、ああ、そうだね。
君は走るのが好きなのか。」
「おう、そうさ。
俺、こう見えても陸上部のエースなんだぜ。
もっとも、お互いに個室の中じゃ姿は見えないけどな。」
そう言ってカラカラと笑う。
低い声の男子生徒は、快活な性格をしているようだ。
すると、今度は逆隣、
左隣の個室からも声が聞こえてきた。
「相変わらず君は運動のことばかり考えているね。
・・・おっと、これは失礼。
私も予備校の夏期講習に行く途中なんだ。
君達の声が聞こえてね、つい口を挟んでしまった。」
そう話すその声も、その男子生徒と同じくらいの年代、
甲高い声の男子生徒だった。
すると、
今度はさらにその向こう側の個室から、僅かに声が聞こえてきた。
「いいなぁ。
君達の悩みは勉強のことだけで。
ぼくなんて学校に馴染めなくて、
そもそも勉強どころじゃないっていうのに。」
小さくて聴こえ辛いその声も、やはりその男子生徒と同年代、
小さい声の男子生徒だった。
つまりこの公衆トイレの個室には、
左側から順番に、
小さい声の男子生徒、甲高い声の男子生徒、その男子生徒、低い声の男子生徒、
その4人がそれぞれ入っていたのだった。
その男子生徒は、
予備校の夏期講習に向かう途中で腹痛を催して、
公衆トイレの個室に入った。
その公衆トイレの個室には、
その男子生徒を含めて4人の男子生徒達が入っていた。
そして、その男子生徒が溢した独り言が元で、
個室の壁越しに4人の男子生徒達のおしゃべりが始まったのだった。
お互いの話によれば、4人の男子生徒達は皆同学年で、
同じ予備校の夏期講習に向かう途中だったらしい。
同学年の生徒同士、自己紹介がてら会話が弾んでいく。
その男子生徒が、誰にともなく話しかけた。
「それにしても、
こんな暑い日に夏期講習なんて、本当に面倒だよね。」
そんな愚痴に、低い声の男子生徒が笑いながら応える。
「全くだ。
でも、夏にやるから夏期講習って言うんだけどな!」
甲高い声の男子生徒が、呆れたように言う。
「そう言うと思っていたよ。
どうせ君は、暑かろうが涼しかろうが勉強は嫌いなんだろう。」
その指摘に、小さい声の男子生徒が横槍を入れる。
「勉強が好きな人なんて、そうそういないと思うよ。
そういう君だって、夏期講習なんて退屈って言ってたじゃない。」
「私の場合は、夏期講習は簡単すぎて退屈なんだよ。
学校の教科書の範囲のことは、もう先に勉強を終えてしまったからね。
さっさと先を勉強したいんだ。」
甲高い声の男子生徒のそんな言葉に、
左右の壁の向こうから、やいのやいのと言葉が入り乱れて飛ぶ。
「お前、教科書全部勉強したのか?
その頭、俺にも分けてくれよ。
俺は、学校の勉強にすらついて行けなくて、
こうして夏期講習なんて行くことになったんだよ。」
「悩み事が勉強だけなら、まだ良いじゃない。
ぼくなんて、学校には馴染めないし成績も良くないし。
考えなきゃいけないことが多すぎて。」
「僕は成績は平均くらいかな。
でも、成績が良かろうが悪かろうが、
どちらにしろ夏期講習には行ったほうが良いと言われたよ。」
「勉強からは逃れられないんだなぁ。
科学の教科書なんてカタカナ言葉ばっかり。
何回勉強しようが、俺は覚えられる気がしないよ。」
「自然科学の法則には、
外国の学者の名前が付けられてることが多いからね。
日本人には理解するのが難しいのも、無理もないかもしれない。」
「そうなんだよ。
あれじゃまるで、年表を暗記させられる歴史の授業みたいだ。」
「ぼくは運動が苦手だから、
体育が無い夏期講習はむしろ有り難いよ。
でも出来ることなら、家で一人で勉強してたいけどね。
それだと、分からないことがあった時に困るから、
先生に質問できる夏期講習に行くことにしたんだけど。」
「俺だったら、例え先生に質問しても、
帰る頃には忘れてるけどな。」
低い声の男子生徒がカラカラと笑う。
それにつられて、他の3人の男子生徒達も思わず吹き出す。
そうしてその4人の男子生徒達は、
各々が個室に入ったままで和気藹々と打ち解けていった。
その4人の男子生徒達の、個室の壁越しの会話は、
その後も続いていた。
勉強の話から始まり、家のこと、流行っていること、
果ては好きな人のことにまで話は及ぶ。
その様子はまるで、修学旅行の就寝時間の様。
その4人の男子生徒達はお互いに初対面、
さらには個室に入っていて顔が見えないことが、
返って話をし易くしている様だった。
「こんなに気が合う4人が、
同じ公衆トイレの個室に集まっただなんて。」
「どんな巡り合わせなんだろうな。」
「きっと、私達の普段の行いが良かったんだろうね。」
「それはどうか分からないけど。
でもこんな事、滅多に起こらないよね。」
そうしてその4人の男子生徒達は、4人揃って巡り合えた事を楽しんでいた。
その4人の男子生徒達が話し込むことしばらく。
その男子生徒は、ふと思い付いて声をあげた。
「しまった。
随分長いこと話し込んじゃったな。」
「そうか?
