書くて私あり
書くて私在り 坂井 悠二
潮の匂いが少しだけ心地良い。風になびく髪も気持ち良さそうだ。遠くに船が見えた。蒼すぎる海に向かって石か声を飛ばしたい衝動を抑えながら、思う。
「――考える者は存在する、か……」
屋上からの階段を駆け降りる。本当なら立ち入り禁止だ。見つかったら面倒だし、それは私の名誉にも非常に良くない。降りた先に誰もいない事を確認して、ゆっくり教室へ向かう。次の授業の準備をしなければ。どうせまた、宿題を忘れた人達が私の所へ聞きに来るんだろう。嫌でも面倒でも、私はそれに対応しなきゃならない。教室に戻ってみるとやはり待ち構えていたように、数人が私の元へ駆け足でやってくる。「ねえ岬、今日の宿題やった?」「ごめん、ここの関数の所が分からないのだけど……」それぞれの級友に笑顔でしっかり対応しながら、私は席に着く。
――ああ、疲れた。
いつも通り予習してきた数学の授業は案の定退屈な物だ。それでも顔は虚を演じる。癖じゃない、演技だ。こういう考えになると決まって屋上に戻りたくなる。目の前に海が見える。潮が香る。風が吹き抜ける。少なくとも昼休みまで、級友達と付き合う必要はない。私の憩いの場だ。この学校には煙草を吸いに来る不良も、自殺したがる苛められっ子も多分いない。至って普通の高校。そこで私は昼休みの五十分だけ、仮面を外す。一度高校という舞台から退場する。
――じゃあ、どちらが本物なのだろう?
役者が演技をする時に仮面を着けると、よりその役に入り込むという話を聞いた事がある。ならば私もその類なのかも知れない。自分が役者だと思えば多少は楽になる。ただ、意志的にじゃない。好むと好まざるに関わらずというやつだ。しばらくして退屈な授業が終わる。もう授業はないが、委員会がある。今日の学級委員会の議題は、文化祭における体育館での有志の運営だった。今年は弦楽部の同級生が一人演奏する届出をしているらしい。あの男の子か、意外だなと思った。なんとなく私と似ているような気がして、まともに話した事もないのだけれど。というかあの部まだあったんだ。すぐに議題が終わって委員会が解散になる。
「蒼井さん、ちょっと時間あるかな」
声をかけられたから振り向くと、我がクラスの爽やか男子学級委員の池田君だった。
「うん、何か用かな?」
彼は少しまごついているようだった。何なのだろう? ……早く帰りたいんだけど。
「ちょっとで良いんだ。教室まで来てくれるかな」
一瞬だけ目を合わせて逸らした彼を見て私は全てを察知する。私は恐らく少年の抑え様の無い感情をぶつけられる。どこまでも論理で説明出来ない、不可解不可思議な感情。彼の後ろをそわそわしている振りをして歩きながら、彼について全て考察を済ませていた。
「あ、あのさ」
「どうしたの、池田君?」
ほとんどの生徒は帰った放課後、夕暮れの誰も居ない教室。ああ、典型的だ。
「実はさ……うん、その」
なかなか何も言わない。なんだか焦れったくなってきた私は、
「ごめん、早く帰らないと親が心配するから……」
と言ってみた。彼の顔はみるみる動揺していく。
「ま、待って。……あ、蒼井さんの事が好きなんだ!」
ここでためらう素振りを見せるのが重要。私だって付き合いたいわ、でも色々あるんだ私にも…なんて思わせる間を置いて、はっきり言う。
「ありがとう。でも、ごめんね。……好きな人が居るんだ」
「そ、そうなんだ。ごめん」
それだけ言って彼は駆けて行く。明日から多少気まずくなるかも知れないが、それは私の責任じゃない。時間が解決してくれるのだ。嘘を吐く事に全く抵抗はない。演じる事にも。誰が見たって「内面は」嫌な女だ。本心なんて人に話した事はないし、知られたくもない。人に踏み込む、踏み込まれるのは嫌だ。嘘でも出まかせでも何でも良い。決められたコースの障害物なんて全部避ければ良いんだ。教室の外へ出た後、夕の薄明かりが私を包む。煌びやかなライトは最初から当てられている。だから、眩しすぎてこのくらいがちょうど良い。靴を履いて外に出る。汗ばんだワイシャツを前後に扇いで、緋色の空を仰ぐ。
