17
体育の授業で転けて豪快に膝の皮を擦り剥いたので保健室に行くと、室内に居た青年は驚いた様子でドアを開けた私を見た。
「花刈さん…?」
青年は名を呼びながら全身に視線を巡らせる。
血が滲みピンク色の肉が見える膝の所でピタリと目が止まると、青年は素早く歩き寄って来た。
「大丈夫? 転けたの?」
「はい」
「傷口は洗った?」
「一応。外にある水場で簡単に流しました」
「じゃあ手当てするから、そこの椅子に座って」
青年は黄緑色のソファを指差すと、まるで勝手知ったるという感じで消毒液やら包帯やらをとり出している。
あいにくと保健室には保険室の先生は居らず、言われるがままに痛む足を引き摺りながらソファに座った私の目の前にしゃがみ込んだ青年の髪に天使の輪が浮かんでいる。さらさらと光を反射する様は綺麗で、そっと触れてみたいと思った。
「消毒染みると思うけど我慢してね」
手当てをしやすくする為にか軽く膝の皿の横辺りに添えられた青年の指はひんやりとしていて、薄氷の様に冷たい。その指先へと意識が逸れて、ジクジクと痛みを訴える健康的にピンク色な傷口から少しだけ痛みが引いた気がした。
けれど、それも瞬きの間の事で、たっぷりと消毒液に浸った綿が傷口にあてられるとすごく染みて、当たり前だけど痛かった。
「大丈夫? すごい眉間にシワが寄ってるけど…」
様子を伺う様に、一瞬だけ私の方に視線を向けた青年が心配そうに言う。
本当は痛い。痛いけど。
「全然大丈夫です。これは日差しの強く明るい屋外から屋内に入ると急に視界が暗くなる……あの現象のせいです」
多分きっと何も誤魔化せてはいないんだろうけど、眉間にシワを寄せたままわざとはぐらかすようにいうと、青年は一瞬の沈黙の後に話を合わせてくれた。
「……暗順応かな。俺、暗順応にはなった事ない気がする。朝に家から出る時には良く明順応になって日の光で目が潰されそうになるけど。暗順応はどんな感じになるの?」
「そうですね…、視界が暗くなって物も全部黒く見えて、かなり視界が悪くなりますよ。暗室に入ったみたいなるので目が慣れるまでしばらくは一歩歩くのにも気をつけないと危ない感じになりますね」
「へぇ、大変そう。…あ、もし消毒が痛かったら言ってね」
「いやですよ。言った所で痛いものは痛いですしどうにもならないでしょう」
「んーまあね。でもさぁ、もし花刈さんが痛みに耐えきれなくて俺の目の前で泣いちゃったら、俺はどうしたらいいのか分からないんだよねー……。だから、痛すぎて泣いちゃう前にどうにかするしかない。……でしょ?」
そう、さも困ったように言う青年も言葉に私は首を傾げた。
「別に。どうにもしないでいいのでは?」
「ええ? それはなんかさすがに酷くない?」
「そうですか?」
「うん」
「じゃあ、もし私が『痛い』と言って泣いたら……面白いダジャレでもいってくれますか?」
完全な思い付きで言うと、青年は「ふっ」鼻で笑った。
「花刈さんはダジャレを言ったら笑ってくれるの?」
「いえ、たぶん笑いません」
「じゃあ駄目じゃない?」
そういって微かに笑みを溢した青年に、私の口角も緩んだ。
「でも貴方のダジャレがあまりにも面白かったら笑うかもしれません」
「うーん……でも俺、ダジャレには詳しくないんだよね。いい機会だしダジャレの勉強でもしようかな……」
そう言って真面目に検討しだしたので、私は驚いた。
「モノの例えで言っただけですから本気にしないでください。膝を擦り剥いたぐらいの怪我ならさすがに全然平気ですし、それに私は貴方の前では泣かないのでダジャレも無用ですから」
そう言うと、目の前にしゃがんでいる青年はピンセットを動かす手を止め顔を上げた。
私の膝に焦点をあてて伏せられていた長い睫毛がふわりと持ち上がり、奥に隠されていた透き通った紅茶色の瞳と目が合うと、青年は綺麗な瞳を蜂蜜の様にとろりと輝かせ淡く微笑んだ。
「そう言われると、逆に泣いて欲しい気もする。……人間の心って不思議だね?」
「いえ。全然」
私は即答した。
確かにダジャレ云々を先に言い始めてしまったのは私の方だけど、私が悪いけど、でもそれにしたってこの意見の変え方は180度ターンにも程があるだろう。振り幅が凄すぎて逆にそれが恐ろしい。
「発言には気を付けた方がいいですよ。側から聞くとまるで鬼のような言葉を吐いている人になりますよ」
「そこは安心して。花刈さんにしかこんな事思わないし言わないから」