今、何時なのか、誰か分かるか?」
「分からないけど、外に出て話さないか?
4人で個室を占領してるのも何だし。
ここは暑くて、僕はもう汗だくだよ。
君達も暑いだろう。」
至極当然の提案をしたつもりだった。
しかし、その男子生徒の言葉に、すぐに返事は返ってこなかった。
会話が止まって、しばしの静寂。
何か悪いことを言ってしまっただろうか。
その男子生徒がもう一度尋ねようとした、その時。
他の3人の男子生徒達から、返事がやっと返ってきた。
「・・・そうしたいのは山々なんだけどな。」
「ちょっと難しいかもしれないね。」
「うん。
ぼくもそう思う。」
3人の男子生徒達の返事に、その男子生徒は首を傾げる。
トイレから出るのが無理とは、どういうことだろう。
まだお腹が痛いということだろうか。
その理由はすぐに分かった。
「・・・このトイレの扉、ノブが無い。」
その男子生徒が口にした通り、
トイレの個室の扉にはノブが付いていなかった。
つるつると掴みどころのない、真っ平らな壁が四方を囲んでいる。
掴めそうな突起などは全く見当たらない。
試しに扉を押してみるが、びくともしなかった。
扉をガタガタと揺する気配に、3人の男子生徒達が言う。
「わかっただろう?
この個室の扉は、内側からは開けられないんだ。」
「俺達も随分試したんだけどな。
どうしても無理だったよ。」
「4つの個室の扉が全部同じだということは、
故障してるわけじゃないんだろうね。
きっとこういう構造なんだよ。」
口々に言う3人の男子生徒達に、その男子生徒は思わず食って掛かった。
「つまり諦めろって言うのか?
出られない個室なんて、あるわけがない。
扉が壊れた時に備えて、何か用意があるはずだ。」
キョロキョロと個室の中を見渡す。
しかし個室の中には、非常事態を知らせるブザーなども無い。
また、扉を外せるような仕掛けも見当たらなかった。
それでも活路を求めて個室の中を探し回る。
足元を覗き込んでも何も見当たらない。
それならばと、その男子生徒は頭上を見上げた。
公衆トイレの個室は、上が吹き抜けになっているはず。
すると思った通り、個室の上には外の世界が広がっていた。
その男子生徒は安心して、3人の男子生徒達に向かって言った。
「扉は開かないけど、上が開いてる。
個室の上から外に出よう。
他にもトイレを使う人はいるだろうし、ドアが開かないって知らせないと。」
しかし3人の応えは、それにも消極的だった。
「・・・上か。
それは気が付かなかった。」
「君は賢いね。
それとも、しぶといと言うべきか。」
「いずれにせよ、ぼくたちはもう出られない。
出られるのは君だけだよ。」
言われたことがよくわからない。
上から出られないとは、壁を登れないということだろうか。
例えば、足を怪我しているとか。
・・・まあいい。
自分が先に外に出て、
上から引っ張り上げるなり、人を呼んでくるなりすればいい。
その男子生徒は個室の壁の向こうに話しかけた。
「分かった。
じゃあ僕が先に外に出るから、みんなそこで待っててくれ。」
その男子生徒は袖を捲ると、個室の壁をよじ登り始めたのだった。
個室の壁は掴まる場所も無く滑りやすいものだった。
しかし、狭い個室なのが幸いした。
個室の壁に背中と足を突いて、体を挟み込むようにして、
その男子生徒は上へ上へと登っていった。
トイレの個室にしては随分と高い位置まで登りきって、
やっと個室の外に登ることが出来たのだった。
これで他の3人の男子生徒達も上から引っ張り上げられないだろうか。
そう思ったのだが、どうも出来そうもない。
というのも、その男子生徒が入っていた個室以外、
3人の男子生徒達が入っているであろう個室の上には、
しっかりと蓋がされていたからだった。
その男子生徒は腕組みをして言った。
「個室の上が開いてない。
蓋が被せられちゃってる。
これじゃ、上から引っ張り上げるのは無理みたいだ。」
のっぺりと被さった蓋の中から、3人の男子生徒達の声が聞こえる。
「やっぱり無理か。
俺達の個室の蓋は、随分前に閉じてしまったからな。
気にせず、お前は外に出てくれ。」
「私達はここに長居しすぎたからね。
でも、君はまだ間に合うかもしれない。」
「ぼくたちの体じゃ、どっちにしろ無理だったと思うよ。」
また3人でよく分からない話をしている。