「――ひたすらに自分は嫌な女だと私は思う……その時に存在しているって事、なのかな」
少しだけかじった知識でデカルトの命題を当てはめてみる。そう思っている事は疑えてしまうのだけれど、疑いだせばキリが無い。ただ、格好つけて思っているだけ。簡単に理解出来る考えじゃない事は百も承知だ。颯爽と今日の舞台から降りた私は、早々と歩きだす。明日もまた舞台に上がる。どこからか、弦楽器の演奏が聞こえる。内なる私は耳を澄まして、その音色を、ずっと聞いていたように思う。
演じ続ける日々は流れる。私という役者は引っ切り無しに舞台へ出される。蝉が鳴き始めた季節の放課後、図書室へ行ってみた。私は少しずつ哲学に興味を持つようになった。その理由は、自分のしたい事が分からなくなったら『考えてみる事』が大切ですと、世界史の先生が初めて私に益する事を言ってくれたからだ。それまで私はその先生に対して教科書の自動読み上げ機くらいにしか思っていなかったから、その言葉は切に響いてきた。どうせやりたい事なんてまだ分からないし、演技するだけで高校生活を終わらせたくない。そう思って、私は図書室へ来た。海が良く見えるこの図書室は、私の第二のお気に入りの場所でもある。だからたまに来るのだけれど、倫理や哲学の棚の前に立つのはこれが初めてでもある。もう久しく誰も読んでいないのだろう、棚一杯に並べられた本の上に埃が少し積もっている。一体どれを読むべきかと横に動きながら、ラベルを目で送っていくととんっと肩がぶつかった。
「す、すいません!」
見ると眼鏡に薄い茶色の髪の女子が、申し訳なさそうに頭を下げている。
「こちらこそごめんなさい。本に気を取られていて」
「いや私も全然……って、まさか蒼井岬さん?」
下げた頭を戻した時に目を丸くしながら驚いた声で喋る。その時私はまじまじとこの女子の顔を見た。なかなか整った顔立ちであるのだが、ちょっと前髪が眼鏡に掛かっていて、内気そうな印象を受けなくもない。それでも白い雪のような肌と私より小さい身長は、どこか小動物っぽさを思わせた。飼っても良い、なんて勝手に思う。
「うんそうだけど……どなた?」
「あ、川岸茜と言います。一年生でここの図書委員です」
また頭を下げて戻す。この女子は元々腰が低いのか私に尊敬の念でも抱いているのか知れないが、とにかく緊張しているように見える。私はというとどうやって会話を切ろうか考えていながら会話をしていた。
「そうなの、初めまして。なんで私の名前を知っているのかな?」
「え、 有名ですよー深窓の美女で才女と名高い、一年生の蒼井さんって」
「あ、ありがとう……でもただの高校一年生だからね。それに有名になるような事は何もしてないと思うけどな」
本当に何もしていない。ただ担ぎ上げられただけである。でも私はそれに乗ってしまっている。主役の劇を演じているだけだ。劇にしか登場しない人物に皆は、拍手を送っている。
「で、でも私たち女子の憧れです!」
「そんなに褒められても何も出せないし、困っちゃうな」
「あ、すいません……ところで、何しに図書室へ?」
何か哲学書を探していたなんて言うのはなんだか高尚染みて気が引けたので、「まあ文学作品をちょっと……」とお茶を濁す。イメージという物はやはり重要なのだ。だが、彼女の眼は爛々と輝き始め、私を捉えて離さなかった。
「そうなんですか! なら私に聞いてください。結構詳しい方なんですよ」
「え、いや、でも……」
しまった。このタイプの子なら詳しそうなのは眼鏡の時点で分かっていたのに。しかし無下に断るのは、少しだけ彼女に申し訳ない。ちょっと間を置いていると、彼女から切実に頼って欲しいんですと言わんばかりの声で話しかけられた。
「良いんです、私に出来る事があれば……」
「そう、それじゃあ何かお薦めはあるかな?」
彼女の顔がぱっと輝きを取り戻す。まあいいや、適当に紹介して貰ってやり過ごせば。それでも彼女は私を哲学・倫理の棚から文学の棚へと引っ張ったかと思うと、色々な本を手に取り始める。
「ええと、蒼井さんはどんな本を読むんですか?」
「う、うんと……漱石とか」