「いや…私にしか言わないのに、その当人である私に『安心して』って言うのは如何なものかと思います」
青年は塗り薬を塗りなが「確かに」と笑ったけど、言われた側としては全然面白くはない。怪我人に向かって『泣いて欲しいかも』なんて言う青年に内心でドン引きした。それなのに言った当の本人はなんでもない様な素振りで、すでに薬を塗り終えている。
青年は指先に付着した薬をティッシュで拭き取った後、手に取った真っ白なガーゼを私の傷口に当てた。心なしかピンクの肉が露出していた膝にガーゼ越しに触れる青年の指に微かに力が入った気がしてーーー傷口から鋭い痛みが走った。
「痛っ!」
脳内を駆け巡った痛みに反射的に声が出て、じんわりと目に涙が浮かぶ。
私の声に驚いたように僅かに身を引いた青年の手にはガーゼを固定するためのテープがある。どうやら、ソファから少し離れた位置にある机の上のテープを取るときに無意識に力が入ってしまったみたいだ。
「ごめん! 大丈夫? ………ダジャレでも言おうか?」
「……今ダジャレを言われたら、私の方が鬼になりそうですよ」
怒りで。
「…ごめん。でも、俺は全然花刈さんが鬼でもいいけどね。花刈さんなら俺は何でも大歓迎だし。喜んでこの身を差し出すな。血でも肉でも何でも食べてくれて構わないし…ーーーあ。なんなら、今から俺を食べてみる?」
「食べません。貴方は私を犯罪者にしたいのですか?」
何思ってそんな事を言うのか分からないけれど私にそういう頭のおかしい癖は無い。
「違うよ。花刈さんは悪い事なんてしないでしょ。悪い事して捕まってる花刈さんなんて全然想像できないし。というかそもそもそう意味じゃないんだけど……うん。やっぱり花刈さんはかわいいね」
何かを言いかけてやめた青年は一人でに何かを納得し、にっこりと機嫌よさそうに口角を上げた。
「不愉快です。馬鹿にされている様な気がします」
「全然してないよ。俺の可愛げのなさと、花刈さんの可愛いさを再確認しただけから」
「は…?」
唖然とする。意味がわからない。もしかして頭がおかしくなってしまったのだろうか。
「自分では昔よりは美味しそうな見た目になったと思ってたから、さっきの反応は少し少し残念だったな。花刈さんが俺を食べたいと思うくらいもっと頑張るよ」
「いや、頑張らなくていいですよ別に…。というか、食べられたいだなんて正気ですか?」
頑張るのは悪い事ではないと思うけれど、頑張りすぎるのも時として悪いことかもしれない。でないと目の前の青年みたいに少しおかしくなってしまう危険性がある。とうかそもそも青年が頑張ろうとしている方向性にこそ大きな問題がある気がしてならない。
「え? 別に怖くないよ。……いや、でもその時になったら怖いのかもね。俺も、もしかしたら花刈さんも。あー…でも花刈さん以外に食べられるのは、死んでも嫌だな」
青年はもはや独り言のように意味の分からない言葉をぺらぺらと喋っている。
「何を言っているんですか? 私はそもそも貴方を食べるなんて死んでも嫌ですよ。想像しただけで吐き気がする」
思った事が、そのまま口からポロリと出てしまった。
青年はチラリと私を見た。影のせいか、何年も放置されてドロドロになって固まってしまった粘性の高い、茶色い蜂蜜の様な色をした目に見上げられゾクリと背筋に悪寒が走る。
「そっか……。でもそう言わたら、今度は俺が花刈さんを食べないといけなくなるなあ。まあ、食べると言っても本当に頭からムシャムシャ食べたりはしないから。安心して?」
そう言われて、私はおもむろに両腕を胸の下で組んで青年を見下ろした。
青年は一体どんな気持ちでそんな発言をしているのか。ジッと観察してみるが分からない。分からないけど、この青年の心の中を理解しようとするのは、パンドラの箱を開ける事のように妙に恐ろしい事の様に思えた。
「今すぐにこの話題を止めるか、それとも今後一切私に関わらないか。どちらがいいですか」
「普通に前者。後者は死んでも無理だよ、花刈さん」
「死んでも無理は言い過ぎです。死んだら大人しく成仏してください」
「えぇ―未練たらたらで無理だよ」
「そんな事言って、背後霊にでもなるつもりですか? 人に取り憑いてないでさっさと成仏して下さい」
「そんな……酷いよ花刈さん。もしも俺が成るなら、花刈さんの守護霊だよ。守・護・霊」
そう言って、青年はにっこりと微笑んだ。