足が良くないとか、体調が良くないとか、そういうことだろうか。
蓋が被さっているせいで、
個室の中にいる3人がどうなっているのか、その様子を見ることはできない。
仕方がなく、その男子生徒は、
壁の上から個室の外に下りると、3人の男子生徒達に向かって声をかけた。
「わかった。
じゃあ、僕は外に出て人を呼んでくるから、
君達3人はそこで待っていてくれ。
こんなに暑くて狭い場所にいたら、具合が悪くなってしまうよ。
急がなきゃ。
続きは後で話そう。」
その男子生徒は踵を返すと、観音開きの扉を開けて、
公衆トイレの外へと出ていった。
個室の中から気配だけを察して、3人の男子生徒達は口を開いた。
「・・・あいつ、行ったみたいだな。
こうして4人でずっと一緒にいたかったけど、
それは無理ってものだよな。」
「そうだね。
でも私は、君達と話すのが楽しかったよ。
またどこかで逢おう。」
「二度あることは三度あるって言うもの。
またいつか、こうして集まることが出来るよね。」
その男子生徒が出ていった観音開きの扉が、まだバタンバタンと揺れている。
その扉が締まり切ると共に、
公衆トイレには静寂が訪れたのだった。
公衆トイレの外。
広くて立派な建物を、黒い喪服に身を包んだ人達が出入りしている。
その建物の一室、遺体安置所と書かれた部屋に、
4つの棺桶が並べて置かれていた。
それは、ある事故の犠牲者の棺桶。
不幸にも事故に巻き込まれて亡くなった4人の男子生徒達の亡骸が、
棺桶に納められているところだった。
遺体の損傷が激しいということで、
遺族ではなく業者の男達が納棺を行っていた。
4つの棺桶の内、3つの棺桶は、
遺体を納め終わって既に蓋が閉じられている。
残る1つの棺桶の蓋は、開けられたまま。
その蓋が開いた棺桶を前にして、男達は呆然と佇んでいた。
それから、驚いた様子で話をはじめる。
「それにしても、信じられないな。」
「・・・ああ。
まさか、納棺の時に遺体が動き出すなんて。」
「私はこの仕事を始めてから長いですが、
こんなことは初めてですよ。」
「私もです。
遺体が動き出して棺桶の蓋を開けようとした時は、
心臓が止まるかと思いましたよ。」
男達が驚いているのも無理はない。
というのも、納棺する4つの遺体の内の1つが、
棺桶の中で突然動き始めたのだった。
死者が蘇って動き始めたと思われたが、実はそうではなく。
どうやら、仮死状態だったのを亡くなっていると誤認されていたようだ。
動き出した1人はすぐに病院へと運ばれ、空っぽの棺桶が残されたのだった。
男達は話を続けている。
「この近辺では珍しく大きな事故だったからな。
警察や救急も随分とバタバタしていて、
それできっと間違えたんだろう。」
「それにしても、
死亡確認がされた後で息を吹き返すなんて、
まるで奇跡でも起きたみたいだ。」
「でも、思い返してみれば、
あの1人だけ、遺体の損傷が少ないとは思ったんですよ。
いずれにせよ、大怪我なのは間違いないのですが。」
「それでも、本人や御家族にとっては、
怪我で済んで良かったのには違いないだろう。」
「とにかく、この棺桶はもう使わないから回収するってさ。
早速、運び出すとしようか。」
そうして、使われなくなった1つの棺桶が、
遺体安置所から運び出されていった。
その棺桶が置いてあったのは、4つ並んだ棺桶の左から3番目。
あの公衆トイレでその男子生徒が入っていた個室と同じ場所だった。
そして、
使われなくなった棺桶が運び出されていくのを、
残った3つの棺桶は、ただ静かに見送っていたのだった。
終わり。
夏なので、夏期講習をテーマにしました。
勉強をさせてもらえたり、
友達になる人と巡り合ったりという事は、
ある種の奇跡のようなものだと実感します。
そんな奇跡に恵まれたのなら、
死者が蘇るような奇跡も起こり得るかもしれない。
そう思って、この物語に3つの奇跡を込めました。
劇中の男子生徒は、
頭上の活路を自分で見出すことができました。
しかし、他の3人の男子生徒達は、
頭上から外に出られるかもしれないということを、
もっと前から知っていたようにも受け取ることが出来ます。
もしそうなら、何故それを男子生徒に伝えずに黙っていたのか。
そう考えてみると、この物語は違った内容にも見えてくるかもしれません。
お読み頂きありがとうございました。