漱石なんて国語の授業で知ったくらいである。しかし話はここで合わせておかなくてはならない。彼女は文庫が置いてある棚を吟味し始めた。全くもって楽しそうだ。これは私の推測だけど自分の世界に私が踏み込む、つまり案内役を買って出た意気込み……みたいな物だろうか。とは言えあまり付き合っても居られない。
「あの、川岸さん、私少し急ぐんだけど……」
「ええ、ごめんなさい! じゃあとりあえずこれ読んでみたら良いと思います」
いきなり渡されて表紙を見る。ちょっと掠れた字でタイトルが書いてあった。
「『人間失格』かあ」
「はい。読みづらいかもしれませんけど、どうぞ」
この場はしょうがないので借りる事にする。笑顔で眼鏡の奥の目を輝かせる彼女に、それ以上何も言う気にはならなかった。貸出カードに名前を書き込み、本を鞄に入れる。
「では、また。いつでも来てくださいね」
「ありがとう。じゃあ、また」
図書室の扉をゆっくりと閉める。ふう、と溜息をつく。結局彼女のペースに乗せられてしまって、大して興味もない太宰治の本を貸されてしまった。蒸し暑い校舎の中から逃げるように外へ出て、日が長くなったと空を見ながら思った。……なんなんだろう、あの子。同級生の川岸茜? 聞いた事がない。同じクラスでは無いし、どう見ても目立つ感じではなさそうだ。しかし独特の雰囲気はあった。ただ内気な性格だったらそこまで強く本を薦めたりしないだろう。良く分からない、分からない物には近付かないのが正解だ。私の短い十六年の人生の中で経験則でもある。計り知れない……そんな物は自分の能力外。うん、まだ私は舞台の主役から引きずり降ろされたくはない。同じ役でも演じ続ければ愛着も湧く。あの本は読んだ事にして、少し経ったら返そう。良し良し、そうしよう。
夕闇に包まれたいつもの帰り道に、黒い猫を見る。こちらを数秒睨んだかと思うと、すぐに小さな顔を逸らした。高い塀に一瞬で登り、そのまま闇に紛れた。私はその猫の鋭い目が、いつまでも脳裏に焼き付いていた。何かが足らない。私である事を満たしてくれる何かが。今の私は闇と同化してしまえる……だから私はあの黒猫に、自分を、重ねていた。
図書室に行ってから二週間経っていた。勿論本など読んでいるはずもなく、呑気に日々を過ごしていた。いつものように昼休みに屋上から海を眺める。潮の匂いを嗅ぎながら、なんともなく蒼い空を仰いでいた。ここの所、天気は良い。だからと言って私の気分まで良くなる訳じゃないけど、少なくともこの間の不可思議な人に会った形容し難い体験をした時よりか、幾分かましである。次の授業は英語だっけとレモンティーを飲みながら、気だるそうに海を眺めていると、
「蒼井さん! 本読んでくれた!?」
思わず紅茶を噴き出しそうになる。危なかった、淑女として。
「び、びっくりした…」
「ご、ごめんなさい…ちょっと気になっちゃって」
あくまで本題はそこらしい。私が立ち入り禁止の屋上に堂々といた事とかは、二次的な事柄なのだ。少しずつ呼吸を整えて答える。
「あ、一応読んだけど……」
「ホントですか? どうでしたか?」
「え、えーと……」
彼女の眼はいつにも増して、夏の太陽の下で眼鏡と共に輝く。眩しい。というか熱い。
「まあまあ面白かった、かな」
「面白いけど、暗くありませんでした? 道化を演じる主人公の話……私は読んでいて結構鬱屈した気持ちになりましたね」
そんなに暗い話だったのだろうか。でも主人公が「演じる」話……そこで私の心は強く引き付けられた。……うーん、読んでおけば良かったかな。彼女の茶髪が日差しの下なのか更に明るく見える。私の黒髪は海風にあおられて揺れる。
「そうだね、でも私は結構主人公の苦悩が理解出来たかな」
「廃人寸前にまでなれる所が理解できますか? 凄いですねえ、蒼井さんは……」
「え、廃人? あ、うん…」
私が予想外の言葉に戸惑っている様子を感じ取られたのか、彼女はじっとこちらに視線を向ける。しばしの沈黙……拙い。小さな綻びから私の嘘は解れ始めていく。
「……本当に読んだんですか?」
