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17.5

 

 噛み合っている様で噛み合っていない気しかしない妙に恐ろしい会話をしている間に、気が付けば私の膝には包帯が巻かれ終わっていた。



「包帯はきつくない? 締めすぎだったらもう少し緩めるけど」


「大丈夫です。ありがとうございます、助かりました」


「どういたしまして。もう戻るの?」


「はい。流石に今日はもうこの足だし走れませんけど、このまま保健室に居て後から『見学くらいは出来ただろう』と教師に嫌味を言われたら面倒なので、戻って大人しく見学でもしてきます」



 口から零れてしまった愚痴っぽくなってしまった言葉に、思わず苦々しい気持ちになる。

 しかし、青年は特に気にした様子もなく立ち上がり、フッと口角を上げた。



「あー…うん。それがいいかもね。だってあの先生って怪我人相手に気遣いもないし、そもそも配慮がないから。先生達は自ら箱庭に囚われて、人間の心を失ったんだ」


「……教師も色々大変なんでしょう」



 そう、取り繕う様に口をついて出た自分の言葉の薄っぺらさに私は顔を顰めた。上部だけの言葉には、ほんの少しの後ろめたさが付き纏う。


 人間の心を失ったかどうかは分からない。けど、確かに先生たちには何かが足りないのだろう。何かを失ってしまったのだろう。それが何かは分からないけれど、きっと大切な何かを。



「そうかもね。でも俺は、体調が悪かったり怪我をしている生徒が他の生徒の運動している姿を見学して一体なんの勉強になるのか謎だね。正直その時間に他の教科の勉強でもしてた方がよほど有意義だと思うよ」


 そう、バッサリと切り捨てる様に放たれた言葉がおかしくて、思わず笑いそうになる。



「はっきり言いますね」


「うん。正直でいいでしょ。だってこれが俺の考えなんだから」



 青年の目は真っ直ぐに前を見据えていた。


 所詮、理想と現実は理想と現実でしかなく、青年が語った理想は理想でしかない。口にした所でどうせ現実にはならないものだ。でも私はそんな理想を描ける青年が好ましく感じた。



「今のは内緒だよ。俺の言葉を聞いて気分を害する人もいるから。二人だけの秘密にしてね花刈さん」



 消毒や包帯を片付けている青年をなんとなく目で追っていると、こちら見た青年はその整った顔に困った様な笑みを浮かべ言った。


「大丈夫です。告げ口なんて無粋な真似はしません」


「ありがとう。……花刈さんは相変わらず優しいよね」


「普通です」


「そっか。やっぱり、花刈さんの普通は俺の普通とは違うのかもね」



 そう言って、青年は窓の方に顔を向けた。



 薄く透明なガラスの向こうには、青さの増した空に輝く太陽が、ジリジリと地上を焦がしている。

 遠くの方の校庭で、豆粒サイズの生徒が汗を垂らしながら走っている様子を眺める青年はいま、何を思っているのだろうか。


 窓に反射する、蝋みたいに青白い顔色をした青年はとてもではないが外の炎天下にはとても耐えられそうに見えない。あっという間に灼熱の太陽の光に照らされて、溶かされて消滅してしまいそうだ。


 そういえば、この青年は私が怪我をして保健室に来た時にはもう既にここに居たし、もしかしたら何処か具合が悪いのだろうか…?

 そう思い至ってふと、自分が目の前の青年の事を何も知らない事を思い出した。



 学年が1つ下だと言う事は知っているけれど、それ以外は殆ど何も知らないーーー。



 出会った頃から今までを思い返しても青年が名乗った記憶はなく、青年は自分の事をあまり話したくなさそうだったから、私の方から何かを聞く事はしなかった。だから、青年とは少なくない回数出会って会話していた筈なのに、その名前すら知らない。

 たぶん、今なら知ろうと思えば人伝にでもこの青年の名前を知る事はできるだろう。けど、どうせなら青年の口から聞きたいものだーーーそんな事を思っていると、青年が話し出した。



