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「ねぇねぇねぇ花刈さん、俺いま凄く幸せな気分なんだけど大丈夫かな?」
「大丈夫ですよ。幸せなのはいい事です」
「本当にそう思う?」
「ええ、まあ。でも、とりあえず貴方はこの手を放す方が先だと思います。あとついでに距離が近いので離れて下さい」
「そっか。花刈さんは照れ屋さんなんだね」
「普通です」
私が言うとカバン2つ分を空けて隣に座っている青年が言った。
場所は昨日と同じ3階の空き教室で、今は放課後だ。
気は進まなかったけれど、約束したのに行かないのもそれはそれで後味が悪く、約束を蹴って空き教室に行かずに家に帰ったら隣に居る青年は自分の顔面事情も他者に及ぼす影響も何も気にせずに普通に翌日私の教室まで来そうな気がした。
そして結局またこの空き教室に来てしまった私が昨日は存在に気が付かなかったふかふかそうなクリーム色のソファに座っているとやって来た青年は空き教室に入るなり直ぐに私の存在に気づき、確認も遠慮もせずに二人がけソファの隣に座ってきた上に何故か当たり前の様に手を繋いできた。意味が分からない。
廊下側の窓は全てすりガラスになっているし室内は暗いのに、もし誰かが廊下を通ってもほぼ確実に気が付かれない死角だからと用心してこのソファに座ったのは失敗だった。
「俺は花刈さんと離れたくないし手も放したくないのにね。でも、仕方ないから手は放そうかな」
「助かります。ついでにソファからも退いてください」
「酷いよ花刈さん。俺だって硬い座面の椅子よりもこの柔らかいソファに座りたい」
「そうですか。では私が椅子に座ります」
そう言って腰を浮かせた私の手を、まだ繋がれていた青年の手が引き留めた。
「なんですか」
「なんだろうね。分からないけどつい。隣に座るくらい普通じゃないかなって、俺はそう思うけど花刈さんはどう思う?」
――私の手を掴む青年の細長い指の力が増した。
「貴方の普通は、私の普通とは違う様ですね」
「そうかもね。でも俺は話している相手の表情が見えないまま話し合いをする気は無いよ花刈さん」
「貴方にそんな主義があったとは知りませんでしたが?」
「これは花刈さん限定だから、俺に主義なんてものはないよ」
「そうですか。私としては嬉しくない限定のされ方なので今すぐ限定じゃなくなるようにする事は出来ませんか?」
「無理かも。だからこれ以上俺が何かをする前に、大人しく座る事をオススメするよ」
青年は全く引く気のない様子だ。
どうせ手を掴まれていてはたいして離れる事もできない、と思い私は諦めて再びソファに腰を落とした。
「これ以上は何もしなくて結構です」
「つれないな。べつに俺はもっと色々出来るけどね?」
どこか意味深な笑みを浮かべて青年が言うと同時に、するりと私の指の間に青年の指が入ってきた。
指の間にある青細くて長くて白くて骨がゴツゴツしていて私の指の隙間よりも太い青年の指は正直普通に邪魔で、私はさりげなく指を引き抜こうとしたけれどそれ察知したのか青年の指に力が入って阻まれ無理だった。
「”結構です”と言いました。先ほどの手を放してくれるという言葉は嘘ですか?」
「嘘じゃないよ。俺は”放そうかな“とは言ったけど”放す”とは言ってない」
「では今すぐに放してください。でないと今後貴方の存在を私の意識から抹消する事にしますがいいですか?」
「え。嫌だよ。花刈さんごめんなさい」
面倒くさいことは好きじゃない。言外に『これ以上このやり取りを続けるつもりなら今後一切かかわらないぞ』と匂わせると、青年はあまりにもあっさり手を放した。
「うざ絡みは程々にしないと嫌われますよ」
「うん。身に沁みて感じる言葉だね。でも花刈さんが俺から距離を取ろうとしなければ俺もこんな事しなかったけどね」
「ただ違う椅子に移動しようとしただけの私が悪いと言いたいんですか?」
「そうは言ってないよ。今のは引き際を間違えた俺が悪いからね」
「いつでも引けるのに、何故そんなものを伺ってみてたんですか。そんな事をする前に昨日の話の続きをしようとして下さい」
「花刈さんは真面目だね」
「普通です。……けど、自分でも言うのもなんですが貴方よりは少しだけ真面目かもしれませんね」
私が言うと、隣に座る青年に「控えめな評価だね」と何故か笑われた。
「妥当です。私は真面目かと言われるとそうでもないですし」
「花刈さんは自分を過小評価する人?」
「違いますけど、仮に本当に過小評価だったとしてもいいかなとは思います。色々勘違いして馬鹿をみる危険が減りますし」
「それは、自分を過大評価する奴は馬鹿って事?」
「そうは言っていませんよ。自分を過大評価している人は自分に自信があっていいと思います。実際はどうであれ、自分を自分で肯定するのはなかなか難しい事ですし」
暗がりのなか視線をスカートに落とし言った。濃い紺色のスカートは室内が暗すぎて黒色に見える。
「花刈さんは気遣い屋さんだよね」
「神経質なだけです」
「神経質も気遣いも本質的にはだいたい一緒だよ」
「それは大雑把すぎますけど、そういう考え方は嫌いじゃなです」
「ありがとう。俺も花刈さんの言う『嫌いじゃない』が嫌いじゃないよ」
「そうですか。それはまた酔狂にも程がありますね」
「酔狂でいいよ。嫌いじゃないって言葉は好きって事の裏返しに思えて俺は嫌いじゃないんだけど」
「…………それは微妙ですね」
「微妙? そうかな?」
「はい。かなり微妙です。確かに『嫌いじゃない=好き』という場合もあるかもしれませんが『嫌いじゃない=嫌いじゃない』という本当に言葉そのままの意味の場合もありますよ」
「それはそうかもしれないけど、俺は『嫌いじゃない=好き』でこれからも脳内変換するよ。花刈さん限定で」
「そうですか。貴方はすごくポジティブな人なんですね」
「物は言いようだね。自信過剰って素直に言ってもいいよ花刈さん」
「いえ、もうこれ以上は止めておきます」
「遠慮しなくていいよ」
「遠慮ではありませんし、普通にもう帰らないと暗くなりすぎてしまうのでもう帰ります」
私は立ち上がって鞄を手に取った。
いつの間にか周囲は昨日と同じように暗闇に染まろうとしていた。
「家まで送ろうか?」
青年はソファに座ったまま私を見上げて言った。
「大丈夫です」
「そう? 気を付けて帰ってね」
「はい。貴方もお気をつけて」
「ありがとう花刈さん。じゃあ、また明日の放課後に」
暗がりの中、優し気な微笑みを浮かべて青年が言った。
相変わらず引くきのない様子の青年に、私は思わず苦笑を浮かべた。
「しつこいですね。……分かりました。その件についてはまた明日しましょう」
「うんいいよ。またね、花刈さん」
「さようなら」
私は振り返らずにまっすぐにドアから出た。
明日こそは青年のペースに乗らずにきちんと話し合おう。そう思いながら歩く廊下は電気はついているけれど、静まり返っていて少し怖かった。