明らかに疑念を含んだ彼女の声。言い逃れ出来るとも思えなくなってきた。何よりしたとしても作品の内容に関して質問されればすぐに分かってしまう。
「……ご、ごめん、川岸さん!」
我ながら限界だと判断した私の声が、屋上に響く。彼女の顔が徐々に失望を露わにする。
「読んでないの! ホントにごめんなさい…」
「そ、そうなんだ……」
「あの時探していたのは、哲学書だったんです。でもなんだか高尚過ぎて、格好付けているように見られるのが嫌で……」
自分の演技はここで崩れかける。それでも私にはこの計り難い性格に対していつまでも壁を作ろうとして、その場から逃げようとする。唯の逃げという事は重々承知していた。
「ごめんなさい、本は直ぐに図書室に返しに行きます。それじゃ」
「あ……」
彼女の顔は見ていない。見られなかった。屋上には私が階段まで歩く音だけが響いていた。
私は自分の高校生活が崩れる事を、いつまでも心配しながら歩いていた。本を読まなかった事を彼女にすまないという事よりも。思ったより明るい彼女とは対照的だと感じる辺り、自分でも彼女とは違う事というのは分かっていたのかもしれない。そしてどこまでも自分本位な考えを貫いている自分に、自己嫌悪もまた感じたまま、階段を下りた。
本を図書館に返しに行ってから数日経っても、私の周りは何も変わらなかった。彼女からは何の音沙汰も無いし、私もあれから彼女に関与しようとは毛程も思わない。教室の窓からふと外を見ると、もくもくとした入道雲が見えた。私のもっとも嫌いな季節、夏はもう迫っていた。暑さは人を思考停止に陥らせる。考える事を止めさせる。私はその状態が続くのが一番嫌だ。感情に任せて人を理解したくもない。あくまで理屈で理解したいのだ。反対に夏休みは好きだ。人に極力関わらなくて良い。そう言えば夏休みの宿題で読書感想文という小学生並みの宿題が有るらしい。作文など書いた事は両手で数えられるくらいの回数だけど、書く事は嫌いじゃない。不思議と何を書けば良いんだろうという考えにはならない。……何故かまた図書室に行ってみようかと思う。彼女、川岸茜が居ようと居まいと、ただ本を借りに行きたいだけだ。もし居たとしても素知らぬ振りでも良いし謝る振りでも良い。うん、哲学書を何冊か読破しよう、なんて高校一年生におよそ似つかわしくない目標を立てて勇み、放課後になって私は図書室へ行った。蒸し暑い廊下を抜けて、図書室の扉の前に立つ。ちょっとだけ手が震えて、片方の手で押さえつけた。情けない。扉に手を掛けて、ゆっくりと開けた。彼女の姿は見えなかった。今日は当番の日では無いのだろうか、運が良い。すぐに飛ぶように哲学・倫理の棚へ行く。といっても何を選んだら良いのかさっぱり分からない。しまった、世界史の先生にお薦めでも聞いておけば良かったな。
「まずデカルトで良いじゃないですか?」
「……はい?」
ゆっくり後ろを振り向く。川岸茜が笑顔で立っていた。いつもと違うのは、彼女は眼鏡では無いという事だ。なんだ、結構目が大きいんだ。彼女の黒い瞳と視線が数秒合って、沈黙になってしまう。私は何を言って良いのか全く分からないので、窓の外の空ばかりに視線が行った。鳶が気持ち良さそうに数羽飛んでいる。
「良い本は見つかりました?」
「……まだ、です」
「じゃあやっぱりデカルトとかから読んでみたら良いと思いますよ」
「……じゃあ、そうする」
今の私は唯の子供なんだろうな。彼女の態度に拗ねているだけだ。分かっていても、人間いきなり態度を変える事は出来ない。はっきり言って見た目を変える方がよっぽど簡単だと思う。心に巣食っている私の虚栄心は肥大化していって、自分でさえどうにも出来そうにない。全ては演技し続けていたお陰なんだ、本当に。
「あの」
「どうしたの?」
「そんなに気にしなくて良いです、借りた本読んでなくても。調子に乗っちゃってお薦めしちゃっただけですし」
「その話に関してはもう良いよ。見栄張って借りちゃった私も私だし」
「……蒼井さんってもっと完璧な人かと思っていました」