「ねぇ、花刈さん。俺さ、元々運動自体は嫌いじゃないんだけど体育の授業のおかげで運動自体が嫌いになりそうなんだよね」


「そうですか、私は体育の授業が嫌いですよ」



 私の大して大きくもない平坦な声が、静かな保健室では大きく聞こえる。



「そうなの?」


「はい」



 驚いた様に聞かれて、頷く。



 辛くてしんどくて苦しくて汗を掻く。楽しい事なんて一つもない体育の授業なんて普通に嫌いだ。

 体育会系の体育教師は感情豊かで根性論が好きだし、高圧的で威圧的な態度を隠しもしないからか学ぶ喜びも皆無。そのうえ、授業中に生徒たちにノルマを与え、誰か一人でもそのノルマをクリア出来なかったら連帯責任の罰を科し、全員がきちんとノルマをクリア出来なければ、罰としてもう一度同じ事をさせるーーー。


 本当に、最悪だ。


 そんな事をしていれば、逃げ場のない社会から閉ざされた箱庭の中に詰め込まれた、身も心も発達途中で善悪の判断も未熟な生徒達の間にただ悪戯に軋轢を生じさせてしまうかもしれないと……大人達には想像できなかったのだろうか。

 そんなやり方をしてもいい事なんてないって、どうしていい大人が気付かないのだろうか…?




 ーーーあいつのせいでもう一回とか、最悪。


 ーーー自分のせいで迷惑をかけてしまった…。自分だけが『ダメ』だったから。




 どっちも辛い。


 どっちでもしんどくて、どっちだって辛い。


 きっとその事に変わりはないけれど、立場が違えば見える景色も違ってくる。多勢と無勢では、少し話が変わってくるというものだ。

 一人では無理な事でも仲間がいれば。良い事も悪い事も何でも出来てしまうのが私たち人間だ。



「俺も昔は体育の授業も好きだったんだけどな」


「私も、昔は好きでしたよ」



 誰しも人には向き不向きがあるのは仕方のない事。

 それなのに教師は、はみ出ている糸を切って揃えて一見無難に、綺麗に見えるように糸を揃える事に必死になってばかり。

 だから、私は嫌いになった。



「運動している側だって自分が辛い思いをしてやりたくもない運動をしている姿を人に見られるのは、すごく嫌なんだろうなって。……ねぇ、花刈さんはそういう雰囲気を感じた事はない?」



 まだ見慣れない笑顔を顔に貼り付けた青年が、小首を傾げる。


 一見綺麗に見えるのに、やっぱりどこか違和感を覚える青年の笑顔から私は視線を逸らした。



 身に覚えがありすぎて、苦しい。ミシリ…と心が軋む音がした。



 どうして教師がそんな事をするのか、どれだけ考えても理解が出来ない。

 もしかしたら、健全な心身を育成する為かもしれないし、自分がそうされてきたからかもしれない。でも、体育の授業のせいで運動嫌いになる子を増やしておいて何が健全なのだろうかと思わざるを得ないし、やっぱり理解できない。



 ーーー……心の健康を損なってまで行う価値は、果たしてあるのだろうか。



 運動嫌いになってしまった子供は、好きでもなく楽しくもなかった運動を大人になってするのだろうか。


 ただ悪戯に、健全だった者を逆に不健全にしているだけでは真に意味があると言えるのだろうか。


 行き過ぎた教育的指導は、周囲の心を蝕み精神を侵すだけの薬にも糧にもならないただの毒だ。


 柔軟な子供の心だからこそ、その辛さに耐えきれずに精神が歪んでしまうとは誰も考えなかったのだろうかーーーなんて、考えても何にもならないし変わらないから正直くだらないけど、でもやっぱりくだらなくないだろう事をつらつらと考えていると、静かな空間に青年が言葉を落とした。



「自分が辛くてしんどい状況に置かれている時に視界の端に自分よりも楽をしている様に見える人間がいれば、たとえその人にちゃんとした理由があったとしても『どうしてあの子だけ授業を受けてないの』、『ずるい』、『仮病でしょ』って思うのって普通だよね。人間だし」


「…全員が全員そうとは限りませんが……実際に言われた事があるんですか?」


「ないよ。でもそうやって誰かの事を言ってるのを見た事はある」


 尋ねると、青年は見慣れた無表情で首を横に振った。頭の動きに合わせてさらさらと揺れる毛先が青年の冷めた表情を僅かに覆い隠す。



「そうですか」


「うん。その時に『そういう考えもあるんだ』って衝撃だったからよく覚えてるよ」


 青年が、さらりと無色透明な毒を吐く。


「…そうですか」


 私からはそれ以上言う事もなくて、室内には静けさが広がった。


 室内を適温に保つ為に付けられたクーラーの稼働音がよく聴こえる。

 快適な室温に保たれた保健室は涼しくて外で運動して火照った体は冷ましてくれているけれど、氷柱の様に鋭く冷めたような表情をしている青年を前にしていると、どうにかその表情を変えさせられないかと考えを巡らせてしまって、冷えていた私の頭の中が茹ってくる。


 ……どうしたことか、青年の表情を明るくする方法も、優しい言葉も出てこない。



「まあ、所詮は人ですから仕方ないのかもしれませんね。どう感じるかは人それぞれですし。助け合って生きていても蹴落としあって生きていても、結局他人は他人でしかありませんし。そういう人もいますよ」



 静かな室内に私の声が落ちる。


 家族でも友人でも無いこの青年に、ほぼ他人に等しい私が何か言ったところで、何が変わると言うのか……そう思うけれど、何も言わないよりはきっといい。というよりも、私は、無性に何かを言いたかった。



「いろんな考え方を持つ人がいるのも、意見が合わない人がいるのも、それはそれで『新しい考え方の発見をした』ぐらいの気持ちでいればいいと思いますよ」

 

「…まあ、やっぱそうだよね」


「……はい。私はそう思います」


 私は頷く。

 完全に見切り発車で私の口から出た言葉が、さっき青年が冷めた表情で言った言葉とほぼ同じで、自分でも自分が何をしたかったのか分からない。


 私はいったい何がしたかったんだろうか…?

 

 自然と目線が下がる。

 これまで青年との間にどれだけ沈黙が続こうと、今まで微塵も気にならなかったのに急に気になってしまいあまりにも気まずいので、私は早々にこの場から立ち去りたくなった。



「ーー大人だな、花刈さんは」


しかし、立ち上がった私が別れの挨拶をするよりも先に、いつの間にかこっちを見ていた青年が口を開いた。


「…全然、。子供ですよ」


「そう? 俺には全然そうは見えないけど」



 そう言って微かに目を細めた青年に、私はにこりと口角を上げわざと得意気に微笑んだ。


「それは朗報です。これだけ背伸びをしていてもまだ子供に見えていたら、私は一生大人になんてなれる気がしませんでした」


 今までした事もないドヤ顔を披露した私を見て、吹き出す様に青年が笑った。

 一瞬で冷めたような表情が消えた。綻んだ口元を手で隠して笑う青年に、私はホッと胸を撫で下ろした。

 


 ーーーこういう青年の笑顔は、嫌いじゃない。




「花刈さんが大人になったら、今よりももっと素敵な人になってるんだろうな」


「…どうでしょう。すごく駄目な大人になっているかもしれません」


「えぇ? 全然想像できないな。花刈さんはどんな大人になっているんだろう…ーーー」


そう呟いて、どこか遠い未来に思いを馳せるよう微かに細められた青年の目を私は見た。


「……このまま何事もなく生きて歳を取れば、自動的に周囲から大人として認定されて生きることになります。だから、たぶんその時になってようやく、大人になるとはどういう事かを知って大人になるんでしょう。……知りませんけど」


 それっぽい事を口にしても結局は憶測でしかない。

 どれだけ猫を被って背伸びをしても私はまだ子供としてしか生きた事がなくて、最後に保険の様に付け加えてしまった言葉が、若干恥ずかしい。



「……まあ、結局は図体だけ大きくなっても中身が伴わないとって事だよね」



 そう言って大きな瞳を柔らかく細め微笑んだ青年の顔は、私の目にはとても大人びて見えた。









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