いきなりなんだろうこの人? 人が完璧に見えるのは出来ない部分を覆い隠せているかいないの違いであって、人気者と一般人の違いもそこにある。所詮は一人の人間だし、出来る事なんてたかが知れているのだ。というのは昔読んでいた本に書いてあった。
「そう。ごめんね、屋上で休み時間潰す一人ぼっちで」
「いや、そういう意味じゃ無くて……人間っぽい所を見たって言うのかな」
「よっぽど川岸さんの中では私は超人化されているみたいね」
「あ、はい。蒼井さんって完璧過ぎて近付きがたいイメージがあって……。だから私みたいな本の虫が図書室で蒼井さんを見つけた時には、なんだかとても嬉しくて」
私の風貌について言及しても私自身大してどうも思っていない。性格も作っているんだから良く思われるようにするのは当たり前だ。それは「良く思わせている」だけであり「良いもの」では無い。そう思われる物しかこの世には殆どない、とも思う。
「ふーん。でも、そんな物は嘘だって分かったんでしょ」
「嘘だとしても、本当にするよう努力しているじゃないんですか?」
「え?」
鳶が鳴く。潮風が私達に当たって海の匂いが広がる。彼女の黒い大きな瞳は今一度、私を見る。
「もしその時に嘘だったとしても、演技でも続けていれば本当になると思っていたりしませんか?」
「別にそんな事……」
言いかけて戸惑う。演技は演技じゃなくなる為に続けていて、嘘は本当にしようと私がしていただって? そんな訳あるか。
「あなたは『人間失格』を読んだんでしょ? 道化の演技をしているその主人公がいつか演技を本当にしたくて続けていたとは思えないのだけれど」
「それでもする事に価値がないとは思いません。あなたが才人の演技をするとしたら、才人になるよう努力するじゃないですか」
他にも何か言おうとしたが言葉が上手く纏まらずに出てこない。第一『人間失格』を読んでいない私にこれ以上言える訳がない。……本当になんなんだ、川岸茜とやらは。私に踏み込むというか、一人だけ色眼鏡を外して見て来たと言っても良い。対して壁ばかり作る私の前に言葉の力は無敵だ。声は聞こえる。事実は貫く。私は崩される。代わりに何かが入ってくる。そんな気がした。
「……考えた事も無かったな」
「それはまあ、自分でも無意識だったと思います。それと私がこんな事をずけずけと言うのも、好きで他人に干渉したい訳じゃないのですよ」
どこか引っ掛かる言い方に、私は思考を一回止めた。
「じゃあ、何故?」
彼女は少し間を空ける。何やら言おうか迷っている風だ。一度窓から外を眺めた後に、私に向き合って、小さな口を開く。茶髪の髪がまた日差しに煌めく。スカートがちょっとだけ揺れる。彼女の声が、波の音と供に、聞こえる。
「あなたのその演技してきた生活を元にして、小説を書きましょう」
――ああ、本当にこの人は、分からない。
*
そう、こういう事なんだ。いつも思うのだけど、小説は何を書こうか考えている時が一番楽しいんじゃないかって。だから話の構想が浮かばないととても詰まらなくなったりするし、やる気も正直起きない。あの人はとびっきりの人気者で私の百倍可愛くて、ただ高校生らしくなれるかもって理由で染めた私の髪を鼻で笑うくらい、綺麗な黒髪を惜しげも無く披露する彼女…とにかくこれ以上の主人公はないと思う。図書室の妖精に近くなって来る私の高校生活を劇的に変えてくれる何かが必要なんだ。それは蒼井さんの生き方であり、蒼井さん自身。とにかく小説でも何でも良いから本は貸しつけておけば繋がりが出来る。一応演技にする事に関連したのだけど、まさか読んでないとは思わなかった。でもそれはそれで、彼女の本質を覗けたから結果としてはむしろ大歓迎だった。哲学書を探す高校一の人気者……なんて絵と御話になるのでしょう。ああ早く彼女の話を書きたい。でもまずは彼女に書いてもらいたい。どこにでもあるこの海沿いの県立高校で、彼女は、いかにして役者生活を始めたのか。私が踏み込むのは難しくもないけど簡単でもない。彼女の虚栄心は私が突き崩す。その前に、彼女――蒼井岬さんには、書いて欲しい。彼女の在り様を。
「どうですか? 悪い話じゃないと思いますけど……」
「書くって何を? 私そんな人様に語れる人生を送ってないのだけど」
それでも良い。そう本当にそう思っている訳ないけれど、とりあえず書いてくれれば、だ。私とは違う。私はそんな器用に生きてはいないからだ。書く事は好きだけど、あくまで「楽しい」の段階になってしまう。羨ましい気持ちもあるけど、今は妬んでる場合じゃない。
「だからその蒼井さんの、道化としての人生を感じるままに」
「道化って…そんなに馬鹿に見られる様生きてきた訳じゃないけど。……ああ、例え?」
蒼井さんに肯定の意を含んだ笑いを向ける。その通り、彼女の在り様に私は興味がある。放課後の図書室の日はまだ暮れない。私の高校生活だってまだ、枯れてはいない。そして蒼井岬の人生もまた然りなのだ。
「あなたが自分で書くからこそ意味があるんです。私が話を聞いて書いてみたって必ず私の内面が現れます。それじゃ意味ないんですよ。文才とか小手先の技術とか二の次で、とにかく見たいのは蒼井さんが何故今あるか、です」
「簡単に言ってくれるわね…」
「それは必ず面白くなります。そして面白いこそあれ……いや、何でもないです」
「? 面白い上に何かあるの?」
「……それは自ら分かると思います」
そこから先は言わなかった。だけど、真摯に蒼井さんを見透かすように、見た。
しばらく蒼井さんは考えている様だった。勿論それは今まで小説なんて書いた事などない、なんて誰でも思う戸惑いだろう。そんな事は尚更どうでも良いんだ。
「こう言うのも何ですけど…書けば、変わると思います」
書かなければ変われない、とも思う。あくまで私の考えに過ぎないけど。
「哲学を通して自分を見つめようと考えているなら、小説を通して考えてみても良いのでは?」
自分を客観的に見たいと思うなら、ここで一歩を踏み出して欲しい。蒼井さんは絶えず床と私を交互に見ていた。書けば私は変われるの? そんな顔だ。正直、絶対とは言えない。私がその話を読んでみたいだけと言われても仕方ないかもしれない。
「夏休み中に書いてくれれば良いですから」
「……ふう。質は気にしないでもらいたいんだけど」
「勿論です。いきなりそんなに厳しい事言う訳ないです」
黒髪がまた海風にあおられて揺られる。光が眩しいのはガラスに反射しているだけでも無いらしい。私はスカートを汗ばむ手で握り締めていた。
「じゃあ、九月一日に渡す。それで良い?」
ちょっとふて腐れた顔で答える蒼井さんは、わざとらしく溜息を小さく吐いた。ほらやっぱり、予想通りだ。心の中でガッツポーズをして笑顔で答える。
「はい! ありがとうございます!」
「……それじゃ、良い夏休みを」
そう言って蒼井さんは図書室から早足で出て行く。また鳶が鳴いた。そう言えばさっきから弦楽器の音もする。上手いのか下手なのか分からないけど、聞いた事はある曲だ。結局自分にとって出来る事じゃなく、したい事を見つけるのが、幸せなのだろうか。見つけられるとは限らない。でも見つからないとも限らない。誰かが導いてあげる時だって勿論あるかもしれない……そんな事を考えながら、その音色にしばらく耳を済ませていると、携帯電話が鳴った。見たことのないアドレスだ。
「アドレス、知らなかった。他の友達に聞いたから。それと……『人間失格』も『方法序説』も一応、読んでおいてあげる。じゃあまた、九月一日に。 蒼井岬」
その文面を見て少しだけ笑ってしまう。なんだ、思っていたより素直じゃない、蒼井さん。携帯電話を開けたまま窓から空を仰ぐ。私の好きな季節である夏はもう迫っている。それは単純に少年心から(勿論少女ですが)来ているとか、余計な事も考えないで過ごせるのが理由なのだ。この暑い季節はきっと始まりを、ペンを走らせる音で告げるだろう。そして九月一日に、まだ知らない蒼井岬が、知られる。
「自分で考えて自分で書く事は、きっとあなたを見つけると思います。それは演技の人生だから、虚偽かもしれないし、薄いかもしれないけど……もちろん疑えてしまうけど、――その時にこそ、蒼井さんは存在していると言えるのではないでしょうか。 川岸茜」